魔法戦国群星伝





< 第七十四話 邪鬼は嗤う >






グエンディーナ大陸中央部 失われた聖地





―――空が、視えた。


世界から切り離される感触。脳味噌をかき回されるような感触に意識が歪む。
だが、それは刹那の出来事。
あやふやな感覚はすぐさま明晰さを取り戻す。

途端、自分の身体を捕まえていた腕が急に離れた。

事態を認識する間も与えられず、まるで物のように無造作に地面へと放り捨てられた美坂香里は、咄嗟に受身を取りながら法衣を土に塗れさせつつ転がった。
地面に打ち据えられた脇腹が、微かに痺れるように痛んだ。

苦痛、そして自分でも分からない混沌とした感情を胸に、香里はその形の良い眉をしかめた。
横たえた目線のすぐ側には草一本生えていない浅黒い地面が広がっている。
何もかもが疲れ果ててしまったような草臥れた芳香が刹那、鼻をくすぐった。その灰色の香りと未だ鼓膜を震わせ続ける寂寥とした風の音、そして伝わってくる戦いの喧騒から、香里は自分がまだあの聖地という名の荒野に居るのだと悟ることができた。

「く…ぅ」

肺から押し出された吐息が、微かな声となって漏れ出した。
微かに、眩暈を感じて香里は瞼を閉じ、歯を食い縛った。
光が閉ざされ、闇が満ちる。その闇の中で、彼女は心に点を穿つように滲んだ小さな翳りを意識した。
瞼を閉じていたのは、瞬きと変わらぬほどの僅かな時間。
そして瞳に映るは、先程までとは何も変わらぬただの荒野。だが、香里は苦味を覚えるように反芻する。
果たして、自分がこの地に足を踏み入れた時、これほどまでにこの地を不気味と思っただろうか……。

まるで……賽の河原。

生きるものの気配の無い、死の大地。今の彼女の瞳に映る情景は、まさにそのようなものだった。

今、心の底から湧きあがる言い知れぬ感覚が、全身を這いずり回る。

香里は唇を噛み締めながら、手を地面につき、身を起こした。
自分の体の動きを確かめるように、指一本に至るまでの動作に慎重に意識を張り巡らしながら、香里は自分でも驚くほど素直に、この不安感の理由を受け入れた。

そう…今この場に、私の隣に彼が居ない。
ただ、それだけの事で、自分の心は安定を失っているのだと。

「私も弱くなったものね。それとも、元々そうだったのかしら」

自分に語りかけるように、唇で囁く。
そうなのだろう。きっと、そうなのだろう。自分はずっと弱かったのだ。それを押し隠し、心の奥底に覆い被せてこれまで生き続けてきたのだ。
だが、香里は同時にささやかな満足を覚えた。
例え、不安を感じていようとも、少なくとも自分の心が挫けていない事を確かめる事が出来たから。
そうだ。かつて自分は誓ったのだから。
強くなると。あの少年に胸を張って守ってもらえるだけの強さを手に入れるのだと。

自分は誓ったのだから。


香里は法衣に纏わりつく汚れを振り払うように、袂をはためかせながら膝をつき、キッと貌を上げた。

視界に蒼い空が映る。
視界に黒い大地が映る。
視界に白い男が映った。

蒼と黒の境目に、その男は浮かんでいた。
処女雪のように真白い長衣に身を包んだ男。
その純白さはあまりに男にそぐわず馬鹿げていて、同時にその純白を踏み躙るが如き男には至極似合っていた。

