魔法戦国群星伝





< 第七十七話 狂宴の終わり >





「クッ、カハハハハハハハ」

どうしても抑えられない笑いを、最初から抑えようともせずにばら撒きながら、高槻は歩き出す。
ようやく晴れてきた土煙の中心へと歩き出す。

靄のように立ち込める煙を払いのけ、悠然と高槻は立ち止まった。
その振る舞いは勝者の余裕に満ち溢れている。
――見下ろす。
高槻は満足した。この構図こそが正しい形だ。
自分が見下ろされることなど、我慢がならない。間違っている。
世界は見事に正された。


「グ…ガァ」

呻き声が聞こえた。
続いて、短く、浅い呼吸の連なりが聞こえてくる。

高槻は、満足そうに頷いた。

「おお、やっぱりな。生きてる生きてる。しぶといじゃねえか、いいぜいいぜ」

そう簡単に死なれてしまってはたまらない。
あっさりと死なれてしまっては、此方が受けた屈辱が宙に浮いてしまう。このどうしようもなく暴れ狂う狂気が壊れてしまう。
ゆっくりと、じっくりと、この上なく苦しめて、苦しめて、苦しめ尽くして殺さなくてはならない。
それだけの罪を、この少年はこの高槻に対して犯したのだから。

靄がゆっくりと晴れていく。
衝撃に陥没した地面。その中心で、ボロくずのように横たわるモノ。
それをじっくりと見据えた高槻は、相好を崩した。

「ああ、生きてる。だが―――」

心底愉快げに嗤う。

「元に戻っちまったみてえだなぁ。キャハハハハハハハ」

粘り気に満ちた嘲笑が…理性が切れたような嘲笑が容赦なくうつ伏せに倒れ伏す少年に降り注いだ。
そこに倒れているのは、もはや金色に称えられる魔族では無くなっていた。
黄金にざわめく髪は、土に汚れた薄い茶色へと戻り、苦しげに閉じられた瞼の奥の双眸は、月に例えられる冷たい金色では無く、落ち着いた焦げ茶となっていた。
力に満ち満ちた魔族の身体は既に無く、吹けば壊れるような貧弱な人間の身体。凶暴なまでに荒れ狂っていた魔力は、緊急起動した封魔プログラムにより再び完全に封印されてしまっていた。
ただ、一度断たれた左腕だけが、切断面から混じりこむように魔族の腕を残している。だが、それもあまり意味は無い。牙と呼称するにはあまりに弱々しすぎた。

北川は、激痛に霞む意識の中で込み上げる怒りと悔しさに瞼を震わせる。キツく引き絞った唇を戦慄かせる。

ちく…しょう……こんな…時にかよッ。

時間制限有りとは聞いていたものの、まさによりにもよってであった。
いや、それとも不安定な強制変化が衝撃によって切れてしまったのか。
どちらにしても、もはや『殺』の一文字で謳われる金色の魔族である事が出来なくなった事だけは確かだった。
とても言葉に仕切れないだけの罵声が思い浮かぶが、喉を震わせる事も辛い。
全身に引き裂かれんばかりの激痛が駆け巡る。指一本動かすだけで声無き悲鳴が漏れ出した。

「ハッハハハハ! 良いザマだ! 良いザマじゃねえか、小僧!」

けたたましい笑い声を撒き散らしながら、高槻は倒れる北川の元に歩みよると、その襟首を掴み、無理やり引き摺り起こした。
身体に積もった土塊がバラバラと落ちていく。

「馬鹿か? お前は馬鹿か? 見捨てりゃ良かったんだよ。あの女、見捨てりゃ良かったんだ。そうすりゃオレを殺せて、それで終わりだ。もう、あの女の生まれ変わりも殺されずに済む。だってのによ…クッアハハハハハ。
あの女を庇ったばっかりにお前はまたオレに殺されるって訳だ。オマケにあの女もオレに良い様に弄ばれた挙句にやっぱり死ぬって訳だ。こんな簡単な事も解からねえとは、度し難い馬鹿野郎だぜ!」

