魔法戦国群星伝





< 第七十九話 悪魔を憐れむ詩 >






失われた聖地 聖殿内





「だぁー、こら相沢、いい加減離せぇ」

吹流しの如くパタパタと走る少年に引っ張られていた物体からあがる悲鳴にも似た抗議の声。 襟首を掴まれて振り回されるという荒行に、さすがに耐え切れなくなった折原浩平だった。
成年男子一人分の重量も諸共せずに浩平をぶん回しながら疾走していた相沢祐一は、思い出したように掴んでいた襟を放した。

「ギャン」

いきなり解放されたもんだから、思いっきり地面に叩きつけられて悲鳴をあげる浩平。
祐一はといえば、重石が取れたとばかりに振り返りもせず、先頭のまま疾駆する。
他の面々も引っくり返っている浩平を顧みる事無くその横を通り過ぎていった。

「うー、瑞佳ぁ。みんなが苛めるんだよぅ」

ベソベソと半泣きになりながら、立ち上がってヨロヨロと後を追い出す浩平。何気に甘えん坊度がアップしているのは気のせいであろうか。

最後尾が入れ替わったものの、九人の人影は光の消えた通路を一直線に駆け抜ける。
爆炎が吹き荒れた個所は既に通り過ぎていた。ここまで余波により魔術灯が掻き消えており、完全に闇に閉ざされていたため、佐祐理や美汐が周囲に灯りを展開しながら進んでいたものの、爆裂魔術の効果範囲を通過しきったために再び魔術灯が閉鎖された闇を虚ろに浮き上がらせていた。補足しておくなら、勿論『メモリーズ』は回収済み。床に突き刺さっていた投槍は今は祐一の腰に剣に戻って収まっている。
ラルヴァの姿はといえば、ここまで何故か一鬼も見えない。聖殿内のラルヴァたちの多くが入り口付近に配されていたと考えるべきだろうか。勿論、このまま無人の野を行くが如しとはいかないだろうが。

「ねぇ、ところでここまで一本道だけど、このまま進んで良いの?」

しばらく、誰もが走るという行為に没頭していたが、あまりに長く続く通路に、綾香が湧き上がる不安を堪えきれずに声を上げた。
彼女の後ろを纏め上げた薄紫の髪を跳ね上げながら走る姫川琴音が答えた。

「いい筈です。この聖殿内の最奥に巨大な空間があるようです。魔界とのゲートを開くには最適の場所、恐らくガディムはそこと思われます」
「内部の構造知ってるみたいな言い方だね、琴音ちゃん」

不思議そうに問いかけた耕一に、琴音は何を言っているのかと目を瞬き、

「知っていて当たり前ですよ。過去に数回、帝国の調査隊がここを調べてるんですから、内部の資料は帝国府の方に保管されています」
「あ、ウチにもここの資料ありましたよ」

何が嬉しいのか、薄桃色の法衣を翻して颯爽と駆けながら佐祐理が声を弾ませる。

「既に探索済みのダンジョンって訳ね。じゃあ、行く先は分かってるわけか」

どうやらこの中でウロウロと迷子の真似をせずに済むらしいという事に安堵を覚えた耕一がほっと息を吐く。だが、その吐息は祐一の不機嫌そうな声に掻き消えた。

「ガディムの居そうな場所はわかっても、あゆが捕まってそうな場所は分かんないんだよな」

皆は一様に押し黙った。
内部の構造資料を調べても、ガディムの居そうな場所はピックアップ出来たものの、月宮あゆが捕えられていると思しき場所は特定出来なかったのだ。
この聖殿内は奥に行くほど大小さまざまな部屋やホールが存在している。その何れかに翼の少女が閉じ込められているのかは資料の紙の上からは分からず、彼女を探そうとするなら結局は一つ一つ、虱潰しに当たっていくしか方法は無い。
だが、それではこの聖殿内にいるあらゆる敵と戦うはめになってしまう。それでは無駄に体力・魔力を消費してしまい、最後の敵たるガディムと戦うどころでは無くなってしまう。

「不本意かもしれないが、先にガディムを潰す。分かってるな」
「…ああ」

浩之の静かな言葉に、祐一は振り返らずもしっかりと頷いた。

「なに、ガディムの野郎をぶっ倒せば後はゆっくりとその娘を探せるさ」
「ああ、分かってる」

その励ましの言葉に、祐一は微かにだが笑みを浮かべてみせた。

「ともあれ、さっさとガディムを倒してしまうとしましょう」
「そうですね。大ホールはこのまま中央の進路を進めば――ッ?」

美汐のセリフに頷き、琴音が目的地の場所を口ずさんだ瞬間、痙攣したように彼女は吐きかけた息を飲み込んだ。
唐突に感じる浮遊感。踏み出した足が床を踏めずに空を切り、前のめりにバランスが崩れる。

――床が!?

