その地には風が吹く
明日と想いの枯れ果てた乾いた風が


だが


例え涙が流れずとも
例え誰にも届かずとも


憐憫に風は泣く


祈りとともに風は泣く



その地では風が泣いている


静かに慟哭は響く





虚夢(ユメ) が終わるその刻まで












魔法戦国群星伝





< 第七十六話 月は沈む >






グエンディーナ大陸中央部 失われた聖地





「出やがれ、ラルヴァどもぉ!! コイツを殺せぇぇぇ!!」

泡を飛ばしながら、高槻は絶叫した。
どれほど乱れ揺らごうとも、その韻律は違う事無く魔の理を導く。
鳴動を供として、聖地の裾野全体に紫色の燐光が舞い上がった。その正体は夥しい数の、そう…片端から数える事が馬鹿らしいほどに地面を覆い尽くしたそれは魔法陣だ。
次の瞬間、魔法陣の界面に波紋が揺らぎ、黒の波涛が地面より溢れ出た。
黒――それは凍闇の黒。歪んだ生命たる黒。塗り篭められし黒。

ラルヴァと呼称される黒。

律儀に数えたならば、その数は万と百七十五。加えてグレーターの冠をつける上位種もまた、千と四百六十二を数えた。
彼――高槻が一度に呼び出せるほぼ限界の数。魔界にてガディムが支配する領域から召喚されたラルヴァたちは、暴虐たる心性そのままの命に歓喜し、それを咆哮という形で表した。
高らかな魔の歓声がかき鳴らされる。

「殺せぇぇぇ!!」

ただ、高槻の切羽詰った叫びだけがこの瞬間に大地に満ち満ちていた音律の中の異端だった。



狂騒がひしめく中で、金色の魔族は、

「馬鹿が」

と、呟く。



「雑魚に時間をやるほどの暇はねえ」

云って、両手の指を鋭く開く。さながら狼の顎の如く。



魔族は双眸を針みたく細め、囁いた。

「震え―爆ぜろ」

両腕が無造作に振り上げられる。狼の爪は、空間を抉り引き裂いた。


そして世界は悲鳴をあげる。


少年の両脇の空間に、弧を描いて刻まれた爪痕。
各四条の爪痕は、ただ世界を傷つけたに飽き足らず、網膜を焼き尽くさんばかりの凄まじい光芒となって音も無く疾った。

――黒き魔よ、汝らは斯くも哀れなるものであったのか。

疾る光条は、薙ぎ払う烈光と化し、ラルヴァに埋め尽くされた聖地の裾野を喰い裂くように吹き抜けた。
黒き海のように、それとも身悶えする単細胞生物のように、その漆黒の体表面を脈動させていた蠢きが静止した。
咆哮は途絶え、息吹は途切れ、生命が遮断される。
大地に静寂が刻まれる。それは破滅を前にした静謐さだ。
ボコリ、と何かが壊れた。
一斉に、静死していたはずの黒き海がざわめき出す。だがそれは意思のある蠢きでは無い。死に至る痙攣だ。
一匹のラルヴァの頭が何の脈絡も無く吹き飛んだ。続きてその隣のラルヴァもまた腹部が一瞬にして膨れ上がり、中身が腹をぶち破って飛び出した。
同じ光景が雪崩を打つように、すべてに感染する。
ありとあらゆる場所で、沸騰している薄黒い体液が飛び散り、ラルヴァがその巨体を内側から爆散させて破裂していく。
正視し難い光景が、視界全体で繰り広げられ、そして終わった。
悲鳴と肉が弾け、血が沸き立つおぞましい音が、聖地へと溶け込んだ時、黒の魔の海は、黒い液体が沸騰する肉片の浮かぶ地獄の沼へと変貌していた。

万を越える魔の軍団は、瞬く間も無く鏖殺され、消滅した。


「…ワン…ナイト…ミリオン・ジェノサイダー」

殺戮の光風に白衣をあおられながら、高槻はその名を口ずさむ。
その名は恐怖と事実によりて刻まれる。
一夜にして、百万近い魔族を鏖殺した悪魔。そんなモノに掛かればたかだか万を越えた程度のラルヴァなど、其れこそ塵芥も同じであろう。
混乱と恐怖に煮え滾っていた感情が、現実によって冷まされ、震え出した。


