炸裂する光芒の奔流。

光球が生み出した爆圧と衝撃は、如何なこの広大な空間だとて内包するには許容量を越えすぎていた。
本来ならば、数キロ四方を灰燼と化せるほどの威力を秘めた魔術である。多少、魔術防壁などで威力を減じたからといって、このような場所で使えばどうなるか、子供でも分かる事だろう。

空間の裂け目との接触、そして起爆により発生した破壊のエネルギーは、ここ≪孤聖の間≫に充満し、溢れる光が何もかもを包み込んだ。
音すらも荒れ狂うエネルギーに飲み込まれ、掻き消える。
無音の崩壊。許容量を越えたエネルギーは逃げ場を求め、強靭な岩盤を内側から吹き飛ばした。



失われた聖地。そう呼ばれる山岳の麓付近では自然の奏でる音階は失われ、ただ怪物と兵士たちの嬌声と咆哮、そして雄叫びがオーケストラを奏でていた。
その戦場音楽を前方に、輝くような栗毛の馬体を誇る騎馬に跨り、悠然と一人の女性がラルヴァの大軍との交戦の指揮をとっていた。
不意に、その女性の口元に浮かんでいた穏やかな微笑みが影を潜め、変わることの無い優しい眼差しが微かに陰を帯びて右方に聳える山の頂上付近へと向けられる。

「公爵閣下?」

側近の一人がそんな彼女の様子に訝しげに問いただした時、それは起こった。
突き刺すような光の照射。
誰しもが驚愕する暇もなく、今度は大地を揺るがす震動が戦場へと襲い掛かる。

「な、何だ!?」
「落ち着け! 隊列を乱すな!」

激しく揺れ動く大地に精強で知られる水瀬兵も流石に慌てふためき、馬たちもパニックに陥り暴れ出す。
幸いにしてラルヴァたちも同様に狂乱に陥り、攻勢が止んでいたためにこの混乱を原因とする損害は発生していない。

「閣下! これは!?」

得体の知れない状況に、すわ此れは火山の噴火でも起こるのかと青ざめた側近が秋子に縋るように問い掛ける。
秋子は一瞥を彼に向け、無言で山頂を指差した。誘われるようにその細い指に視線を釣られた側近は、絶句したように息を飲む。

こげ茶色の岩石に覆われた山頂付近より、天にそそり立つ一柱の光。
光柱は、空に漂っていた真白い雲を貫き、人の手の届かぬ天上世界まですら到達せんとばかりに神々しく輝いていた。

「祐一さん、あゆちゃん、みなさん」

やがて薄らぎながら消えていく光の柱を望みながら、水瀬秋子は小さく祈るように呟く。

「どうか、ご無事で……」












魔法戦国群星伝




< 第八十二話 奇跡のように >



聖殿内最奥 孤聖の間





濛々と立ち込める埃と靄。
≪孤聖の間≫と呼ばれた旧大聖堂は、つい先ほどまでの薄暗い荘厳な静けさを失い、ただの瓦礫と化していた。
密閉された空間は、天井から側壁にかけて半分以上が崩れ落ち、見上げれば暗く高い天井は消え失せ、青々と晴れ渡った空が覗いている。その空には中心に真円を穿つという自然界にはありえない白い雲が漂流するように浮かんでいる。
標高の高さを表すように、寒寒とした風が吹き寄せ、立ち込めた埃を押し流そうとする。
だが、幾ら風がこの場を浄化しようとしても、鬱蒼と茂る下草の如く立ち込める乳白色の靄は、視界は晴れようとしなかった。

この薄ら白く充満した霧の海の中で、ただ孤高のままに漆黒は在る。
靄を貫くようにして、炯々と紅の双眸は白の中に浮かび上がっていた。


――黄昏に眠るを良しとせぬか――
――ならば来るが良い――
――それが一握の砂を叩きつけるが如き無力と知らしめん――



鳴動の如きガディムの呟き。薄靄が痺れたように打ち震える。
全てを遮るその靄は、深く深く、果てなくどこまでも続くかのように大気を漂う。

――ボッ

そして突如、その深遠の中から人影が二つ飛び出してきた。
ガディムの両脇から挟み込むように、二人の男が靄を突き破って現れる。
片や、灰色の外套を翻し、太刀と化した白き翼を腰に携え、風のように軽やかに走り抜ける【魔剣(エビル・セイヴァー)】相沢祐一。
そして森の景色の如き新緑の外套をたなびかせ、引き摺るように漆黒の大剣を八双に構えながら、弾丸のように疾駆する藤田浩之。

「駆け抜ける風は不浄を罰する裁可の叫び 神も無く、正義も在らざれど、我が意思は此処に汝を断罪せん」

ガディムの左手から回り込みながら、祐一が呪を紡ぎつつ靄をかき乱しながら急制動を掛ける。擾乱する靄がさらに竜巻に飲まれたように渦巻き、その中心で鈴の音に似た鞘鳴りの音が響いた。
同時に右方の浩之が握る聖剣『エクストリーム』の剣身に、黒い波動が漲るや、剣の周囲の白い靄が食い潰されたように霧消した。

「抜輝壟断 魔導剣・風乃奥伝『陣風』」
「でぇぇりゃぁぁぁ!!」

挟撃として放たれたそれは蒼きうねりと黒き三日月。
乳白色のカーテンに一条の空白を穿ちながら飛来するそれらは、真鋼すらも切り裂くであろう二つの斬撃波。
炸裂するならばさしもの巨体も三等分にされかねない双撃を、だがガディムは避けもしなかった。
鈍重さゆえでも、諦観ゆえでも無く、ただ躱す必要を認めなかったがゆえに。

両肩に埋め込まれた二つの首が顎を開く。それは漆黒の大蛇と獅子のような怪物の首。
二つの怪物の首は、耳を塞ぎたくなるような暴性の咆哮を喉奥から解き放った。
同時に左右に向けて突き出される巨木のような漆黒の両腕。
巻き起こった現象は、魔力の擾乱とも言うべきか。
かき乱された魔力の渦が、二つの斬撃波をたわめ、軋むような音を響かせ吹き散らした。