前のめりになってようやく琴音は事態を悟った。数メートル四方の床が完全に無くなっていた。落とし穴の類ではない。マジックトラップの一種、もしくはこの異世界空間の作用か? 瞬時の判断で分かった事は一つ。これは異空間へのゲートだ。

「え?」
「キャッ!?」
「うぉっ!?」

自分と同じように驚愕に塗れた声が三つ。光をも通さぬ漆黒の沼に捕らわれた三人の姿が、バランスを崩した琴音の視界に飛び込んで来る。
すぐ真横で天野美汐が、前方の視界の端で来栖川綾香と藤田浩之が、円形に広がった異空間ゲートに捕らわれていた。


「琴音ちゃん!」
「綾香!」
「天野!」
「美汐さん!」

突然の異常事態に、皆が急ブレーキをかけながら焦りの声を張り上げる。

おい、俺は無視?

落下しながら密かに傷つく藤田浩之。

「チィ」

最後尾を駆けていた浩平は、目の前に広がった情景にすぐさま事態を把握。舌打ちしながら全速力で加速し黒々としたゲートに飛びつこうとする。

「綾香! 手をッ!」

一方、綾香のすぐ前を走っていた舞が床を削るように急停止し、手をさし伸ばした。

「クッ」

後ろに倒れこみかけていた綾香が必死に手を伸ばす。人差し指同士が絡み合い、綾香は舞の手を握る事に成功した。ガクリと右手にかかる比重。磨き上げられた床と舞の履く皮のブーツの靴底が瞬間の過重により発生した摩擦に悲鳴をあげる。
滑りそうになる足元。だが、舞は自分までもバランスを崩しきってしまう前に、渾身の力を込めて綾香の身体を引っ張りあげた。
華奢な身体に見合わぬ馬力。綾香のスラリとした肢体が宙を泳ぐ。その瞬間、まるで最初からそこには何もなかったかのように、黒々とした穴が音も無く閉じた。当然、浩之、琴音、美汐の姿もまた閉ざされた穴に飲み込まれ見えなくなる。そこにはつい数瞬前と変わりなく、さも当然とした顔で横たわる石の床。

「だぁっ、ちくしょう間に合うか!?」

スライディング気味に滑り込んできた浩平が、穴のあった床に叩きつけるように両手を突っ込んだ。両手は水にでも差し入れたように床を透過する。微かに残ったゲートの反応を辿り、空間の隙間に干渉したのだ。だが、文字通り手探り。しかもこの瞬間にもどんどんと異空間ゲートの歪みの残滓が消えていく。何の手がかりも無く標的を捕まえる事はさすがに浩平にも無理だ。タイムリミットは数秒も無い。
浩平の表情が険しく歪む。そして、パッと輝いた。

「っしゃ、捕まえた!」

喜声とともに浩平が鰹の一本釣りさながらに勢い良く両手を引き抜いた。石床に波紋が生まれ、飛沫はあがらないものの水の中から引き出したように一人の人間が床から飛び出し、放り出される。
人影はフワリと宙でトンボを切ると、文句のつけようもないほど見事に着地してみせた。

「ふぅ、死ぬかと思ったぜ。助かった、折原」

九死に一生を得て、荒い息をつきながらも藤田浩之は自分を引っ張りあげてくれた浩平に礼を言う。
だが、浩平は一瞬浩之の顔をマヂマヂと見据えると、いきなりヤサグレながらソッポを向いた。

「ケッ、男かよ」
「おい、こら」

浩之が、膝をついて起き上がりながら顔面神経痛の如き笑顔を浮かべた。

「ちょ、ちょっと琴音と天野さんはどうなったのよ」

舞に間一髪助けられ、彼女にしがみつくように床に引っくり返っていた綾香が、閉じた穴のあった床を呆然と見ながら呟く。
その無意識の問いに、誰一人口を開く事が出来ない。
少女二人を飲み込んだ冷たい石床は、揺らぐ影法師が映るのみで何も答えようとはしなかった。









§ § §











真っ暗だ。
――闇?
――漆黒?
何も見えない。
酩酊する意識の中で、暗闇の中に取り残された。
何も見えない、何も無い。闇は生命の原初に連なる何かを思い出させる。
―――怖い――怖い――コワイ――コワ……