金色が踊る。

音は無い。

無音の静寂。

音も無く踊る金色。

高槻は全身が慄くのを止められなかった。
静寂こそが恐ろしい。耳から針を差し込まれたように痛みが脳髄で暴れ狂う。
ああ、静寂そのものが殺意なのだと―――理解した。


そして―――


絶音の彼方から―――爛々と―――狂月の双眸が―――



憎悪/怨嗟/憤怒/殺意

数え切れないほどの相手から、こうした負の感情を向けられた。
だが、高槻にとって、この手の感情を向けられる事は快感ですらあったのだ。
どれほどの憎悪に塗れようと、
どれほどの殺意を受けようと、
すべては無駄な抗い。
最後には誰も彼もが絶望とともに絶えた。
そう、無力にして弱々しい弱者どもの負の感情はこの上なく甘美にして、絶望という最高の酒肴を残してくれる。

絶望―――絶望―――絶望

これほどに、至高の甘露があるだろうか。
これほどに、心を満たしてくれるものがあるだろうか。

絶望こそが―――魂の到達点。


だが、認めざるを得ないのだと。
高槻は金色の眼光に全身を貫かれながら思い知った。

憎悪は―怨嗟は―憤怒は―殺意は―――

今、明確な力となって、自分の目の前に佇んでいる。
この自分を絶殺するために―――

この上無き深淵の絶望をたずさえて―――


自分の『死』が、そこに居る。



「……ざけんじゃねえ」

意識せず、言葉が零れた。
無意識下の言葉。だが、それをきっかけに高槻は乱れきっていた思考が整っていくのが解かった。

「ふざけるんじゃねえ」

今度は、意識して言葉に出す。

そうだ。恐怖を与えるのは自分でなければならない。
それが真理だ。それこそが高槻と云う男の真理にして世界の柱でなければならない。
その真理を揺るがすものは、この世から完全に消し去らねばならない。
真理が揺らげば、消え去ってしまうのは自分の方なのだから。

「オレを殺すってか、スレイヤー!! やってみせろ、やってみせやがれ! 貴様がオレの死だって言うなら、オレは貴様を殺して、『死』から永遠にオサラバしてやる。
オレはぁッ! 『オレの死』を殺して永遠に生きてやる。三度目は無いって云いやがったな、スレイヤー! それはこっちのセリフだ、貴様こそ三度目はねえ! 今度こそ殺してやる! 完全に息の根を止めてやる! コロシテヤル!!」

漆黒の羽根が轟きと共に打ち広げられる。羽根がまとうは闇の炎。吼え盛り、世界を染める邪悪の炎。

「オレを舐めるな、スレイヤーァァァ!!」

叫びに呼応するように、爛、と金色の双眸が輝きを増した。
北川は狂気の迸りを抑えるように、右手を広げ、顔の前で翳した。
ギャン、と何かが悲鳴をあげる。同時に、右手の五指が伸び、剣の如く爪が聳えた。

薙ぎ払うように、右手を振り下ろす。大地が触れもしていないのに、爪に引き裂かれ、傷痕を穿った。
見れば、左手もまた、同様に凶器と化している。

黄金の髪が、月に照らされた野のようにざわめいた。

「ああ、殺してみせろや」

それは、恋焦がれるような言葉だった。



雪のように白く染め上げられてしまった意識は、ただ一つのものしか映そうとはしない。
香里はただ、呆然と視界に映る唯一のもの―――少年の後姿を見上げていた。
思考もまた麻痺してしまって、何も考えられない。
馬鹿げたことが起こりすぎる。
いつもすぐ側で、笑っていた彼が、あの思い出の子供だなんて。