怖気が―――走る。

頬が自然と引き攣った。心臓に棘を差し込まれたような、嫌悪感を覚えて。

湧き出すように一つの単語が浮き出てくる。

―――邪悪

香里には分かった。確信する事ができた。

ヤツこそが、邪悪という言葉そのものの存在なのだと。


その歪み切った口元が。
その禍き気配が。
その自分を弄ぶかのように舐め尽す、その鳥肌の立つ粘つく視線が。

―――嫌だ。

私をその目で見るな――
私の前に立つな――

嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――――嫌だ。



身体の奥で、
心の深遠で、

何かが震えた。

その男の禍き姿を眼にした瞬間、自分の根源を構成する何かが震えた。


―――その何かを魂と呼ぶ事を香里は知らない。



乱れかけた呼吸を意識して整え、ようやく表面上だけながらも平静を取り戻し…気付いた。

「お前は…そうだ、見覚えがある。お前はあゆちゃんを攫った…」

吐き気すら覚えながら、男の容貌をまぢまぢと見つめた香里は遥か昔にすら思える、つい先日の事件を思い起こした。

クセのある髪の毛。爬虫類にも似た険のある目つき。歪んだ口元。
この男本人ではなかったが、この男と同じ姿のモノを確かに見ていた。

邪悪が邪笑を深め、その歪んだ口を開く。

「オレのドッペルを見ていたか。だが、オレ自身とは初見だよなあ、お姫様…いや、女王様か。改めて、はじめましてと言っておこうか。もしくはお久しぶりと言うべきかな?」

ヤツの言葉がグルグルと頭を巡った。
香里は痛む脇腹を抑えながら、押し出すように零す。

「久しぶり…ですって?」

返って来るのは飽くなき嘲笑。
自分以外のすべてのものを嘲り、貶める傲慢なる笑い。
この男は常に嘲笑を浮かべなければ、気が済まないのか。

「そう、久しぶり。尤も、今世ではやはりはじめましてなのだがね。まあ、どちらにしてもちゃんとした挨拶はしてないわけだ」

クククッ、と喉を震わせ、男はユラリと大仰に右手で弧を描くと、優雅に一礼する。

「高槻と申します、女王様。お見知りおきを。そして魂にこの名を刻みな。死んでも忘れねえようにな」

クヒャハハハ、と何が楽しいのか仰け反って哄笑する高槻に、香里は嫌悪感も露わに、吐き捨てるように怒鳴り声を叩きつける。

「何だって、アンタの名前なんか覚えなきゃならないのよ!」
「そりゃあな、簡単だよ」

呼吸を引き攣らせ、笑いの余韻を響かせながら、血のように紅い舌が、ベロリと伸びる。

「長い付き合いになるからなあ」

肌を刺すような悪寒に思わず身を掻き抱き、一歩後退る少女に、高槻はわざとらしく肩を竦める。

「おっと、勘違いするなよ。お前を飼おうって意味じゃねえ。そんなに怯えなくても、すぐに殺してやるよ。ちゃんと犯し尽くして、精神なんてもんを壊してからなあ!
へへへ、そうだ。もっと絶望的な意味だよ、お前にとってな。これがオレの復讐って訳だ。感謝しろよ。ああ、でも飽きるまで飼うってのもいいかもなあ。長い間待ち尽くして、一瞬で終わっちまうのも勿体無さすぎるか?」

香里は無言だ。返す言葉もない。そもそもこのイカレた男の発する言葉をまったく理解できない。

 復讐?
 感謝?

意味が解からない。


ただただ嫌悪だけが増殖する…し続ける。

「そうだよ、ちゃんとお前を屈服させてやらないとなあ。そうだそうだ。前だって最後まで逆らいやがって、生意気にもよう。へへへ、今度はそうはイカねえぜ、心の底からオレ様に跪かせてやる。
クヒャハハハ、この先女王様なんぞに生まれ変わる事なんかねえだろうしよ、こりゃあまたとないチャンスだよなあ、女王様を屈服させるんだぜ!? キャハハハハ!」

意味が……解からない。


 以前? 
 ――こんな男なんか知らない。

生まれ変わり?
 ――訳が解からない。


ただ、酷く…不快。

耐え切れないほどに…不快。
吐き気が…する。


嗚呼……

震えている、震えている。

心の奥底で――精神の深淵で

消された記憶の微かな残滓が、震えている。




「う…く…」

香里は膝に力を込め、足元の砂利を踏みしめた。
背筋を伸ばし、意思を固め、拳を握り、息を吸い込む。
理不尽に逆らうように、気高く、凛と―――睨みつける。


関係ない。
内側から押し寄せてくる不快な震えも。
目の前のイカレた男が語る言葉も、内容も。
すべてが関係ない。

やるべき事は何ひとつ変わってなどいないのだから。

自分の知らない事が在る。
だけど、そんな事は知りたくもなかった。

ただ求めるものは一つだけ。
それ以外は何もいらないのだから。


こいつはガディムの手下。憎むべき敵。倒すべき敵。それ以外の何者でもなく、それ以外の何者でもあってはならない。
そうだ。倒すべき敵…それ以上の意味は無い。
最初から変わっていない。

例え、自分の中の何かがどうしようもなく凍えていようとも。

「その下卑びた声で語るのを止めなさい、とても耳障り…そして不愉快だわ」

後ろ腰に帯剣していた精製魔銀の剣を鞘から引き抜きながら、香里は吐き捨てる。
ありったけの侮蔑と嫌悪を込めた言葉。その声音と感情は無音の領域の中で叫んだように、荒野へと響き渡った。