まったくその通りで、あまりにも正論で、だから少年は反論できなかった。
そんな事は云われずとも解かる。解かっていたのだ。

それでも、俺は……

北川は、視線にありったけの殺意を込めた。視線で殺せるならと、これ以上無いほどの憎悪を込めて、高槻を睨みつけながら言った。

「みすて…られるかよ。見捨てられ…る…わけねえ…」

―――約束したんだ。

それは約束だ。自らの意思で交わしたのだ。契約に縛られたのではない。
自分で選んだんだ。

―――守りたいと、思ったんだ。

「アハッ、キャハハハハハハ。そうだよ! その通りだ! お前等みたいな野郎は絶対に見捨てられる訳がねえんだ。全部失うって解かってながらなぁ! だから、絶対にオレには勝てねえんだよ、スレイヤーぁ!」

高槻は高らかに哄笑しながら、背中の羽根をはためかせた。
北川の身体を掴み挙げたまま、宙へと浮かび上がる。

「ただじゃ、殺さねえよ。これが永遠のお別れだ。だから、徹底的に痛めつけてやる、壊してやる、破壊してやる。ハハァ、徹底的にだ」

掴んだ手の手首から幾本もの触手が生え、北川の身体に巻きつき、その身体を締め上げながら虚空へと吊り上げる。

「スレイヤー、お前の罪は深いぜ。オレを一度殺し、さらにはしつこく化けて出て、二回も殺そうとしやがった。オレのやることに一々ケチを付けやがる。ただじゃ殺さねえ。いたぶってやる、いたぶってやるよ。爪を一本一本剥ぎ取って、指を一本一本切り取ってやる。そのムカツク目を抉り取ってやる。耳を潰してやる。その舌を引き抜いてやる。最後には四肢をぶち切って殺してヤルヨッ!!」
「くそ…くらえ」
「吠えるんじゃねえ、負け犬がぁ!!」

舐めるようにして、触手を黒い火が走った。そして、少年の身体が黒い灯火に包まれる。

「グッ、ギャアアアアアアアアア!!」

掠れた声しか出なかった北川の喉奥から、声帯が張り裂けんばかりの絶叫が迸った。

「ハハハハハハハッ! 安心しろ、それは熱いだけだ! その代り死ぬほど熱い上に無茶苦茶痛えがよっ! ハハァ、苦しめ! 苦しめ! 苦しんで死ねえ!!」
「グアァッ、ギガァァァァァァァ」

悶え暴れる北川の身体を捕える触手は焔を上げながら緩みもしない。
北川は、気も狂わんばかりの激痛に、耳を塞ぎたくなるような凄まじい苦痛の悲鳴を吠え叫んだ。
それが高槻を喜ばすだけだと、誰よりも解かりながら、それでも叫ばざるを得なかった。












悲鳴が、すべてに打ちのめされた香里を叩いた。
心臓が、鷲掴みにされたように凍えた。
呼吸が詰まる。視界が真っ赤に染まる。

香里は、一瞬たりとも目を逸らす事無く、その惨状を瞼に焼きつける。

手の届かぬ先で、力及ばぬ先で、自分を守ると言ってくれた少年が悶え苦しんでいた。
悲鳴をあげて、苦痛に塗れて、痛めつけられて、傷つけられて、苦しんでいる。
苦しんでいるんだ。

「やめて」

それなのに私は何をしている?
こんな地面に這いつくばって何をしている?
芋虫のように転がって、こんな所で何をしている?

「やめて」

思い出せ。忘れているなら、脳髄を抉り出してでも引きずり出して思い出せ。
私は誓ったじゃないか。あの森の奥で、誓ったじゃないか。
胸を張って守ってもらえる強さを手に入れると。
ここで這いつくばっているのが強さか?
無力に打ちのめされている事が恥ずかしくないのか?
こんなところで哀れに泣き叫び、助けてと願うだけで良いと思っているのか?
ただ、守られるだけでいいと思っているのか!?

「違う!」

歯軋りしながら立ち上がる。右足からは新たに血が滴り出し、気絶してしまいそうなほどに痛い。
だが、それがどうした。一体何だと云うのだ。
どうだって良い。そんな痛みなどどうだって良い。本当に大切なものに比べたら、そんな痛みなどどうだって良い!
心の奥底から何かが湧き上がってくる。
それは絶望でも、無力感でも、悲しみでもない。

―――怒りだ。

怒りが身体を焼き尽くす。
痛みを忘れさせてくれるほどに熱く、熱く。

――怒る。
――怒りを迸らせる。

ただなすすべもなく、ただ守られるばかりで何も出来ない自分に。
無力に地面を這いずる自分に
何も知らなかった自分に。
彼に――本当の彼に気が付かなかった自分に。
彼の苦しみに気付かなかった自分に。