どうしても信じられなくて――

でも、どこかそれを願っていた自分が確かに居て――

願いが叶うという事が、こんなにも心苦しいものだなんて初めて知った。


彼は何も語ってはくれなかった。
何も云ってはくれなかった。
何も告げずに、こんなにも必死に、さり気なく、約束を守り続けていてくれたのだ。

それが、こんなにも辛い。

銀の指輪の輝きが、静かに思い出の奥で光る。
暖かな唇の重なりが、仄かに思い出の奥に灯る。

約束の続きはまだ、果たされていないのに。


美坂香里には解かってしまった。


何が起こっているのか。
何故、北川が何も云おうとしなかったのか
彼らは何を殺意の刃として向け合っているのか。

何も解からないけれど。


だが、これだけは解かってしまったのだ。
何故か、解かってしまったのだ。

「…ダメ」

――消えようとしている。

そう、彼は消えようとしている。
自分の目の前から、居なくなろうとしているのだ。
手の届かない、決して触れ合う事の出来ない、温もりを感じあう事が出来ない所に。

北川君が―――ジュン君が

自分の前から消え失せようとしている。


今度はあの時とは違う。
彼が初めて私の目の前で刀を抜いた時。ものみヶ原の死の前と。あの時とは決定的に違う。
あの時は私が無意識に逃げようとしていた。

でも今度は違う。

北川潤は、自らの意思で私の前から消えようとしている。

それはつまり――

もう…彼は私を…もう美坂香里を見ていないという事―――

―――その事を彼女は唐突に理解した。


「ダメよ」

声がかすれる。

「ダメ」

手を伸ばす。

「北川くん、ダメ」

伸ばした手はなにも掴めず虚空を泳いだ。

「行っちゃ…だめぇ」

その声は少年に届くことなく大気へと沈んでいった。


ふわりと金色のコロナを纏い、月の悪鬼の身体が浮かぶ。
漆黒の羽根が震え、白き衣裳を纏った邪鬼の身体が舞う。


「高槻ィィ!!」
「スレイヤーァァァ!!」

その瞬間、殺意が烈風となりて、爆発した。

「「死ねぇぇぇ!!」」



大気に歪みを残し、北川の姿が掻き消えた。
残像すら残さずに、北川は12メートルの距離を無と化した。
銃弾の如く無数に撃ち出された触手の雨を凶器と変じた魔獣の左腕で薙ぎ散らし、肉薄するや空間を軋ませ右手を叩きつける。
だが、右手は僅かに白衣の端を引き裂いただけで宙を薙いだ。
高槻は、突風に舞い上げられたように一瞬にしてさらに上空へと舞い上がる。
バン、と羽根が広がり、高槻の動きが刹那、静止。
北川は、右腕を叩きつけたその勢いのまま身体を一回転させ、上空へと身体を向けると大きく弧を描かせた右腕を高槻に向けて振りあげた。

「喰らえぇ!」

腕の光跡は異界との門なのか。
黄金の残光の中から指先ほどの光点が次々と産まれ出で、さながら終わりの無い流星群のように高槻に向かって撃ち出された。
真昼の空にもくっきりと、流星のたなびきが刻まれた。

爆音が轟く。それは一度で終わらず連なるように響き渡った。
流星群は着弾とともに熱と衝撃を撒き散らしながら爆発。
大空一面に、爆炎の華が咲き乱れた。

やがて流星は途絶え、それでもなお天も崩れ落ちんばかりの轟きが鳴り響く。
常識から考えるなら、肉の一片も残らぬような凄まじい光撃。
それでも北川はトドメとばかりに顔の右側で拳を握り両手をクロスさせた。
そして、右手を広げながら振り下ろす。振り下ろしながら身体を軸に円を描く。
両手から溢れるように光の渦がたなびき光跡を空に残した。光跡は北川の身体を取り巻き、やがて吸い上げられるように掲げられた掌の上に集う。

「天裂く牙よ!」

光は巨大な槍と化し、今にも弾けんばかりに鳴動していた。
その槍を魔獣の爪で握り締める。ブスブスと鈍い音がした。手の平の肉が焼け焦げている。
だが震えているのは光であって、手ではない。光を握りし魔獣の手は焼け焦げながら静止する。
人では決してありえない鋭利な犬歯を剥き出しにして、魔族は吼える。