天野美汐は、気がつけば視界が聞かないという状況にパニックを起こしかけ、そこでようやく自分がキツく瞼を閉ざしていた事に気がつく。
間抜けた話だ。目を開かねば何もかも見える筈が無い。
どうやらまだ意識ははっきりしていないようだ。美汐はゆっくりと瞼を上げた。霞む視界。だが、見える。
視野が開けた途端、バチンと脳裏に紫電が走った。ぼやけていた意識が一瞬にして覚醒する。美汐は淡い赤毛を振り乱して一動作で跳ね起き、周囲を窺おうとして、傍らに立つ人影を見つけた。

「…琴音さん?」
「気がつきました?」
「え、ええ。私、気を失って…」
「大丈夫です。十秒ほどですよ」

自らの不甲斐なさ、悠長さ、そして微量の悔しさに美汐は小さく唇を噛み締めた。戦場で十秒も気を失うと言う事は死と同意義だ。油断にもほどがある。
ゆっくりと立ち上がりながら、身体に不具合が無いかを確かめる。どうやら大丈夫なようだ。打ち身すらない。
美汐は先ほどから此方を一度も見ようとせず、どこか遠い目で先の方を見つめている琴音に訊ねた。

「ここ…は?」

問わずにはいられなかったと言うべきか。
周囲の情景を見れば、ここが明らかに異常な場所というのが分かる。
一面の灰色。空も地も、何もかもが灰色に染まっている。何か、造られたような人工的な匂いのする空間。だが、果ての見えない空間。何も無い。自分と琴音以外には何も無い空間だった。
果てしなく広く見えるのに、まるで手足も伸ばしきれない狭い部屋に閉じ込められたような感触。あまり長居はしたくない。このまま此処にい続けたなら、静寂に狂ってしまいそうな気がする。
思わず靄を払うように頭を振った美汐の耳に、琴音の声が飛び込んできた。

「魔術で造られた位相空間でしょうね。言わば、妖族の住む異郷などと同様のものです」

美汐は頷くことが出来なかった。
それは分かっている。妖族とは付き合いも深いし、幾つかの異郷なら訪れた事もある。また、符法院には位相空間を作り出す儀式魔術だってあるし、自分もまたそれを使いこなせる。
だが、何かが変だった。ここは自分が知っている類の位相空間とは違う気がする。まるで―――

「それとも、異世界、とでも言うべきでしょうかね」

まるで思考を読み取られたように、琴音の口から自分の思い浮かべた単語が飛び出た。
美汐がハッと顔を向けると、彼女もまた此方を見据えていた。

「折原さんの言葉を使わせてもらうなら、ですけど」
「ここは…何か異質です。居るだけで肌が泡立つ。ここは本当に……」

俯き、顔を顰める美汐。居心地の悪さが不安を増殖させる。琴音は小さく頷くと、すぅっと眼を細めた。

「彼らに聞くのが一番早いんでしょうね。ここに私たちを引きずり込んだ張本人たちに」

美汐はゆっくりと顔を上げた。意識を覚醒させた時から分かっていた。幾つもの敵意と殺意。凶暴な悪意の発露。
既に敵が自分たちを囲んでいる事を。

琴音の言葉を皮切りとして、灰色の風景から十を数える影が幕を落したように姿を現した。
美汐の面差しに厳しさが増す。
大小さまざまな影――辛うじて人の姿と言ってもいいのは5体。それ以外はまさに怪物そのものといった風貌だった。
五メートルを越える巨大な錆色の身体を持ち、顔の中央に真っ赤な一つ目を貼り付けた牛。
二本の触角をうごめかす三メートルほどもある六本足の節足動物。地面から浮き上がるように現れた全身黒い毛に覆われた巨大な塊。
そして、獅子とも犬とも取れない姿をした斑点模様を持つ獣に、全身鱗に覆われ、蛇のように長い首と長い髭、そして二本の触角を持つ六メートル近い爬虫類。
人型の者も人間ではありえなかった。
不意に空から大気をかき乱しながら降り立つ鷲頭に両手も翼となった鳥人。ぬらりとうごめく真っ白な液体が人型を取っている者。頭が無く、上半身全体に幾つもの顔を貼り付けている奴。そして最後に、一抱えもあるような鉄塊を先端に付けたハンマーを背負って、赤く細い舌をチロチロと出し入れしているリザードマン。
彼らは美汐と琴音の二人をまさに取り囲む形で姿を現した。