だが、それよりも。
そして、それよりもなお―――

「やめ…ろ」

煮え滾る、荒れ狂う。
心が怒りに埋め尽くされる。

狂笑が、苦痛の叫びが耳朶を打つ。

香里は滲む涙を振り払い、血が滴る拳を震わせ、激怒に塗れた顔を空へと向けた。
思考がかき乱され、何も考えられなくなる。

思い浮かぶのはただ一つだけ。

北川君が悲鳴をあげている、苦しんでいる、痛めつけられている。

呪うように繰り返す。

何を…一体何を…あの男は一体何をやっているのだ?

黒い焔が燃え滾り、誰よりも大切な少年が悶え苦しみ、それを見てヤツは笑っている。

笑っている――嘲笑っている!

胸が焼けつく。吐き気がする。あまりの怒りに血が沸騰する。脳味噌が煮えたぎる。
いったいあの男は誰に断って、北川潤を傷つけているのだろう?
なぜ、あの男に、北川くんがあんな目に合わされなければならないのだろう。
痛がっている。熱がっている。苦しんでいる。

―――やめろやめろやめろやめろやめろヤメロォォォォォ!

ブチン、と頭の中で何かが音を立ててちぎれた。

「許さない…許さない…許さない…許さない」

噛み千切った唇から、真っ赤な血が一筋流れる。
あまりに強く握ってしまったために、爪に突き破られた手の平から真っ赤な血が滴り落ちる。
香里は揺らぐ体に、傍らに突き刺さっていた『絶』に寄りかかった。
柄を、両手で握り締め、倒れそうになる身体を支える。


まさにその時だった。

脳裏に、どこからか言葉が流れ込んできたのは。


―――我を―使え―――

香里は、迷いも疑いもせず唸った。

―――我が主の無念を晴らせ―――

香里は、躊躇いも戸惑いも無く受け入れた。

―――その音色に、自分と同じ灼熱の怒りを感じ取ったから。

香里は後ろに倒れそうになりながら、『絶』を引き抜いた。思わずたたらを踏む。
踏ん張った足に激痛が走る。香里は歯を食い縛って悲鳴を耐えた。目の前で北川が苦しんでいる下で、この程度で悲鳴をあげたくなかった。
この程度で悲鳴をあげる自分が、許せなかった。

「ああああああああああああッ!」

無意識に、喉の奥底から獣の如き咆哮が迸った。
怒れる獣の咆哮だった。









「ガァァァァァァァァ!!」

突風にあおられた木の葉のように、意識をグチャグチャにかき回されながら、北川は散り散りに千切れた思考を掻き集めた。
痛覚を抉り出されて思うが侭に弄ばれているような激痛と、まさしく火炙りそのままに身体を覆い尽くす灼熱に、なかなか思うように思考は定まらないけれど。
それでも、高槻が嗤っている事はとても良く分かった。
高槻が嗤っている。
だが、ヤツは此方がもう、何も出来ないと信じ込み、無防備にその顔を醜く歪ませていた。

それが涙がこぼれるほど可笑しくて愚かしくて、北川は苦痛の裏で、笑い転げた。

へ…へへへへへ、俺は……お前を殺すって云ったんだぜ、高槻ぃ!
ただで、死ぬと思うなよなぁ!

苦痛の裏で、北川は笑った。表には出ないその笑みは、光すらも届かぬ虚無めいた笑い。
そこには何も無い。終わりを得たものだけが浮かべることのできる、何も無い虚ろ。
安らぎにも似た平穏。
いつの間にか、体と意識が剥離し、見下ろすように現実を見据えている。
荒れ狂う激痛の下で、感情だけが冷たく冷え切っていた。
静かに冷たく決断を下す。

―――そうだ、命を捨てる時が来た。


(死を司る女神 冥府の女王 
  最も深く暗い地下深く、霧に覆われし死者の国を支配せし汝に願う 
    我に輝く災い―ブリーキンダ・ベルを捧げたもう)

  ―――プログラム≪ヘル≫再起動―――



焔が収まった。力無く、ぐったりと項垂れる北川を、高槻は絶頂すら感じながら引き寄せた。

「さあ、そろそろ指の一本でも切り落としてやろうか。それとも目からいくか?」

消え去りそうな靄のかかった意識の中で、北川は狂ったような笑みを浮かべた。
高槻は何も気付いていない。何の危険も察知してはいない。
高槻は完全に勘違いしていた。自分が魔族に戻る瞬間を見ていながら、気がついてはいなかった。

