魔法戦国群星伝





< 第七十五話 金色ナリシ狂ノ月 >






グエンディーナ大陸中央部 失われた聖地





呪い殺したくなるほどに、身体に力が入らない。
伸ばそうとした腕が、届かない。
両膝が、命じてもいないのに折れて崩れる。

彼はもはや此方を見てはいない。
此方に背を向け、あの男へと双眸を向けている。
恐ろしいほどの静けさを纏いて。

届かぬ指先の向こうで――
振り返らない彼の背中の向こうで――

あの男が嗜虐の笑みとともに吼えさかるのが見えた。

「やめ―――」


声すらも届かぬその先で―――鮮血は踊る。


香里の網膜に焼きつけられる溢れ出す紅。舞い狂う緋色。
意識が灼熱と化し、紅蓮へと変ずる。

必死に伸ばした手の平に、ぶちまけられた液体が叩きつけられ、濡れそぼる。
五指の隙間から降り注いだ奔流が、確かな温もりとともに自分の顔を染め上げる。

紅に――
鮮血に――

耳を塞ぐ事すら適わずに、香里はその音色を聴き終えた。
聞くに堪えない、おぞましい旋律を。
皮膚が千切れ、肉が毟り取られ、骨が削り砕かれる暴虐の音律を。


見開きしその瞳に、一部始終が映りこむ。

力任せに引き絞られた、少年の腕に食いついた触手。
深々と肉へと抉り込んでいた無数の刃が逆立ち、先を争いさらに深く深く肉の中に潜り込んでいく。
ズタズタに切り刻まれた二の腕は半ばミンチと化し、四方八方へと向けて血を飛び散らせる。
やがて、絞り込まれ、肉の中へと埋もれていった触手の刃たちは骨へと辿り着き、そのカルシウムの固形体を削り、砕き、千切り折った。

それは流れるように始まり、終わった。

閉じる事を忘却した双眸に――焼きつく。

クルクルと血の螺旋を描きながら宙を舞い、そして無機質に目の前に転がった人間の腕。
滝の様に迸り、大地で飛沫を上げる血流。

「…い…や」

膝から力が抜け、体が崩れ落ちた。打ち付けた膝に痛みが走る。それを他人事のように感じる。

思考が塞き止められたように活動を停止した。
何も考えられない。
真っ赤に染まった意識は、動こうとしない。

「いや…」

それだと云うのに、身体は何故か意思から離れ、動き出す。
歪む視界の中心には、枯れ木の如く転がる人の腕。身体はそれを小刻みに震える手で拾い上げた。
腕はまだ温かく、故にそれがつい数瞬前まで血が通っていた事を認めざるを得ない。
同時にそれは、この物体がもはや血が通っていない肉の塊に過ぎないのだと…認めざるを得ない。

「いやよ…いや…」

自分の両手が莫迦みたいに震えている。止まらない、止まらない。
自分の腕の中にあるこの肉の塊は、どう否定しようとも人の腕…それも切断された腕以外の何物でも無く、香里は噴き上がる感情の奔流に精神の隅々に至るまで蹂躙された。
それでもなお、意識のどこかが現実を認めようとしない。
眼眸が冷厳に物体を観察する。
切断面はお世辞にも綺麗とはいえず、潰れた骨が白く剥き出しそのギザギザの断面からは黄色い髄液が血に混じって滲み出し、幾重にも切り刻まれミンチとなった赤身の肉がボロボロと崩れ落ちる。
これでは接着できない。接合が出来ない。
元よりここまで無残に裁断された肉体を接合など出来る術など無いはずなのに、その事実を分かっているのに、それでもなお、どうにかしようと考えてる自分を、別の自分が呆然と見つめている。

「やだ…いや、いや」

自分の、狂ったような呟き声だけが鼓膜を震わせる。
それは悲鳴なのに、これっぽっちも抑揚が無い。平坦で、感情のまったく篭もっていない悲鳴。
狂っているとしか思えない。

香里は、止まらない呟きを壊れたレコードのように繰り返しながら、焦点の定まらない瞳で見上げた。

ガツンと側頭部を殴られたような衝撃。

分裂しかけていた意識が、強制的に一つにさせられた。
このまま壊れてしまえば良かった…そう思わされるほどの凄絶な情景に。


絶え間なく降り注ぎつづける血の流れ。
その飛沫の向こうに見える彼の横顔が見えた。

――見えてしまった。


言うなれば混沌。

薄っすらと唇を三日月に象り、白々と浮かぶそれは笑みなのか。

狂絶とした喜びと怒り。幾多の遍く感情が、溶鉱炉の中で精錬されたような…そんな笑み。


笑っているのだ。
笑っているのだ。


もがれた腕に見向きもせず、
耐え切れぬほどの激痛に気付きもせず

笑っているのだ。
目の前の男を前にして、笑っているのだ。

北川潤は嗤っているのだ。


「イヤァァァァァァ!!」


つい先程まで彼の肉体の一部だったものを抱き抱え、壊れたように香里は悲鳴を上げる。
抱き締めるものを否定するように。
嗤う男を否定するように。
現実を振り払うように。