狂笑が断ち切れるように途切れた。
歪んだ高槻の眼差しから、笑みの気配が陽射しに雲がかかるように影を潜める。

「お前……誰に向かって口聞いてるんだ?」

静まり返った声音。それゆえに、逆に言葉に宿る険が浮き彫りになる。
その眼差しに危険な光が閃く。
危険な兆候。

それを香里は真っ向から睨み返した。
一歩も後ろへと退かず、得も知れぬ感覚にあがらうように。

だが、それは暴挙だ。
結局、香里には冷静さなど微塵も残っていなかったのだ。

相手はラルヴァたちを従える上級魔族。それも水瀬城で皆を手玉に取った異能の悪魔。
それを目の前にして、相手の感情を逆なでするような罵声を浴びせる。無謀どころの話ではなかった。
香里の実力ではどう逆立ちしようとも勝てる相手ではない。そんな初歩的な事すらも頭が回らないほどに香里の氷に例えられる冷静な思考は完全に消え去っていた。

だが、それは仕方なかったのかもしれない。
それはどうしようもなかったのだろう。

香里にとって、この男の何もかもが我慢ならなかった。
癇に障らずに居れない男の声に、身を震わさずに居れない男の気配に、射竦まずには居れないその禍々しさに。
吹き上がる激情を、抑えるという事すら思い浮かばなかったのだ。
そして、本来なら自然とその炎熱を散らしてくれるかもしれなかった少年は傍らには居らず、香里は後先考えず、暴虐の使徒に真正面から立ち向かってしまったのだ。

その無謀の代償はすぐに払わされた。

空気を割る音が聞こえたと思った瞬間、香里は喉に激痛を感じ、呼吸が強制的に途絶させられる。
高槻の、血管が切れたような怒号が否応無く耳に飛び込んできた。

「誰に向かって口聞いてるんだって聞いてんだよっ! ああッ!? てめぇ、自分の立場が分かってるのかよ、小娘がッ!」

香里は急速に剥がれ落ちていく意識の中で、必死に喉元に両手をやる。自分の首を締めている何かに、掻き毟るように指をねじ込み、僅かな隙間を空ける。
カチャンと手放した銀剣が転がる音がした。それと時を同じくして、何とか空気が肺へと流れ込んでくる。なおも締め付けてくるそれを歯を軋らせながら抵抗する。
思わず瞑ってしまっていた目蓋を押し開き、香里は自分の首に巻きついているものを見た。

赤黒い…鞭。いや……

香里は苦しげに双眸を薄めたまま、視線を鞭に辿らせていく。
その鞭は、高槻の右手の掌……その付け根から肉を割り裂いて飛び出していた。

それは……触手としか言い様の無いグロテスクさ。いや、まさしく触手そのものだ。

触手を自在に引き絞りながら、高槻が言う。

「お前はよぅ、オレ様の玩具なんだぜ!? 解かってるのか? 玩具が持ち主に逆らってどうすんだよ。バカじゃねえのか? ったくよ、お前は前だってそうだった。オレに抵抗しやがって、逆らいやがって。ハハッ、こりゃ、オレ様がちゃんと教育してやらねえとなあ。それとも調教って言うのか?」

辛うじて呼吸が出来るだけ。意識は掠れ、言い返す事すら出来ない。
それに一瞬でも両手の力を緩めたなら、自分の首に巻きつく触手はすぐさま自分の首をねじりあげるだろう。
香里は身動きすら出来ぬ状態のまま、それでもなお、苦しみの中に激怒に塗れた眼差しで高槻を睨みつけた。

「ははぁぁ」

その眼差しに晒された途端、高槻の唇がヌラリと三日月を描き、双眸が欲情に濡れそぼる。

「そうだ、その眼だ。その眼が気にいらねえ。生まれ変わっても、姿が変わっても、その眼だけは変わってねえ。その眼でオレを見やがったからこそ、殺ったヤツなんざ微塵も覚えてねえオレがお前を忘れられねえのさ!
そして……」