―――なんて、愚か。

魔族の姿だからこそ、力を使えるのではない。魔族の姿だからこそ、力を制御できるのだ。
ただ、力を使うだけなら、この人間の姿であっても問題無い。
その力とは、魔族の時の魔力だから、人間の姿では制御など出来ないし、それより前に身体が拒絶反応に耐え切れない。
この死にかけのボロボロの状態で、魔力の封印を再度解けば、魔力は暴走しその凶暴な本質のままに荒れ狂うだろう。
死は免れない。
この身体は原形を留めぬ肉片と化して、バラバラに爆ぜ散るだろう。
だが、至近距離からの不意打ちに、【ミリオン・ジェノサイダー】と呼ばれたほどの魔族の魔力の暴走と崩壊に、高槻は絶対に助からない。

道連れだよ、高槻。

あまりにも恍惚とした響きに、北川は瞼を戦慄かせた。
なんという好都合な展開だろう。まさに望むがままの状況だ。
これほどの素晴らしき幕引きがあるだろうか。
この忌むべき過去の亡霊たちに、これほどお似合いな終幕があるだろうか。

「へ…」

笑い声すらも上手く出ない。
だが、そんな事はどうでもいい。その程度のことで、この幸福な気持ちは揺らがない。
こんなにも、満ち足りた気分で逝ける事を、これまでずっと自分にそっぽを向き続けた運命の女神に感謝した。

心がどうしようもなく、平穏に満ちて―――

霞んだ視界に、厭らしい笑みを貼り付けている高槻の顔が映った。
少しだけ、不愉快な気分。
幾らなんでも、こいつの顔を見ながら死ぬのは不本意すぎる。あまりにも嬉しくない。


そう…せめて最後は……


何故か、思い出すのは彼女の怒った顔ばかりで、北川は思わず苦笑した。
いつだって、怒られて、殴られて。
いつもいつもそれの繰り返しで。
それが本当に幸せな日々だったのだと。
最後に噛み締める事が出来た。

ずっと、明日があるのだと、信じていた。
呆れた表情を浮かべた後で、仕方無いわねと笑ってみせる。そんな笑顔をずっと見続ける事が出来るのだと、疑いもせずに思っていた。
知らないと言う事は、こんなにも幸福な事だったのだ。
自分がこの時間に居るはずのない人間である事を―――知らないと言う事はこんなにも。
だが―――取り戻さねばならなかった。その失われた過去を。
それが自分の咎である限り。

