陶器のように透き通った指に誘われ、少年は振り仰ぐ。
そこに佇むのは一人の少女。
薄影に滲むように照り返る、真っ白なワンピースの布を身に纏い。
柔らかげな栗色の髪を涼やかな風にたなびかせ。
それ自らが雪景色の朝のような光輝を放つ、眩い白の翼が広がっていた。

大きな見開く二つの眼に世界を映し、輝く瞳に彼の人を捉え、花咲くような笑顔とともに。



「祐一くん!」
「あゆッ!!」









魔法戦国群星伝






< 第八十三話 譲れぬモノ >





失われた聖地 聖殿内最奥 孤聖の間







崩落した天井と壁が降り積もり、積み重なった瓦礫の山。
その切っ先の先端に、少女は裸足のままに立っていた。
崩れた天井から差し込む光。その向こう側、薄く影がたゆたう場所に彼女は立っていた。
透き通るような歌声の余韻を周囲に纏わせ。
今、まさに恋焦がれし空の彼方に舞い上がらんとするように、ただ一つだけの翼を広げ。

溢れ出す思いの丈に泣き出しそうで、それでいながらはちきれんばかりの笑顔で。 その潤んだ目元に浮かんだ滴が、真珠のように一際煌めく。

――月宮あゆ。


薄闇に白く浮かび上がる彼女の姿は、神秘という言葉が良く似合うほど幻想的で/夢のようで。

祐一は、思わずガディムの事すら忘れて、彼女に向かって一歩足を踏み出した。


それはいつの事だっただろうか。

――雪化粧の木漏れ日の中。
眩さに眦を細めながら、右手を翳したのは。
指の隙間から、遥けき彼方を眺める彼女を見上げ、刹那を永遠と感じるほどに心奪われたのは。

ふと、その時の情景を思い出す。

あの時と違い、あゆの背中にはただ一枚しか翼が無く。
また、あの時よりあゆの表情はむしろ子供っぽいような気がしたけれど。

それでも祐一は、自分の名を呼ぶ少女の姿を、すべてを忘れて魅入ってしまった。

雪のように白く、そして生命の輝きをそのまま宿したように光る片翼がはばたく。
フワリと浮かぶ少女の身体。
白い素足が瓦礫の切先を蹴り、虚空に浮かぶ。
だが次の瞬間、あゆの身体は突然浮遊感をなくし、グラリと揺らいだ。
祐一は咄嗟に、まだ遠く、届かないと分かっていながら手を差し伸べる。
その手に支えられた訳では無いのだろうけれど、あゆは必死に片方しかない翼をはためかせ、再びフワリと浮き上がった。

白い衣を翻し、よろめきながらも精一杯に一枚だけの翼を震わせ。
まるで天使が地上に舞い下りるようにして、あゆは一直線に祐一のもとへと飛翔した。

片割れを失った翼では、天高く、空の向こうまで、もう昇る事は出来ないけれど。

でも、大好きな人のもとまでは、飛ぶことは出来るのだ、と。
そう主張するように、白い翼は健気なほどにその身を輝かせた。

「祐一くんッ!」
「あゆ」

その姿を瞼に焼きつけ、祐一は身体の奥底からあふれ来る感情と記憶の奔流を自覚し、そして受け止めた。
今、彼女の姿にあの時の光景が記憶の中から湧き上がる。
8年前、あの大木の枝の上でどこか遠い彼方を眺めていたあゆ。
それを、じっと見上げていた自分。
あの時感じた思いは、美しい夢をみているような心震える感動。
彼女の姿から、その光景から目を逸らす事が出来なかった。

だが、感じた思いはそれだけではなかったのだと、今振り返れば思い出す事が出来る。
幼心に感じた思い。それは、まるで彼女が手の届かない所に行ってしまったかのような寂寥感。

自分が行けないその場所で、自分が見れない光景を見ている少女の姿に。
自分はどこか、もどかしさにも似た寂しさを、感じたのだ。

それはきっと、彼女が自分の知らない何かを持っていると子供ながらに悟ってしまったから。
そして、すべてを共有できるのだと信じていた幼い子供の無邪気な信仰を破られてしまったから。

そして何より、彼女の隣に行こうと、彼女と同じ光景を見ようと、勇気を振り絞ることのできなかった自分への小さな落胆。
彼女と同じ場所に行けない自分へのささやかな悔しさ。