高槻は手の空いた左手を掲げながら、真っ赤な舌をベロリと伸ばす。

「その眼を屈服させてやるのが今のオレ様の悦楽よ」

ピシリッと空気が打ち据えられる音。高槻の左手の掌の付け根が弾け、中から伸びた触手が唸りを上げる。
赤茶けた触手は身動きの取れない香里に容赦無く襲い掛かった。

「くぅ!」

鞭は香里の首元から真一文字に真下へと振りぬかれ、それに伴い彼女の法衣の胸元が縦に引き裂かれる。
繋がりを失った法衣が力無く垂れ下がり、香里の雪のように白い肌が冷たい空気の元に晒された。

「くひゃははは、いい胸してやがるじゃねえか」

男の好色に満ちた声をあせびられ、香里の顔が屈辱に歪んだ。

「おいおい、それじゃよく見えねえじゃねえか。もったいぶってねえで、全部見せてくれよ」

高槻が実に楽しそうな嘲笑いを周囲に響かせる。
吹きすさぶ寒風が香里の法衣を舞い上げるが、その豊かな胸の峡谷が覗く以外は重たげな法衣の布が風にあがらい、覆い隠す。

「ふざ…け…でよ…ねッ、誰が…あん…たなん…かにッ」

途切れ途切れながらも、揺るぎもしない意思の篭もった吠声。
その視線たるや、意志薄弱なものが晒されたならば即座に心停止しかねない怒り狂った眼差し。
無論、高槻には何らの痛痒も与えない。
所詮は檻の中の獣。無駄な足掻きというものだ。
いや、さらにこの男の嗜虐心がくすぐられ、愉悦に満ちた快感を抱かせる。

「いいぜいいぜ、今の内に吠えとけよ。すぐにいい声で鳴かせてやるからな。さて、そろそろ剥いてやろうか、裸になあ!」

香里の瞳に見せつけるように左手の触手を伸ばしてゆっくりと頭上で躍らせる。
そのおぞましい笑みに、香里は耐え切れないほどの悔しさに唇を血が滲むほど噛み締めた。

「アハハハハ、そら、良い声で悲鳴をあげやがれ!」


  タキュン!


「オアッ!?」

高槻という外道の望むがままに進む舞台。その閉幕を告げる鐘の音は、一発の銃声。
今、まさに香里めがけて解き放たれようとしていた触手がいきなり千切れ飛んだ。
そして高槻が驚きの声を上げた瞬間、さらに二回目の銃声が轟き、香里の首を締めていた触手もまた打ち抜かれ、断ち切られた。
いきなり拘束を解かれ、香里はたたらを踏みながらも膝を付き、巻きつく触手を引き剥がして痛む首筋を抑えながら苦しげに顔を上げた。

「レミィ…さん」
「チィ、これからって時によ」

忌々しげに吐き捨てる高槻の視線の先には、普段の能天気な笑顔もなりを潜め、口元をへの字に曲げた金髪の少女が立っていた。

「ヘィ、おっさん。それはレディに対する所業じゃないネ」
「おいおい、もうラルヴァどもを片付けたってのか?」

呆れたように左眼だけを器用に見開いてみせる高槻に答えたのはレミィではなかった。

「あいつら脳味噌無しのバカばっかだからね。あたしらみたいのだと、実は人間相手よりよっぽど楽なのよ」

レミィと逆の方から発せられた低く抑えた声。そこにも彼女の――柚木詩子のいつもの弾むような声音は無い。
高槻は風の流れは背後に感じ、チラリと視線を走らせた。
巨大な紙の鳳の上に立った少女の姿。上月澪だ。

敵意も露わに自分を囲む少女たち。
高槻はやれやれとばかりに目蓋を下ろし、肩を竦める。

「お前らよ、解かってんのかな…オレ様は今、お楽しみの最中なんだよ。邪魔しないでくれるか?」

「イエスなんて―――」
「言うと思ってんのッ!?」

レミィが二挺の銃を勇壮に掲げ、詩子が指を大きく広げながら両腕を前で交差させる。
高槻は粘りつくような視線で三人を順繰りにねめつけながら、ポツリと呟く。

「オレって奴ぁな、まず料理が目の前に出されたらメインディッシュから平らげるのよ。それこそ他の料理なんざ目もくれずなぁ!」

ギィィと牙が剥かれ、邪笑が張り付いた。

「つまり、貴様ら雑魚は後回しだ。しゃしゃり出てくるんじゃねえ!」
『雑魚じゃないの!!』

言葉の代わりに、澪の身体から髪の毛が逆立つほどの殺意が迸った。
途端、いつの間にか放っていた十数本を越える紙の長槍が天空から豪雨の如く降り注ぐ。だが、それらは虚しく大地に刺さるのみ。弓から放たれた矢のように身を翻した高槻は、地面すれすれを滑るように翔び、両手に黒い炎を握りながら澪めがけて踊りかかった。