香里は声を引き裂いた。





その瞬間のことは、まるで切り取られたかのように記憶に無い。
美坂香里に向かって放たれる狂気。それを目の当たりにした時、彼は後も先も考える事無く、その前へと立ち塞がった。
それからが分からない。
グラグラと揺れる意識、霞んでいく視界、立つ事すら困難なほどに力の抜けていく身体。

背中に…打ち据えられる少女の悲鳴。

北川潤はその叫びに微塵も動かぬ自らの心をぼんやりと顧みた。

まるで凍ってしまったかのような心。
理由は分かっている。嫌と云うほどに。
あの男を見てしまったから――
そこに立っている男を見てしまったから――

きっと、噴き出す激情に、何もかもが掻き消されたのだろう。

感情が沸き立ち、煮え滾り、灼熱の溶岩と化し、混沌となる。
もはや自分でもどうする事も出来ぬほどに、全身に、満ち満ちていく―――

何もかもが染め上げられてしまった。

他の何を打ち捨てても為すべき事。それを目の前にして、余分な何かがこそげ落ちてしまった。
それが本当に余分なものかは定かではないが、それでも心の奥底に押し込められてしまった。

「…ふっ、ふふ」

朦朧とした意識の中、薄く開かれた唇から、思わず笑いが漏れてしまった。

滑稽に、思えたのだ。
酷く、滑稽に思ってしまったのだ。

あの時と同じこの場所で、自分と高槻が向かい合っている。
そう、本来ならばそれは在り得ない情景だ。
二人とも、元々はこの時代に居るはずの無い…既に死んでいるはずの過去の人間。
それが、今、この瞬間に自分たちと違う時代のこの場所で、再びこうやって対峙している。

本当に滑稽で、本当に、馬鹿げている。
それは…醜悪とすら云えるかもしれない。

ならば…嗤うしかない――嗤うしかない。


「もう…悪夢は沢山だ」

声は乾ききった喉の所為で掠れて出なかった。

大量の出血のお陰で霞んでいく視界の中で、北川潤は晴嵐の如く反芻した。

―――そうだよ…な、悪夢はもう、沢山だ。

ならばこそ、終わらせなければならない。
この場にあるべきでない過去の亡霊二人。
この時の流れから消さなければならない。今この時を生きる人々にこれ以上、過去の悪夢に傷つけられぬように。
本来受けるはずの、本来受ける必要の無かった絶望から、彼女を守るために。
――歪みを正さなければならない。


そう、絶望だ。

ぼんやりと澱み、何かを思考する事が出来なくなってしまったような意識の中。
二人の姿だけが焼きつき、消えようとしない。
それは高槻―――

そして―――

……傷つき、汚されようとしていた美坂香里。


彼女の姿を眼にした瞬間。
つい先程の事のように―――
思い出してしまった。


あの絶望を―――

自分の腕の中で死んでいった、あの少女の温もりと冷たさを。
あの奈落のような絶望を。

再び繰り返そうというのだ…
永久に繰り返そうというのだ…


―――許せない、絶対に。そう、絶対に…だ。



迸る血の流れも、冷たくなっていく四肢すらも気にはならない。

血を失い、かすみゆく視界の先に立つ男。
あの虫唾の走る声も、蛇のように歪んだ眼差しも、蟷螂の様に屈折したその表情も。
何もかもが懐かしく、おぞましい。


そう、これは再会だ。

来栖川の屋敷で会った時は決定的に違う。

これは再会だ。
本当の再会だ。


北川潤と高槻という二人の過去の亡霊の…

真なる再会。

そして……

この歪みきり、未来の時代すら狂わせてしまった運命を――終らせる時。

―――そのために、俺は死してなお、再びこの男の前に立っている。





「…なんだ? お前は…」

飛び込んできた少年。適当に痛めつけて、動けなくし、自分が彼女を思いのままにいたぶる様を見せつけよう。そう、高槻は考えていた。
だが、激痛にのたうちまわり、無様に転がるはずの少年は、痛覚を持たないのかと疑ってしまうほどに平然と佇んでいる。片腕を引き千切られたのにだ。
それも、薄っすらと笑みすら浮かべて。

その深淵のような双眸に見つめられ、あっけにとられていた高槻の脳裏にチリチリと痺れが走る。
酷く、居心地が悪い。
なぜか…じわじわと焦りのようなものが生まれてくる。

不快だ…とても不愉快だ。

高槻の中で、何かが音を立てて切れた。

「何を……笑っていやがる、小僧ぉ!!」

咆哮するや、高槻は背中の灰褐色の翼をはためかせると、低空を超高速で飛翔し、一瞬のうちに間合を詰める。

「笑ってるんじゃねえッ、このイカレ野郎が!」

そして、激した感情にそのままに、少年の脇腹を横殴りに蹴り飛ばした。
高槻の足は北川の腹腔へとめり込み、蹴られたその身は土煙と切断面から飛沫(しぶ)く鮮血を撒き散らしながら吹き飛んだ。