恐らくは、何事も無く日常が繰り返されてしまえば、埋没して消えてしまったであろう幽かな混沌。
寂しさという感情によって記憶された思い。

その思いは、直後に彼女を失った事で、記憶が消されてなお、いや消されたからこそ鮮明に自分の中に焼きついた。
そして、それは守りたかった人を守れなかったという悔悟とともに、8年という年月のなかでこびり付いていたのだ。


だが――

頭の奥底から滲み出てくるような痺れ。快感か、それとも悪寒か。
訳の分からない感覚を噛締めながらは瞬き一つする事無く彼女の姿を網膜に焼きつけながら、祐一は心の中で叫んだ。

――今はもう、違うんだ。

違うのだと断言できる。

手の届かない所で立ち止まることに、もう自分は甘んじない。
見る事の出来ない景色を、ただ羨ましがることはもうしない。

手が届かないなら、手が届く場所まで近づこう。
羨ましがってる暇があれば、隣に座りともに同じ景色を眺めよう。

守れなかったと嘆く暇があれば、今度こそその決意を貫けば良い。

それが――

8年間の思いの発露。そして、名雪にもらった意思の強さ。


8年前、どうしようもなく無力な子供でしかなかった自分。
だから、あゆを守ってやる事が出来なくて。
望まぬ別れに逆らう事が出来なかった。

だから、必死に力を手に入れて。守りたいモノを守れる力を手に入れて。
それでも守れなかったあの凍りつくような夜。
繰り返してしまった……守れなかったという悔恨を繰り返してしまった。
でもそこで、一歩も動けなくなってしまった自分の背中を押してくれた少女と約束したのだ。

彼女を…月宮あゆを連れて帰るのだと。
そして、誰しもがそこに居る事が当たり前な日常へと帰るのだ。

祐一は心の中で口ずさむ。

もう、二度と。理不尽な別れを許さない。
守るべきものをあきらめない。
その揺るがない決意を、俺は名雪から貰ったんだ。

そして彼女は――今、守るべき人――月宮あゆは、今手の届くすぐそばにいる。

胸一杯に歓喜を浮かべ。
その身に思いの全てを宿しながら、それを大好きな人を抱きしめる事で爆発させようと。
これまで感じていた全ての想いを、ただ一つの行動で現そうとして。



ああ、それなのに……



祐一は、無意識に零れ出た涙の雫が、自分の頬を流れていくのを感じた。
彼女が此方に向かってくる姿を見て…。

その衝動はあまりにも甘美で。

その思いは、あまりに自分という存在の根底を為していて。

逆らう事なんて、思いつきもしなかった。

涙が零れる。

それは歓喜の涙か、それとも諸行無常の哀涙か――

分かっていた。

自分がどうしようもないほど『相沢祐一』なのだと。

否応も無く、理解していたのだ。



祐一はもはや彼女の名を呼ぶ以外に言葉は出ず、手のした剣を床に突きたて、ただ大きく両手を広げた。
無防備に、ただひたすらに自分に向かって飛んでくるあゆを抱き止めるように。

その瞬間を永久に留める事が出来たなら。
それはきっと、千年先まで称えられるであろう幻想的な、そして温もりに満ちた聖なる絵画となっただろう。

舞い下りる天使とそれを迎える少年の、それは奇跡のように美しいワンシーンだった。











―――ヒョイ


―――ベチャ









奇跡のような美しさには、とんと似合わぬ間抜けた擬音。
それが続けて二つ。

『ヒョイ』である。
『ベチャ』である。

どーしろというのだ、いったい…





「「「……………」」」




奇跡に後に訪れたもの。
それは、この世のものとは思えない、恐ろしくももの凄い静寂だった。
そこに誘われたモノは、描写するのも悪夢のような光景だった。

…色々な意味で。



両手を広げたまま何故か一歩右足を引いて半身になっている相沢祐一。
どっか遠くを見つめながら白糸の涙を流すその表情は、ある種の虚しさと、同時に何かとてつもない偉業を成し遂げてしまったような充足感に満ち溢れ。
その眼下には、40度という角度で顔面から床へと着陸した月宮あゆが、尺取虫かずっこけたアホウドリを思わせる形容しがたい恰好で転がっていた。
幸か不幸か表情は読み取れない。そもそも床に顔を埋めていては表情など窺えないからして当たり前。
ビクビクとかなりヤバい感じで痙攣している片翼の様子だけが、彼女の状況を適切に表現しているように見えた。


一部始終を目撃していた全員が、顔面に縦線を入れつつ思わず声無き声で絶叫する。


―――そ、そこで避けるかぁ!?