「紙は紙らしくさっさと燃えやがれ!」
「ミオ!!」

研ぎ澄まされたその眼差しはまさに鷹。狩人の瞳で、高槻の機動を捉えたレミィが、浴びせるように光弾の雨をばら撒く。

「うぜえんだよ!」

叫ぶや否や、高槻の背から生えた黒い皮膜の羽に黒の炎が宿り、その黒炎翼の一振りで光弾が弾かれた。

「Shit!?」

弾かれた光弾が地面を穿つのを見るまでも無く、レミィは罵声を上げながら駆け出した。

効かないなら、接近戦で急所をぶち抜いてやる!


一方の狙われている当事者である澪は、慌てて距離を取ろうと紙鳳を空へと舞い上がらせる。
同時に高槻めがけて紙刃片の嵐を置き土産に見舞う。

「だからうぜえっつってんだろうが! 聞けよ、コラ!!」

バン、と爆発するように高槻の皮膜の翼が燃え上がる。羽は黒き火焔を渦巻かせ、黒き炎の熱風を紙刃片の嵐へと叩きつけた。
恐らくは強力な魔力の炎。並みの魔術では焦げすらもしない、澪の紙が一斉に燃え上がる。
巻き起こる爆炎の上昇気流にあおられ、澪がバランスを崩した瞬間、その炎の中から黒い翼の白い男が凄まじい速さで飛び上がってきた。

「ハッハァ、燃えやがれ、紙屑がッ!」

避ける間も無く現れた高槻は、哄笑とともに両手に黒炎を燃え上がらせたまま、紙鳳の頭を握りつぶした。
紙鳳の悲鳴も一瞬。その巨大な身体は瞬く間に崩れ去り、一気に黒き火達磨と化した。

「澪ちゃん!」

下からその様子を目の当たりにした香里は血相を変えて、紙使いの少女の名を叫んだ。
燃え落ち、火焔の簾を大空に描く紙鳳の残骸。
天空から、そのさまを嘲りとともに見下ろしていた高槻は、身体を傾けると地上に向けて加速した。
目標は、火焔にまぎれるようにして、ゆっくりと下へと降りていく澪。
『浮』と書いた紙を周囲に浮かばせ、慎重に地上を目指していた澪は、降り注ぐ殺気に表情を歪ませながら、上を見上げた。

拙いの!

幾ら身軽な彼女とは言え、こんなまともに動きすら取れないところに攻撃を受けたら避けようが無い。

澪は懐から紙の束を取り出し、目にも止まらぬ速さで全てに文字を描き、迫る高槻に向かって投擲した。
『飛斬』と書かれた12枚の紙は、高音を撒き散らしながら高速回転しつつ、高槻に四方八方から襲い掛かる。
鉄をも切り裂く、魔の紙刃。だが、高槻はまったくスピードを緩めず、両手を左右に振り翳した。

「ひゃっほう!」

叫ぶと同時に両手から飛び出す無数の触手。見るからにグロテスクな触手の束は次の瞬間、赤黒い閃光と化した。
うねり、疾り、振り乱す。
唸りをあげて迫っていた魔紙は一枚残らず木っ端微塵に打ち刻まれた。

「……!!」

澪が声の無い悲鳴を上げた。
突風と共に澪の正面に現れた高槻が引き攣ったような笑みを投げかける。
イソギンチャクを彷彿とさせる触手の束が一つに束ねられ、肉の槍と変貌した。

「まずは…お前か!?」

澪は咄嗟に浮紙を破り去った。途端、重力の手が澪の身体を引っ張り寄せ、槍は間一髪彼女の髪を散らすに終わる。
だが、それで全ての災厄から逃れきったと思うにはあまりに早計だった。
躱されたと見るや、高槻は電光のように身体を沈ませ、地面へと降りようとしている澪めがけて凶悪極まりない爪先蹴りを彼女の腹部めがけて叩き込んだのだ。
この瞬間に澪が内臓をぶち破られて死ななかったのは、偏に澪が咄嗟に紙で高槻の蹴りを抑えようとしたのと、高槻の身体に巻きついた糸が彼のバランスを微妙に崩しせしめたお陰であった。
だが、紙とはいってもそこにはまだ何も書かれていない白紙。澪の小さな身体は情け容赦無く地面へと叩きつけられ、地面に小さなクレーターを作り出し、ピクリとも動かなくなった。