「イ…ヤアァァッ!!」

北川が吹っ飛ぶ様子を、呆けていた香里は否応無く目の当たりにし、目が覚めたように悲鳴をあげる。
その声に応えた訳ではないだろう。
だが、死体のように倒れていた北川はビクリと身を震わすと、右手に握っていた『絶』を杖にヨロヨロと立ち上がった。
あまりにも凄惨な光景に、自失しかけていた香里が正気に返り、咄嗟に駆け寄ろうとする。が、その動きは糸に絡みとられたように硬直した。

自らの血を全身に浴びたその姿はあまりに陰惨で、その貌になおも剥れる事無く貼り付けられた虚ろな笑みが彼の姿を幽鬼の如く揺らめかせている。

高槻の引き攣った頬が、さらに激しく痙攣した。

「やめろ…笑うな…お前の…お前のその笑い…頭に来るんだよ…癇に障るんだよ」

右の拳を軋みを上げるほどに握り締めながら、高槻は凶獣のように唸りながら叫んだ。

「てめぇ、ムカツクんだよ! 俺を嘲笑うんじゃねえ! その顔で嗤うんじゃねえ!」

高槻は自分が何を口走ったかを聞いてはいなかった。ただ、感情のままに喚き散らすだけで。
自分の発した言葉の意味を、理解してはいなかった。

歯を噛み砕かんばかりに軋らせ、吼える。

「もういい、お前、殺してやる! その女をいたぶり殺す様を見せ付けてやろうと思ってたが、もう我慢できねえ! 我慢するつもりもねえ! 殺ス殺ス殺ス殺ス!! 小僧、蒸し焼きにしてコロシテヤルッ!」

その途端、高槻の握り込んだ拳から、赤茶けたような炎が噴き出した。
そして、その拳を天に掲げ、打ち開く。
爆発したように吹き上がる火焔。その色は禍々しいまでに赤く、艶やか。
周囲の景色がその赤色に照らされ、一気に表情を変えた。
高槻の口端が、耳に届かんばかりまで引き裂かれる。

「ハハァッ! こいつはな、獲物を囲むようにして炎が燃え盛る。中に閉じ込められた奴はジワジワと蒸し焼きにされるって寸法よ。フハハ、灼熱に悶え苦しんで黒焦げの炭になっちまえ! 殺してやるよぉ!」

高槻の凶眸は、ただ壊れたように笑みの仮面を崩さない北川だけを捉えていた。
それ以外はどうでもいい。ただ、あの仮面を焼き尽くしてやるという凶暴な殺意のままに。

血の気を失い、蒼白となった少年の唇から、熱に浮かされたような呟きが漏れ出す。

「クッ、ククッ、殺す? 俺を殺す? 高槻…お前が俺を殺すって? 俺を? 俺を? 俺をお前が殺すだって?」

上ずった声が響く。声が零れる唇は深き三日月に歪み、双眸もまた薄らと細められ、睥睨する。
その表情が、高槻の殺意を爆ぜさせた。

「その通りだっ、屑がぁぁ! 狂い死ね! 『獄焔の円檻』よ!」

火焔が振りかぶられるように高槻の周囲を孤を描くように焼き尽くし、一気に北川めがけて飛び出した。
それなのに北川は動こうとはしない。
いや、動けないのだ。
片手を引き千切られ、大量の血液を失い、本当はマトモに動ける身体ではないのだ。

死が迫る。
それでもなお、北川の仮面は剥れない。ただ歪んだ笑みのまま、迫る炎を睨みつける。
腕を引きちぎられるという肉体的なショックと、それに相乗するように被せられた精神的な衝撃。
北川の心は、この時凍りつき、現実から乖離してしまっていた。
自分の体の現状も、襲いくる火炎も、何も分からず、ただ殺意と狂気と決意に溺れ、朦朧とした半死人の意識。

だが、その夢遊するが如き意識は、唐突に現実に引き戻され、凄笑の仮面が剥がれ落ちた。
意識にかかった靄は吹き払われ、正気を取り戻した脳裏に罵声が走る。

そして、全く同時に高槻の顔にも驚愕が宿り、次いで蒼白へと染め上げられた。
高槻の口から、遅いと分かっていながらも、引き攣った声が迸る。

「なっ!? 馬鹿、てめぇ、やめ―――!!」

だが、何もかもが手遅れ。
解き放たれた火焔の渦は、既に術者である高槻にも止められない。

火炎が襲いかかるは死にかけの少年。だが、その行く手に立ち塞がる一人の少女。
切り裂かれた服など気にもせずに両手を大きく横に広げ、敢然と焔の前に立ちはだかる。
その瞳には一片の迷いも無く、噛みつくように怒りをたたえ、押し寄せる赤焔を睨みつけていた。
小さき唇から吼えるように歌が流れ出す。

「熾きし七色の虹の奔流よ 今、我が前に降り注ぎ、我が魂を砕かんとする悪意を滅する音色とならん!! 『燐輝奏楯(ストラ・ディ・ヴァリウス)』」

彼女の口から飛び出したのは防御の呪文。
だが、それには何の意味も無い。この術は火焔を叩きつけるものではなく、灼熱の結界で内部の標的を焼き尽くすもの。
火焔の渦は、彼女の喚び出した虹色の壁にぶつかった瞬間…爆発した。

