魔法戦国群星伝






< 第八十話 殺刃遊戯 >





失われた聖地 聖殿内





時という名の河の流れは常に一定だ。速くもならず、留まりもしない。
ただ、只管に決まった速さで流れ続ける。
だが、それは一面の真実でしかありえない。時間は時にその流れる速さを変化させる。
無論、客観的かつ物理的な現象の事を言っている訳ではない。
それはあくまで思考する者たちの主観からの話だ。

彼ら相対する二人の剣客。そして、それを見守る一人の女の間に過ぎ去る時は、凝縮し濃密に満たされた剣気によってその流れを遮られていた。

両手で握る鉤剣『ククリアラタ』。その重みに生命の猛りを感じながら、魔族アナンタ・ナラ・シュヴェーダは、熱死しそうなほどの高揚と凍え死にそうなほどの戦慄という、紙の様に薄い感情しか持たない彼にしてみれば異常なほどの起伏を抱きながら、目の前にて刀を担いだ初老の女を見据えていた。
死の予感が今この瞬間にも我が身を切り裂き続けている。
剣聖・上泉伊世。魔界を震撼させた人間の女剣士。
それは彼が想像していたより遥かに小さく貧弱で非力そうであり―――そしてあまりにも強大だった。

「剣は圏にて顕なるもの――間は魔にて真なるもの。惨劇なるかな、至福なるかな。我が斬撃の元に来やれ、アナンタ・ナラ・シュヴェーダ。最も深き陰の奥底を覗かせてあげるよ」

セイレーンの歌声の如く囁いて、上泉伊世は典雅と笑う。

そのあまりにも凄絶な美しさに、アナンタは情欲にも似た恐怖を抱く。
すぐさま後ろに飛び退きたいという本能の恐れに必死に耐える。

かの女と自分との距離はおよそ7メートル。
だが、確信する。
それだけ離れてなお、自分はあの女の刀の必殺の間合に踏み込んでいるのだと。
この研ぎ澄まされた神経が、瞬くほども鈍りを見せたなら、その瞬間自分が真っ二つになるだろう事を、時計の針が右に回るほど確かな事として認識する。

戦慄すべきは桁外れの制圧圏の広さ――間合の深さ。


上泉の型は刀身を肩に乗せた担ぎ上段。しかも得物は身の丈ほどもある野太刀。その一撃は自ずと上段からの唐竹から袈裟懸けまでの範囲に限定され、武器と型から一振りの初速は疾らないと判断する。
刀が振り下ろされる前に内懐に飛び込む。それが最善と結論を下す。
疑問もある。迷いもある。不安もある。
だが、それらすべてを封殺し、三眼の魔剣士は咆哮した。

「参るッ!!」

咆哮が音の波となり、上泉伊世の元へと届いた時、アナンタの神歩は既に二歩目へと到達していた。
その速度は火縄の銃弾にも匹敵しえたかもしれない。
そして、アナンタは二歩目でここからさらに加速した。確実に常人の視覚認識能力を超過した速度。端から見たならば消えたようにしか見えなかっただろう。
一秒を百で割った時間でさらに3メートルを走破。

――残り4メートル。

鉤剣を右横に振りかぶる。


――三歩目。

足裏は床を数ミリも浮く事無く滑るように疾った。
それは攻撃を繰り出す踏み込みへと足捌き。まさに最高の一撃を誘う最後の一歩。


――残り2メートル。

鉤剣は空気断層を作りながら横薙ぎに走り始めていた。
そして―――超高速移動の最中にアナンタ・ナラ・シュヴェーダの三眼はそれを見届ける。
自分が咆哮を放ったその瞬間からまだ一秒も経過していない。
所詮は人間か、この電撃の如き速さに反応できなかったのだろう。
上泉伊世は、未だピクリとすらその身を動かさず、肩に担いだ狂おしいほどに長い太刀もまた凍りついたように静止している。


――勝った。

浮かび上がるのは抑揚の無い歓喜。
その感情の赴く先で、ユラリと刀の動き出す様を見た気がした。
だが、それはあまりにも遅すぎる。今更の反応であり、刀は軌跡を描く事すら出来ず、我が剣に切り裂かれ主を失う事になるだろう。

アナンタは冷めきった思考の中で冷徹に判決を下した。

その曇りなき思考が乱れたのは、最後の一歩の靴底が床に触れようとした瞬間だった。

氷の紫電に全身を貫かれたような氷点下の痺れが体の中心を突き抜けた。

彼の剣士としての本能が、圧倒的な力を持って思考を捻じ伏せ肉体を支配する。
何一つ考える間も無く、アナンタは全力で体勢を投げ出しながら最後の一撃を繰り出すための踏み込みを、横に体躯を投げ飛ばすための一歩へと変更した。

自分の無意識下の行動に驚愕とも呆然ともつかない思いを抱く。

アナンタの躯はバランスを崩しながらも勢いを完全に留める事無く、構えを取る伊世の右側面へと流れた。
そして、アナンタの三つの魔眼は目撃する。


まるで、途中のコマを切り取ってしまったフィルムのように一瞬にして、それまで彼が目の当たりにしていた上泉の立ち姿が変わっていた。
太刀を肩に担ぎ、大地に根差すように身を沈めた姿から――
――袈裟懸けに太刀を振り下ろした姿へと。


長く、禍々とした反りをぎらつかせる凶刃『軋ヶ崎・藤の斬影』。
肩に担がれていたはずのその太刀は、彼の三眼にまったく捉えられる事無く刃を床の僅か3ミリ上に振り下ろされていた。
いつ、その刀は繰り出されたのだろう。
いったいどれほどの速度で、その刃は閃いたのだろう。
アナンタの三眼は狙撃銃の弾丸ですら、舞い降る雪の如く視認できる力を持つ。
その彼の三つ目が、その光跡すらも捕えられなかった。