だが、左右からの攻撃はガディムの巨躯を傷つけなくとも、その注意を逸らす事には成功した。
斬撃波が砕ける音が響く中、大胆にも真正面から突っ込む影。
ガディムがその接近に紅眼を落した時、影は二つに分裂した。
床を舐めるような低姿勢で一直線に突進する柏木耕一。そして、その背を踏み台にして、高々とガディムの目線まで跳ね上がったのは来栖川綾香。
上下からの同時攻撃。一瞬、躊躇するようにガディムの紅眼が揺れ動いた。
それを間近に見ながら綾香は雌豹の如く牙を剥いた。獲物を仕留めんとする肉食獣の笑みだ。
波涛の如き連続攻撃。そしてガディムは目の前の小賢しい人間たちの動きに目を取られ、本命たる存在を見逃していた。

それは遥か天上から。
暗き岩盤が崩れ去り、蒼き空が冴え渡る頭上から、大地目掛ける一閃と化した黒の流星。
白銀の神剣『神薙』の切先を直下に向け、ジャケットを黒翼みたくはためかせつつ、舞い降りる漆黒の剣媛。その名は川澄舞。
自身に備わる異能を揮い、天高く駆け上がっての急降下の突撃。

――メキャメキャメキャッ

弓の様に引き絞られた耕一の右腕が瞬く刹那に膨れ上がり、凶悪に伸びきった五本の鬼爪が白霧に五本の傷を描きつつ、切り裂き疾る。
そして、巨獣に飛び掛る猟犬の如くしなやかに舞った綾香が、ガディムの眉間めがけてレガースに覆われた膝を繰り出した。

三位一体とも呼べる一撃が、漆黒の巨体へと収束する。


「グオオオオオオオオッ!!」
「喰らえッ! 衝燕膝砕ッ!」
「…絶技『降月』」









「グ…ゲホッ…グボッ…」

ガディムとの激闘が繰り広げられているフィールドから少し離れた場所。
そこで、激しく咳き込む音とともに何かが吐き出される音、そして粘質の液体が床にぶちまけられる音が靄の奥から響いた。

「し、しっかりしてください! 折原さん! 折原さんッ!」

大威力魔術の起動直後という機を逃さず、飛び出していった五人。その彼らを大爆発から守ったフィールドの跡。周囲の床がこそぎ取られたように抉れる中、変わらず黒く透き通るような光沢を保っている石床の上で、折原浩平は倉田佐祐理に抱き抱えられながら苦しみもがいていた。
床には浩平が吐いた血が血溜りとなって澱んでおり、彼自身も全身を痙攣させながら、胸を掻き毟るように爪を立てている。
服の胸元は引き裂かれ、皮膚からは微かに血が滲み出していた。

「ゲホッケホ…や、やべえかな。だいぶ無茶しちまった。こりゃ、死ぬかも」

弱々しく咳を零しながらこの後に及んでヘラヘラと笑いを浮かべる浩平。だがその笑みは白く目元には隈が浮かび、凄惨な笑みとしか映らない。いや、これは死相と言うべきなのか。
佐祐理とその傍らに膝をついている天野美汐は青ざめながら、その笑みを受け止めるしかなかった。

「じょ、冗談ですよね、折原さん。それは笑えませんよ」

声を震わせながら、強張った微笑みを投げかける佐祐理。だが、彼女にも痛いほど分かっていた。
彼が喰らったダメージは良くて重傷。最悪致命傷に右足を突っ込んでいる状態なのだと。
如何な空間を引き裂いて絶対魔術のエネルギーを遮断したとはいえ、一人でその全てのエネルギーを引き受けたのだ。そのフィールドバックは想像するに余りある。彼がマトモに喰らった魔術の余波は、並の人間なら即座に憤死してもおかしくない代物だったのだ。

「へ、へへ、俺ってウソツキだから、信用あんまり無いのな…ガハッ」
「お、折原さんッ!!」

新たに大きな血塊を吐き出した浩平に、佐祐理は涙目になりながら悲鳴をあげる。

「わか…ってる。だ、いじょうぶだって、死んでたまるかよ。みず…かが待ってる、んだからなあ。瑞佳激ラブ…なはは、ゴホッ」
「そうですよ、気をしっかり持ってください、折原さん」

何かを堪えるように押し殺した声で囁きかけた美汐が、先ほどから自らの指を食い裂いて出した血を使ってなにやら文字を記していた符紙を、浩平の額、胸、丹田へと貼り付ける。

「それは?」

問い掛けた佐祐理に、美汐は一瞥だけ向けて視線を戻すと、刀印を切りつつ答えた。

「気脈の流れを正常に直すための呪符です。折原さんの状態はエネルギーの爆乱とその余波により生命活動を司る魔力の循環が致命的なまでに乱れきっています。気休め程度ですが、状態の悪化はこれで食い止められるはずです」

佐祐理はコクリと喉を鳴らす。
佐祐理には、美汐の声音に言葉ほどの確信を見出す事が出来なかった。彼女自身本当に気休め程度としか思えないのだろう。それでもやらないよりマシという事なのか。

「浄氣癒戒害痢退散・オンッ!」

虚空に五芒星を描いて、浩平の胸に押し当てる。
倒れる浩平の荒らぐ呼気は変わらない。だが、絶えず込み上げていた様子の、喀血に至る咳は止まったように見えた。
美汐は、唇を噛み締めながら衣擦れの音も無く立ち上がった。

「美汐さん?」
「佐祐理さん、折原さんを頼みます。どうやら……」

口ずさみながらユラリと踵を返す美汐の左手に、いつの間にか呪符の束、そして右手には一本の朱塗りの棒が握られていた。
棒は一振りされるや貼られた符がハラリと剥れ、一刀の薙刀と変じる。
美汐は決然と白色のスクリーンに閉ざされた前方を睨みながら、唇を小さく震わせた。

「人手は幾らあっても足りないようなので」

彼女の言葉に押し分けられたように、立ち込めていた靄がようやく晴れ渡っていく。
そして、佐祐理は開かれた視界の向こうに展開されている事態を目の当たりにし、息を飲んだ。

「そんなっ!?」

上ずった佐祐理の声を背中に受けつつ、美汐は自身も戦闘に参加するために白袖を翻しながら駆け出した。

――混沌の王ガディム。伊達に神を名乗る訳では無いという事なのですか?