北川の、鉛のように重くなった体が、その時だけは素晴らしいほどに電光のように動いた。
右手に持っていた妖刀『絶』を前方の地面へと叩きつけるように突き立てる。続いて背後から、彼女の襟首を空いた右手で掴み、後ろに倒れこみながら引き寄せた。
前を切り裂かれた法衣から体が抜けかけ、香里の真っ白な双丘が露わとなってしまうが、そんな事を気にしてはいられない。
咄嗟に服から手を離し、腹部に前から手を回して抱きかかえるように地面に転がる。

そして絶叫――

「たのむ!! 絶ッ!!」

そして視界のすべてが赤に覆われた。












§ § §











高槻は、虚脱したように力無く、燃え盛っている焔のドームを見つめた。見つめるしかなかった。

美坂香里の、その迷いの無い双眸も、切りつけるような美しい面差しも……爆発し、膨れ上がった赤色の火炎に遮られ、視界から消えうせてしまった。
呆然と高槻が見つめる先で、火焔は標的を包むドームと化し、晴れた蒼穹の下で燃え盛りはじめた。

こうなっては…どうしようもない。

中にいる獲物は、じっくりと、苦しみながら焼け爛れ、正気を失い、発狂しながら耐えがたい灼熱により焼き尽くされ、死んでいく。それだけだ。
もやは、高槻にすらどうしようもない。

「おい…おいおい、冗談だろ?」

呆然とする高槻の唇から壊れたように声が漏れる。

「百年待ったんだぜ? 百年だ。百年、あの女の生まれ変わりを犯して傷つけて、そんでもって屈服させた挙句に殺してやろうと思ってたのに…。
それが何だよ…おい、これで終わりか?
こんなあっさりと終っちまったのか?」

呆けていた高槻の顔が、徐々に醜く歪んでいく。
待って待って待ちくたびれて、澱み、煮えたぎり、蓄積された想像を絶する欲望の沼。
百年間、繰り返し繰り返し想像し、待ち侘びたあの女の生まれ変わりだ。それがこんなあっさりと、あっけなく、何も出来ないままに……死んでしまった。
そう、百年分の濃縮され尽くした欲望だ。
それが行き場を失い、狂乱する。

「おい、またやり直しかよ!? また生まれ変わりを待たねえといけねえのかよ。何もしねえで、何もできねえで。ふざけるなッ!! ふざけるなッ!! ふざけるなぁぁぁッ!!」

怒号のままに、高槻は手に生やした刃の触手を地面へと叩きつけた。
何度も何度も、癇癪を起こした子供のように。
大地がえぐれ、土塊を盛大に撒き散らす。

いつしか静寂の戻っていたこの聖地の裾野に、焔の燃え盛る音と大地を傷つける音だけが、響き続ける。

やがて、飽きたのか、疲れたのか、高槻の手が止まった。だが、その口から白く吐き出される荒らいだ吐息が、彼の怒りと狂気がまったく収まるどころか、さらに増幅してしまっている事を表していた。

行き場を無くした煮えたぎる狂気。それが視線となり、噴き出すべき生贄を見つけた。

短く、早く、荒ぶる呼気が白い靄となり風に流されていく。
頭を擡げた悪魔の視線…それが未だ気を失い倒れ伏すレミィ、詩子、澪へと向けられた。

「クソッ、これじゃあ収まらねえかよぉぉぉ! 畜生、てめえら、楽に死ねると思うなよ。散々いたぶり倒して自分たちから殺してくれって言いたくなるほど犯し倒してやる! 覚悟しやがれメス豚どもがッ!」

















§ § §















気を……失っていたのだろう。
それが僅かな間だとしても、やはり気を失っていたのだろう。
真っ暗に閉ざされた視界。しばらく考え、それが眼を瞑っているためだと分かり、ゆっくりと目蓋を押し上げる。

じっと自分を覗き込む、やや疲れたように陰影を濃くした北川の顔が見えた。

「北川君?」

北川の目元が少しだけ緩む。それから、一つだけ大袈裟に溜息をついて言った。

「美坂…お前さ、ちょっとムチャしすぎだと思うぞ」

北川の声と共に、何かが燃え盛る音、そして空気が震えるようにして何かが鳴く音が聞こえてきた。
まだ少しはっきりしない意識のまま、香里は自らの置かれた状況を確かめる。
周囲はすべて赤色に覆われている。それで自分が全周囲、そして空すらも焔に囲まれている事を知る。
それなのに、多少熱いと感じる程度で済んでいる事に気付き、その原因を見つけた。
自分たちの目の前の地面に突き刺さり、『五月雨龍征』が高らかに鳴き叫びながらその刀身を震わせていた。

「『絶』が守ってくれてる。余り持たないけどな、まあ酸素が無くなるまでか」

北川が、頭の上から教えてくれた。
それで、終わりがそれほど先では無いことを悟り、
それで、漸く自分が北川に後から抱き締められていることに気がついた。

何故か、動揺はない。

何故か、心は凪の海のように静まり返っている。
北川もまた、先ほどの狂笑が嘘の様に、今までの彼へと戻っていた。
いや、今まで…というのは間違いだろう。
もっと…穏やかで、落ち着き払って…優しげで……儚げで。
香里は無言で、自分を抱き締めている北川の右手にそっと手を重ねた。