さながら刀が振り下ろされたという事象を世界が思い出したかのように。
ガラスが割れるような音とともに床が裂けた。
剣筋に沿って、深く深く。
切先は触れすらもしていないのに。

剣風が渦を巻き、大気を乱す。
アナンタの纏う外套の裾が、空気の断層に巻き込まれ千切れ飛んだ。

心が凍る。
あの完全に此方が征したはずの間合。あそこから一瞬にして刀を振り下ろしたという剣速の驚異に。
そして、あのまま剣を繰り出していたならば、真っ二つになっていたのは自分だと言う事実に。


だが―――

アナンタは続いて身体の奥底から湧き上がってきた戦慄とも高揚ともつかない何かに、爛と三眼を輝かせた。
どれほど早かろうが、どれほど切れ味鋭かろうが…もはや意味は無い。
既にその必殺の一撃は撃ち放たれてしまったのだから。
そして、自分はその一撃を躱したのだ。

赤茶けた外套が傘のように広がる。ところどころ破れたそれは、草臥れた番傘を彷彿とさせた。
アナンタはそのまま流れに身を任せ身体を一捻りすると、さらに加速のついた一撃を剣聖の横合いから叩き込む。

――上泉はこれを避けられない。

必殺の一撃を繰り出した後というどうしようも無い体勢。
動きの封じられた時間。生から浮遊した瞬間。
いわゆる死に体。

体重、加速、回転速…すべてが一身に満たされた剣の速度。
上泉から見て、右方上後部からの袈裟懸けの一撃。まさに彼女からは死角となる攻撃角度。

どれも申し分無い。

今、アナンタ・ナラ・シュヴェーダは、名高き剣聖を葬り去るに微塵の不満も無い、最高の剣を振るっている事を自覚し、満足した。


――さらば、剣聖ッ。

その瞬間、アナンタの三つの銀瞳と、剣聖の妖刀さながらの鋭い双眸が交錯した。

ゾクリ、とアナンタは全身に怖気が走るのを感じた。
ゾワリ、とアナンタは全身の肌が泡立つのを感じた。

永遠の刹那、此方を見た女の双眸は、その光のどこにも死と敗北の絶望は無く、冷たいほどの余裕を湛えていた。

おおおおおおおおッ!

瞬くように生じた疑念を消し飛ばすように声無き雄叫びを張りあげつつ、アナンタは剣を振り下ろした。
ここに来て引くことは能わず。ただ、渾身の一撃を見舞うのみ。

――烈閃が輝く。



そして―――


無垢なほど白く塗り込めた意識の端の、剣閃の隙間から彼は見た。


―――ユラ―――リ


それは、さながら陽炎の如く――




三つ眼の剣客最高の剣は、何の手ごたえも無く空を切り、床へとめり込んだ。

まるで幻でも目の当たりにしていたように、そこに上泉伊世の姿は消え去っていた。
地を蹴る打音も耳朶を打たず、動作にて巻き起こる風の揺らぎも微塵も感じず。


そして――
驚愕する間も無く、背後に爆ぜる剣気。

考えれば死ぬ、と魔族は悟った。
迷えば斬られる、と魔族は理解した。

どれほど驚愕に値する現象であろうと、それは今目の前で繰り広げられており、そして自分はそれと戦っているのだ。
――殺しあっているのだ。
ならば驚くより先に生き残らねばならない。

アナンタ・ナラ・シュヴェーダは思考を放棄し、肉体のすべてを自らの剣士としての本能に委ねた。

三眼の魔族は、剣を振り下ろした流れと勢いを利用し、そのまま前方へと体躯を流した。
剣の切先の鉤が床へと引っかかる。
アナンタはそれを支点として最小の動きで前方に自分の体を回転させた。
刹那、強烈な負荷が全身を引き裂こうとする。筋肉が断裂しかけ、骨がひしゃげる。

――だが耐え切る。

凄まじい速さで回転する視界に、自分が立っていた場所を横薙ぎに走る一条の銀糸が走った気がした。
無論、気のせいではありえない。
それは野太刀『軋ヶ崎・藤の斬影』のその名の通り、影をも斬り裂く閃光の一太刀。
被っていた編笠に切先がかすり、三角状に千切れ飛ぶ。そして、斬撃の余波により額の瞳のすぐ上の皮膚が裂け、血が迸った。

血の雫が宙にばら撒かれる情景を加速した意識に見留めながら、アナンタは身を捻りながら着地する。
だが、身体を沈み込ませ、遠心力を逃がそうとした瞬間、視界が真っ黒に染まった。

「ぬうっ!?」

水月に走る鋭い衝撃と鈍痛。
前方へと流れる視界の景色からアナンタは自分の躯が後方へと吹き飛ばされている事を自覚する。次の瞬間、アナンタは背中から壁に勢い良く叩きつけられた。
磨き上げられた岩盤の壁に蜘蛛の巣状のヒビが走り、魔族はズルズルと崩れ落ちた。

意識が一瞬、コマ落ちする。
完全に急所へとめり込んだ一撃。アナンタはそれが刀の柄元の打突と認める。
握っていた鉤剣は不甲斐なくも放り出され、身体は動かそうにもすぐには動けそうもなかった。
そうする内に、小柄な人影がスタスタと近づいてくる、と思うや首筋に刃を当てた。
アナンタは魔術灯の逆光となって見えない女の顔を見上げた。
こうして、座り込んだ状態からでも此方を見下ろしてくる女の姿は決して大きいものには見えない。
本当に小さな人影。

アナンタは涼風の如く呟く。

「見事。拙者、自らの極限の先に到達したものの、貴女には敵わなかったようだ。悔しいが同時に満足だ。討つがいい」

その言葉に、伊世は特に答える事無く、語りかけた。

「最初の一撃、壱の太刀を躱されたのは随分と久しぶりだよ。覇剣王もあれでぶった斬ってやったしね。オマケに夢想剣からの一撃まで避けられたのはそれなりにプライドってヤツに響いたよ」
「夢想剣…深陰流の奥義身法。あれがそうでござったか」