「引ぃき裂けぇ!」

掴んだ光槍を身体ごと持っていかんばかりに力任せに投擲する。
光槍が残滓を残し、翔んだ。
未だ虚空に華咲く爆煙が、光牙の征途を開けるように円状に穿たれる。

爆発の残響も、大気の鳴動も断ち切られたように途絶え、訪れたのは一拍の静謐。

静謐は、静謐に似た轟音によりて薙ぎ払われた。

有り過ぎる音は、それ故に自らの音を破壊し尽くす。
大空は、引き裂かれたように蒼を失い、輝く光に染め上げられた。
続いて横殴りの衝撃波が降り注ぐ。
呆然と戦いを見上げていた美坂香里は、目を焼く烈光に顔を背け、両腕で庇った。
次いで、襲い掛かってきた衝撃に、苦痛の呻きをあげる。

だが、不意に瞼の裏まで突き抜けてくる眩しい光が途切れた事に気がつき、空に目を向け、息を飲んだ。

光と蒼に換わり、闇が空を覆い尽くしていた。
いや、それは漆黒の炎だ。大空を占め尽くしていた金色の光が、その中心から膨れ上がった暗黒の炎に一瞬にして飲み込まれ、凝縮される。

空気が吼え盛る。

「チィッ!」

北川は、視界の端に無数の黒点が生まれるのを認めた。
舌打ちしながら、身体を捌く。
黒点は一秒も立たぬ内に姿を現し、唸りをあげながら北川の居た位置を通り抜けた。
赤黒い触手の束。それが穿攻となりて襲い掛かってくる。
気がつけば、上下左右、すべての方角から目にも止まらぬ速さで北川めがけて吼声をあげる。
広き広き果て無き空は、触手の大籠に閉じ込められた。

北川の双眸が凶悪なまでに輝いた。

「しゃらくせぇぇ!!」

北川は絶叫すると、襲い掛かってくる触手の雨など見向きもせず、一直線に触手の元へと弾丸のように翔び上がった。
後方で、標的を捕え損ねた触手が幾重にも交叉し、向きを変えて追い縋るように伸びてくる。
だが、そんなものは無視し、北川は前方から降り注いでくる触手の豪雨を切り裂き、薙ぎ払い、撃ち消しながら黒炎の塊の中へと飛び込んだ。
散らし損ねた触手が、脇腹や太腿の肉をこそぎ取っていくが、今は痛みすら感じない。
黒と白の醜悪なコントラストが黒炎の中に居た。

「たぁかつきぃぃ!」
「しぶてぇんだよ、ゴキブリがぁぁ!」

高槻が憎悪を撒き散らしながら叫び、触手を切り離しながら両手を合わせる。漆黒の炎が合わせた両手から噴出した。そして、高槻は両手を力任せに引き裂くようにうち広げる。
開いた両手の間の空間に、無数の燃え滾る黒炎の弾丸が散らばった。

「怨念渦巻き炎とならん 呪え! 呪えェッ!」

対する北川も、右手の親指、小指、人差し指を立て、拳となした左手の上へと重ね、突っ込みながら前へと突き出す。

「月をも蝕む夜の雫 塵と化す程輝かん!」

瞬く夜空が具現したように、魔族の正面に無数の光芒が煌めいた。

「『憾業羅(エンゴウラ)』ッ!!」
「『月蝕燦(ゲッショクサン)』ッ!!」

黒の炎弾が/光の飛礫が。
ガラス引掻くような高音を撒き散らしながら、至近距離から互いに向かって解き放たれた。
一瞬にして無数の爆発が彼ら二人の間に撒き散らされる。

爆風に吹き飛ばされ、二人は斜め後ろへと隕石のように落下した。
飛行機雲のように後を引く煙が唐突に虚空に白線を描く事を止める。

燃える黒羽が広がり、輝く金色の髪が逆巻き、二人の身体は時間を凍らせたように虚空へと急停止した。
そして、世界を震わさんばかりに吼える。

「腐りて、蛆湧きたるおぞましきモノ、浅ましきモノ、出でよ!!」
「来たれ! 来たれ! 喰い裂くモノよ!」

またもや空間が裂ける。
高槻の周囲に、怖気の走るまでに艶のある黒髪を振り乱した女の上半身が何体も現れる。
透き通ったその身体は腐り果て、肉が崩れ、骨が剥き出しとなり、破りさられた口唇から鮮血滴る真っ白い歯が覗いて見える。
零れ落ちんばかりに、血走る目をむき出した女たちは、聞くも耐えがたい怨嗟の声を張り上げた。