眼からこぼれる心の汗を爽やかに拭いつつ、相沢祐一は「うぐぅ」の音も無く沈黙する少女に向かって勝ち誇ったように高らかにのたまわった。

「ふっ、バカめ油断したな、あゆあゆ!」


―――そして言う事がそれかぁ!?


魂の咆哮であった。
言語を絶するとはこの事をいうのか。
ガディムですらも反応のしようが無く、沈黙する中で、轟然と動く女がただ独り。


――ゴギャッ!!

後頭部に炸裂した衝撃が、得意絶頂の祐一を顔面から床へと沈める。
剛速球を投げ終わった野球投手のような恰好で、殴り倒した息子を眼下に見据えながら、相沢奈津子はそれはそれは恐ろしい静謐な音色で問い掛けた。

「死を覚悟した事はあるか?」

フルフルと床に沈みながら器用に首を振る祐一。

それまでの一部始終の顛末を呆然と見ていた折原浩平は、感動したように呟いた。

「凄い、俺でもこの場面であそこまではそうそう出来ないぞ」
「しないでください。お願いですから」

いつもの笑顔を盛大に引き攣らせながら疲れたように言う佐祐理。
あゆなら兎も角、長森瑞佳があんな事をされたらあまりにも可哀想だ。

まあ…あゆなら兎も角と考えてる倉田佐祐理も中々のものであるのかもしれない。

「まッ…たく、お前というヤツはイカレた所だけ父親に似て――」

呆れ果てた挙句に擦り切れてしまったような母の嘆きを聞き流しながら、祐一は熱を帯びた後頭部を擦りつつ身体を起こした。
そして未だ着陸した形態で痙攣しているあゆを見て、さすがに心配になったのか恐る恐る訊ねる。

「おーい、あゆ。生きてるかぁ」

誰のせいでこうなっているのかまったく頓着してない、無責任極まりないセリフであった。
その言葉に反応したかのように、痙攣していた翼がビクンと一度震え、支えを失ったようにしな垂れ落ちる。
と、次の瞬間、ムクリとあゆは無言のまま上体を起こした。
それはかなり唐突で。
誰もが、思わず甦った死人を連想してしまった。
いわば、不気味。

ゆっくりとゆっくりと彼女は振り返った。
その表情を見た祐一は、ビクリと全身を震わせた。

栗色の前髪から覗く大きな瞳は光を失い、ひどく荒みきった色を湛え。
また口元に虚ろに浮かんだ微笑みは、柳の下にいる幽霊を思わせた。
ただこめかみにくっきりと浮かんだ青筋が、彼女にこれ以上ないほどの生気と迫力を与えていて、幽鬼というよりヤサグレた不良少女を思わせる。
そのくせ、理想的な角度で接地した顔が素敵なぐらいに赤くなり、実に愉快な状態になっていた。
荒んだ眼で虚ろな笑いをたたえつつ、こめかみに青筋をたててヤサグレる少女……でも顔面真っ赤っか。
もう、笑える。というか笑うしか無い。

「わはははは」
「ウグゥ! 指さして笑うなぁ!!」

ホントに爆笑しやがった容赦も呵責も無い祐一に、激突以外の要因でさらに顔を赤く染めたあゆは、仕切り直しといわんばかりにコホンと咳払い。
そして、さも大丈夫です落ち着きましたといわんばかりに表情を整える。
そして、自慢の作戦を破られた悪役キャラのようなセリフをひねり出した。

「ふっ…ふふふふふ、やってくれたものだね、祐一くん。さすがのボクもこの場面で避けられるとは思わなかったよ」

ヒクヒクと目元口元を痙攣させながら、夜叉のような笑みを浮かべて何かを押し殺したように告げるあゆ。
だが、そんな声音に微塵も動じる事も無く、祐一は不敵に笑みを浮かべながら、傲然と言い放った。

「避けらいでか、あゆあゆ。俺を誰だと思ってるんだ?」
「誰だ…って祐一くんは祐一くんじゃないか!」

あっさりと最初からあるはずもない平静を失って絶叫する、所詮はあゆでしかないあゆに、祐一は平然と続けた。

「そう、祐一くんだ。祐一くんならお前が抱きつこうと飛び掛ってきたら、しかも空中から襲い掛かられてはここぞとばかりに避けるのが当たり前の反応じゃないか。考えてみろあゆ。ここで俺がお前を抱き止める。そっちの方が明らかにおかしいだろ」

そのまったく悪気を感じられない確信の篭もった言葉に、あゆの充血した顔面から圧迫感のある笑みが消え、普段の押しの弱さに満ち溢れた動揺という名の心の揺らぎが顔に出る。

「う、うぐぅ。否定できないよ」


――否定しろよ!