「我等が世界にようこそ、フロイライン」

油断無く前後左右を包囲した異形たちに警戒を巡らす美汐たちに、正面に降り立った鷲頭の鳥人が翼の腕を折り曲げ、芝居めいた仕草で一礼した。

「高位魔族。それも十鬼も、ですか」

美汐が慄きを隠せず小さく吐き捨てた。人型ならぬ怪物たちの双眸にも明らかに知性の光が窺える以上、それを単なるモンスターと考えるのはあまりにも楽観過ぎた。
一鬼が相手だとしても勝てるかどうか定かではない高位魔族。それが十鬼も居る。対して、此方はたったの二人。美汐の胸中に紛れもない焦燥が生まれる。
焦りは爆ぜるような攻撃衝動となって発露する。

「ああ、魔術は無駄だ、フロイライン。ここでは意味が無い。尤も、納得できないなら好きにするがいいさ」

先制攻撃とばかりに美汐が符を取り出すのを見て、鷲人は憐れむように笑った。他の魔族たちも牙も生え揃わぬ子犬が吠え掛かってくるのを見るような眼差しで、美汐に視線を集約させた。

「……ッ」

美汐の胸中に憤りが走る。符術師の少女はそれらの視線を振り払うように、指先に挟んだ呪符を眼前に立て、起動呪を詠唱する。

「一重二重と身を分かち 十重二十重と斬り刻む 告げる! 告げる! 汝は滅刃 敵を微塵と斬り砕く 華死烈然の凶風な―――」

はらり、と指に挟んだ符が、木の葉のように儚く滑り落ちた。
呪符は彼女の詠う言霊に何らの反応を示す事無く、無言のまま灰色の地に横たわる。
美汐は、敵の目前にも関わらず、呆然と符の行方に眼を追った。

「じ、術式が紡げない? こんなッ!?」

半ば思考を白く染めながら、美汐は自分の中にある魔力の有無を確かめる。あたりまえの様に自分の魔力は先ほどとまったく変わっていない。だが、幾ら精神を集中しようとも、言霊を連ねようと、魔の理より引き出される事象はその気配すらも現そうとはしなかった。

「起動韻律に魔力が反応を起こさない。魔道法則が異なるの? やはりここは…」

美汐の様子に、琴音は双眸に軽い驚愕とやはり、というどこか納得の含まれた鋭利な光を宿し、魔族たちを睨みつけた。

「ほう、フロイライン。そなたは理解しているのだな。その通りだ。ここは我等が御神の創りし世界――その雛型の一つよ」

鷲人が高らかに翼を掲げながら宣言する。
彼女らの右側にのっそりと四足で佇んでいた一つ目の巨大な牛が、低く唸るように言葉を紡ぐ。

「ここでは貴様ら人の紡ぎし魔の韻律は作用しない。我らの如き魔族のように己が魔力を己が能力で具現し操るものか、この世界に適合するように調整されたものでなければ」

美汐はザッと血の気が引く音を耳の奥で確かに聞いた。
その言葉が確かなら、自分のような魔術師はこの空間内ではまったくの無力だ。魔術師が魔術を使えないのでは話にならない。
そんな自分たちが、強大な魔族を相手にどれだけ戦えると言うのだろう。それも相手は十匹もいる。ただでさえ、マトモにやっても勝てるかどうか分からないのに。

彼女の悲愴な表情を楽しむように全身の毛を震わせながら、黒毛の塊がどこからともなく無機質で平坦な声を発する。

「我等は人間を侮らない。我等は人間を見縊らない。不完全とはいえ、御神ガディムを退けたお前達人間を過小に評価はしない。人間種は貧弱にして無力。だが、中には魔をも圧する異能が生まれる。人は決して弱き種ではない。故にお前達をここに招いた」

なるほど、と琴音がぽつりと口ずさんだ。

「たった九人の私たちをさらに分断し、おまけに魔術の使えぬこの空間に引きずり込んで無力化した挙句に、相手より多人数の味方で叩き潰すという訳ですか」
「クカカカア、卑怯とでもいうつもりか女ぁ」

鉄をも食い裂くのではと想像される凶悪な牙をひらめかせて嗤うリザードマン。
だが、琴音はゆっくりと首を横に振った。

「いえ、卑怯などとは思いません。むしろ、称賛に値します」
「こ、琴音さん!?」

落ち着いた声で平然ととんでもない事を言い出す琴音に美汐は思わず目を剥いた。そして、ゾッとする。彼女はもはや諦めてしまったのではと考えて。
美汐は体の中が凍りついていくような絶望を感じた。
だが、そんな彼女の様子に構う事無く、琴音は淡々と続ける。