アナンタは三眼を閉じ、あのどうしようとも躱しようの無い体勢から陽炎のように身体を捌いた神業的な動きを思い出す。
と、首筋に感じていた冷たい感触が消え去ったのを感じ、アナンタは不思議そうに瞼を開いた。
剣聖は、此方に背を向けて野太刀を収めているところだった。

「斬らぬのか? 上泉師。儂は魔族、それも多くの者を斬り殺めた魔族でござるぞ」
「戦いの中だったら斬れてたんだけどねえ、残念だよ。あんたほどの相手ならさぞ斬り心地も良かっただろうにさ」

そして、伊世は振り返るとニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「別にアタシは正義の味方じゃないんでね。あんたがどれだけ人を斬ろうが魔を斬ろうが知ったこっちゃないよ。だいたいさ、アタシがいったい何人殺ったと思ってんだい? ま、ガディムなんて詰まらん輩の下にいるのはやめておきな。楽しく斬れないよ」

刹那、魔族の三眼が銀色に閃き、次の瞬間眠るように伏せられた。

「…ク、ククク。そうか、そうかもしれぬな」
「じゃあね、また会う事もあるなら、今度も楽しく斬りあおうじゃないか」
「承知した」


伊世は通路の隅で腕組みしながら佇んでいた奈津子の下に歩き寄ると、一瞥を向ける。

「悪いね、時間をかけた」

奈津子は問題無いとばかりに首を竦めて見せると、蹲っているアナンタに向けて声をかける。

「おい、魔族。ここに連れてこられた翼を持った女の子の居場所を知らないか?」

アナンタはキョトンと三つの眼を瞬くが、思い出したように首を上下した。

「確か一番東端のフロアに留めあると聞いた覚えがあるが」
「そうか、ありがとう」

三つ目の魔族は苦笑を浮かべながら、軽く右手をあげた。

奈津子と伊世は一時の戦場を後に、アナンタに教えられた場所へと足を向けた。

「ところで奈津子。アイツにお嬢ちゃんの居場所を聞かなかったら、どうやって探すつもりだったんだい?」
「……ふっ」

奈津子はさも何か策がありましたと言わんばかりのふてぶてしい笑みを浮かべて、さっさと先を急いだ。
その後に続きながら、上泉伊世は呆れたように呟いた。

「あの馬鹿、何も考えてなかったね」

斯くして、この女は間違いなくあの相沢祐一の母なのであった。









§ § §










姫川琴音と天野美汐が異空間ゲートに飲みこまれてから約4分。残された面々は半ば呆然としながらこれからどうするかと喧喧と怒鳴りあっていたが、話は纏まらない。
いや、結論は出かけていた。

「やはり、このまま先に進もう」

抑揚無く、だが確固とした言葉でそう告げた藤田浩之だった。

「美汐と琴音を見捨てるの?」

川澄舞が険の篭もった声で切りつけるように云う。
先に進むべきだという意見に一番反対しているのが彼女であった。
だが、反対しているといっても強硬なものではなく、どこか未練に縋るような調子である。
彼女も分かっているのだ。自分の意見に情はあっても理が無いのだという事を。

「このまま此処で突っ立っててもどうしようも無いだろう。琴音ちゃんたちが引きずり込まれた空間にこっちから乗り込むには入り口を見つけなきゃならない。 だが、それを探している間に向こうの決着はついてしまわない方がおかしい。なら、彼女らを信じて此処は前に進むべきだ」

案の定、舞は反論すべき言葉を見失い、だが助けを求めるように親友である佐祐理と祐一に視線を向けた。
祐一は、怒りに塗れた視線を床にぶつけていた。それは何も出来ない自分への怒り。舞が今、感じているものと同質の感情。
そして、佐祐理は……笑顔を潜め此方をじっと見つめていた。
それは氷のような冷たい面差し。感情の窺えないその表情のまま彼女は首を横に振った。
舞は佐祐理のその表情を知っている。あらゆる感情を排して正しい判断を下す時の為政者としての表情だ。
そして、舞は佐祐理がその表情を浮かべた時が一番苦しみ悶えている事を知っている。
信じるしかない。分かっている。この場でいつまでも立ち尽していても何も進展しないのだ。むしろ、再び敵の罠に陥る可能性が高くすらある。

舞はやるせなさを感じつつも同意を示そうと唇を開きかけ、次の瞬間ジャケットを翻して頭上を仰いだ。
同様に、集団の端で不貞腐れたようにしゃがんでいた折原浩平も飛び跳ねるように立ち上がる。

「どうした!?」

驚いた耕一の問いかけに、浩平が虚空を睨みながら鐘をつくように答えた。

「位相空間を通り抜けて誰か出てくるぜ!」

その言葉を全員が理解する間もなく、当の誰かがまるでカーテンの向こう側から飛び出してきたように、いきなり虚空へと姿を現した。
誰もが驚き事態を認識できない中で、川澄舞だけが出現した人影の正体を認める。

「美汐!?」

天井から吊るしていた糸が断ち切れたように、天井近くから落下した緋袴姿の少女を舞は間一髪床に叩きつけられる前に受け止めた。

「あ、天野なのか」

慌てて駆け寄ってくる祐一に、舞は振り返らずに頷いた。視線は心配そうに美汐の顔を覗き込んだままだ。

「大丈夫なの?」
「多分」

綾香の言葉に、舞はさっと美汐の状態を調べ、異常な点が無い事を確かめる。
そうこうする内に、当の美汐が目を覚ました。
いや、そもそも気を失っていた訳ではなく、空間をすり抜けた際の酩酊感を目を閉じる事で押さえ込んでいたのだ。
閉じた瞼をカッと見開き、皆の姿を認めて美汐は言う。