北川の周囲に浮かび上がったものどももまた異形だった。
獣の頭蓋。それも肉食獣と思しき鋭利な牙を白く閃かせて、虚ろな眼孔に暗い炎を宿す野獣の頭蓋骨が幾つも幾つも現れ出でる。
喰い裂くモノたちは、一斉に餓えと血の匂いに酔い狂った吠声を連ねた。

高槻の両手からうねるようにして触手の束が噴出する。
北川の魔獣の両腕が、冴々と爪を閃かせた。

異形の獣骨たちが、過剰なほどに触手に穿たれ、打ち据えられ、粉微塵となり蹴散らされる。
泣き叫ぶ女どもが、微塵の容赦も呵責も無く、原形を留めぬ肉片へと切り刻まれ、虚空へと掻き消える。

北川は怨霊を引き裂いたその爪を、瞬く間もなく虚空に走らせた。爪の通った後に光が残り、それは一瞬にして何かの紋様へと姿を見せる。

「葬るモノよ! 我が霧の王国の番犬よ! グニパヘリルの前で激しく吠えよ!」

紋様はグニャリと形をゆがめ、人など丸呑みできそうな巨大な漆黒の魔犬へと姿を変えた。

「我れが噛み切った神の腕の如く、大敵の喉笛を食い千切れ! 『ガルム』!」

見えざる鎖から解き放たれたように、魔犬は宙を駆け抜け高槻に襲い掛かった。

「犬畜生ごときがオレ様に牙剥いてるんじゃねえッ!」

黒羽が羽ばたく。ヒラリと魔犬の牙を躱した高槻は、叩きつけるように右手を魔犬の頭に押し当てた。

魔犬の口から漏れた悲鳴は、臓腑が爆ぜる虐音に掻き消された。
高槻の右手から迸った触手が、魔犬の身体の中を蹂躙し、脳味噌をかき混ぜられ、両目が飛び出し、腹を切り裂かれ、肉のゼリーと化した内臓がぶちまけられる。

「ハハッ、ギャハハハハハハハ!!」

「笑ってんじゃねえよ、鬱陶しい」

すぐ間近から聞こえた狼の唸りに高槻は呼吸を詰らせ、目を見開いた。
いつの間にか自分の頭上へと移動していた金の魔族が両手に煮え滾る光の渦をまとっていた。

北川は、夜空のように冷めきった目で、眼下の敵を見据えた。
何故か心まで冷たくなっている。これほどまでに憎悪がかき乱され、怒りに滾っているのに、どこかそれを他人事のように感じる。
自分の感情を感じられなくなってしまったみたいに。
それらは確かに此処にあるのに。

それはきっと、自分が亡霊であるからに違いないと少年は思った。
亡霊は恨むだけ、憎むだけ、怨嗟に悶え苦しむだけ。そこに心は無い。自分の感情を感じる心は無いのだから。

怨霊はただ相手を呪い殺すのみ。

彼は気がつかない。
怨霊は自らを省みる事などしないのだと。

魔族は歌う。自らの眷属を招く詩を。
呪いの放つための歌を。

「天に住まう狼 輝く神を追うモノよ、太陽と月を喰らう獣よ! スローズヴィトニルの子とともに憎しみを宿し、とくと疾れ! 『スケル』!!」

光がうねりどこまでも落ちてしまいそうな黒き光芒と化し、形を為し、夜闇にも似た漆黒の狼へと変貌する。
狼は高笑いにも似た咆哮をあげながら、高槻に飛び掛った。

「オオオオオオオオオッ!」

咆哮とともに背中の羽根から吹き上がった黒焔が螺旋を描き、迫り来る黒光狼を飲み込む。
だが、狼は黒炎など諸共せずに突破し、高槻の左肩にその牙を突き立てた。

「ギィヤァァァァァァァア!!」

肩へと埋め込まれた牙から、胸部へと突き立てられた爪から、肉が焼け焦げる匂いと音が撒き散らされた。
それそのものが、強力なエネルギー体の黒光狼。触れるだけで燃え上がらんばかりの光熱を宿す召喚獣に食いつかれ、高槻は悲鳴をあげた。