今このときが夢だとしても、
今このときが死に至る過程だとしても、

彼がそこに居る。

それが自分の知っている彼では無いとしても……
いつも自分の側に居てくれた彼とは何かが決定的に変わってしまったとしても。

彼が北川潤である事には変わりないのだから。


北川君が居てくれる。
確かにそこに居る。

それで充分だった。


穏やかな沈黙が流れる。それは永遠にも似た一時。

自然と、香里の顔に微笑みが宿った。
それを見て、北川の顔に苦笑が浮かぶ。

北川が、草をそっと押し分けるように沈黙を解いた。

「美坂ぁ、お前さ、女王様なんだから、こんな簡単に命を捨てようとするなよ。しかもただ飯ぐらいの役立たず相手にさ」

香里は唇を綻ばせ、言葉を紡ぐ。

「仕方ないじゃない。勝手に体、動いちゃったんだから」
「ったく、女王様としたら無責任すぎると思うんだか」
「知った事じゃないわ。私は……本当に大事なモノを捨て去ってまで責任を持とうなんて思ってない。きっと、何度でも同じ事をすると思うわ。ふふ、皇王失格ね」
「あ〜あ、馬鹿だな」
「お互い様よ」

会話が途切れた。
ただ、『絶』の咆哮と、殺意が燃え弾ける音だけが二人を包む。
再び訪れた平穏が、二人を静かに抱き寄せる。
続くのなら…続かせる事が出来るのなら、その身が朽ち果てるまでただ在る事を望みし平穏。


だが永遠など幻想でしかなく。
平穏は束の間に過ぎない。


「美坂」
「うん?」

その声を心に留めるように瞳を閉じた香里に、北川の瞳が一瞬揺らいだ。
喉が、何かを告げようとして震え、だが言葉は出ない。

北川はそんな自分を嘲るように苦笑を浮かべた。

記憶を取り戻したあの森で、自分に義父である魔王が問いただした言葉を思い出す。
そして、自分の答えを思い起こす。

自分の、美坂香里への想い。
分からないと自分は云った。
それが、前世の彼女と今の彼女を重ね合わせた故の錯覚なのか、それとも……。

分からなくて良いと、自分は云った。
それはつまり、自分の想いを信じる事が出来なかったのだろう。
そして、最後まで信じる事が出来なかった。

だが、それで良いと思う。
どうせ自分は本来なら既に死んでいるはずの人間であり、そしてこれから消え去る過去の亡霊。
どこに本当の想いを確かめ、告げる必要があるだろう。むしろ害にしかならない。

そういえば、俺ってふざけて愛してるって云った事はあったけど、面と向かって本気で云った事…なかったよな。

だが、それで良かったのだろう。そう思うことにした。

もう一度だけ名残惜しむように、自らが抱く少女の柔らかくウェーブを描く髪の毛に顔を埋める。
美坂香里の匂いがした。

錯覚だろうが、何だろうが、もうどうだって良い。彼女が誰よりも大切だって事は間違いないんだから……。


心が…静か。

もう、そこには狂気も、怒りも、怨念も無かった。
今なら思い出せる。彼女が思い出させてくれた。自分が死んだ瞬間、何よりも思い望んだ事を。

『守りたい』

美坂香里と名倉佳織。
それは魂を同じくするだけの、まったくの別人。かつて愛した幼馴染の少女とは容姿も性格も違う、まったく別の人間だ。
だが、百年前の自分と今の自分――二つの記憶が重なった今でもなお、北川潤は断言できる。
自分は、美坂香里を守りたいのだと。


自分と高槻のために、生まれながらに命と尊厳を奪われる運命を背負わされた彼女。
復讐もある。怨嗟もある。だが、何よりも、今は彼女を守りたい。

そのために―――

―――高槻を殺す。



「守るからな。アイツを殺して、お前を守るから」
「北川君?」

応えは返ってこない。
雰囲気が変わった事を察し、瞼を開いて顔を上げた。
自分に告げられたはずのその言葉が、何故か自分を通り過ぎていってしまった気がして、心が締めつけられたように痛んだ。