皆の声無き声が唱和する。
だが、声無き声は声が無いから聞こえないわけで。
あゆの動揺を勘良く察知し、畳み掛けるように祐一はトーンを上げた。

「むしろ、抱き止めたらそれは相沢祐一じゃなく、ニセ相沢祐一だとお前は疑いはしないか?」
「う、うぐぅ、疑うかも」


――疑うなよ!


「そして考えてみろ、あゆ。お前は俺がお前を抱きとめてクルクルと回るような状況を思い浮かべる事が出来るのか?」
「う、うぐぅ、光景すら浮かばないよ」


――浮かばないんですか


あまりの哀れさに思わず心の中のツッコミが丁寧語になってしまうみなさん。


と、怒涛のような祐一の舌鋒にあっさりと言いくるめられて納得しかけたあゆだったが、ハッと我に返ってブンブンと首を振り、慌てて怒りを維持しつつ、言い訳がましく早口に捲くし立てた。

「うぐぅ、ボ、ボクだって飛びついた瞬間、何かイヤ〜な想像はしちゃったんだよ」


――想像したんですか、あんた


またもや心の中で唱和するみなさん。
先程の光景はとても美しく、まるで奇跡のようだった。
だから……その裏側でお互いにそんな殺伐とした事を考えていたと暴露された日には人間関係について色々と疑心暗鬼になりかねない。

「むう、見た目ほど信用できないものはないという事か」
「と言いつつなんで佐祐理を見つめるんですか? 折原さん」
「いやあ、他意はありませんよ、佐祐理ねーさん」
「と言いつつなんで握手を求めてくるんですか? 折原さん」

あははー、と乾いた笑いが虚ろに響く。

そんな他人には見向きもせず、あゆは完全犯罪の一部始終を解き明かされた犯人のような口調で続ける。

「でも、あそこでもし避けたら、場の空気とか感動的な雰囲気とか、話の流れとか全部無視しちゃう事になるんだよ。幾ら祐一君だからってホントに避けるなんて思うわけないじゃないか」
「あゆ…結局お前は俺という人間を見損なっていたんだな、残念だ」
「え?」

まるで信じきっていた親友の裏切りの証拠を見つけてしまったような寂しげな声音に、あゆは虚を突かれたように声を漏らした。

「あゆ、もし俺が、あそこで避けずに受け止めてしまったら、その瞬間から俺は相沢祐一じゃなくなってしまうじゃないか」
「そ、そんなッ…でも」
「そうだ、あゆ。俺が相沢祐一である限り、あの場面はお前を避けなければならなかったのだ。これこそ俺の存在を構成する根底を為すものの一つの現れ。俺が俺である事の存在価値、そして使命。俺が…俺がどんな思いでそれを成し遂げたか分かるか?」
「うぐぅ、祐一くん…」

拳を握り、歯を食い縛るように顔を伏せて声を殺す祐一の様子に、その瞬間の決断に至るまでの苦しみ、そして辛さを思いやり、あゆは思わず眼を伏せ、心を震わせた。
そんな彼女を労り、優しく包み込むように、祐一は言った。

「実に爽快な気分だったぞ」


―――外道だ。


怒れるあゆの怪鳥蹴りにこの日二度目の盛大なダウンをきっする相沢祐一への、それがこの場にいた全員の統一見解であった。


「あ、あゆ。せっかく助けに来た俺に対しての仕打ちがそれか?」
「どの口で平然とそんなセリフが吐けるんだよ!」

少女の蹴りがクリーンヒットした首筋を抑えながら、祐一はヨロヨロと起き上がる。
愕然とした風情の彼の言葉に、あゆは怒り心頭と泡を飛ばした。

「だいたい助けに来たって、助けてくれたのは奈津子さんじゃないか!」
「ぐはっ」

意図的に目を逸らしていた事実を抉られ、分かりやすくよろめく祐一。まったくその通りだと頻りに頷いている相沢奈津子の姿に勇気を得て、あゆはさらに言い募った。

「そもそも、祐一くんがやった事と言ったら感動的な場面をぶち壊しにしてくれただけじゃないか!」

しかも二度目だよ、二度目。とつい先日記憶を取り戻した時の事を思い出したのか、感極まったように目を潤ませる。

「そ、そこまで言われると俺としてもだな……」

どうやらそれなりにあゆ救出に対して、胸に期するものがあったらしい祐一は、どもりながらも反論を企てる。が、あゆは無視。ぶち壊したのは祐一だからして自業自得。
あゆの目には涙。
不意に理不尽な興奮が冷め遣り、やるせなさと哀しさが思い出したように心の奥底から登ってくる。
あゆは思わず唇を噛締めた。瞼が震えて仕方がない。寒気のようなものを感じて、あゆは掻き抱くように自らの両手を自分の体に回した。