「ドケェ! どけっ! 離れろぉぉ!」

手が焼けるのも構わず、狼の頭を掴み、引き剥がそうとする。触手を抉り込ませようとするも、強力なエネルギーに焼き滅ぼされ、どうしようも出来ない。

「離れろぉぉぉ!」

声が張り裂ける。渦巻く黒焔が物質化し、錐と化して黒狼の背に、腹に、頭に突き刺さった。
眷属が受けた死が逆流し、北川の額から、腕から、血が迸る。
黒狼は苦悶の鳴声をあげながら、虚空へと消えた。

高槻は食い千切られ、肉を焼かれた左肩を抑えながら、哀れなほどに息を荒らげ北川を見上げた。
北川は額から流れる真っ赤な血を拭うことすらせず、冷たい月のように輝く双眸をじっと高槻に突き刺した。

例えようもないほどの混沌に満ちた感情が、静かに駆け巡っているのが解かった。
北川はおかしくなったのかと思えるほど静まり返った意識の中で、確信した。

今度こそ、間違いなくこの男を殺せると。

それは決意ではなく、確信だ。
ガディムにより新たな心臓を与えられ、魔族と化した高槻。人間であった頃とは比べ物にならない強さ。
だが、底は見えた。このままやっても負ける気はしない。どれほど抗おうとも、どれほど暴れようとも、ヤツは死から逃れられない。

何故なら、俺が殺すからだ。


「長引かせるつもりはないぜ。前にも云ったよな。俺はお前がこの世に存在している事に一時も我慢出来ないってな」

その言葉を、高槻は良く覚えていた。
いつも他人を見下ろし続けていた自分が初めて、見下ろされながら告げられた言葉。
自分を殺した少年の言葉。
言葉は滑り込むように肺腑へと潜り込み、心臓を鷲掴みにした。

やつは、再び死を宣告した。
――知っている。
知識として知っている。事実として知っている。経験として知っている。

殺戮者の死の宣告は、決して違う事は無いのだと。

高槻の瞳の奥に、どうしようもないほど明確な怯えの光が宿った。

「ま…けるのか? 敵わないのか? オレは殺されるのか? 死ぬのか? また死ぬのか!?」

北川はそうだ、と頷いた。
殺戮者の貌に浮かぶのは葬送の笑み。

「今度こそ完全に殺してやるよ、コロシテヤルヨ…高槻」


殺戮者の死の宣告は、決して違う事は無い。

―――だが

恐怖に戦慄く高槻の唇は、次の瞬間引き攣るように嘲笑を象った。

―――殺戮者でない者の死の宣告など、何を怯える必要があろうものか。


「ハッ、アハハハッ、勝てねえ! 力じゃ勝てねえ! 殺される、オレは殺される! なら、なら、殺されないようにすりゃあいい! オレはオレはオレはオレは死なねえんだぁぁ!」
「喚いてろ、俺はお前を殺すと云った!!」
「なら、コロシテみせやがれぇ!」

高槻は嗤った。
そうだ、殺戮者とは全てを失いし者。
自らの名を呼ぶ者のことごとくを奪われ、名を無くした者。

北川は殺意と狂気と憤怒に満ちた貌で、牙を剥き、金色の粒子を身に纏った。

「貴様に云われなくても――」
「コロシテみせろぉぉ! あの女がッ、お前の女の生まれ変わりがまた目の前で殺されてもいいって言うんだったらなぁ!!」

―――守るべきものなどという足枷を得た殺戮者など、聞いた事も無い
―――『死』は『死』によってしか存在しえない。


吐き出そうとした声が、喉の奥へと逆流した。
底が抜けたように顔面から血の気が失せる。
北川は、弾かれたように香里を探した。
すぐに見つける。力無く、地面へと座り込み、放心したまま此方を見上げている。
そして、高槻の言葉の意味を理解した…させられた。