「ここは…元に戻ったんですか?」
「ああ、此処はさっきの聖殿内の通路だよ」

耕一が夢から覚めた幼子に言い聞かせるように抱擁感のある声で告げる。
美汐は安心したように頷きかけ、ハッと何かを思い出したように舞の腕の中から飛び起きた。

「そうです! 琴音さんが!」

その言葉でみなの顔色が変わった。
美汐が現れたことで安堵した意識が追いやっていた事実を、目の当たりにさせられたのだ。
だが、美汐から波及しようとした動揺は、浩之の落ち着いた声音に押し留められた。

「天野、とりあえず向こうで何がどうなったのか説明してもらえるか?」



美汐は顔面を蒼白にしながらも、論点をまとめて向こうであった出来事を簡潔かつ詳しく伝える。
その場にいた7人全員が、血の気が引くのを感じた。
美汐の話からして、姫川琴音の状況は最悪を通り越して絶望的だった。

だが……

「そうか。なら良い。俺たちはガディムの討伐に向かおう」
「藤田さん! 貴方はなにを言って――ッ!?」

あまりといえばあまりに冷たい一言に、美汐は激怒に染まった意識のままに怒鳴りつけようとして……言葉を失った。
藤田浩之の表情のどこにも絶望が見えない事に気が付いて。
確かに彼の面差しは白く、顔色を失っている。だが、それは絶望ではなく、むしろ戦慄のように見えた。
見渡せば、同様の表情を来栖川綾香もまた浮かべている。

「琴音ちゃんは最後の封印を解いたんだ」

藤田浩之は、抑揚を失った声音で淡々と告げた。

「今の彼女を止められるヤツなんて、誰一人いやしない。例え相手が魔王だろうと、それこそ本物の神様だってな」

浩之は、小さく身震いするように笑った。

「そいつらは、本物の『力』ってヤツを目の当たりにするだろうよ」










§ § §








異空間内




無限にて狭量なる閉鎖世界。
すべては灰色に―――曖昧なる色彩と境界に覆い尽くされたこの世界に佇むは、10の異形と1の白。
ただそれ以外何も無く、ただ彼らだけが佇む世界。
音も無く、風も無く、生気も無く、太陽も無く。
ただ死を与えるために創られし歪な世界。

そして、世界を創りし主がために、死を与えんとするは10の魔族。
そこに居た十名の魔族は、ガディムの配下にいる魔族の中でも自他ともに認める、特に力のあるものたちだった。


【暴竜姫】リュクセンティナ・ファフニール。
【狂犬】高槻。
【三眼凄葬鬼】アナンタ・ナラ・シュヴェーダ。
【屠殺殲鬼】ラギエリ。
【鋼戦鎧】セルダット・アイゼン。
【伽藍白魅】ポエニスカ。

かの六名の魔族と、さらに魔界に駐する二名の魔族を加え、計一八の魔将を以って、混沌の魔王ガディムの主力を形成する。

その一八の魔将の内の十名がここに顔を揃えていた。
その十名全員が、どの魔王配下に名を連ねようと一角の魔将として遇されるほどの力を元から、もしくは魔核の作用にて持ち合わせている。
いや、中にはリュクセンティナと同様に、かつて魔王の座にあった者すら居た。

だが、その彼らをして、目の前の少女の変化に顔色を失うを止めることは適わなかった。
まるで人間という衣を脱ぎ捨てたようにアルビノへと変貌したこの少女を目の当たりにして、彼らが一様に感じたものは。

――身も凍るような悪寒

それを気のせいと嘲り笑うには、彼らはあまりに聡明すぎた。
敵を侮る事を知らない真の強者であるが故に、彼女の力の極限を全身を持って察知したのだ。

即ち、この閉ざされた世界に居る者たちの中で、誰が一番『力』を持っているかということを――


鷲の魔人 ザールヴェヒト・ゲラードは、常に半眼であるイーグルアイを決死の如く見開いて、本能のままに絶叫する。

「殺せぇ! その身に持ちたる全能力を振り絞りて集殺せよッ!」
 
さもなくば死が訪れるは我らなり。

言葉にしなかったザールヴェヒトの心の叫びを、他の魔将たちもまた言われずとも理解する。
その瞬間、十の魔将はこのアルビノの少女こそ最強最大の敵と認めた。


触れるだけで感電、もしくは焼失しそうなほどの濃密な魔力が魔族たちの全身から迸る。
力が渦を巻き、波動と化す。
うねる大気のその最中で、魔族たちは一斉に散開した。琴音を取り囲むように位置を取る。

そして―――死戦が開幕する。


最初に攻撃を加えたのは全身を黒色の毛で覆った巨塊。
唯一、その場から移動せずにいたその魔族の名をバグベアー・ゾラホラム。
その巨体が一瞬、風船のように膨れ上がる。目を凝らせば、それは全身の毛が猛りながら逆立つ様を捉えたであろう。
次の瞬間、逆立った全身の黒毛が唸りを上げて琴音に向かって伸びた。
およそ数万本を数える黒毛。その一本一本が丹念に精錬された鋼鉄をも易々と穿つ力を持つ。
それらはさらに中間点で細分化。単分子レベルにまで枝化して琴音に襲い掛かった。
まるできらめく黒糸の滝が純白の少女に降り注ぐような光景。

白と黒が交わろうとしたその刹那、純白の少女のただ一つの異彩――紅の双眸が一際妖しく瞬いた。

「オオッ!?」

黒の幕に覆われたその奥底で、バグベアー・ゾラホラムは目を剥いた。
姫川琴音の全身を覆い尽くさんばかりに雪崩れかかった黒の流れ――それが一斉に自分に向かって反転したのを見届けて。