「いきなりこんな所に連れてこられて、閉じ込められて。怖かったんだよ? 意識もはっきりしなくて、夢心地で、でもとても苦しくて、気持ち悪くて。それでもね、信じてたんだ」

ポタポタ、と雫が落ちる。
あゆは堪えたものを吐き出すように、涙に揺れる眼差しをすぅと持ち上げ、祐一を見上げた。
その真っ直ぐで、でも哀しげな眼差しに祐一は言葉を失う。

「祐一くんが、きっと来てくれるって。助けてくれるんだって、ボクは信じてたんだ。だから、祐一くんに此処で会えて、祐一くんが助けに来てくれて、ボクは凄く凄く嬉しかったんだよ」

その言葉の連なりは、とても切実で、思いがそのまま言霊となったようで。 切々と聞くものの心に染み込んできた。

「…あゆ」
「祐一くんは…祐一くんは、ボクに会えて嬉しくなかったの? 本当は、別にボクの事なんかどうでもよかったの?」

そのまま崩れ去ってしまいそうな、そんな双瞳がユラユラと揺れる。
掻き消えてしまいそうな儚さと、不安さを宿して。

だから、祐一は、

「馬鹿だな」

言いつつ、あゆの柔らかい栗色の頭に手を乗せた。
そして手の平を滑らせ、その涙流れる頬を撫でながら祐一は苦しげに唇を噛んだ。
手の平を通じて伝わってくる押し殺した激情を感じ取り、あゆはどこか呆然と祐一の唇を見詰める。

「そんな事、あるわけないだろう。お前が連れ去られて…俺がどれだけ心配したと思ってるんだ。どれだけ…自分を情けないと思ったか。どれだけ、自分の不甲斐なさを呪ったか。 お前の姿を見たとき、本当に無事で良かったって…心の底から思ったぞ。本当に嬉しかったんだぞ」
「祐一、くん……」
「また…8年前みたいに会えないのかって。また、あの時みたくお前を守ってやれなかったって、自分をぶち殺したくなるほど俺は無力で、馬鹿で、間抜けで…。だから、あゆ、お前が無事で本当に良かった。ホントは俺自身の手で助けたかったけど、でもお前さえ無事なら、俺は…」

その声音は、紛れもなく本心だと疑いも出来ないほど真摯で。
やっぱり祐一くんはボクの事を考えていてくれたのだと、嬉しさが込み上げてくる。
あゆは溢れ出てくる涙、そして感情の渦に身を震わせながら堪えた。

と、ハッとあゆは危うい所で我に返った。
おかしい。それはおかしい。変である。間違っている。これじゃあ前後の脈絡が無いじゃないか。ひどく矛盾している。いけない。騙されてはいけない。いけないからあゆはやや錯乱しつつも声を張り上げ意見した。

「なら、なんで避けるんだよぉ!」

祐一は腕組みすると大仰なシリアスモードからさっさと素に戻り、フムと頷き即答した。

「うむ、それはそれ、これはこれなのだ。心の中でお前の無事を喜びつつ、やるべき事はやる。実に行き届いた心がけだろう?」

ガクリッ、とあゆは脱力した。
気が抜け、力みが抜け、不安も抜ける。
髪の毛も抜けたかもしんない。

「うぐぅ…祐一くんてば、意味不明に割り切り良すぎだよぉ」

もうなんか怒るのも哀しむのも馬鹿らしくなって、あゆはどこかやけっぱちになりながら荒んだ溜息をついて項垂れた。
いい加減、まともに追求しても疲れるだけと悟ったらしい。賢明である。
そんな彼女の頭を慰めているつもりで、スイカのようにポンポンと叩く祐一。
あゆはただ黙って頭の上の感触を受け止めていた。ただパタパタと翼がはためく。
厳粛なほどに輝いていた先程とは違って非常に安っぽく動いている白い翼と栗色の髪の毛を眺めながら、祐一は自嘲する様に自らを振り返った。

あゆが攫われたことでアレだけ取り乱し、我を忘れて暴走し、挙句の果てに親友を殺しかけ、名雪達の心を痛めてしまった自分。
名雪によって前へと進む事が出来たけれど、でもどこか思い詰め、必死になっていつもの余裕を失っていた自分。
それがどうだ。当のあゆが目の前に現れた途端、あゆが無事だということが分かった途端にこの調子だ。
正気を失うほどに心配した少女を、再会した途端にさっそくからかって遊んでいる。
割り切り良すぎというあゆの言葉ではないが、我ながら豹変が過ぎるかもしれないと思わないでもない。