もう一人、高槻が居た。
香里の背後の上空。あの、虫唾の走るような爬虫類の笑みを浮かべ、両手に地獄の黒炎を掲げて、もう一人の高槻が愉悦に舌なめずりをしていた。
その、双眸が此方を見る。視線が交錯した。瞳が嗤っていた。
香里は…気がついていない。

そして、北川に選択が迫られた。

最大にして最後の絶望か、永遠にして終わる事のない絶望か。

高槻のドッペルは今、この瞬間にも香里を攻撃するだろう。人間一人を焼き尽くすには充分な焔で。骨をも残さぬ一撃で。
高槻は嗤う。嘲笑っている。ヤツに香里を殺す気は無い。解かっているのだ。これから愚かな殺戮者がするであろう事を疑いもしていないのだ。
怒りに、気が狂いそうになった。

それでも、身体は微塵の躊躇も無く動いた。
誓ったのだ――誓ったのだ。
彼女を――美坂香里を守るのだと。
―――誓ったのだ。

もう、死なせはしない!!


―――絶対に!!


「みさかぁぁぁ!!」



高槻は嗤った。

「そうだ、お前は今、この瞬間にオレの『死』じゃなくなった」

『死』が『死』を拒絶して、如何にして存在しえるものか。
『死』である殺戮者は消え失せ、居るのは、ただの愚かな弱者。
守るなどという誓約に身体を雁字搦めに縛られた、唾棄すべき愚者。
ヤツがすべてを失ったままならば、ただ復讐と殺戮だけが残されたモノであり続けたならば、勝てなかっただろう。
だが、ヤツは手に入れてしまった。再び、手に入れてしまったのだ。
高槻を殺すという事よりも優先すべき大切なモノを。

「オレの『死』で無くなった野郎なんぞに、オレは殺せねえ」

高槻は、嗤った。





その瞬間の出来事は、何故か静止画像のように瞳に焼きついた。
それは、一つの永遠だったからなのかもしれない。
見上げていた遥か上空から、彼の姿が一瞬にして掻き消える。
何かの予感があったのだろうか。私は導かれるように、吸い寄せられるように背後を振り返った。
そして、その映像を瞼に刻む。
自分めがけて凄まじい速度で飛来する黒い輝きと、自分の目の前に飛び込む北川潤の姿を―――

金色の双眸が、私を見たのが判った。
金色の双眸が、幽かに微笑んだのが見えた。
金色の双眸が、哀しげに瞬くのが解かった。

「わりぃ」と、唇を動かして彼が謝るのがわかった。

なんで謝るのよ、バカ。

何を謝るのか、何が哀しいのか。
考えれば解かったのかもしれない。でも、考える時間も意志もなかった。
だから、私は永遠の中で、答えるべき言葉を思いつけなかった。
―――それがとても、悔しかった。
こんなにも、彼は私の事を思っているのに。

一つだけ、さっきの確信が間違っている事がわかった。

―――彼はまだ、私を見ていてくれた。


「北川くんッ!!」

永遠は憐憫も無く解凍され、永遠の終わりとともに迸った悲鳴は大気をかき乱す衝撃波と爆音に掻き消された。
黒い焔に包まれた北川が、砲弾のように自分の頭上を吹き飛んでいき、地面に叩きつけられた。天を覆うばかりの土砂を噴き上げ、北川の姿は見えなくなる。
見なくてもわかる。その音を聞いただけでわかる。わかる自分を気が狂うほど憎悪した。
それは例えどれほど人間離れしていようとも、絶対にただじゃいられない衝撃だ。無事ではいられない。

――寒い。

心が死んでしまいそうなほどに寒く、苦しく、冷たくなった。
崩れ落ちそうになる意識と思考の頬を引っ叩いて叩き起こしながら、脳裏で言葉にならない声で喚き狂う。
そうしないと、正気を保てないと思った。
不意に土の匂いが鼻孔を劈く。
そこで、漸く自分もまた爆風に地面へと叩きつけられていたのだと認識する。
無様に地面に転がる自分。意識が荒れ狂う。何を悠長に転がっているのだと、荒れ狂う。
香里は奥歯が砕けそうになるほどに歯を食い縛りながら、地面に手をつき立ち上がろうとする。
脳裏に電撃が走った。
望んでもいないのに、身体はまたも地面へと転がった。