インパクトの瞬間、綾香が感じたのは打撃への違和感だった。

「――ッ!?」

タイミングに気勢、攻撃へのプロセスすべてが流れるように解き放たれた。
一点の無駄も無い躍動は、野生の獣の猛々しい美しさを内包する。
真鋼製の足甲により覆われた右膝。
その一撃は間違いなくガディムの眉間へと炸裂したかに思われた。
だが、綾香は視線の先に情景に、目を疑わざるを得なかった。
空間に水面のように浮かぶ波紋。膝はガディムの身体へと接触すらしていない事を、綾香は刹那の中の一拍の静止で判別した。

――これは、対衝撃防御幕!? いや、違う!

壁に衝突したような衝撃と、その反動に虚空に投げ出されながら見た光景に、綾香は自分が刹那に思い浮かべたその術が、間違いであった事をすぐさま認める。

自分と同時に攻撃を仕掛けた舞と耕一の一撃もまた、同様の現象に妨げられていたからだ。

駆け抜けざまにガディムの二の足に突き立てようとした耕一の鬼爪は、火花と悲鳴のような摩擦音を奏でて弾かれる。
頭上から無防備に晒された首の裏目掛けて剣を突き刺そうとした舞も、その切先を肉に刺し込む事を適わずに、剣を弾かれ虚空へと投げ出された。

「なっ!?」

間髪入れず、畳み掛けるつもりで第ニ撃を放とうとしていた浩之は、綾香たちの攻撃すべてが一斉に弾かれるという信じられない光景に引き攣ったような声をあげる。
そして続いて起こるであろう事態を察し、顔色を蒼白に染めた。

展開は最悪。
ガディムに何らのダメージどころか体勢を崩すような衝撃すら加えられなかったツケは、真正面から突っ込んだ来栖川綾香へと収斂する。
魔王の頭部へと攻撃を仕掛けたために、綾香はガディムから見れば人形のような小さな姿をその紅瞳の真ん前に晒してしまっていた。
見開かれた綾香の、生命の輝きを宿した瞳孔が慄きとも取れない感情に収縮した。
左右に広げられていたガディムの両腕。その右腕が大砲のように振り回される。
咄嗟に足甲と左腕で衝撃を受け止め、胴体への直接のダメージを遮れたのは彼女の天才的な反応速度のお陰だろう。だが、威力そのものを受け止められた訳では勿論なかった。
無防備に虚空へと投げ出されていた綾香の肢体は、バットの芯に捕えられたゴム毬のように吹き飛んだ。

「グ…ホッ!」

およそ十メートル近くも吹き飛んだ綾香はまだ崩れずに残っていた壁へと叩きつけられる。
轟音とともに蜘蛛の巣状のひびが入り、軽くめり込む綾香の身体。
意識から何からすべてが消し飛んでしまいそうな衝撃。
悲鳴をあげる骨格と肉体。 だが、それは最初のショックに過ぎなかった。
綾香は続いて全身を駆け巡った脳天を貫くような激痛に、劈く悲鳴を張りあげる。

「ガ…アアアアアアアアアア!!」

激痛はすぐさま肉に焼きゴテを捻じ込まれたような耐え難い灼熱感へと取って代わる。

「あ…ああ…あ」

我知らず、苦痛の声を漏らしながら、綾香は灼熱感の元を探り、すぐさまそれを見つけた。
恐らく、最初の爆発で岩盤の一部が崩れていたのだろう。
鋭利な突起となった岩の破片が、自分の右の太腿の肉を拳の大きさほどこそぎ取っているさまが視界に映った。
鮫にでも食い千切られたような傷痕。すぐさまピンクの断面から真っ赤な鮮血が溢れ出す。
叩きつけられた時に太腿に刺さったのか。胴体や頭部を貫通しなかった事を感謝すべきかもしれないが、当の本人にそんな余裕はある筈も無い。
ただ耐え難い激痛だけが精神を犯していく。
壁からズルズルと滑り落ち、床に足を着く。負荷の掛かった右足に、言語を逸するほどの感覚の奔流が荒れ狂い、綾香が頭を垂れながらよろめいた瞬間、

「綾香ぁぁぁ!!」

誰かの絶望を宿した絶叫が聞こえた。

…ひろ…ゆき?

同時に自身の第六感が狂ったように警鐘を鳴らす。
顔を上げる猶予も無く、ただ咄嗟に身体を動かそうとして……膝が砕けた。
この痛めつけられた身体は、完全に動くことを拒否してしまった。
見えずとも迫り来る脅威は分かる。綾香は何故か冷笑のような感情が湧き出てくるのを弄びながら、それでも無意識に右手を顔前で振り払う。氷が砕けたような音とともに、手甲に何かぶつかる感覚が伝わる。視界の端に弾き飛ばされた黒い何かが映る。その黒いモノの軌道は自分の首筋に一直線のコース。弾かねば首を貫かれ即死していただろう。
だが、逆らえる範囲はそこまでだった。
さらなる灼熱感が、今度は右肩と脇腹をそして左胸部をえぐった。

一瞬、痙攣と共に身体は反り返り、綾香は虚空を呆然と見上げた。
そして震え出す身体を支えるように右手を背後の壁に付き、ゆっくりと首を落していく。

「ちょ…と。やだ…なぁ。なによ、これ」

綾香は自分の身体を見下ろして、少し笑った。そして、喉からむせあがって来るものに逆らえず、咳き込む。
肺からは空気ではなく、真っ赤な血が溢れ出た。
自身の身体の三箇所を貫くそれは、薄黒く透き通った影のような3メートルほどの棒。
見れば、自分の周囲に十五、六本ほど同様のものが突き刺さっていた。