「澪ちゃん!」
「ノォォォ!!」

香里とレミィの悲鳴が、枯れた風の吹く荒野に流れた。
慌てて倒れ伏す澪に向かって駆け出す香里。それを目に留め、一瞬自失していた詩子が我に返る。

「あ…あんたぁぁ! よくも澪ちゃんをぉぉ!」

恐らくは、里村茜ですら見たことが無いであろう修羅のような形相で絶叫した詩子は糸で絡めとった高槻を引き摺り倒そうと、両手を引き寄せながら咆哮した。

「焼け焦げろ! 蜘蛛乃部魔樂法『尖雷糸』!」

途端、地鳴るような炸裂音が轟き、彼女の指から伸びる糸伝いに紫色の凄まじい魔雷が疾った。
同時に糸に引き摺られるように地面近くに下りてきた高槻めがけて駆けよりながら、レミィが銃を乱射する。

「効かねえ、っつってんだろがぁぁ!!」

その声自体が力。咆哮は衝撃となり、周囲に吹き荒れる。
肉に食い込もうとしていた妖糸が引きちぎれ、竜ですら一撃で焼き尽くすはずの紫電の束はあっさりと弾き飛ばされ、レミィの銃弾もまた力任せに薙ぎ払われた。
もうもうと立ち込める土煙。
そいつは、その中から悠然と現れた。
男は彼女らを嘲笑うかのように身体をゆがめ、笑い狂う。

「クヒャハハハ、そんなにオレ様に遊ばれたいのかよ、小娘ども。いいぜいいぜ! それほどオレによがらせて欲しいなら先に犯ってやってもいいぜ、淫乱娘どもぉ!」
「シャラァァァップ! さっさとおっ死ね豚野郎!」

罵声と共に、レミィは神速の域に達する速射を行った。
三秒で32発の光弾が蒼と金色の銃から発射され、その全てが寸分の狂いも無く高槻の心臓部分を狙い打つ。
重厚に張り巡らされた対魔術結界。よほどのレベルの高位魔術でなければ突破できないそれを、光弾の連なりは全く一ミクロンも違わぬ場所へと突き刺さり、二八発目が炸裂した瞬間、壊れぬはずの結界にとうとう穴が開いた。
残る四発がその穴を潜り抜け、高槻めがけて牙を剥く。

「ぬお!!」

咄嗟に身を捌く高槻であったが、結界への過信からかその動きは致命的に遅れ、光弾は高槻の胸板をぶち抜いた。
グラリと高槻の体が揺らいだ。結界が、硝子の砕けるような綺麗な音とともに砕け散る。

「もらった!」

詩子の歓声が辺りに響く。同時に高槻の背中の皮膜が引き裂かれた。

「細切れになんなさい!!」

声を跳ね上げ、引き攣るような笑いを浮かべながら、詩子は指を躍らせた。
高槻の体中に線が生まれる。

「おおおおおおお!?」

線から血が滲み出したと思った瞬間、溢れ出るように血の奔流が噴き出した。
どこに入っていたのかと思うほどの血液が地面へとぶちまけられる。
その血に濡れて泥と化した大地に、輪切りになった高槻の身体が転がった。

怒りもまだ収まらぬ面持ちで、その残骸に歩み寄ったレミィは苦々しげに唇を曲げた。
高槻の胸から上の上半身が、まるでデッサン用の石膏像のように地面に転がり、パクパクと口を開閉している。

「まだ生きてるネ。さっさとくたばりなサイ、ビッチ」

銃爪を一度だけ絞る。パン、と風船を割るようにして紅い花が咲いた。

香里の悲鳴に似た絶叫が発せられたのはその瞬間。
レミィの六感すべてがあらん限りの警鐘を狂い鳴らしたのもその瞬間。

「レミィさん!!」

レミィは取り巻く大気に渦すら残しながら背後を振り向き、確認すらせず引き金を引きまくった。
手応え無し。続いて漸く追いついた視覚が誰も居ない事を確認する。
両手が勝手に跳ね上がった。研ぎ澄まされた神経が、思考を介さず身体を動かす。
敵は頭上! 顔を上げる間も惜しみ、銃弾をぶちまける。
発砲音が鼓膜を叩き、視界の上からのマズルファイアが眼を焼く。