「ガッ!?」

まるで噴水の如く白の少女の直前で軌跡を曲げた黒い穿毛。それら黒い奔流はまったくスピードを衰えさせず自らの主であるゾラホラムへと襲い掛かった。
想像を越える余りのことに、ゾラホラムには穿毛の進撃を止める余裕すら無かった。
横殴りのシャワーを浴びるように単分子の刺突が全身を穿つ。
ミクロン単位とはいえど、数百万に及ぶ穿孔を肉体に受ければいかなる生命体とはいえ生きてはいられない。
ゾラホラムは短い断末魔を残して絶命した。


黒毛の魔族の死を見届ける間も無く、琴音は自らの足元へと視線を落した。
気がつかぬうちに湿り気を帯びている灰色の大地。
それが何かを考える時間はなかった。
いきなり、足元から乳白色の液体が噴き上がり、琴音の身体を包み込む。

「我が強酸の躯の中で爛れ果てろ!」

液体のドームの水面に奇面が浮かび、嘲笑とともに表面を波立たせた。
流体型魔族 ヒドゥンの内液媒体封印。彼の内側に包まれた獲物は呼吸も出来ず、さらに強酸性の液体は触れた有機物を確実に分解し尽くす。内側に捕えられた獲物はもがき苦しんだ果てに溶けて吸収されてしまうのだ。
その液体の表面は封印され、生半可な物理力では突破できず、魔術を唱えようにも口を開けば強酸の液体が体内までをも焼き尽くす。
捕えた獲物が逃れられる可能性は0に限りなく近い。

――だが、その勝利の確信と嘲りは三秒と持たなかった。

「うぐ? グオオオオオオオ!?」

喜色を浮かべた水面の顔は、一瞬にして苦痛に悶える狂面と化す。

―――ジュッ

焼けた石の上に水滴が落ちたような音が響いた。
琴音とそれを包んだ液体人間の姿は、突如発生した蒸気により包まれ見えなくなる。だが、その蒸気の幕もまた内側から吹き出した風の流れに散らされた。
払われた幕の内側には、平然とした面持ちで佇む琴音の姿だけしかなかった。

「バ、バカナ!? ヒドゥンッ!?」

獅子とも犬とも取れない姿をした斑点模様の獣――バンダースナッチがおののくように叫ぶ。
ザールヴェヒトは嘴を軋り合わせて唸りをあげた。

「自らの肉体ごと超高温化させてヒドゥンを蒸発させただと!?」

しかも、見れば少女の身体は濡れてすらいない。強酸の液体に包まれながらも纏う装束すら綻びてもいなかった。

ザールヴェヒトは心中で吐き捨てた。

おのれ、化け物めッ。本当に人間か!?

「恐れるなッ、掛かれッ!!」

ザールヴェヒトが叫んだ途端、琴音の姿が破裂する光芒に包まれた。
5メートル近い巨大な錆色の身体を持った牛が、顔の中央にある真っ赤な一つ眼を輝かせる。
その度に光芒は膨れ上がり、衝撃波が周囲にばら撒かれた。
視覚で照準を合わせ、任意の地点に何の過程も無く突如光爆を発生させる能力。マウルス・カトゥヴェレバズの『視裂爆華(エクスプロード・アイ)』だ。
事象を起こしそれをぶつける術ではないために、事実上いかなる魔術障壁でも防げないこの能力。喰らわないためには避けるしかないのだが、予備動作も何も無く突如爆発が巻き起こるためにまず回避不可能。

だが―――

「マウルスッ、上だ!」

ザールヴェヒトが声を張り上げ、マウルス・カトゥヴェレバズがその光爆の視線を上げようとした時には既に何もかも遅かった。
限定未来予知能力で攻撃を察知し、上空へと空間転移で回避した姫川琴音は無言で両手を振り上げ、そしてタクトを振るように交叉させながら振り下ろす。
危険を感じ、咄嗟に琴音の眼下から逃れる事が出来たのは、六鬼。
だが、マウルスと六本足の節足型魔族が完全に逃げそびれてしまった。


グ―――シャッ


「ま、マウルスッ! ティティリュー!」

リザードマンの悲鳴の如き呼び声に、当の二人はもう答える術を持たない。
半径10メートル四方の円形のフィールドが、刳り貫かれたように陥没していた。
二メートル近く陥没した地面の底には、頭上から圧縮されたように、灰色の大地に円のように体液を染み込ませ、二次元生物のように厚さを無くした残骸だけが残されていた。
瞬間的の上空から負荷された超大質量の念力場。魔族たちが備える強大な魔力防護はあっさりと駆逐され、マウルスとティティリューは為す術なく超重圧にプレスされた。

「――っくしょう、ブッ殺すッ!!」

フワリ、と白の法衣の裾を優雅に舞わせながら、地上へと降り立った純白の妖精。
リザードマン――ケツァルマ・レギエムは、手にしたハンマーを振り上げながら、琴音めがけて身を翻した。
魔鎚『破忌煉鎚』…仙峡界を故郷とする仙術工師により造られたという宝貝に類する仙術武具。打ち据える事で、あらゆる分子結合を崩壊させ、いかなる魔的構成をも分解する。つまり、どんな物理的防護も魔術結界をも無効化するという神話級の魔法武具だ。
その最強の武器である魔鎚を誰も使用できなかった理由である1.3トンという破滅的な重量を諸共せず、ケツァルマは樫の棒でも担いでいるような身のこなしで琴音へと迫った。

「待て、ケツァルマ、一人で――」

ザールヴェヒトの静止の声は届かない。
ケツァルマは間合へと飛び込むや、魔鎚を振り掲げる。その怪力やエルクゥに対したとしても微塵の遜色も無いだろう。
別段、分子結合崩壊の魔術効果など必要無いとすら思われる超重量の一撃が咆哮とともに振り下ろされた。