急に、自分を抱き締める腕の力が強まった。
背中越しに押し付けられた胸から彼の弱まりきった鼓動が伝わる。

「北川君!?」

彼の腕を振り解こうとして、正面に向き直ろうとして、でも抱き締められた腕から逃れられない。
縋りつくような腕から逃れられない。
そして――
彼の唇が震えた。

声は出ていない。それなのに…それなのに…香里にははっきり聞こえた気がした。
彼は云ったのだ。


サヨナラ―――と



「北川くんッ!!」


泣き叫ばんばかりの呼び声は、眠れる幼子を包み込む闇にも似た暖かで静やかな言霊に掻き消された。

「我――今こそ心地良きミズガルズソルムルの抱擁より旅立たん」

――第参呪唱縛鎖・封魔プログラム≪ミズガルズソルムル≫――解凍
  ――封印凍結魔力を解放――



美坂香里の瞳が見開かれ、大きく揺らいだ。
自分を抱き締める少年の、内側から爆発的に膨れ上がった異様なる魔力の渦に。





§ §

魔道存在工学という分野に遺伝子情報の書き換えと存在構成意味情報の分解再構築という技術が存在する。
魔界における魔道研究の権威として真っ先に挙げられる三人――賢者の塔(タワー・オブ・パラケルスス)の魔法仙アーカム・フィー・イスタリと火武禍(ヒムカ)の鳴神 思兼。そして魔狼王ヴォルフ・デラ・フェンリル。
その魔界最高の探求者の一人である魔狼王が創り上げた存在変換概念システム。
対象を本来在るべき存在から、全く異なる存在へと変換してしまうという、安全性を無視するなら画期的と言えるこのシステムは、どうしても無視出来ない欠陥を抱えていた。
物質的(マテリアル)な存在変換には成功したものの、対象が本来保有する魔力の質的変換に関しては確かな理論の仮説すら完成していなかったのだ。
結果、存在変換終了後の肉体と適合しない魔力がそのまま残留してしまい、肉体が拒絶反応を起こして崩壊してしまう危険性が露わとなった。
ヴォルフ・デラ・フェンリルは応急の解決策として、一つの方法をひねり出した。

それが―――

魔力特異封印用呪唱縛鎖プログラム≪ニフルヘイム≫






「そして、再び冒涜の都へと赴く我が身にロキの祝福を」

――第弐呪唱縛鎖・魔力施行プログラム≪ロキ≫――解凍
  ――常態適合魔力パターン上書き開始――





対象者の本来の魔力は、存在変換と同時に体内に布設されたプログラム≪ニフルヘイム≫により封印される。
これにより、変換後の肉体は不適合魔力による崩壊を免れるのである。だが、完全に封印してしまうと魔力を全く持たない不自然な生命体となってしまうために、魔力は微量だけ漏らすように施してあった。
流れ出た魔力は、僅かであるが故に、生命そのものが持つ自浄能力により変換後の肉体に適合する魔力へと変換されていた。
勿論、それは平均を遥かに下回る量であり、魔術師のように魔力を扱う事など不可能であった。

この事実は人へと変わろうとする少年にとって、魔族であった頃の力を何一つ使えなくなるという事を意味していた。

故に、ジューン・ライツ・フェンリルは【剣聖】上泉伊世を師事し、深陰流を学んだのだ。
魔力を使う事無く、振るえる力を手に入れるために。
そして、すべてを薙ぎ払い、破壊してしまう強大な力を使わずにいられる殺意の鞘として。





「今此処に我は再び手にしなん 天を喰らい、地を引き裂く、魔狼の牙を」


――第壱呪唱縛鎖・魔力封印最終リミッター≪フェンリル≫――解除開始
  ――生体パターン・魔力パターン統合開始/……統合不可/統合不可――
   ――リミッター解除不可………特別プログラム/アクセス――アクセス完了

プログラム≪ヘル≫起動確認――強制統合開始
   ――呪鍵『レージング』――突破
    ――呪鍵『ドローミ』――突破
     ――最終呪鍵『グレイプニル』――突破


――リミッター強制解除――





その瞬間、視界が真っ白に塗り込められて行く様を、香里は瞬き一つ出来ず見つめ続けていた。











§ § §











「ハハハハハハ、殺す殺す殺し尽くしてやる!!」

自らの口からヤケクソ地味た叫びが放たれたその瞬間、踏み出していた地面が揺れた。
背後から押し寄せる爆風と轟音に、高槻の動きが凍りつく。

「なん…だと?」

身体が思考と分離して、自動的に背後を振り返った。
目を疑う。
寸前まで燃え盛っていた焔のドームはもはやそこには存在しなかった。
内側から膨れ上がった力に粉々に砕き裂かれ、バラバラになった焔が火の雨となって周囲に降り注いでいる。

「馬鹿な……『獄焔の円檻』は内側から破れるようなもんじゃねえ。オレの魔力を上回る力でもぶつけねえ限り…」

それでも、どれほど信じがたいとはいえ、現実がそこにある以上、それを認めなければならない。
だが誰が? あの少女は魔力こそ大したものがあったが、それでも自分を上回るには到底及びもつかない。
もう一人、あのムカツク小僧に関しては論外だ。せいぜい普通の人間が持っている程度の僅かな魔力しか持っていなかった。

「う…あ」

だが、それならば、この波涛のように押し寄せる魔力の渦はいったい何だと云うのだ?
晒されるだけで、触れるだけで、狂いそうなほどの恐怖を覚えるこの凶暴な魔力の波動は何だと云うのだ?