「プライドなどというつまらないものを捨て去り、自分たちの力を過信せず、敵を少数に分断して全力を出せないフィールドを用意し、敵より多数の味方を揃えるという戦いの基本を踏襲する。見事です。まったく…完璧としか言いようがありませんね。恐らく、これでは藤田さんや相沢さんたちでも勝てなかったでしょう」

溜息を漏らすように、琴音は語る。
魔族たちの表情に余裕にも似た感情が浮かぶ。彼等はこの娘が完全に絶望し、戦う事も生きる事すらも諦めてしまったのだと思ったのだ。
生への飽くなき渇望。生存する事に対する執着。それらを抱く人間という種族の危険性を彼らは正確に認識していた。だが、逆に言うならば生き残る事に絶望した人間ほど脆いものはない。この後に及んで未だこの二人の人間の少女たちの力に警戒を強いていた魔族たち。その強固な慎重さにようやく油断とは別の余裕めいた確信が生まれた。
それは、此方に損害を出さずにこの二人を駆逐できるという殺戮への確信。
まだ7人も残っている。さっさとこの娘たちを片付けて、この神の御所に踏み入った不遜な人間たちの残余を駆逐しようと、魔族たちはゆっくりと彼女等に近づきかけ―――

「本当に、残念でしたね」

――足を止めた。

魔族の脳裏に疑念が浮かぶ。
残念? それは明らかに我らに向けたもの。その意味は―――

琴音は眼差しに戸惑いを浮かべる魔族たちにむかって薄っすらと口端を歪めた。透き通るような冷たい笑みを湛えた。
禍々しいまでに艶やかな、薄ら寒い微笑みを。

そして、恍惚とすら間違いうる声で彼女は告げる。



「……あなたたちは相手を間違えました」



それは悪魔を憐れむ詩なのか。


「フロイライン、無駄な足掻きをするつもりか?」

鷲人の言葉に、琴音は無言で微笑みを返すのみ。

「こ、琴音さん?」

琴音は美汐に顔を向けると、トンと軽くその肩に右手を置いた。

「ここは私が片付けます。美汐さんは他の人たちと行ってください。どうやら私はガディムの相手は出来ないみたいですから、そちらの方は皆さんにお任せしますね」
「な、なにを!?」
「ウケケケケケ、何をトチ狂った事を云ってやがる! 魔術も使えねぇのに此処から出られると――」

嘲りに満ちたリザードマンの言葉は、目の前の光景にあっさりと断ち切られた。
肩に置いた手に、一瞬暖かな光が宿ったと思われた瞬間、美汐の姿が輪郭を失い薄れはじめる。

「な、なんだとぉ!?」
「琴音さんッ、いけません!」

つい先ほどまでとは別の悲愴さの篭もった悲鳴をあげながら美汐は必死に琴音の腕を掴もうとした。
まるで、実体の無い幽霊のように、自分の手が琴音の身体をすり抜けるのを見て、美汐は声無き声をあげる。

「私は大丈夫です。藤田さんたちによろしく言っておいて下さい」

帰りに拾ってくれるとありがたいですね、と何事も無いように告げる琴音に向かって、美汐は縋るように首を振った。
十鬼もの高位魔族に対してたった独りで残ろうというのに、大丈夫なはずが無い。しかも相手には人を見下す愚かさは無く、圧倒的立場の上の油断も無い真に強さを抱く敵。勝てるはず無いのだ。
美汐は掴めないと分かってなお、無駄と分かっていてなお手を伸ばす。その瞬間、天野美汐は粒子の粉を残して姿を消した。
天に舞い上がる光の残滓を少女は見上げる。
そして、在り得ない光景に唖然と硬直する魔族たちに向かって、ゆっくりと身体を向けた。
気のせいだろうか。彼女の全身を仄かな白い光の粉が取り巻いているように見えるのは。

「ば、馬鹿な!? この閉鎖された位相空間から人間一人を転移させただと!? いったいどうやって!? ま、魔術を使ったのか?」

鷲人の裏返った声に、琴音は友人と会話するのと変わらぬ調子で答えた。

「魔術など使ってないですよ。そんなものを使わないでも此処から彼女を転移させるなんて造作も無い事です。ここは魔術は使えないかもしれません。ですが魔の理に縛られない力なら、使う事は簡単です。さて、その意味が分かりますか、フリークス?」
「元力…サイキックかッ!」