だが――

祐一は思わず苦笑いを浮かべた。

別に自分を偽っている訳では無い。
我ながら呆れるほどの照れ屋で、伝説級の素直の無さで、だから色々と馬鹿をやってしまうけど。
でもあゆに偉そうに告げた通り、これが相沢祐一なんだろうと思う。
だから、こういう迎え方こそ、自分らしいと思うのだ。
いつもと変わらぬ掛け合いこそが、あゆと自分の再会に相応しいと思うのだ。

まあ、避けた後で考えた思いだけに、多少言い訳がましく思える気もするが…
なに、真実はいつも後からついてくるものだから、大丈夫。

「あはは、まあなんだ。なんかお前の無事な姿みたら安心したというか気が抜けたというか…これまで結構思い詰めてたんだ、だからまあ、これは今までの反動だと思ってくれ」
「うぐぅ、素直に感動シーンを演じればいいのに、この捻くれモノ!」
「ははは、褒めるな」
「褒めてないよッ」

もう、と自分のタイヤキをつまみ食いされたかのように頬を膨らませて怒ってみせるあゆ。
でも、本当はそれほど怒っていないのだと、その口元に微妙に浮かび上がった笑みから見て取れる。
そもそも変な期待をしていた自分の方が、間違っていたのだろう、とあゆは苦笑じみた思いとともに自戒する。
それは女の子としてはとても悲しい事なのかもしれないけれど、本当はちょっと不満だけれど、でも今の状態に安心している自分が確かに居たから。
軽口を叩きつつも、彼が本当に自分を心配してくれていたのだと分かったから。

きっと、いつもと変わらぬ掛け合いが、祐一と再び会えたのだという実感を、これ以上無いほどに与えていたんだと思う。

だから――

「…なあ、あゆ」

不意に祐一の声の裏側に真剣さとも痛みとつかない思いが過ぎった事に、あゆは少々驚いた。

「結局俺は8年前と同じで、お前を守ってやれなかった。悪い」

本当に唐突で、前フリも無くて、不意打ちのような一言。
それまでの会話の前後を無視したような一言。
短くて言葉足らずな短い短い一言。
でも、だからこそあゆはハッとした。

これこそが、祐一がどうしても言いたかった事なのだと。
これこそが、祐一が抱いてきた思いなんだと。

何故か分からないけど、はっきりと悟ることが出来た。

短いからこそ、脈絡も無いからこそ、心に在るそのままの言葉。
波間に一瞬だけ覗いたウソ偽りの無い真の想い。
あゆは、無意識のままフワリと微笑んだ。

「8年前、祐一くんは必死でボクを助けようとしてくれた。守れなかったって祐一くんは言うけれど、ボクは心の底から嬉しかった。守れなかったっていうけど、ボクと君とはまた会えたじゃないか。
そして今度もまた会えた。祐一くんはまた、ちゃんと助けに来てくれた。ボクは此処に居て、また会えた。だから、また守ってくれればそれでいいよ」

祐一は思わず深く息を吸い、穴の開いた天井を見上げる。
そこには、翼を持った少女がたどり着けたであろう蒼穹が浮かぶ。
祐一は一度目を閉じ、身体に溜めた息を吐くと、瞼を開き、空に誓うように言った。

「…分かった。約束する。今度こそお前を守る」

あゆははにかみながら訊ねた。

「君が守りたいのはボクだけ?」

祐一はゆっくりと視線を落とし、あゆを見つめた。そして笑う。

「いや、手の届くだけのみんなを。みんなとのあるべき日常を、俺は守りたい」
「それが約束だね」
「ああ、力及ぶ限り俺は守りたいものを守る。あゆ、お前を含めて、それが約束だ」

祝福を授けるように、あゆは微笑み、口ずさんだ。

「うん、約束だよッ」

それは―――

短くも、宝石の様に輝かしく、命のように尊い、そして大切な『盟約』だった。



弾むようなあゆの盟約を結んだ声が余韻を残し、掻き消えた時。
それは響いた。


――茶番は…済んだか?――


降り注ぐ韻律は、場違いなほど厳粛。 凍えるほどに荘厳。

それまで沈黙を守っていたガディムに、祐一はあゆを背中に庇うように背後にいた天野美汐の方に押しやった。美汐に後ろから肩を抱かれながら、あゆは前にある祐一の背中を見つめる。
その視線を感じつつ、祐一は、遥か頭上にある魔王の紅瞳を仰いだ。
口元に笑みすらたたえ、不敵な光を双眸に宿し、翼の剣持つ少年は傲然と言い放つ。