「砂になりやがれぇぇ!!」

「無駄ですよ」

いかなる防御をも無効化する一撃を頭上に仰ぎながら、ポツリ、と琴音は呟いた。

「――んな!?」

ケツァルマが驚愕の声をあげる。
1.3トンプラス落下・加速の加重が合わさった一撃が、掲げた琴音の掌に触れるや否やのところで凍りついたように停止していた。

「運動力を滅すれば、如何なる力も作用せず。引力重力を封じれば、如何なる重さも意味をなさず」

「や、やめろ」

リザードマンはいつの間にかピクリとも動かなくなっている自分の体に恐怖を抱き、震える声で懇願した。
琴音は聞こえすらしなかったように、それを無視する。

「そして運動神経を支配すれば、如何なる他者をも思うがままに」
「ヤメロォォォォ!」

ケツァルマは、他人のもののように自分の意思を離れて勝手に動く両手に絶望を抱いたまま、眼前に落ちて来る魔鎚の鈍い輝きを自分が崩壊する瞬間まで凝視していた。

自分で自分に魔鎚を振り下ろし、砂へと変わって崩れ落ちていくリザードマンに背を向けて、琴音はゆっくりと残る魔族たちへと振り返った。
そして、雪の様に白く冷たい面差しで、詠うように囁く。

「あと二分、残り5匹…4匹…3匹」

「馬鹿な…」

無意味な言葉は、意識すらせず零れ落ちる。
ザールヴェヒトはそうすれば現実を否定できるとでも言うように、首を横に振った。

僅か三分…僅か三分で5人もの魔将が瞬殺されてしまった。
冗談ではない。自分たちほどの者が10人も揃えば下手な魔王が相手でも勝つ実力があるはずだった。
言ってしまえば自分たちの主であるガディムですら、こうまで簡単に自分たちを駆逐できるものではない。
そしてガディムは魔界でも五指に数えられる力の持ち主なのだ。

ザールヴェヒトは心中に染み渡ろうとする恐怖を振り払い、残る四人の同僚に向かって鋭く指示を飛ばした。

「幻蝉、コッシュメール、我が突貫を支援しろ。バンダースナッチ、ジャッターヴォッカーは我とともに……」

掻き消えるように鷲人の言葉が途切れる。

「コッシュメール? ジャッターヴォッカー?」

応答しない二人の魔族。
幾つもの顔を上半身に貼り付けている首無し――コッシュメール。
全身鱗に覆われ、蛇のように長い首と長い髭、そして二本の触角を持つ六メートル近い爬虫類――ジャッダーヴォッカー。
呆然と、身動ぎもせずに立ち尽くしている彼らを、ザールヴェヒトは錯乱したくなる心を押し殺して名前を呼ぶ。

「どうした!? 答えろ、コッシュメール! ジャッターヴォッカーッ!!」
「既に死者となった者たちに何を呼びかけても無駄ですよ」

穏やかとすら表現できる口調で聞こえてくる白子の少女の言葉。
その清音に胸を押されたようにコッシュメールは人形さながらに硬直したまま後ろへと倒れ、ジャッダーヴォッカーは自分の自重を支えきれなくなったようにその場へと崩れ落ちる。
残る三鬼の魔族は絶句した。
わざわざ確かめる必要も無く。
コッシュメールとジャッダーヴォッカーは完全に死んでいた。


「な、何を…いったい何をしたッ!!」

たまらずザールヴェヒトは悲鳴をあげながら、翼を空気に打ち据えながら琴音へと振りかぶる。
穏やかとも取れたその口調は、正確には抑揚の掻き消えた無感情な声音の揺らぎ。
琴音は淡々と答える。

「心臓を抜かれれば、魔族といえど死ぬでしょう?」

差し出す両手の上に浮遊するのは、脈動する二つの肉塊。
血を送り出すべき肉体を失った、それは生命の最重要器官の一つ…心臓。

「い、いつの間に」

もはや言葉も無い鷲人の背後で、灰褐色のフードに身を包んだミイラ――幻蝉が呆然と呟いた。
残る三鬼の魔族の誰一人として、琴音が何かする場面を捉えてはいなかった。彼女はただそこに佇んでいただけ。それだけだというのに…。

琴音の眼前に浮遊していた二つの大きさの違う心臓は、やがて鼓動を止める。そして一拍の間を置いて突如燃え上がり、瞬く間も無く灰と化した。
そして琴音は言う。

「どうやって? とでも聞きたそうですね。こうしたんですよ」

言うや否や、琴音は右手の平をバンダースナッチに向けた。手を向けられた本人も、そして残る二人の魔族も身震いする暇も無かった。
琴音の開かれた手の平が何かを掴むように閉じられ、そして手元に引かれる。
その手の内側には、紫色に明滅する魔核の姿が最初からそこにあったように収まっていた。

どうッとバンダースナッチが崩れ落ちるその音に、ザールヴェヒトは正気づく。
強引に魔核を除去されたために、バンダースナッチの巨体は異常反応を引き起こし、腐臭を発しながら急速に腐敗しようとしていた。無論、既に生きてはいない。

だが、それを見てようやく鷲人は何が起こったのかを理解する。
一種のテレポーテーション。その見えざる思念の手を敵の体内に侵入させて心臓や魔核を捕え、無理やり手元へと転送させたのだ。
勿論、それがどれほどデタラメな事なのかをザールヴェヒトは識っている。実際にその現象を目の当たりにしなければ、鼻で笑い飛ばす類の出来事だ。
だが、それが自分に向けられようとしている今この瞬間ならば、それは恐怖以外の何物でもない。