は…はは、虫の標本みたい。

そんな言葉が思い浮かぶ。そして馬鹿げた事に、それは良く自分の状態を言い表わしているように思えた。

胸と肩と脇腹を串刺しにして背後の壁に突き刺さり、身体を張り付けにしてくれていたその棒は、数秒も経たずに霞みのように薄れて消えた。
ゴポッ、と六つの穴から吹き出る鮮血。
支えがなくなり、壁に背を預けながら崩れ落ちる綾香。べっとりと壁に引き摺った血の跡が、彼女が受けた傷の深刻さを無言のまま物語っていた。

綾香は泣き叫ぶようにして自分の名を呼びながら駆け寄ってくる思い人に、ヨロヨロと顔をあげて目元を引き攣らせた。笑ったのかもしれない。

「あ…は、ひろゆ…きぃ、ミスっちゃ、た。ご…め――」
「馬鹿ッ!! 喋るなッ! 黙ってろ!」

擦れる声を無理やり張り上げながら駆ける浩之。そのうなじにチリリと痺れる感覚。
浩之は例え様の無い怒りを膨れ上がらせた。踏み蹴った右足の床が爆ぜる。後先考えずに急加速し、大剣を振りかぶりながら綾香とガディムの対角線に立ちはだかる。

「失せろぉっ!!」

トドメとばかりに崩れる綾香に降り注ごうとしていた黒い杭の束は、剣風と魔術消去の波に撃ち砕かれた。
それを見届けもせず踵を返し、顔面を蒼白にして綾香の元へと滑り込んだ浩之は、彼女の身体を抱えあげて絶句した。
イヤでも目に飛び込む無残な傷痕。
肩の穿孔は兎も角として、脇腹、特に左胸部……それはどうしようもない致命傷だった。

「嘘だろ? おい、綾香ッ、アヤカッ!!」


浩之の悲痛な叫びを愕然と聞きながら、祐一は一端間合を取るべき後ろへと飛び退った。
舞と綾香と耕一の攻撃の直後、祐一が至近距離から放った貫通系の雷撃破も、追撃するように美汐が解き放った白鷺の式神も、見向きすらされずにガディムの直前で波紋とともに掻き消えた。

「綾香ちゃん!?」
「綾香ッ!」

此方の魔術攻撃を無視してガディムが召喚して射出した影杭のもたらした惨劇を知った耕一と舞が、一瞬足を止めて浩之たちの方を見る。
遠目にも、彼女がどうなったかが鮮明に知れた。

攻勢が止むや、まるで神像のように、荘厳に佇んだまま微動だにしないガディム。 そのルビーのように輝く紅の瞳を僅かに細めるその姿は、自らに抗う人間たちの卑小さを憐れむようにすら見えた。

「畜生、対物理防御壁だと!? しかも『神薙』を弾きやがったぞ」

動かずとも隙は見せない…いや、攻撃が通じないガディムに、次の手を出しかねて祐一は罵声を地面に叩きつけた。


――対物理防御壁。それはあらゆる物理的運動エネルギーを遮断する、バリア系魔術の最高位に類する防御術式系統だ。
貫通性の高い銃弾などに類される点のエネルギーを防ぐ対銃弾防御幕。
打撃や衝撃波などの面のエネルギーを防ぐ対衝撃防御幕。
斬撃などの線のエネルギーを防ぐ対斬撃防御幕。
かなり乱暴な分類の仕方だが、各種の防御幕はそれぞれに対応した運動エネルギーしか遮断できないのが通常だ。
だが、それら物理的運動エネルギー全般を遮断するのが対物理防御壁と呼ばれる防御魔術系統である。
そもそも病気に対して薬を投与するように、構成術式を防御幕により中和、拡散させて攻撃魔術を防御する対魔術防壁と違い、運動エネルギーを鎧や盾で受け止めるように直接遮断する対物理系の防御魔術は対魔術防壁より格段に難易度が高い。
そのタダでさえハイレベルな魔術の最高位系統である。超一流の魔術師とはいえ、そうそう簡単に起動できる代物ではない。
それに……

祐一は、戦闘不能に陥った浩平と綾香の姿を見やり、砕けんばかりに奥歯を軋らせた。

そんじょそこらの魔法金属類ですら切断する『神薙』と舞の剣技が簡単に弾かれた。それの意味する所は大きい。
どれほど魔力が高かろうが、起動速度が速かろうが、術式構成が巧みだろうが出来る事と出来ない事がある。
少なくとも、魔法武具クラスの強度を誇る対物理防御壁を全周囲に張り巡らせるなんて事はありえないはずだった。
しかも同時にかなり強固な魔術防壁も展開している。幾らなんでもデタラメが過ぎる話だ。

「クソッ、これじゃあ此方からの攻撃が一切通用しないという事になるじゃないか」

疑問は焦燥と化し、焦りが思考の空転を呼ぶ。
だが、その疑問に対して、隣へと駆け込んできた美汐が答えをくれた。

「これほどの強度の対物理防御壁、一朝一夕に組み上げれるものではありませんッ」

ハッと、祐一が美汐を振り返る。

「つまり俺たちが此処に来る前から用意してたって事か」
「恐らくそうかと。一週間…いえ、半月近くの時間をかけてじっくりと編み上げた物理防壁でしょう。どちらにしても拙いですよ、相沢さん」

祐一は荒れ狂う感情のまま、噛み付くように美汐に視線をぶつけた。
それは美汐は平然と受け止め、告げる。

「ガディムはどうやら万全の準備を整えて、私たちが来るのを待ち受けていたようです」
「で、俺たちはヤツが用意した舞台の上に飛び込んじまったって訳か」

だが、と祐一は彫像のように動かないガディムを睨みながら、希望の糸を見出した。

「それなら防御壁を一度ぶっ壊してしまえば、もう二度と展開は出来ないって事だよな」
「ええ、これほどの強度を即席で再展開は無理でしょう」

それならば策はある。
そもそも対物理系の防御壁はその強度を上回る衝撃を与えれば全体が砕け散る。
問題はその強度を上回る衝撃をどうやって作り出すかだが、それなら幾つか心当たりが無いでもない。