――痛い。

転んだから? 違う、痛いから転んだんだ。
今更のように、激痛が全身の神経を蹂躙する。香里は自分の身体を顧みて、右の太腿から流れ出る鮮血を見つけた。
よく見れば、鋭利に砕かれた岩の破片が見事に法衣を切り裂いて肉へと食い込んでいる。
香里は獣のように唸った。唸りながら立ち上がろうとし、それでも云う事を行かない身体はまたも地面へと転がる。
立ち上がれない自分に苛立ち、激情のままに地面を叩く。硬い地面を叩いた拳から血が舞い散る。
それでも叩く。痛かろうがなんだろうがどうだっていい。立ち上がれるまで叩く。

「北川君!! 北川君!! 北川ぁぁ!!」

狂ったように名前を呼ぶ。だが、返事は無い。土煙の向こうから何も声は返ってこない。
それが苛立たしくて、頭にきて。
狂ったように叫んだ。
背後で、高槻のドッペルが肉汁を撒き散らしながら溶けていく。だが、香里はそんなことに気がつきもしなかった。

「ヤダ! やよ! 返事してよ! 返事しなさいよ、北川ぁぁ!!」

痛みを無視して立ち上がる。脳が悲鳴をあげようが、激痛が身体を捻じ伏せようとしようが、逆らい、跳ね除け、立ち上がる。
立ち上がれた。
それが嬉しいなどとも感じない。そんなことはどうだっていい。立ち上がれたなら、今度は進まなくてはならない。土煙の向こうへ。あの人の所へ。
必死に、動かない足を無理やり動かして、必死に近寄ろうとする。だが、その努力は頭上から降り注いだ爆炎に無慈悲に閉ざされた。

爆風に、身体が押し流され、無様に地面を転がる。折角歩いた距離が、簡単に元いた場所に戻され、無に帰した。
太腿に突き刺さった岩がさらに地面を引き摺って肉に食い込み、香里は小さく悲鳴をあげた。
怒っているのか、恐怖故か、自分でも意味の解からない涙を滲ませる香里の横で、地面に突き立てられた『絶』が無言で白刃を輝かせていた。

「おんなぁ! お前はそこで這いつくばってろ。すぐにお前の男をぶち殺してやるからよぉ」

ケタケタと笑い、高槻は地面へと舞い降りる。
歯軋りしながら香里は立ち上がろうとし、そしてそれを感じ取って力が抜けた。
土煙の向こうで、狂気の匂いのする魔力が、掻き消えた。

「う…そ」


もう、どうしても力が入らない。どうしようもないほどに抜けきってしまった。
魔力が掻き消えた。それが指し示す答えの一つを、それも最悪の答えを思い浮かべてしまったのだ。

「ああ? 死んだか?」

高槻が、拍子抜けしたように言う。
心臓に、ザクリとナイフが突き立てられた。

「嘘よぉぉ!!」


返る言葉はどこにもなく。
ただ縋るように信じるのみ。

だって、認めていないのだから。
死ぬなんて事、認めていないのだから。
許してなどいないのだから。

――許してなんか、いないんだから。


「北川くんッッ!!」


それは決して慟哭ではないけれど。
でも、泣き声のように、空へと響いた。




 …続く







  あとがき


栞「ああ! こんな肝心な所で終わっちゃうんですか!?」

八岐「調子乗って書いてたら60kb逝きそうになっちゃったんで、急遽分割したんですよ。お陰でこんな中途半端になってしまいました。すみません」

栞「ろ、60kbは拙いですね。普通の倍か三倍…」

八岐「そういう訳なので、次回は既に出来ています。次回 第77話『饗宴の幕は下りる』」

栞「もう趣味丸出しですね。結局、著者さんが誰が一番好きか分かっちゃうようなお話ですね」

八岐「あはは。それでは次回は間をおかず出せそうです。それでは、失礼します」

栞「またです〜」

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