「多種多様の魔術・仙術・妖術という異能が蔓延るこの世界で、何故サイキッカーが異能力者ではなく、超能力者と呼ばれるのか分かりますか?」

琴音は告げる。
淡々と告げる。
さながら、違えることの無い単純な数式を示すように。

「それは、この力があらゆる異能を超越した、世界法則からすら独立した真の力を持つ者であるがためなのですよ」

艶やと微笑み、琴音は告げる。

「さあ、すみやかに滅しなさい」

「幻蝉ッ!」
「分かっておる!」

恐怖/怖気/絶望/戦慄/震撼
それら混在する感情全てを爆ぜさせて、ザールヴェヒトは絶叫する。
言葉にせずとも同じ感情を有した幻蝉には、彼の意思を自らの事の様に理解した。
今動き、今攻撃し、今殺さねば、間違いなく滅びが自らをこの現世から消失させるのだと、否応無く認めさせられる。

その乾燥した細腕が折れんばかりの速度で虚空に紋章を描き出し、激流の如く呪を紡ぐ。
20メートル四方の空間をあらゆる事象から封印し、フィールド内の空間を圧縮し尽くして内部の存在を消滅させる極大魔術。
通常なら一分はかかる呪唱を僅か10秒で編み上げて、幻蝉は起動呪を開放しようとして……愕然とした。

魔術の起動地点がいつの間にか琴音ではなく、自分へと当てられていた事に気がついて。

ま、魔力の集約ベクトルを捻じ曲げたじゃと!?

既に術式は起動し始めていた。もはや、術者にすら止められない。
次の瞬間、幻蝉は信じられない現実に自失したまま、原子レベルにまで圧縮されて意識を失った。


「げ、幻蝉」

背後から伝わる崩壊の鳴動にザールヴェヒトが振り向いた時、既に最後の仲間の姿は視認できないほどに凝縮され尽くしていた。
残る魔族は自分一人。
ザールヴェヒトは呆然と口ずさむ。

「何故…だ? 我等のどこに、敗北する余地があったというのだ? 完璧だったはずだ。我らがガディムの忌敵を撃滅するに完璧な策であったはずなのだッ! それだというのに、これはいったい何だと云うのだッ!?」

「完璧でしたよ。私はそう言いましたよね。あなた方の策はまさに戦場の理に適った最上にして綻びの見えない完璧なもの。ですが一つだけ誤算がありました。私はこうも言いましたよね」

琴音は小さく口端を押し上げた。
まるで哀れみを与えるように。

「あなた方は、相手を間違えてしまったのだと」

ザールヴェヒトに、もはや答える言葉はなかった。
彼女の言葉に、抗うべき論も持たなかった。
誰よりも彼自身が分かっていたからだ。
自分たちが、よりにもよって一番初めに、引いてはいけないカードを引き当ててしまったのだと言うことに。

ザールヴェヒトは感情の消え失せた双眸で、少女を見つめる。
そして、つい5分ほど前に紡いだ問いを再び少女に問い掛ける。

「お前は…いったい何者だ」
「姫川琴音…ただの人間ですよ」

鷲の魔族は小さく嘴を開いた。
声も無く、嗤う。

「人間? 人間だと!? そうか。ならば、死ね、人間ッ!!」

叫ぶや、鷲人の姿が旋風を残して掻き消える。
閃風(フラッシュ・ウイング)】ザールヴェヒト・ゲラード―――かつて鳥妖族をまとめ、魔界に覇をなした魔王としての、それが彼の二つ名だった。
ある竜族との抗争に敗れ、魔王の座を追われ落ちぶれてなお、その字名は色褪せてはいない。
魔界の空を誰よりも迅く駆け抜けるこの翼に勝る者はいない。
あの暴竜姫ですら、彼の一翼に追い縋ることは出来ない。

音速を遥かに超過した速度で、ザールヴェヒト・ゲラードは琴音へと襲い掛かった。
圧倒的な力の差を見せ付けられてなお、彼は冷静に敵である少女の能力の実体を見抜いていた。
限定未来予知・空間転移・透視・念動力――かくある彼女の超能力。
だが、最も恐れるべきはそれらではない。恐れるべきは、彼女が知覚できるすべての事象と物体を世界法則から切り離し、自在に支配下におけるという『見えざる思念の手』
まさに【支配者(ドミネーター)】とでも言い表わすしかないその能力の前ではあらゆる力が無力と化す。

ならば、相手が知覚出来ないだけのスピードを以って、瞬殺すべし。
それが、閃風の名を持つ魔族の結論だった。

周囲にソニックブームの嵐を撒き散らしながら、遥か大空へと躍り上がったザールヴェヒトは体勢を切り替え、両の翼を打ちひらく。
空に太陽が輝くならば、眩いばかりに光放つであろう銀翼。その翼を構成する柔らかな羽毛が一斉に硬質化し、擦れあってシャンシャンと澄んだ音色を奏でだす。

眼下に佇む一人の少女を睨みつけ、銀翼の魔族は高らかに咆哮した。

「我が一閃にて砕け散れッ、『銀の一斬(ズィルバー・シュナイデン)』!!」

咆哮が地上に降り立つより速く、音速を超えて鷲は舞い降りた。
一条の銀光は、あまねくすべての物体を切り裂く一閃。
その一撃はあらゆる物を切断し、音の壁を破ったがために巻き起こる衝撃波が切り裂かれた残骸を叩き潰す。
この神速の一撃を知覚することは、まともな生命体には不可能。

テレポートする間もなく、バラバラに切り裂いてくれるッ!