だが―――

「相沢君ッ!!」

耕一の存在感のある重々しい呼び声に、祐一はチラリと目線を向け、頷いた。
耕一の黒い双眸は、はっきりと一つの意思を宿し、此方へと訴えかけてきていた。
この場で一番の年上である…いや、年齢如何に関係無く落ち着き払った冷静さと抱擁力を兼ね備えた柏木耕一という人物の一言は、祐一の結論を後押しした。
そして傍らから美汐も切羽詰ったような響きのある囁きを零してくる。

「折原さんも長くは持ちません」
「……ッ!」

驚き目を見開く祐一に、美汐は本当だと言わんばかりに頷いてみせる。

もはや猶予は無かった。
祐一はガディムを挟む向こう側で綾香を抱き抱える浩之に、斬りつけるように声を掛ける。

「藤田ッ!」

呼ばれて浩之の青ざめた顔があがる。そして凶悪に切れ上がった彼の双眸が耕一と祐一の視線を受け止め、その意を悟った。

「分かった。みんな、退くぞッ!!」

無意識に服を掴んでくる綾香を抱き上げながら、浩之は皆に向かって声を張り上げた。

――撤退。

その屈辱的な選択は、だがこの状況では無理からん事だった。
浩之は完全に弛緩した綾香の身体の重みを受け止めて、駆け出しながら思う。

このままでは綾香は死ぬ。いかなタフな彼女とはいえ、これほどの傷を受けては数十分持たないだろう。
斯くなる上は、この場を撤退し、綾香が力尽きる前に彼女の傷を治せる少女…すなわち月宮あゆを見つけるしかない。
あゆの居場所は分からない。この聖殿の中は王城の如く広大だ。彼女の捕らわれている場所を探し出すのにどれだけの時間がかかるか…
だが、探し出さねばならない。それ以外に綾香を救う方法は無いのだから。

浩之の号令に、皆が一斉に動き出す。
無傷の祐一、美汐、舞の三人が援護するべくガディムへと突進し、佐祐理が呪を紡ぎだす。


――逃げるつもりか、我に抗う者たちよ――
――賢明なり――
――だが、我は許さぬ――
――創世の禍根となりぬ汝等を見逃す事を我等は看過せぬ――



自分に向かってくる三人を一切無視し、ガディムの双眸が一度閉じられ、そしてクワッと開眼した。
同時に、突風を撒き散らしながら一六の黒翼が打ち開かれる。
それはさながら荘厳な神の降臨。

その瞬間、漆黒の魔王を核として、全周囲に向かって「何か」が津波のように広がった。

色も無く、衝撃も無く、音も無く、何も見えなかった。
それでも、その瞬間から何かが決定的に変化した事を、その場に居た全員が否応無く脳裏に直接焼き付けられたように認識した。

「これ…はッ!」

派手な光芒を撒き散らしながら、ガディムへと纏わりつこうとした呪符の束が、突如力を失いヒラヒラと風に流されるさまを見て、美汐は頭を殴りつけられたような衝撃を受けた。
傍らでは、剣に集約させていた魔力が弾け散り、吹き飛ばされかける祐一の姿が。
そして、背後ではいきなり紡いでいた術式が拡散して、目を丸くする佐祐理。

このいきなりの異常を、天野美汐はつい十数分前に体験していた。

「あの異世界と同質の…」

姫川琴音とともに引き摺り込まれた異空間。
魔道法則が全く異なり、魔術が一切使えなかった魔術師に取っては致命的ともいえるフィールド。
あそこに居た魔族は何と言っていた?
そう、確か『ここは我等が御神の創りし世界――その雛型の一つ』、と。

心臓が凍りついた瞬間を、美汐ははっきりと自覚した。
あの魔族の言葉の意味。そして、ガディムが再三に渡って述べてきた創世の意味。それがはっきりと理解できたのだ。

この魔王は、言葉通り世界を創世するつもりなのだと。

――自らの世界。
――自らが創り上げた世界。
――自らが定めた法則に支配された世界。
――ガディムによる、ガディムのためだけの世界を。

折原浩平がこの聖殿内に入った時に言っていた。
この中は大盟約世界じゃ無くなりかけていると。
そういう事だったのだ。
このガディムという神は、大盟約世界を自らの生み出す世界によって侵蝕させる力を持っている。
抗う全ての生命を抹消し、この大盟約世界…いや、いずれは魔界や異郷ですらも、自らの生み出した世界により塗り潰してしまう。
そこはガディムに連なる力以外のすべてが消え失せた世界。
それが、ガディムの望む創世なのか。
自らだけが存在し、自らだけが力揮える世界で、全てを一から始めるというのだろうか。

この神を名乗る生命体は。


美汐は絶望にも似た思考の揺らぎを自覚しつつ、聳える黒色の巨体を仰ぎ見た。

あらゆる物理攻撃を弾き返し、今またすべての魔的作用を封じられた。
この手足をもがれた状態で、どうやってこの強大な魔物と戦えというのだろう。
秘めたる不屈の精神が、今愕然と揺らぐ。
この状況を打開する策を何一つ思い浮かべられずに、天野美汐は魔王を仰いだ。

その虚が混じった双眸の先に、大きく広がった一六枚の黒翼が、夜空の如く煌めくのが映った。

「攻撃、来ますッ! 避けてぇ!!」


ガディムの眉間の上、二本の反り返った角の間に、滾る黒の球体が発生する。
次の瞬間、黒球は弾け、四条の漆黒の熱線が発射された。

床を削りながら走る熱線の先には、倒れ伏す折原浩平と倉田佐祐理が…。
佐祐理の反応はまさに電光と称しても良かった。刹那に状況を判別し、自分が避ければ浩平が殺られると認識する。無論、倒れる彼を抱えて避ける暇は無い。
少女は小麦色の髪の毛を振り乱し、非常識極まりない呪唱速度で魔術防壁を編み上げてみせた。

「ダメ――」

佐祐理の致命的な判断ミスを認め、張りあげた美汐の叫びは決定的に間に合わない。
黒い光が迫るその向こうに、魔術が起動しない事に愕然とする佐祐理の顔が見えた気がした。