慌てて、糸を繰り出そうとしていた詩子は見た。
蒼の銃から放たれた光弾を魔力を込めた掌で弾き逸らし、もう片方の手から伸びた触手で金色の銃口を高槻が逸らした様を。

「レミィィ!!」

自分の名を呼ぶ詩子の叫びは、ガシリと顔面を掴まれた衝撃で彼女にはよく聞こえなかった。
ただ、口元でヌラヌラと蠢く触手の気色悪さと、頭蓋に食い込む指、そして耳元に囁かれた虫唾の走る声だけが良く解かった。

「でけぇ胸だな、お前。ククク、後で存分にそいつで遊んでやるよ」
「アアアアアアアアア!!」

苦痛に満ちた悲鳴が戦慄いた。
一気に掴んだ手に力が込められ、頭が軋みを上げ、激痛が暴れ狂う。
まるで、スイッチを切ったように限界まで見開かれていたレミィの瞳から光が消えた。

クタクタと崩れ落ちるレミィ。その正面で、ベロリとレミイの顔を掴んでいた自分の掌を舐める高槻。
と、その空いていた方の左手が跳ね上がり、手首の先―掌の付け根から溢れるように飛び出した赤黒い触手の束がまるで楯のように円形に広がった。
それに絡みとられているのは、陽光に薄く輝く銀の糸。
ニタリと高槻が笑った。

「レミィは…」
「生きてるぜ、オレはメインディッシュから食べる方だが、食べ残しはしないんでな」

押し出すような自分の声に、返ってきた高槻の答え。その意を理解し、詩子の奥歯が軋みをあげた。

「さっき殺ったのは…偽者って訳ね」
「厳密には偽者って訳でもねえ。時間限定だが能力的には本物と変わらんぜ、オレはドッペルと呼んでる」

香里は倒れ伏す澪の傍らに膝を付きながら、その言葉を聞いた。

あゆちゃんがさらわれた時に北川君が斬った…あれが…。

高槻は楽しげにケタケタと笑う。
笑いながら言った。

「まあ、だが問題はどこにでもあるもんよ。ドッペルは魔力なんかの力を使いすぎると崩壊も早い……」

反応を確かめるように言葉を切り、引き裂くように唇を歪めた。
そして可笑しくてたまらないと云う風に双眸に愉悦を滲ませると、馬鹿にしたように両手を広げて云った。

「…ほら、こんな風に」

言うや否や、高槻の輪郭が崩れ、ドロリと溶け始める。

「うそ!?」

ザッと頭から血の気が失せる音が聞こえた。

驚愕に浸る間も無かった。
詩子は背中にトスッという重みの無い音を感じた。
全身を駆け巡る感覚。一拍の間を置き、それが激痛だと理解する。
愕然と、無意識のまま視線を落とす。
見れば、肋骨の隙間から赤黒い触手が突き出て、ウネウネとうねっている。

不気味…そんなものが自分の身体から顔を覗かせている現実に非道く吐き気がした。

背後から、粘り気のある声がする。

「つまり、そっちもドッペル。オレが正真正銘の本物って訳だ」

触手が勢い良く引き抜かれた。コポッと血がこぼれて来る。出血の量は少ないものの、みるみる服が紅く染まっていった。

「急所は外してやったぜ。オレって優しすぎるよなあ、ヒャハハハハ。せいぜい後で恩返ししてくれよ〜」
「ちく…しょう」

罵る言葉も力無く、その一言だけを残し、詩子は地面へと転がった。


「ふーっ。ケッ、ったくよう。邪魔してくれやがって、ムカツキやがる。男なら即座にぶち殺してやったのによ。後で覚えてやがれよ」

無造作に軽く倒れる柚木を蹴り上げ、高槻はゆっくりと貌を一人残った少女に向けた。
香里はか細く苦しげな吐息を漏らしている澪の傍らから立ち上がると、彼女を巻き込まぬようにゆっくりと距離を取った。

強い。

それが香里の脳裏によぎった苦痛だった。

私一人じゃ、敵わない。

それが遥か以前にたどり着いてしかるべき結論であり、現状での絶望だった。

「さて、仕切り直しと行くとしようか。だがな……」

高槻は不機嫌そうに目じりを吊り上げると、湧き上がる感情を制御できないように荒々しく癖のある前髪を掻きあげた。

「少々邪魔が入ってオレも頭にキちまった。女王さまよぉ、八つ当たりの相手になってくれねえかねえ!」

ブラリと垂れ下がった右手から、ゆっくりと触手が一本だけ伸びる。だが、次の瞬間その触手はうねるように身悶えすると、その長大な身体の全身に禍禍しい刃を生え揃えた。

「ハッハーー、服といわずお前のその真っ白い肌も一緒に刻んでやるよ! 痛みによがる声ってのはさらに良い! さあ、オレに聞かせてくれよなぁ!!」

叫ぶや否や、高槻は叩きつけるように右手を振り下ろす。
刃の鞭は唸りを上げながら伸びた。
その速さたるや弾丸と見間違うほど。
とても躱せる速度ではなく、また躱そうとしたところで高槻の手元の動きで自在に変化する触手から逃れられはしなかった。