そして―――

死人は自分が塵である事を知った時、塵に帰らねばならないのだ。
亡霊は、思いを晴らせば消えなければならないのだ。

だから、銀の指輪は渡せない。
あの時、君は云った。指輪を渡す意味。それをわかってから渡してくれと。
指輪を渡す意味――それは未来を誓う事。

美坂、それは無理なんだ。俺は百年以上も前に未来を失った亡霊で。
だから、君に誓える未来なんて無いんだよ。
在りもしない俺の未来を君に渡す事は出来ないんだわ。

彼女の小さな唇の、仄かな温もりを思い出す。

そして、振り払う。

想いを信じる事が出来なかった自分が、その温もりを得る資格なんて無いから。

守ると君と約束した。せめて、その約束を今、果たそう。
絶望しかない運命から君を解き放つ事で、約束を果たそう。

約束を―――約束を――――

魔力解放のキーワードを口ずさもうと、唇を広げながら、北川は視線を落とした。
彼女を探し、彼女の姿を捉える。

「みさ…か…」

彼女は立っていた。
ボロボロに身を焦がし、それでもなお、毅然と立ち上がっていた。

まるで世界に立ち向かうように、彼女は敢然と佇み、空を見上げていた。


―――そして、視線は交錯する。


ビクリ、と北川の身体が戦慄いた。
北川潤は思わず見惚れた。
今も、昔も、決意も、虚無も。
何もかもを忘れて、心を奪われたように、見惚れてしまった。


それは――――彼がかつて見た中で一番凛々しく美しい

―――美坂香里の怒りだったから。


限りないまでに純粋で、限りないまでに真っ直ぐで。
ああ、これほどまでに気高く、美しい怒りがあるのだろうか。

北川潤は、心臓を貫かれたように硬直した。

死を誘う言葉が掠れた。
終焉を祝う言葉は、掠れて消えた。

どうしても終幕を紡ぐ言葉は、出ようとはしなかった。



「やめなさいッッ!!」



少女の落雷の如き怒号が、矢となって放たれる。

それは一体、誰に向かって放たれたものなのか。
少年を残虐にいたぶり続ける高槻に向けたものか、それとも――――


そして、その叫びと同時に――――



――――――ドスッ



「………あ?」

高槻の、間の抜けた声が零れ落ちた。
純粋な驚きに塗り固められた高槻の瞳が、訪れた痛みに歪む。
北川を縛めていた触手が、力を無くしてするりと緩み、北川の身体は滑るように解き放たれた。
もはや指一本動かすのも苦痛な北川の身体は、人形の様に重力に引かれ落ち始める。
同時に、北川の心に満ち満ちていた満足感もまた、人形の心のように消え去ってしまった。

落ちていく。
地面へと落下し始めるその中で、北川ははっきりとそれを見た。
高槻の胸を、斜め下から貫く一振りの妖刀の煌めきを。

「ぜ…つ」


落ちる――――落ちる


地面に叩きつけられる寸前、北川は誰かに受け止められた。
柔らかい感触が伝わり、二人はもつれ合って転がった。
温もりが、優しく自分を包んでいる。もう、得られる事もないと思い定めた温もりが。
それは、あまりにも温かくて、北川は未練がましく頬を押し付けてしまう。
虚ろに塗り篭められた心なのに、その温かさだけは感じ取る事が出来て、それがとても情けなかった。

「み…さか」

少年は温もりの名を呼ぶ。
もはや何も考えられぬほど傷ついた意識の中で、北川はカオリと呟いた。
それが誰に向けられたものか、自分でも分からず、だから口には出さなかった。
トクントクンと鼓動が聞こえる。
それは彼女の鼓動。彼女の生命の証。
鼓動が消えていくのを、ただ泣きながら聞いていたのは何時の事だっただろう。
だが、この鼓動は途切れる事無く続いていく。
それが信じられないほど素晴らしい奇跡のように思えて。
ぼんやりと、北川潤は生命の音色を聞き続けた。

「ジュン…くん、北川君」

少女もまた温もりの名を呼ぶ。
香里は、触れるだけで壊れそうな少年を、抱き締めた。もう、決して離さないと云わんばかりに抱き締めた。
北川の頭を胸へと掻き抱く。身にまとう法衣は少年の身体のようにボロボロで、素肌の胸に彼の顔を抱き寄せてしまう結果となってしまったけれど。
でも、恥ずかしいなんてこれっぽっちも思わなかった。
今は直接肌を通して温もりを感じていたかったから。
今、ここに彼が居るのだと、生きているのだと、抱き締めているのだと、感じていたかった。

「やって…くれるじゃねえか」

降り注ぐ、下卑びた怒りの声。
香里は、北川を抱き締めたままキッと空を睨んだ。
両手をダラリと下げたまま、高槻は不機嫌の頂点を極めた表情で、二人を見下ろしていた。
胸に刀を突き刺したまま。だが、ろくにダメージを受けた様子も無く。

「邪魔するんじゃねえよ、おんなぁ。お前はあとで充分に弄んでやるからよ、引っ込んでやがれ!」

彼の温もりに、一旦は落ち着きかけた怒りが、一瞬にして煮え滾った。

「うるさい!! 黙れ!」

香里は、鬼神も斯くやという程に両目を吊り上げ、怒声をあげた。

「よくも…よくもやってくれたわね! よくも散々やってくれたわねッ!!」

どうしても、怒りを抑えきれない。元より抑えるつもりも無い。
炎のように渦巻き燃える。
燃やし尽くせと、燃え上がる。

「なにをほざ―――」

香里は高槻の言葉を遮り、魂のままに叫んだ。
それはこれ以上なく確かなもの。
純粋なる想い/純粋なる怒り/純粋なる決意。

神に誓うように、香里は叫んだ。

「この人はあたしのものよッ!」

叫んで、どうしようもないほどに自分の心の在り処を確かめる――思い知る――抱き締める。

―――ああ、そうだ、あたしのものだ。この人はあたしのものだ。

「この人はあたしのもの! 誰にもやらない! 誰にも渡さないッ! これ以上、アンタなんかに触らせない! アンタなんかに傷つけさせない!」

―――絶対に離さない。誰にも渡さない。あたしのもの。あたしだけのもの。
―――あたしの大切なもの。あたしの一番欲しかったもの。
―――あたしを一番大切にしてくれた人。あたしを一番、大切に想ってくれた人。

それをそれをそれをそれを!!!