「佐祐理ぃッ!!」

感情が散り散りに引き裂かれたような川澄舞の悲痛な絶叫が響くその先で、四つの黒線が地面を薙ぎ払い、壁の残骸を切り裂いてようやく消えた。
何もかも投げ捨てるようにして、必死に駆け寄る舞は、その光景をしっかりと眼に焼きつける。

あの熱線が佐祐理たちを薙ぎ払う直前、横合いから砲弾のようにすっ飛んできた柏木耕一が佐祐理と浩平を抱き抱えるさまを。
元々、耕一が動けない浩平を連れて脱出しようと彼らに駆け寄っていた事が幸いした。

しかし―――

耕一と浩平、そして佐祐理は縺れあいながら床を転がった。
そして僅かに血飛沫が散らばる。

「佐祐理ッ! 耕一ッ!」

再び舞の悲鳴がかき鳴らされる。
熱線が薙いだあの瞬間、浩平と佐祐理の位置が僅かに離れていた事が災いした。
飛び込んだ耕一は、通り過ぎざまに二人を抱えて熱線を躱す事が出来ず、一瞬スピードを緩めてしまったのだ。

四つの黒線は、佐祐理の右脇腹と、耕一の両膝と右腕から肩に掛けてを切り裂いていた。
特に耕一の傷は深かった。半ば右腕が断ち切れかけている。喰らった攻撃が熱線だったために切断面が焼かれて出血が少ないことだけが幸いか。

「舞ッ!」

そのまま、呻き声をあげながら倒れる耕一たちに駆け寄りかけた舞は、祐一の切羽詰った叫びと、肌を貫くような危機感に、床を滑りながら振り返る。

崩れた天井から、蒼く輝く空と降り注ぐ陽光。
日の光に包まれているはずのこのフロア。だが、視線の先には闇が広がっていた。
ガディムの巨躯を包み込むほどの大きさを誇る黒き翼たち。それらが一斉に広げられたその光景は、身震いするほどに凶暴な美しさに満ちていた。
その黒き翼が先ほどに増して、銀河の如く輝き光る。


――祐一が、
――美汐が、
――舞が、
――浩之が、

言葉も無く立ち尽くした。


黒翼が眩いばかりに輝き切った瞬間、それは放たれた。
翼から発せられ、斜め上空から無差別に降り注ぐそれは光の雨。
視界が、満天の星空を彷彿とさせる一面の光点に覆われる。

一撃一撃は恐らくは威力が弱いその光雨。それ相応の魔術防壁ならば簡単に防げるであろう程度の魔力攻撃。だが今の彼らは魔術という名の傘を強制的に奪われていた。

浩之は咄嗟に右手に持った聖剣を掲げかけ、その柄に嵌められた宝玉の光が明滅している事に気がつき愕然とする。
魔術が使えない事は気が付いていた。だが、この剣の機能すら動作不良を起こすとは想像すらしていなかった。これでは降り注ぐ魔術を消し去る事が出来ない。
それでも戦場を故郷とする藤田浩之という人間の本性が、回避手段を見極める。
その必死の眼差しが、周囲に転がる壁や天井の残骸に目を止めた。


「天野ぉ! 離れるなよッ!!」
「は、いッ」

猛り狂った獣のように、祐一は絶叫する。
魔術を失い力を行使する術を失った美汐を背後に庇い、祐一は呼気を窄めながら迫り来る光に向かって剣を翳した。

そして舞もまた、背後に倒れる三人を庇いながら剣を構えた。
同時に息を詰め、身体の奥底に胎動する異能の力を呼び起こす。


――キュゥ――――ガガガガガガガガガガガガガガ

まるで熱帯のスコールの如く、それらは降り注いだ。
だが、そのスコールは、雨粒の一滴一滴が灼熱の光弾だ。
特に狙いも定めずに、その光弾のスコールはガディムの黒翼はためく方角へと浴びせるという言葉そのままに降り注いだ。

やがて、数秒も経ずして、スコールは止む。
床という床が、小指ほどの小さな穴を穿たれ、凄まじい惨状を見せていた。

だが、魔王の双眸はやや感心したように細められる。
光のスコールの過ぎた後、そこには雨の降る前とまったく変わる事無く、三人の剣士は三様の剣を握り佇んでいた。

「ま…ったく、焦るじゃないか」
「む、無茶苦茶です、相沢さん」

冷汗でも拭うように呟く祐一に、美汐は戦慄とも畏怖とも付かぬ感情に、震える身体を抱かずにはいられなかった。
間近に見ても、それは信じられなかった。
降り注ぐ無数の光弾を、それこそ一滴残らず片っ端から切り払って見せたのだ、この青年は。
はっきり言って人間技ではない。


「ま…い?」

痛む脇腹を抑えながら、佐祐理は仁王立ちに立ち塞がる親友の背中を見上げ、呆然と呟いた。
後ろで一つに結わえた夜のような黒髪がフワリと揺れる。

「佐祐理、大丈夫だった?」
「だい…じょうぶ。でも、舞は…」

振り返らず、普段と変わらぬ無感情な声で問い返してくる舞に、佐祐理は何故か今にも壊れそうな砂の城を連想し、声を震わせた。

「私は……」

言葉が、突然詰まる。途端、カクンと膝が崩れ、舞は床へとヘタリ込むように座り込んでしまった。

「ま、舞ぃ!?」
「まい…ちゃん」

佐祐理が錯乱したように悲鳴を張りあげ、耕一もまた苦しげな息の下から舞の名前を呼ぶ。
舞はゆっくりと肩越しに振り返り、その口元を幽かに緩めた。

「少し…大丈夫じゃないかも」

緩んだ口元が苦悶に歪み、舞は『神薙』を床に突きたて、その剣身に体重を寄りかからせながら苦痛に歯を噛み締めた。
彼女の肢体、その左上腕部と右脇腹に微かに血が滲み出していた。そして右のこめかみから一筋の鮮血が頬を伝う。