鷲人の叫びにそよぐかのように――
フワリ、と風も無いのに彼女の薄紫の髪と純白の法衣が浮き上がる。

琴音は降り注ぐ陽光を受け止めるような仕草で両腕を横に開いた。
柔らかな燐光が彼女を包み、まるで後光が指してでもいるかのごとく彼女の姿が灰色の世界に浮かび上がる。
いつの間にか、彼女の肢体は重さを無にしたように浮いていた。爪先だけが地を掠る。
彼女の衣服の下で、肢体に宿った黒い呪鎖が砕けて消えた。それは既に彼女の力を縛り閉じ込めていた第一の封印が解けた証。

ここは魔の理が変化してしまった世界。ならば、彼女の身体に刻まれた魔術の鎖がその縛めを維持し続ける事が果たして出来るのであろうか。

そう、今最後の封印が解かれる―――

―――彼女を人たらしめていた最後の頚木が。


「招きたるは永遠の静寂 破滅と灰燼の励起 孤高にして唯一の者」


口ずさむ彼女の唇が濡れたような赤みを帯びる。


「其は世界からも孤立し、ただ嘆き哀しむ力」


幕を下ろすように閉じられた瞳が、灰色の世界の中で見開かれる。
炯々と滾るそれは二つの紅。
その双眸は漆黒から紅蓮へと変貌していた。

力の波動に梳かれる淡い薄紫の髪が水に打たれたようにパンと弾け、翼のように広がった。
光の飛沫が飛び散り、髪の毛の薄紫色が指から零れる水のように色を失った。さながら雪の如き純白へと。


「最後の封は、今我が涙とともに砕け散らん――その羽に消滅を その瞳に絶望を宿し」


純白の法衣、純白の肌、純白の髪。
ただ、その瞳と唇だけが血のように紅く、濡れている。


戦慄とともに鷲人が叫ぶ。

「ア、白子(アルピノ)? 貴様、いったい何者だッ!?」



「私は死と終焉を司る災い」


紅く濡れた唇が、小さく三日月を象った。


「…狂える(クレイジー)妖精(フェアリー)



それは―――

最も神に近き、独りの少女の降誕だった。













§ § §









まつろわぬ冷ややかな空気。閉ざされ、密封された空間というものは中にいるものたちの精神を否応無く変質させていく。
どれだけ広かろうが、それは牢獄となんら変わらぬものなのだから。
かつて、FARGOの導き手たちは何を思い、この地を聖地と定めたのであろうか。
あまねく世界の破壊と創造を望みし者たち。彼等はこの閉ざされた聖殿の中で何を見ただろう。何を考えたのだろう。
あえて、牢獄の中に篭もり、今ある世界を拒絶し、何を未来に届けようとしたのだろう。
それを知る者はもはや居ない。失われた過去の者の意志を、現在を生きるものたちに分かるはずも無い。
彼等の意思と思いは永遠に消え去ってしまったのだ。

そして、彼女ら二人は、そんな考えても分からないような事に思いを巡らすような意思も、センチメンタリズムも持ち合わせてはいなかった。

相沢奈津子、上泉伊世。彼女ら二人の寸分の狂いも無く刻まれていた小気味の良い足音は、今完全にその響きを停止させていた。
彼女らの前に立つのは三つの人影。
その内の先頭に居た絶世の美女が朱色の口唇を艶やかに綻ばせる。
男女の境無く、目の当たりにしたならばそのまま心を奪われかねない艶麗な微笑み。
尤も、その顔が二つではなく、首が蛇の様に長くなければの話ではあるが。
双頭の女はぬらぬらと首を揺らめかせながら奈津子と伊世をねめつけた。

「グレーターどもが訳分かんない所で消滅したから見に来たら、あらま別の侵入者だよ〜。こんなところで何してるの〜。あはは、殺しちゃうよ〜。頭からパックリと喰っちゃうよ〜」
「あたしはそっちの蒼い髪の女が食べたいよ〜」
「えーっ、あたしだって皺くちゃのお婆ちゃんはヤダよ〜」
「じゃあ半分こ半分こ」
「きゃはははは、オッケーオッケー。仲良く半分ずつねー」