―――それをヤツは、こんなにも無残に傷つけた!!


少女は少年を抱き締め、叫んだ。

「北川くんをっ、ジュンくんを傷つけたアンタをあたしは許さない! 絶対に許さない!」

あの男が奪おうとした。
アタシから奪おうとした。


――この人を奪おうとしたんだ!!

――あたしの一番大切なこの人を、奪い尽くそうとしたんだッ!!

「殺してやる!! あたしが殺してやる!! アタシがコロシテヤルッ!!」

高槻は心底馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「殺す? フンッ、お前がか? ただのオレの玩具でしかないお前がオレを殺すだと? 笑わせてくれるじゃねえか、無力な小娘が。こんな刀一本でオレを殺すつもりだったのか? ああん?」

玩具? それがどうしたと云うのだ。
笑わせる? 知った事か。
無力? そんな事、初めから誰よりも自分が解かっている。

だが、そんな事はどうだっていいのだ。
ヤツが何を思おうとも、どれほどバカにしようとも、そんな事はどうだっていい。どうだっていいんだ。

あたしはお前を許さない! それ以外に何がある!? それ以外に何が必要だ!?

許さない――許さない――許さない――許さないッ!

―――あたしは絶対に、お前を許さない!

少女はなびく髪を振り乱し、雄々しく、女神のように宣告した。

「黙りなさいッ! アタシはお前に死ねと云ったのよッッ!!」

左手で、北川の身体を抱き締め、右手を高槻に向け叩きつけるように突き出す。
そして、烈魂の言霊を叩きつけた。


絶唱(ゼッショウ)! 刀願(トウガン)! 汝の名は≪(ゼツ)龍征(リュウセイ)≫ッ!」



――ィン、と高槻の胸に突き刺さった刀が震えた。


「ハッ! 何しようとしてるか知らねえが、こんなもの―――」

高槻は嘲笑を崩さず、両手で柄を握り、突き刺さった刀を引き抜こうとした。
その笑みが凍りつく。

「ぬ…けないだと? ちょ、ちょっと待て、何だこれは!?」

足掻く、足掻く。焦り、慌て、顔を引き攣らせて高槻は無駄な努力を費やした。
どれほど力任せに引こうとも、どれほど魔力をぶつけても、刀は決して抜けはしない。
何故なら、刀は自らの意思でその躯を貫いているのだから。
それは楔。怒れる少女と、怒れる刀の、揺ぎ無いまでの怒りの楔。
許されざる者の愚かなる足掻きを睨みつけながら、香里は裁きの呪を紡ぐ。
唱えるべき魔の韻律は刀自身が教えてくれた。
そして、哀しみを繰り返すなと、刀が云った気がしたんだ。

トクンと、鼓動が一つ鳴る。

「誇り高き百なる魂持ちたる刀ッ
       ――――汝の名は≪(ゼツ)≫!!」


―――ィン、と、一言、刀は応えた。


「途絶えたるものッ 終たるものッ 最後の至る想いの形ッ
       ――――汝の名は≪(ゼツ)≫!!」


―――ィン、と、一音、世界が震えた。


「哀しみを終わらせるものッ 常闇を切り払うものッ 絶望を滅するものッ
       ――――汝の名は≪(ゼツ)≫!!」


―――トクン、と鼓動が命を奏でた。

「汝、怒れる最後の息吹―(ゼツ)よ、(ゼツ)よ 
   今こそ、その内に篭めし百なる刀の魂を解き放て
     今こそ、我と汝と主の敵を――斬り裂かんッ! 刺し貫かんッ! 滅ぼさんッ!」