「茶番だと? 言ってくれるじゃないか、ガディム」

「茶番じゃなかったのか? あれ」
「アタシに聞かないでよ」

頭を振って、大量失血のお陰でぼやける意識を叱咤しながら、浩之のボソリとしたぼやきを綾香は一言ではたき落とした。

外野からの半眼めいた視線を諸共せず、相沢祐一はどこか吹っ切れたように口端を歪め、眼差しを鋭くする。

「へっ、茶番呼ばわりは結構だけどな、余裕見せてられんのも今のうちだぜ。
聞いてただろ? 俺はコイツ…あゆを守るって約束した。それからあゆを連れてみんなで帰るって別のヤツとも約束してるんだ」

眼前に突き立てられた少女の翼の化身たる純白の剣を引き抜いて、その切っ先を魔王に向ける。


「対してアンタはあゆを贄として欲しがってる。おまけに俺たちが帰るべき世界をぶッ壊したがってる」


――然り――


間髪入れぬガディムの同意に祐一の口元がさらに歪み、眼差しが凶暴なほど尖りきる。

「アンタは譲らないだろう? だがな、俺も譲れない。みんなも譲れない。だから…」

口端をニヤリと引き裂き、相沢祐一は高らかに叫んだ。

「改めて言わせてもらう。ぶっ倒してやるぜ、ガディム!!」

パンッと竹を割るような快気を誘う掛け声に、誰しもが水を頭から掛けられたように瞼を瞬く。
ただガディムだけが淡々と問い掛ける。


――吠えるか、人の子よ――
――汝に出来うるのか、人の子よ――


「吼えるさ、幾らでもな。それから舐めるなよ、ガディム。今の俺をな。
大体だな、さっきまでの俺は変に気負って余裕無しで、全然俺らしくなかったんだよな」

ヘヘヘと笑い、祐一はチラリと肩越しに後ろを見やった。そこには自分をじっと見つめる月宮あゆが。

「だがな、今の俺には鬱積も心配も焦燥も無けりゃ、悲愴も無い。一番気掛かりで、心配だった事が片付いたんでな。分かるか、ガディム?」

自分を貫く紅の双眸へと視線を戻し、祐一は不敵な笑みを絶やす事無く剣を肩へと担いで告げる。

「今の俺――相沢祐一は、ちょっとばかり手強いぜ」

ヒュウ、と茶化すような口笛が鳴った。
ひょいと身体のバネをきかして跳ねるように立ち上がった折原浩平が、眼に掛かった前髪を掻き揚げつつ、実に楽しげに声を弾ませた。

「ヒューヒュー♪ 言うね言うねぇ、相沢ぁ。だが面白いじゃないか。俺もいっちょ、そのノリに便乗させてもらおうじゃないの」
「まあ、妙に深刻ぶるより俺もこっちの方が好みだなぁ」

苦笑じみた微笑みを浮かべながら、柏木耕一がすっくと佇み、拳を握り腰を落す。

「あははー、なんか悲壮感なくなっちゃいましたねー」
「でも、今の方がさっきよりも良い感じ。少なくとも、負ける気はしない」

緊張が抜けきってしまったように座り込む倉田佐祐理に手を差し伸べ、立ち上がるのを手伝いながら、川澄舞は静かに、だが芯のある力強さで満たされた言葉を紡ぐ。

「ふん、徹頭徹尾茶番だな。気楽なもんだぜ」
「でも、嫌いじゃないんでしょ? こういう雰囲気」

クスクスと笑う綾香を心外そうに斜めに見下ろし、だが藤田浩之はやれやれとばかりに肩を竦める。

「まあな。綾香みたいなノー天気な奴らが周りに多いんでね」
「誰がノー天気よッ!」


いったい何時の間にだろうか。
つい先程まで全滅しかけていた集団とは思えない、精気に満ちた気配が皆の周囲に巡っていた。
皆が負った深い傷が治ったからといって、状況自体はさほど好転していない。
魔術は未だ使うことが出来ず、ガディムを守る城塞の如き対物理結界は今なお健在である。
それなのに、この晴れ渡った空のような雰囲気は何なのだろう。
天野美汐は半ば呆れながら、思わず口ずさんだ。