瞬く間に眼前へと迫るその悪意の具現――
自らの肌を切り裂き、肉を抉り、決して消えない傷痕を残すであろうその悪意を、香里は瞬きすらせず睨み続けた。
少なくとも、その悪意にだけは屈せぬように。



故に――



自分の前に立ち塞がる人影に、最後まで気がつかなかった。



唐突に、視界に影が降りる。
微塵も予想だにしていなかった出来事に空白となる意識。だが、それを心のどこかで期待してはいなかっただろうか。
茫然と、そんな事を考える香里の視線の先で、自分を切り刻むはずの刃鞭を遮るようにして躊躇無く左腕が伸ばされたのが見えた。
ただ、見ているだけしか出来なかった。


飛沫が……香里の頬に走った。


「き、た…くん」
「……美坂」


どうしようもなく震える眼差しと、感情が失せ、鈍く濁った眼差しが交錯した。
その濁りが一瞬晴れる。
彼の視線が、切り裂かれた法衣を見つけ、引き攣るように小さく見開かれた。

だが、香里には彼のそんな小さな変化を見つける余裕など欠片も存在しなかった。


声に…ならない。

言葉に…ならない。


その視線は彼の腕に縫い付けられる。
もう言葉を漏らさない少年の、その左の二の腕に、蛇のように巻きつく鞭。
牙のように生え揃った刃が幾重にも彼の腕の肉へと食い込み血を滴らせている。
香里を切り裂くはずだった悪意の具象が、彼の腕に喰いついている。

「来たかい、女の護衛者! だがよ、いいとこで邪魔すんじゃねえ! ちょっとどいてろ!」
「やめ――」

次に起こり得る事象を悟り、香里は制止の悲鳴を上げようとした。
そして手を伸ばす。
間に合わない。そして、間に合ったとしても意味が無い。

高槻は、無造作に、そして渾身の力を込めて、鞭の柄を引き絞った。



「い…いやあああああ!」

無力な悲鳴が迸る。



その世界はただひたすらなまでに紅く、紅く――


――鮮血は舞台に上がった役者の如く踊り狂っていた。

















悪夢は覚めず
悲劇の連環は未だ途切れず

そして 終幕の鐘の音は―――



…続く






  あとがき


栞「うわわわっ」

八岐「どったの? 慌てて」

栞「お姉ちゃんがセクハラされてます!」

八岐「……セクハラという段階でもないような気がしますが(汗)」

栞「うーっ、変態です、八岐さん!」

八岐「え? 俺? なんで? やってるの高槻やん」

栞「書いてるのはあなたです! 欲望が滲み出てます!」

八岐「……いや、生憎と触手はあんまり」

栞「えぅぅー、私もきっとあーんな事やこーんな事されちゃうんですよ〜」

八岐「いや、それは無い」

栞「なんでですか?」

八岐「君、もう登場しないから」

栞「…………」

八岐「…わはは」

栞「死を覚悟した事はありますか?」

八岐「じょ、冗談ですよ。エピローグには霞のように微かに登場の――」

栞「それはトドメですかぁぁ!」

八岐「ハシッと天空より降り注ぐ刃を白刃取りする八岐であった」

栞「えぅぅ!」

八岐「さて、次回は?」

栞「はぁはぁはぁ……じ、次回は、ああもうこれラブストーリーです、きっと」

八岐「群星伝第75話『金色ナリシ狂ノ月』…はあ、もう主役とヒロインが誰とか言わずもがなですなぁ」

??「うぐぅ!」

栞「…って、今へんな鳴声聞こえませんでした?」

八岐「聞こえませんな」

??「うぐぅっ!」

栞「そうですね。ヒロインを自称するならせめて人語で喋れってなもんです」

八岐「そう云うわけで、また次回までさようなら」

栞「次は早めにお目にかかれそうです。それでは〜」

??「うぐぅぅぅぅぅ!」




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