剣技に関しては祐一と互角かそれ以上。それが川澄舞という女剣客の力量だ。彼女の技を持ってすれば、降り注ぐ光雨を切り払う事は容易とは言えずとも、困難ではなかった。
だが、同時に背後で『力』の力場を生み出していたならば、話は別だ。
祐一のように美汐一人。それもすぐ背後に庇うならば『力』を振り絞って防御フィールドを展開しなくてもすんだのだが、佐祐理に耕一、それに浩平までが背後に散らばっている以上、剣だけで彼等に襲い掛かる全ての光弾を切り払う事は不可能だったのだ。
自然『力』を振るえば集中力が削がれ、見極めが低下する。
結果、数発の光滴を払い損ねてしまったのだ。

光滴は舞の肉に食い込み、骨を砕いている。
舞は、焦燥とも怒りともつかない感情の中、自分が戦力に数えられない存在になった事を自覚した。



一方の藤田浩之の方も、半ば人間離れした行動を取っていた。
聖剣による魔術消去が機能しないと見るや、ただの大剣と化した『エクストリーム』を一閃させ、周囲に転がっていた岩石群を前方に向かって弾き飛ばしたのだ。
ただ切るのではなく、任意の方向に跳ね上げる。それも自分の体重以上の岩石たちを、である。それが生半可な技量や力で出来るものではないと容易に分かるだろう。
そして、舞い上げられた岩石群は即席の壁となり、降り注ぐ光弾の雨をその身を犠牲にして防いでくれた。

粉々になって降り注ぐ岩石を前に、浩之に絶体絶命の危機を潜り抜けたという安堵感は微塵も無かった。
すぐ側で、今この瞬間もなお刻々と生命を失いつつある来栖川綾香。そして機能を停止してしまった自らの愛剣。状況は際限なく下り坂を転がり落ちていた。

「クソッ、なんで反応しないんだッ『エクストリーム』!!」


――無駄だ、かつて我を退けし者【エンハンスド】よ――


「なんだと!?」

その声には嘲りも、憐れみも無く、ただ淡々と事実を告げる無機質さだけがあった。


――既にこの場から汝等の世界の魔道法則は消え失せた――
――我が力、未だ未完なれど、この地を我が世界で覆い尽くすだけの器は既にある――
――汝等の使う魔の術は既に意味を失った――
――それは汝が持つ法魔の式剣『エクリプス・エクスカリバー』もまた同じ――



「エクリプス…エクスカリバーだと?」

聞き慣れぬ名称。それが自身の持つ『エクストリーム』の事だと言う事は明言されずとも理解できた。


――その魔剣はかつて、魔界の者がこの世界に多く侵攻した時代――
――『盟約』という愚かしい呪いの刻まれる以前――
――魔法仙アーカム・フィー・イスタリが魔族に対抗する兵器として造りあげた武具の一つ――



「アーカム・フィー・イスタリだと? それは確か十八魔王の一人じゃ…。そいつが何で魔族に対抗する兵器なんかを造るんだ」

その言い草では、まるでそのアーカムとやらが大盟約界の住人であったようでは無いか。

浩之の言いたいことを理解したのだろう。ガディムは漆黒の巨躯に浮かび上がるように輝く紅瞳を瞬かせ、続けた。


――魔法仙アーカム・フィー・イスタリ――
――この世界ではマーリンの名で知られるか――



ガディムの言葉を聞いていた全員が、思わぬ歴史の偉人の名前に驚愕する。


――法魔の式剣、それは魔導術により造られ作動する魔導兵器――
――それもまた、この世界や魔界の法則に縛られしモノ――
――法則が消え失せたこの場で、その剣が効力を発揮する事は無い――



浩之の面差しが苦渋に歪み、剣を握った右の手が血の気の失せるほど力が込められる。


――それはまた、魔導術、符法術も同じこと――
――例外たるは法則に縛られぬ力と、我の起源たる翼人の力――



祐一はハッと、自分が持つ純白の剣『メモリーズ』に視線を落とす。
このガディムに支配された世界でなお、この武器は自在に変化し、魔力を吸収した。
それは変わらず力を維持しているという事。

翼人の翼の化身…か。

不意にあゆの姿が思い浮かび、祐一は唇を噛み締めた。

あゆ……お前を守るって決めたのに。お前を連れて、みんなで帰るって約束したのに…
俺は……


――されどその力も、我を脅かすには足りず――


噛み切ってしまった唇から血の滴が零れ落ちる。
相沢祐一は、聳え立つ魔王を睨みつけながら、皮膚を突き破らんばかりに拳を握った。

今や無傷なのは自分と美汐、そして藤田浩之の三人だけ。その内、美汐は魔術を使えず、浩之もまた愛剣の機能が閉じてしまった事で力を半減させている。
舞や耕一は深く傷つき、もはや満足には戦えないだろう。佐祐理もまた同様だ。
綾香と浩平に至っては、死という断絶がリミットに迫っている。

対してガディムはといえば、生半可な攻撃が通じない強大な対物理防壁を展開し、また自らの世界を侵蝕させる事で此方の魔術まで消滅させてしまった。
魔術が使えなくなるという事は、攻撃だけでなく防御すら出来ないという事だ。
ガディムの容赦の無い魔術攻撃にどれほど耐え切れるか……


状況はどう考えても最悪以外の何モノでもなかった。
正直言って、ガディム本体の力そのものは脅威ではあったが対抗できないものではない。
恐らく、此方が万全の体勢であったら何とかなるレベルである。
だが、最初に不意打ちのように放たれた絶対魔術クラスの攻撃により、攻防両方に隔絶した力を誇る折原浩平が戦線を離脱させられ、また対物理防壁の存在に気付かずに来栖川綾香を失ってしまった事でバランスは一挙に向こうに傾いてしまった。
いや、あのガディムの異世界による侵蝕により大盟約世界が失われてしまった事が何より致命的だ。
魔の力が使えないという事は、想像以上に此方の不利になる。そして、その対抗策はまったく想像すら出来ない。