「まったく、揃いも揃っておめでたい人たちですね」

ですが、と呟き小さく小さく目じりだけを綻ばす。

「確かに悪い気分じゃありません」


その場から離れるようにしてバックステップを踏む。
瓦礫の戦場と化した≪孤聖の間≫を一望しつつ、相沢奈津子は小さく呟いた。

「ふん、バカ息子め」
「なにさ、随分と嬉しそうだね」
「バカはバカなりに役割を果たしてるみたいなのでね」

傍らへと戻ってきた旧友に対してフンと一つ、鼻で笑い、上泉伊世は肩の刀を担ぎなおした。
そして沈むように眼を伏せて、不敵に微笑む。
途端、伊世の身体が背後へと滑り、ターンと同時に刃が閃く。

悲鳴も無く、袈裟切りに両断されたのは一匹のグレーターラルヴァ。
この決戦場へと飛び込んできた黒き魔をあっさりと斬り捨てた上泉伊世は、斬刃の余韻も見せず、隣家の喧騒を評するように囁いた。

「さて、そろそろ後ろの方がうるさくなってきたみたいだよ」
「やれやれ、魔族とラルヴァの残党どものお出ましか」

聖殿内に残っていたラルヴァや魔族たち。自分たちの主であるガディムの座へと敵が到達したのをようやく察知し、この場へと終結しつつある。
今のは先行してきた一匹か。
迫る殺意と怒気の気配を感じ、面倒そうに半身を返し聖堂の外を見やって奈津子は言った。

「ここに乱入されたら少々厄介だな」
「じゃあ、最初の予定通り掃除を始めるかい?」

撫で斬りの予感に頬を緩める剣聖に頷き返し、奈津子はもう一度、息子と新しい娘を振り返り、頬をはたくような声を張り上げた。

「祐一、ちょっと雑魚を片付けてくる。出来ればこっちが終わるまでにそちらも終わらせておくんだな。親や師匠に手伝わせる事を恥と思っとけ。終わってなかったら殴るぞ!」
「ああ!? そんな理不尽な!?」
「ちゃんとあゆちゃんを守れよ」

慌てて振り返り抗議する息子を無視して、奈津子と伊世はさっさと踵を返し、広間の外へと姿を消す。と、間を置かず轟いてくる異形たちの断末魔の悲鳴。


――笑止なり――
――その戯言、再びこの場に来たりし時に後悔させてやろうぞ――


蒼い髪の女の面白くも無い冗談としか思えない言葉を嘲笑するようにガディムは輝く黒の翼を逆立てた。
炯々と燃えさかる二つの紅に宿る光に果たして怒りはあるのだろうか。

煮えたぎる溶岩渦巻く火口の如き紅き視線。
その眼差しを見上げながら、月宮あゆは呟いた。

「後悔…後悔、ボクがまどろみの中で感じたものの中に後悔はなかったかもしれない。ボクが感じたものは気が違ってしまいそうなほど深い負の想念、でも……」
「あゆさん?」

身体を蝕む苦痛を耐えるかのように表情を歪めるあゆの横顔を、美汐は訝しむように覗き込んだ。
彼女の疑問の答えとなる言葉は返ってこない。本人にも分からないのかもしれない。

あゆの呟きを聞き止めたのは美汐だけ。
他の面々は睥睨する神に対して、これ以上無いほど戦気を漲らせ、戦闘態勢を取った。

剣や刀が振りかぶられ、拳や異能が力を溜める。


「ほざいてろ、ガディム! 後悔ならこっちがさせてやるよ!」

剣風が唸る。身を沈めるようにして片手で剣を横に寝かせた祐一が笑い飛ばすように絶叫する。




斯くして始まる、最終章第二幕―――

奏でる曲は騒奏曲。

踊る彼らの演目は、快刀乱麻の戦闘カーニバル。






だが――
――その騒がしき宴が終わりし時、待ち受けるモノをまだ誰も知らない。




 …続く






  あとがき


八岐「いきなりですが、ゴメンなさい」
栞「破壊です、これは破壊です! えぅ、今回ばかりは唖然呆然ですよぉ。常識ってあります?」
八岐「あ、あるさね」
栞「ここ数十話に渡って積み重ねていたシリアスな雰囲気を一撃でけたぐり倒すような人が正気とは思えません」
八岐「そ、そうかなぁ」
栞「計画性がまるでないというか…」
八岐「ないっすねえ」
栞「開き直ってもダメですっ」
八岐「だ、大丈夫だと思うよ。次の終わりにはまたシリアスな展開に戻るし」
栞「ホントですかぁ?」
八岐「本当だって…多分」
栞「…怪しい」



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