「なんだ! 何するつもりだ、おんな! 何を何を何をなに―――」

高槻の喚く声は、唐突に途切れた。圧倒的な恐怖とともに―――

「う…あ…ああ」

周囲に、前後左右上下にいたるまで、それは所狭しと並んでいた。
高槻を、包み込むようにして、虚空へと浮かんでいた。

―――それは刀。

形も、大きさも、柄も、長さも違う、ただ刃紋だけが同一な九十九を数える幽霊のように透き通った刀が、その鋭利な切先を高槻に向けて浮かび上がった。

「なんなんだよっ、これはぁ!!」

それは一つの伝説だ。
この一振りの妖刀の伝説だ。
妖工と呼ばれた一人の男。彼の手がけた最後の一品。
彼が生涯最後にこの刀を打ち終わった時、それまで彼が打った九十九の刀は、すべて砕け散ったと言う。
砕けた刀の魂は、すべてがこの一振りの刀へと篭められた。最後の願い。最後の祈りとともに。
その願いは伝わってはいない。その祈りも伝わってはいない。

だが、この刀は一人の男の最後の想いと、九十九の刀の魂を、その身に宿して妖となる。

宮田龍征御作刀――『五月雨龍征(サミダレリュウセイ)
故に、彼の刀の一銘を『百の魂持ちたる刃(ハンドレッド・ブレイド)』と呼ぶ。
そして、最後にしてすべてを絶つもので在るが故に、一銘を『(ゼツ)』と呼ぶ。


「ぬ…抜けろ抜けろ抜けろ、畜生! 抜けねェじゃねかぁぁ!! なんでだよぉ!!」

狂ったように胸に刺さった『絶』を抜こうとするが、叶わず、高槻は逃げ惑うように悲鳴をあげた。
突き刺さった刀が抜けないならと、異空間を潜り抜け、周囲を埋め尽くす刀の籠から抜け出そうと空間移動を図るが何故か、空間は開こうとしなかった。
儚いまでに無駄な事だ。
『絶』はただ高槻を貫いているのではない。この世界へとこの邪悪なる男を縫いとめているのだ。存在を固定しているのだ。
羽根をはためかせ、移動して逃げようとしても逃れる事は叶わない。『絶』が突き刺さっている限り、周囲の刀群は決して離れようとはしない。刀たちは物質的な意味でそこに浮かんでいるのではないのだから。
邪の火炎で焼き尽くそうとも、刀の魂は滅びない。何故なら刀たちは怒っているのだから。

「やめろ! やめろやめろやめろやめろぉぉぉ!!」

女王は凍りつくような眼差しを、燃えさかる眼差しを、氷炎の双眸を高槻に突き刺し、氷結した炎のような声で告げた。

「あたしは決して許さないとお前に云った。あたしは死ねとお前に云った。あたしはお前が存在する事を許さないッ! あたしたちの前から、永遠に消え去りなさい…消え失せなさいッッ!」

そして紡ぐ。
終幕の韻律を。

「ヤメロォォォォ!!」

「我は願い、汝の御名を絶唱す 悪夢は今、断たれん! ≪百魂絶刀(オミタエシカタナ)≫よッ!!」

「ハッハッ、ヒギャァァァァァァァァァァァァァァァ!!」

刀たちは、微塵の感情も震わさないままに滑るように動いた。
九九の切先が、静かに、音も無く高槻の体へと潜り込んで行く。

「ギヤァァ、ガァァァ! ヤメロ! 痛イ! イタイイタイイタイギアオゴゴオクワララアァ」

足の甲に、掌に、二の腕に、肩に、膝に、脹脛に、臀部に、太腿に、股間に、腹部に、脇腹に、背中に、胸郭に、喉に、頬に、鼻先に、右目に、左耳に、額に、後頭部に、こめかみに……
薄っすらと透けた切先が、ゆっくりとゆっくりとうずもれていく。
切り裂かれた羽の皮膜がヒラヒラと舞い落ちていく。切り落とされた指の欠片や肉片がボトボトと落ちていく。
果実を切り裂いたように血が滴り落ちていく。

「ガッガガガガガガガガガガガガガガガガ」

もはや、正気とは思えぬ声をあげる高槻の姿は、全身を刀に埋め尽くされ、隙間から噴き出す鮮血しか見えない。
やがて、一本一本、高槻の身体に突き刺さった刀が姿を消し始めた。
高槻の姿が見え始める。それはもはや、人の姿ではなかった。醜く血に塗れたおぞましい肉塊。辛うじて、それがかつて人の姿をしていたと判る程度に形を保ったそれは、未練がましく戦慄き、血を撒き散らした。
そして、糸が切れた操り人形の如く地上へと落下する。
ベチャリと汚らしい音を立てて地面へと激突したソレには、一本の刀『絶・龍征』だけが突き立てられていた。