「畜生、どうすりゃいいんだッ!」

半数以上が身動きすら取れないこの状況では、もはや逃げる事すら敵わなかった。

勝利を確信したのであろうか。
混沌と呼ばれた魔王は、悠然と人間たちを睥睨しながら、神の如く宣言する。


――我が脅威に値する人間たちよ――
――今、我は汝等を滅し、我が創世の禍根を絶たん――
――滅びるがよい――



雄々しき咆哮と共に、無数の黒き杭が虚空へと出現した。

「拙いッ、舞、佐祐理さん!!」
「折原さんッ!」
「くそ、耕一さん、避けろッ!!」

祐一が、美汐が、浩之が声音に絶望を宿しながら絶叫する。
無駄だと分かっていても叫ばざるを得ない。

数十を数える影杭は、その全てが舞たちを指向していた。
そして、彼女らは誰一人としてその猛襲を避けれるような状態ではなかった。

「グッオオオオオオオオオ!!」

突如、大気を震え上がらせ響き渡った、それは人ならざる獣の咆哮。
柏木耕一の双瞳が縦に割れ、血に濡れたように紅く染まる。
耕一は動く左手で、ヨロヨロと皆の前に立ち塞がろうとする舞を引き寄せ、抱え込んだ。

「だ…めぇッ」

彼が何をしようとしているのか悟った舞が、声を掠れさせる。だが、彼女に抗う力は残っていない。
耕一は暴れる佐祐理と意識の無い浩平をも抱き抱え、ガディムに対して背を向けた。

元々広く大きい背中が、さらに膨れ上がるように巨大化する。
全身をエルクゥかさせながら、耕一は尖り行く牙を食い縛った。
巌然と立ちはだかるそれは、鋼のごとき筋肉の楯だった。

せめて…貫かれないように受け止めてやるよ。

それは壮絶な覚悟。
冴え渡った意識の中で、思い浮かぶのは従姉妹たちの様々な表情。

「ゴメン、みんな」


「耕一さんッ!!」

浩之の喉から張り裂けたその絶叫は、疑いようも無いまっさらな絶望だった。


直後に襲い来るであろう言語を絶する激痛を予期し、耕一は紅に輝く眼球を瞼の奥に仕舞い込んだ。
その直前、視界の端に蒼い光のようなものが映ったように思えたのは気のせいだったのだろうか。

そして―――

いつまでたっても襲ってこない衝撃に、耕一は空白にも似た疑問符を浮かべつつ、恐る恐る眼を見開いた。
そして、目を疑い、言葉を失う。

一瞬、自分たちが蒼穹へと浮かんでいると思ってしまった事は無理からぬ事なのか。
耕一の紅瞳が捉えたもの。それは自分たちを優しく覆い尽くした蒼色の波打つ幕であった。


「ふむ、どうも不安定だな、ここは。危なかった、もう少しで制御をしくじるところだったぞ」

祐一が、呆けたようにあんぐりと口を開く。

「か、母さん、それに婆さんまで!?」

完全に崩落した≪孤聖の間≫の入り口付近に佇む二つの影。
耕一たちを包み込み、影杭の束を弾き飛ばした青い幕がスルスルと幾枚かの帯と化して、長身の方の女性へと舞い戻っていった。

「やあ、馬鹿息子、久しぶり」
「よぉ、馬鹿弟子、久しぶりだね」

この切羽詰った状態で、呑気としか言い様のない態度を取る相沢奈津子と上泉伊世に、思わず祐一は情けない面を貼り付け、声を裏返した。

「あんたら、何で此処にいるんだよッ!」
「馬鹿息子たるお前の手間隙を省いてやろうと思ってね…ほら」

そう云って、右上方に向かって指を指す奈津子。その動きに誘われるように祐一は彼女の指差す方を見上げ……今度こそ本当に絶句した。



――何時からだろう。

透き通るような歌声が戦場に満ち溢れていたのは。


――何時からだろう。

仄かに光る温かな雪が彼らの上に降り注いでいたのは。



「……あれ? 浩之?」

いつの間にかこのフロア全体に舞い散る光の雪に目を奪われていた浩之は、不意に間近から聞こえた聞き慣れた少女の声に言葉も無く彼女の顔を覗き込んだ。
やや血の気の失せた綾香の整った顔。何が起こったのか分からぬ風に、彼女は不思議そうに目を瞬いた。


「いきなりですみませんが、折原浩平ふっかーつ!!」
「ふぇぇ!?」

それはそれは、あまりにも突然で。佐祐理は気絶しそうなほどびっくりして跳ね起きた。
眼前ではつい一瞬前まで死に掛けていたとは思えない様子で復活のポーズとやらをとっている浩平の姿が。未だ額に美汐の呪符が張り付いているのが何気に間抜けだ。
自分と同じように舞と耕一が呆れるやら驚くやら、どう表現して言いか分からない表情で浩平を見上げていた。

「お、折原さん、治ったんですか?」
「おお、なんか知らんけど、完治完全万全不全だぜぃ」

最後は何か違う気がしたが、どうやら本当に完治したらしい。
と、佐祐理は不意に自分の身体を蝕んでいた激痛が消え去っている事に気が付いた。慌てて傷口に手をやれば、そこは跡形も無く塞がっていた。

「あ、あれ? 右腕…もう動くぞ!?」
「…痛くない」

耕一と舞がペタペタと自分の傷痕を不思議そうに弄くりまわす。

「これは…まさか」

想像は確信へと変化する。
佐祐理は、いつの間にか聞こえていた歌声に耳を傾け、降り注ぐ光の雪を手の平に受け止めつつ、歌声の主の姿を見つけ、思わず込み上げた涙に視界を歪めた。






雪のように白い羽根がひとひら。
そよぐ風と歌声が羽根を彼の元へと運びやる。
そっと手の平で受け止めて、相沢祐一は彼女を見上げた。


――月の宮の…巫女――


感情の見えないガディムの呟きが祐一の耳に飛び込む。
それがスイッチを入れたように、固まった祐一の意識が解凍された。

「あ…ゆ」

それは、ただ一枚の白い翼を奇跡のように羽ばたかせる一人の少女。
少女は歌声をとどめ、大きな眼を見開いて、蕾ひらくような笑みとともに一番大好きなその人の名を叫んだ。


「祐一くん!!」
「あゆーッ!!」





 …続く





  あとがき

八岐「今回は容量ギリギリ&クライマックスという事で、あとがきは抜きにさせていただきます」
栞「ご拝読いただきありがとうございました」

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