黙ってそれを聞いていた伊世は憂鬱げに溜息をつく。
そして鈍く光る少し灰色がかった双眸で、頭上にある二つの顔を上目に見据えた。
それを見て、右の首が唇を尖らせる。

「あ、なんか馬鹿にしてるって感じ〜。ムカツクよ、このバ―――あれ?」

果たして、その銀の軌跡を認めた者はいるのだろうか。

軽薄に舌を回転させていた女の右の首は、いつの間にか視界までクルクル回転している事に気がつき、キョトンと瞬きを一つして、死んだ。

「なっ!?」

あまりに鋭利過ぎるその太刀筋に、双頭の女は痛みすら感じなかった。
右の首がいきなり根元から血を撒き散らしながらすっ飛んだのを見て、ようやく自分が斬られた事を理解する。左の首はただ大口を開けて驚愕するだけ。
そして、その口は二度と閉じる事がなかった。
いつの間に抜き放たれたのか。女剣客の背中に背負われていた長大な野太刀は一刀で右首を切り飛ばすや、女の右手に逆手に握られ、左の首の大きく開いた口に横殴りに突き込まれた。刃は女の口蓋を貫き、ガツンという鈍い音とともに頭を石壁に縫い止める。

「おしゃべりは嫌いだよ」

双頭の女魔族は女剣客の希望通り、もう一言も喋る事無く三度痙攣して動かなくなった。

「…さすが」

端から見ていながら、彼女が抜く瞬間をまったく捕えられなかった奈津子が小さく称賛の言葉を呟く。
彼女が女剣士の剣を振るう様を目の当たりにするのは約8年ぶりとなる訳だが、その冴えはさらに凄味を増している風にすら見えた。
狂信的なまでに細く鋭く、研ぎ澄まされた人斬りの刃。

「か、カペロクラナ!? き、貴様ぁぁ」

身震い一つする暇もなく、その凄まじい剣技を見ているしかなかった魔族の一人が、怒りとともに咆哮する。
海草のような揺らぐ髪の毛を振り乱し、奇声をあげるその眼前に瞬く光芒が五つ。光弾となって撃ち放たれる。鉄をも貫く光の礫は、放たれた瞬間に増殖し、視界を圧するように伊世と奈津子に襲い掛かった。
石壁に縫いとめられていた女魔族の体が無数の飛礫に穿たれ、内臓と脳髄と体液をばら撒きながらボロボロの肉片と化す。だが、奈津子の肢体を穿とうとした光礫は悉くが虚空に突如生まれた幾つもの蒼い雫に飲み込まれ、消失した。
そして――

「当たらないよ、そんなの。詰まらないね」

光礫の吹き去った後に、もう一人の刀を持った女の姿を見失った魔族は、すぐ耳元から聞こえた囁き声に戦慄した。

――いつの間に!?

それが魔族の最後の思考だった。
唐竹に振り下ろされた一刀は、魔族を縦一文字にスライスして、水風船を割ったように血がぶちまけられる。
ベチャリと血の海に二つの肉塊が沈むのを傍らに、上泉伊世は野太刀『軋ヶ崎(きしりがさき) (ふじ)斬影(ざんえい)』を一振りして微かに濡れた血糊を払うと、無造作に肩に担いだ。
そして、ゆっくりと最後に残った魔族に眼を向けた。

他のニ鬼とともに闇の奥から姿を現したその時から、今この時に至るまで微動だにせずそれは薄闇に紛れていた。
仲間が一瞬にして斬殺された事にも何ら動じる風ではなく、独り、陰に沈みこむようにそれは佇んでいた。

編み笠と赤茶けた外套に身を包んで、殺気も敵意も、そして戦意すら滲ませずに、石仏の様に佇んでいた。

ナイフの切先のように伊世の眼差しが研ぎ澄まされた。
先の二人を倒したように、彼女は無造作に動こうとはしない。簡単な事だ。牙を持った獣に無思慮に近づく馬鹿はいない。
面白い、と伊世は思った。さっきの二人が鼠としたら、こいつはさながらベヒーモスタイガーだ。余りにも格が違いすぎて笑い出したくなる。
簡単に踊りかかれるような相手ではないし、あっさりと貪るにはあまりにも上質の敵だ。じっくりと堪能すべき敵。
女剣客はペロリと唇を舐めた。