パタン、と虚脱した香里の右手が落ちる。
その衝撃で、北川の意識が少しだけ覚醒した。
一度だけゆっくりと瞼を閉じ、そしてゆっくりとひらく。
ぼんやりと霞む瞳で、それを見た。 自分を抱き締める少女の温もりと柔らかさな感触を感じながら、それを見つめた。

『絶』がズルリと傾き、地面へと転がる。
カチャリと鳴いた一振りの妖刀は、静かに降り注ぐ光に照らされ、瞬いた。

あれはいったい、なんだろう。

答えを知っていながら自分に問い掛ける事ほどくだらない事は無い。
認めたくないのか。いや、それは違うだろう。だって、自分は魂が震えるほど明らかにそれを認めてしまっている。
あれが高槻のなれの果てなのだと、解かっている。

思わず、表にも出ないほど小さく、自嘲の笑みを零した。
あの時――自分が選択に晒され、そして選んだ時。高槻が云った言葉を自分は確かに聞いていた。

その通りだなあ、高槻。俺はあの時、お前の『死』じゃ無くなった。

俺には高槻を殺す事は出来なかった。それでも、あの狂った男は、今、こうして肉塊となって転がっている。

今度は、自嘲ではなく、心底楽しい気持ちになって、北川はホンの幽かに唇を歪めた。

まったく、結局は自分でカタつけちまったよ。参った、やっぱ敵わねーわ、ホント。

所詮、高槻みたいな下衆野郎が太刀打ち出来る少女じゃなかったのかもしれない。
だって、彼女はこんなにも強く輝いているのだから。
それこそ、過去の亡霊が撒き散らす歪み狂った闇なんか、吹き散らすほどに。

そんな彼女が、とても綺麗で。
眩しかった。

トクントクンと鼓動が聞こえる。
彼女の命が刻むリズムが絶える事無く響いてくる。
彼女の命が宿す温もりが、消える事無く伝わってくる。

それはとても、心が握りつぶされそうなほどに、穏やかなものだった。

これを最後と未練がましく想い定め、その温もりに浸った。

じっと、目を凝らし、現実を見つめる。
一瞬、血塗れの肉の塊と目があった気がした。

「たか…つき」

答えは返ってこない。肉塊はやがて、大地に血の澱みを残し、溶けるように大地の中へと沈み込んでいった。


ああ、終わった。

視界が…役割を終えたように真っ暗になる。
魂の奥底で、何かが掻き消えたのが分かった。
それは殺戮の狂気か、復讐の熱か、決意の残り香か。

どれにせよ、掻き消えてしまった。完全に。

それで、何もかもが終わったのだと、思った。
張り詰めていた何かが途切れる。心を何かが覆い尽くしていく。

何故か、それが虚無というものだと解かった。

静やかに、すみやかに、音も無く虚無は広がっていく。

終わったのだと、思った。

亡霊たちの饗宴は、今、終わりを告げたのだ。


「うっ、うう、ううううっ、北川…くん、きたがわくん」

なんで、泣いてんだ? 美坂。

…分からない。
きっと、本人にも分からないに違いない。
でも、彼女は泣いている。聞こえる。
闇の奥で、子供のように泣き声をあげながら、熱い涙を零しながら、自分を抱き締めている少女の存在を感じ。
それを最後として、温もりは消え失せた。



虚無が、訪れた。

それは、きっと百年前に訪れるはずだった虚無。

冷たくも無く、温かくも無く。


そして、現世に残した切なる思いをすべて晴らした亡霊は、消え去らなければならない。






――――消え去らなければならない。













悪夢は終わった。
そして、次は幸せの夢の番。
亡霊が見る夢は、幻なのだから。

夢見る時間は、当の昔に終っているのだから。







―――――消え去らなければならないのだ。





















風は泣く




風の慟哭は未だ消えない






 …続く







  あとがき


栞「お姉ちゃん…キレましたね」

八岐「一番怒らせたらいけない人を怒らせてしまいました」

栞「はぁ〜。それで、これからどうなるんですか?」

八岐「こっちは一区切り。なにはともあれ、次こそ突入組編。そういえばあの人たちはどうなった?」

栞「あの人たちって…ああ、あの一番怖い人たちですか」

八岐「中身は見てのお楽しみといったところで、今日はこの辺で」

栞「失礼しま〜す」


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