立ち尽くす高槻の視界の向こうで、やがて立ち込めていた爆煙が晴れていく。
いや、渦巻く波動に吹き払われていくのだ。
その向こう側には重なる二つの人影が。

ゆるやかにウェーブを描く艶やかな髪が、風に愛でられるようになびいている。
それは呆然と自分を抱き寄せる少年を見上げる美坂香里。

そして痛みを感じるほどに冷たく冴えきった焦げ茶の双眸で、此方を見据える彼女の従者である少年。

「お前…いったい」

高槻は思わず呻き声を上げた。
その魔力は明らかにその少年から発せられていた。だが、違う。絶対に違う。
その魔力は決して少年のものであるはずが無い。
その魔力は絶対に人間のものであるはずが無い。

その証拠に少年の姿は凄まじい事になっていた。
一度、出血が止まりかけていた左腕の切断面から再び、いや先ほどにも増して鮮血が迸っている。
口からは吐血が零れ、眼球は真っ赤に血走り、苦痛のうめきが漏れている。
少年の体が、全身が軋みをあげ、悲鳴を上げている。

それは彼が発する魔力が、その身体に適応していない証拠。
身体が拒絶反応を起こしているのだ。その魔力を拒絶しているのだ。人のものではない魔力を、彼のものではない魔力を。

ならば、おかしいではないか。
そもそも身体に合わない魔力を、何故この少年は内側から発し続けているのだ?

「お前は…いったいなんだ?」


苦痛に歪んだ北川の面差しが、奇妙に歪む。
泣き叫ぶ寸前のようにも、笑い出す直前にも見える壊れた表情。
ただ視線だけが変わらずに、凍りつくように冷えきっている。

「殺すって云ったよな、殺し尽くすって云ったよな、高槻」

云いながら、抱き締めていた守るべき人の身体を離す。
香里の身体が支えを失ったように崩れ落ちた。
ただ、自分を見ない彼を見上げる。

「馬鹿か? 殺されるのはお前の方だぜ」

ゾッと背筋も凍る押し殺した声。
静まりかえったその声音は、聞くものを氷結させた。
冷たく、ただ冷たく、暖かさなど存在すら知らないと思わせうるほどの凍りついた声。
深淵に在る絶対零度の音色。

動けなくなった身体。視線だけが張り付いたように少年を捉えつづける。
これ以上無いほど、彼の姿を見せられ、見つめて、高槻の脳裏に何かが走った。
蓄えられた記憶の海が、台風に巻き込まれたように高らかに波打つ。

知っている。
俺はこいつを知っている。


何か訳の分からぬ感情の奔流に慄く高槻の目の前で。
呆然と、何か自分が大切なものを失ってしまう予感に打ち震える香里の目の前で。

北川はゆっくりと残った右腕を懐に差し込み、何かを取り出す。
それは緑の液体が満ちた指先ほどの小さな瓶。
蓋を親指で弾き開け、躊躇なく中身を嚥下した。



―――世界が…打ち震えた。



暴れ狂っていた不可視の魔力が、真なる姿を現した。
煌めき輝く黄金の粒子。
燃えさかる聖火の如く、歓喜する竜巻の如く、黄金の粒子が渦巻き踊る。

香里は吹き寄せるその暖かな漣にゆっくりと、一度だけ瞼を瞬かせた。

眼に映ったその情景を、彼女は決して忘れないだろう。
その心震える光景を、生涯忘れる事はないだろう。

黄金の旋風の中心に立つ少年。
その未だ盛大に噴き出し続けていた鮮血が、時を凍らせたように虚空へと停止し、次の瞬間、黄金の粒子へと変換される。
渦巻く粒子の流れはやがて螺旋を描きながら、左腕の切断面へと集い出した。光芒が弾ける。
集いたる粒子は物質と化し、形を現した。
引き千切られたはずの左腕が、粒子により再構成され再びこの世に姿を顕す。
まるで感触を確かめるように指は開かれ、続いて拳と成した。
だが、その腕は人の腕にあらず。人に似た、されど決して人ならざりし魔物の腕。
高貴なほどに輝く爪を煌めかせた暴虐の腕。

そう、そして変貌は失った腕だけではない。そこに在ったはずの人間の体が、内側から変質していく。
決定的に失われ、決定的に変わって行く。否、それは真実を述べるなら、元来の姿へと戻って行くと云ってもいい。
そう、魔族の姿へと。

――魔族の姿。

薄茶の髪の毛がざわりの吹き上がり、その根元から別の色へと一瞬にして染め上げられた。

――煌めかんばかりの金色へと

その焦げ茶の瞳も色を変えていく。まるで、月が満ちるようにして。
その色もまた金色。真円を描く満月の如き黄金。
その瞳は、魔界においてこう恐れ、称えられる。

≪ルナティック・アイズ≫――狂月瞳と。





金色の魔族を包む、黄金の粒子が吹き散らされた。

香里は、自分でも壊れてしまったのかと疑うほどに震える意識を手繰り寄せ、彼の姿を仰ぎ見る。

先ほどまで柔らかげな薄茶色だった髪の毛は、今や輝かんばかりの黄金と化し、風にそよいでいる。
その瞳はまるで湖面に映る月の様に揺らめいている。

不意に、香里は森の中の涼やかな風を感じたような気がした。
そう…それはあの暑い夏の日。
柔らかに降り注ぐ木漏れ日の中で、それを見た。

―――出逢ったのだ。

忘れはしない。忘れるはずが無い。
そう、その黄金の髪の毛を、その金色の月瞳を。
かつて、自分がもっとも大切にする思い出と、もっとも大切な約束をくれた魔族の少年を。