「その長太刀、その太刀筋。魔狼王の【死傑四牙】 一文字(オンリー・ワード)(チヤン)】、【白銀の斬歓刀術師】 上泉伊世師とお見受けいたす」

編笠の被った魔族は、低く岩が軋むような声で訊ねると、俯き気味だった面を上げた。
深い森のような緑色の肌。そして銀色に輝く三つの瞳が、薄闇の奥で光った。

ピクリ、と伊世の白い右眉が跳ね上がる。

「魔界じゃ、そんな風に呼ばれた事もあったね」
「老師、随分と大仰な字名だな」
「自分で名乗ったわけじゃないよ。他の連中が勝手につけたのさ」

からかうように声を飛ばす奈津子に、女剣客は不服そうに声を尖らせた。

「先の魔界大戦で近接戦闘最強を誇っていた【覇剣王(ヘルシャー・シュヴェールト)】ジグムンド・ティルフィングとその最強の騎群『八八騎士団(アハト・アハト)』をただ独りで斬り伏せた貴女には、決して大仰な仇名とは思えぬが」

敬意すら含まれた魔族の静謐な声に、伊世はただ、フンと鼻を鳴らした。

「向こうでも随分と暴れたようだな、老師」
「うるさいよ」

奈津子の茶々を一言で蹴飛ばし、伊世は魔族に鋭く視線を飛ばした。

「で? どうするんだい、あんた。アタシらは急いでるんだけどね」

魔族は森に湧き出る泉の如き静謐さを以って答えた。

「一剣客として一手、ご教授願いたい」
「ほう」
「魔界最高と謳われる御仁と死合える機会を無にするつもりはござらん」

外套から、右腕が横に伸びた。
その手に握られたのは、先端が凶悪に湾曲して鉤と化している異形の剣。

その剣を見て、そして魔族の三つの銀瞳を受け止め、上泉伊世は少女のような笑みを浮かべた。

「あんたみたいなのが、何でガディムなんかの下に付いてるんだい?」

その言葉に魔族は初めて唇を微かに綻ばせた。
それは諦観に満ちた苦笑い。だが、そこに悔悟は無く、ただ流れる水に身を任せる木の葉の如き冷たさが醸し出されていた。

「…(えにし)、であろうか」

それを聞いて、老女は一頻りカラカラと笑うと、右口端をクイっと引き上げ、水面を叩くような声で告げる。

「名乗りな、魔族。聞いてあげるよ」
「【三眼凄葬鬼(トライアングル・ディザスター)】アナンタ・ナラ・シュヴェーダ」

伊世はコクリと頷き、左手を柄の端に添えた。

「OK,覚えたよ。この身が朽ち果てるその時まで、敬するに値する敵の名をこの刀と心に刻みおこう」
「…感謝を」

伊世の左足が音も無く斜め前に滑り、その小柄な体が低く深く沈み込む。
肩に背負った野太刀は凶悪なまでにその波紋を斜めに傾け、切先を下に向けた。

「介者の型」

後ろから見ていた奈津子がポツリと呟いた。
それは鎧を着込んだ状態で敵を相手取るために進化した剣術の形。無論自身も相手も鎧を纏っては居ない。だが、特にその事に意味は無い。
問題は、それが上泉伊世という女の最強の居形であり、最も得手とする姿という事。彼女が編み出し、練り上げた刀術の始原にして終着。
だが、本当は型に意味は無いのだ。彼女はどの形からも常に最強の太刀を振るう事が出来るのだから。
だから、彼女が『介者の型』を取る時その意味は一つ。
敵を認め、自らの全力を尽くすという意思の証。

「屠るべき相手でなく、斬り合う相手と認めたか、老師」

伊世は紛れもない歓喜を交わしながら詠う。

「我が名は上泉伊世。流派、深陰流。長太刀『軋ヶ崎・藤の斬影』を以って相手をするよ」
「アナンタ・ナラ・シュヴェーダ。流派、タダク法剣迅。鉤剣『ククリアラタ』にて、参る」

老女は喜々として唇を引き裂いた。

「来な」

肌が切り裂かれるような張り詰めた空気が立ち込める。
死の境界が二人の剣客の間に張り巡らされる。


―――勝負は一瞬。


二つの影は、閃光とともに交錯した。







 …続く






  あとがき


八岐「さっぱりすすまないのであった、終わり」

栞「終わらないでくださーい!」

八岐「それじゃ」

栞「え? えぇ!? マヂですか!? 嘘ぉ!」

八岐「まあ、さすがにそれは拙いので」

栞「び、びっくりしました〜」

八岐「という訳で姫川琴音と上泉伊世の出陣の章でありました」

栞「戦うまでに至ってませんね」

八岐「だから進んでないんです」

栞「……百話までに終わります?」

八岐「ヤバいかもなあ」

栞「ちゃんと計画立てた方がいいですよ」

八岐「うぃー、分かっちゃいるんですけどねえ。オレって計画って立てた事無いし」

栞「…行き当たりばったり人生」

八岐「おほほほ」



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