それが、【閃風】ザールヴェヒト・ゲラードの最後の思考だった。

姫川琴音が全周囲に張り巡らせた七七の対物理障壁に真正面からぶつかった鷲人は、五八の障壁を粉砕してようやく停止した。
無論、音速を遥かに超える速度で結界へと突撃したその衝撃に、魔族の肉体は耐え切れるはずもなく。
銀色の鷲人は粉々に砕け散り、原形も残らず飛び散った。
べっとりと灰色の大地を濡らした血糊。それらを浴びるような位置に立ちながら、一滴の血も被らずに、姫川琴音は静かに佇む。
血という不浄に犯される事無く、純白の少女は静穏に佇んでいた。


「ジャスト5分…ギリギリでしたね」

ホッと琴音は吐息を吐く。
同時に彼女の周囲を取り巻いていた力の波動が透き通るように消え失せていき、雪の様に純白だった髪の毛にも淡い紫の色合いが戻っていく。

「あと、もう少し」

琴音は零れ落ちるように消えていく力の残滓を掻き集め、瞼を閉じた。
次の瞬間、琴音の姿が灰色の異空間から消え去り、元の薄闇に閉ざされた聖殿内の通路に現れる。

「やっぱり…居ないですね」

重い瞼をこじ開けて眺める視界には、人の気配は微塵もなく、冷たい静寂が横たわっている。
琴音はフラリとバランスを崩し、石床へと腰を降ろした。
そして、瞼を閉じながら苦笑を浮かべる。

最後の鷲の魔族。もし、彼がすぐさま突撃してこずに逃げを打っていたならば、自分はこうして無防備に横たわっている事は出来なかっただろう。
この神にすら匹敵する超越した力。欠点があるとすれば、僅か五分しか使えないという事。さすがにあれほどのレベルの魔族を十匹が相手だと、魔力による抵抗も大きく簡単には力を行使出来なかった。五分という時間では本当にギリギリだった。

それと欠点はもう一つ――

「さて、これから半月は起きられませんか」

一度最後の封印まで解いてしまうと、半月は昏睡したまま覚醒できないという事。半月も意識が無いとなると、色々な意味で大変だ。

「でも、その前に無事にここを出られるかの方が心配ですよね。万一寝てる間にラルヴァか魔族が通りかかったら……」

琴音はまどろみながら、嘆息した。こればかりは今更心配したとしても意味は無い。まあ、自分の運勢にでも頼るとしよう。

「ホント、帰りには拾ってくださいよー、藤田さん、天野さん。うー、おやすみなさい」

ポテン、と少女の体が横たわる。
そこにはつい先ほど魔族を殺戮し果たした、狂える妖精の面差しは無く。
微かに漏れる吐息の影では、ひどく穏やかな少女の寝顔が明かりに照らされ揺らいでいた。

それは――まるで、花弁の上で眠る小さな妖精のように――――







§ § §







三眼の魔剣士に教えてもらったとおりに東端のフロアへと向かった相沢奈津子と上泉伊世。
探索すべきフィールドを限定できた事は幸いだった。内部構造を把握している奈津子とすれば、あとはその区域内で月宮あゆを留め置けるような場所をピックアップすればいい。
そして、該当する部屋は数えるほどしかなかった。

「恐らく此処だ。踏み入るぞ、老師」
「はいよ」

小さく合図を交し、奈津子は荘厳な意匠の施された扉を押し開けた。
そして、飛び込むように内部へと踏み入る。
背中の刀に手をかけつつ、彼女の後に続いた伊世は突然立ち止まった奈津子にぶつかりそうになってたたらを踏んだ。

「――ッ、奈津子?」

石化してしまったような彼女の仕草に、伊世は訝しげに眉を顰めながら、彼女の脇へと移動する。
室内を一望して息を飲んだ。

「なんという…事を」

四方20メートルほどの円形の広間。
その壁という壁がうねり、のたくっていた。ハッと扉脇の壁を睨みつけ、伊世は唸るように息を漏らした。
壁はこれまであった磨き上げられた岩盤ではなく、まさに肉としか言いようの無い有機物。
赤茶けた壁が身震いするさまは、まるで体内そのままだった。
そう、この部屋は肉壁に包まれた、何かの体内。

そして、伊世は見た。

部屋の中央に一際その威容を誇る肉の柱。
その中央に無残に埋め込まれた少女の姿を――

下半身を柱の中に埋め、両の手を磔にされたように広げられ、白い裸身を晒している月宮あゆの姿を…

その表情は苦しげに歪められ、愛らしいその面差しは色濃い疲労により痩せこけている。
正視するには、あまりに心苦しいその情景。


「何者だ!?」

漸く侵入者に気付いたのだろう。中にいた幾人もの魔族が開いた扉の方へと振り返った。奥の方にあった扉が開き、さらに魔族たちが姿を現す。
彼らは侵入者が二人の人間の女だと知り、ねぶるような眼差しでねめつけてきた。完全に、此方を侮りきった容貌。
一人が粘りつくような声で問う。

「なんだぁ? 貴様ら…こんな所に何しに来た?」

「あゆ…ちゃん」

伊世の耳に、石化していた奈津子の呟きが飛び込んだ。
まるで抑揚の無い、完全に感情の消え失せた囁きが。
その瞬間、伊世は全身の毛穴が開ききり、ドッと滝の様に冷汗が流れ出したのを感じた。
背筋に鉄棒でも差し込まれたように凍りつく。

ピシリ、と世界がひび割れた音を伊世は聞いた。

その途端、部屋の空気が瞬く間に変貌する。
生物の体内を思わせる生暖かな空気が、一瞬にして薄ら寒い生の気配が根絶した冷気へと転換した。
恐らく、足りない頭でも気配が一変したのが分かったのだろう。魔族たちの動きがピタリと止まった。

「馬鹿者どもめ」

痛いほどの静寂をまとい立ち尽くしている相沢奈津子。
伊世はその彼女の横から後ずさりするように離れつつ、慄くように呟いた。

「神室奈津子を本気で怒らせおったな」


蒼い前髪のカーテンに遮られていた女の双眸がゆっくりと見開かれる。

彼女が纏うは深海のごとく深く底の無いブルー。
彼女が抱くは蒼穹のごとく高く果ての無いブルー。

女の面差しには、もはやあの破滅の笑みすらも浮かんではいなかった。





 …続く






  あとがき


八岐「今回は容量ギリギリなので、これでさらば」
栞「読んでくださってありがとう。また次回にお目にかかりましょう。さよーならー」


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