唇が震え、自然とその名を呟き漏らす。

「ジューン…ライツ…フェンリル……ジュン…くん…なの?」

その名の響きは、戦慄とともに凍りついていた高槻の脳裏へと染み渡った。
信じられない現象に硬直していた高槻の容貌が驚愕に歪む。

「ジューン・ライツ・フェンリル? ライツ・フェンリルだとぉ!?」

押し出された叫びは紛れもない悲鳴だ。
高槻は一歩、後退り、裏返った悲鳴を響かせる。

「馬鹿な!? 馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な!? 何故だ!? あの最悪の殺戮快楽者が…【ミリオン・ジェノサイダー】がなんで人間なんかになってこんな所にいるんだぁ!?」


――ジューン・ライツ・フェンリル。

その名を知らぬ者は魔界にはいないだろう。
そう、魔界にはその狂気を知らぬ者など存在しない。

魔狼王ヴォルフ・デラ・フェンリルの創造した最高傑作有魂型魔造生命体。
先の第二十一次魔界大戦において、魔狼王と敵対した星骸冥ゾディアックの軍勢八四万七〇〇〇を一夜にして虐殺し尽くした【ワン・ナイト・ミリオン・ジェノサイダー】
【血の氷雨に佇む金色の殺戮快楽者】【絶対死の送り手】――その生来の殺戮性ゆえに数々の忌みし名を持つ禍き少年。

魔狼王の四傑死牙…唯一つの文字にて刻まれる者<一文字(オンリー・ワード)>において【(シャア)】の名を擁きし者。
それ即ち、死の体現者たるを意味する名を、知らぬ者などいるはずが無い。

だが、その名はこの場においては意味をなさず。
この場においては意味を持たず。

蒼白となった高槻を見て、魔族はその金色の瞳を細め、薄く笑った。
あまりにも深く底の見えない憎悪に満たされた静謐なる狂気の笑い。

「高槻…それは違うだろ? お前が叫ぶべき俺の名はそれじゃあないぜ。お前が呼ぶべき俺の名はそれじゃあねえ。さあ吼えてみろ、喚いてみせろ――

――お前の死である俺の名を!」


その言葉は鍵となり、高槻の奥底に封じ込められた恐怖の扉をとき放った。
蒼ざめた顔がさらに白く染まる。 絶対の恐怖が言葉となって彼を穿った。 すべての違和感が…絡み合った真実の糸が、ほどかれ姿を露わにする。
無意識に、見ないようにしていたその姿…忘れられるはずがない。消せるはずなどどこにもない。

その黄金の髪を忘れるはずが無い。
その月の輝きを宿した双眸を記憶から消せるはずが無い。

あの金色の悪夢を忘れるはずなど在りはしない。


そうだ! 自分を殺したその少年を忘れるはずなどあるものか!!


「おぼえて…いる…お前…お前のその髪の毛…その金色の眼! 知ってる…知ってるぞ……覚えてる…うそ…だろぉ!?」

声を上ずらせ、狂ったように首を横に振る。

「そんな…そんなはずはねえ、嘘だ、嘘だぁぁ! お前は死んだはずだ! 俺が殺した、殺したんだ! 殺したんだ! 殺したはずだ北川潤!!」

ありったけの恐怖とともに絶叫する。


「死んだはずだぁ、スレイヤァァァァーー!!」



殺戮者と呼ばれた少年は、透き通るような笑みを見せ、告げた。


「俺はお前を殺すと云った。なのにお前はまだこの世にへばりついている。なら、お前の死である俺もまたこの世に在る事は不思議じゃねえだろ?」


見開かれた黄金の瞳が鮮やかに煌く。


「復讐の連環も、永久なる悪夢もここまでだ。連環は途絶え、夢はいつか覚める。例えそれが終わらない悪夢だとしても…。
過去は過去…俺たち過去の亡霊はこの世に在り続けるべきじゃない。歪みは正されなきゃならない。高槻、今度こそお前を殺す。完膚なきまでに殺し尽くす。三度目は無い、三度目は許さない」


金のプロミネンスが渦巻く中で、物語の終焉を告げる鐘の音が鳴り響いた。


「さあ、終幕の刻だ」








   …続く





  あとがき




八岐「……あーあ、なんかもうやっちまったって感じだな」

栞「一つ訊いていいですか?」

八岐「いいよ、なに?」

栞「祐一さん達の方、これより盛り上がらせる自信あります?」

八岐「ふっ、ボクの力量を信じたまえ」

栞「いきなり地面に掘った穴に頭突っ込んで小声で自信無さげにぼそぼそと云われても信用できません」

八岐「鋭意努力します」

栞「…官僚答弁ですね」

八岐「さて、次回はなんと76話」

栞「今回が75話だったんですから当たり前です。全然出来てないからって誤魔化さないでください!」

八岐「あうー」

栞「そういう訳なので、皆様ゴキゲンヨウ」


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