魔法戦国群星伝





< 第六十七話 トワイライト・タイム >



東鳩帝国 降山



黄昏の時は今。
すべての終焉の時が訪れようとしている。

既に陣幕を引き払い、保科智子は戦場が見渡せる場所で無言のまま視線を固定していた。
指揮剣を地面に突き立て、その柄元に両手を添えて仁王立ちに佇む智子が見据えているのは、帝国軍将兵どもの最後の足掻き。
彼らが必死に奏でている銃声は、開戦当初と比べようもなく衰えてしまっていた。

既に戦況が弾幕による阻止銃撃戦から、刀、剣、槍と牙や爪が克ち合う乱戦へと突入しかけている証拠だった。

ラルヴァの大群は銃弾の壁を突破。その凶悪な暴力を存分に揮い始めている。
『灰燼の卵』が攻撃されたのに反応したのか、その周囲から自動召喚されたラルヴァの増援もあり、既に敵の数は帝国軍の総数を大幅に上回ってしまっていた。

その情景は押し寄せる大波を健気に防ぎ、そして崩れようとしている薄い堤防そのもの。
未だ戦線が崩壊していないのかが不思議に思える状況だった。

そう…なぜならば誰もが理解してしまっているのだ。
もはや自分たちに後ろに退く場所がないことを。
ここで逃げたとしても、大陸が無くなってしまえば意味がないことを。
半ば死兵となって、彼らは戦っている。

だが、それも限界に近い。


「左翼、近衛が押し込まれてます!!」
「報告! 橋本将軍、負傷戦線離脱! 指揮権を副将に委譲し戦闘続行中!」

智子は何も云わず戦場を睨みつけている。
もはや下すべき命令は無い。
藤田浩之に全軍を任された総大将として、この場を最後まで譲らない。それが彼女に残された仕事だった。


「……?」

その時、まったく動きを止めてしまっていた智子の表情がピクリと動いた。
…違和感。
なぜか目に映る光景に違和感を覚えたのだ。

なんや?

目を細め、凝らす。

赤…?

何となく、戦場の色彩が変わってきたような気がした。
いや、間違いではない。
赤…それも朱色に近い焼けるような色。
まるで夕焼けに照らされたように、戦場が朱に染まって行く。

「夕焼けやと?」

智子は驚いて身を翻し空を仰いだ。
そして愕然と硬直する。
背後の空が、朱に染まっている。
そこは青い空ではなく、赤に覆われた焼け爛れた空。

「あほな…まだ昼過ぎやぞ!?」

それとも、うちら帝国軍の黄昏とでも云うつもりかっ!!

思考に生じた言葉に、理不尽なほどの怒りを覚え智子は思わず朱い空を睨みつけた。
そして気が付く。
背後の空を覆う赤が、その領域を拡大し続けている事に…

「夕焼けや…ない?」

当たり前だ。常識で考えれば夕焼けであるはずがない。
なら、何だというのだ?

智子の意識が困惑に満ちる。
次の瞬間、レンズ越しに空を睨んでいた智子の目が限界まで見開かれた。

「……あ…あれ…まさか…」

眼鏡によって矯正された視力が、あの朱色の正体を見極めてしまったのだ。
ポカン、と無意識に口が半開きになる。
そのまま彼女は眼鏡を外すと、眼を擦りもう一度眼鏡をかけて空を見た。
光景は変わらなかった。

「あほな…あれ全部……か?」

人の頭ほどの大きさの朱色の球体。それが夕焼けに見えた空の朱の正体。
空を埋め尽くすその全てが朱色の球。

智子は知っている。
そして多少なりとも魔術に近しい者なら誰でも知っている。

爆裂球(ブレイク・ボール)

攻撃系魔導術としては基礎的な初級魔導術だ。威力も決して高いモノではない。
だが…だが…

「なん…やねん…あの数は……」

空に浮かぶ朱球の数は、有に十万を越えていた。












その丘に響く音色は、風の精霊を自然と躍らせるような涼やかな調べ。
その笛の音に似た響きは、一人の女性の唇から零れている。
漆黒のローブを纏い、黒い高帽子を被ったぼんやりとした面差しの女。
歌を送り出すように両手を天に掲げ、涼やかな調べを奏でる彼女――来栖川芹香を人は畏怖を込めてこう呼ぶ。

――静寂の魔導師(シュティーレ・ツァウベラー)

彼女の唇からもれ出る音は、呪。
言霊を圧縮し、呪文詠唱を超高速化した圧縮呪唱だ。
その呪の音に導かれるように、遥か天高くに爆裂弾が溢れていく。
あの程度の初級魔導術ならば、僅か一音で一度に十個は発現できる。
その圧縮呪が延々と歌われているのだ。空は波紋が広がるように、朱色に染められていく。
以前記述したように、いくら初級レベルとはいえ、根本的に攻撃魔術の難易度は高い。それを考慮するならば、この光景は言語を絶する。
射程の問題もある。本来人が魔術を操作できる範囲は100メートルを越えない。だが、はっきり云って空一面に広がったこれはそんなレベルでは語れるものではなかった。
十万を遥かに越える魔導術弾の大群は、その全てが待機起動状態に設定され空を覆っている。

「呆れた…わい」

カゲロヒの呟きに、バルトーは低く唸った。
彼らの周囲では、志保たちが同じく空を唖然と見つめている。もっとも、果してこの光景が意味する所を正確に把握しているかどうかは定かではないが。
バルトーは内心で虚脱にも似た呆れを感じていた。

果して魔界ですら、これほどの魔力を持つ者がどれだけいるか……


芹香の奏でる音が変わった。
同時に朱色の増殖が停止する。

「(待機起動中の全魔導術の理軸回路に介入し術式設定を改変………完了。
術式統制連結の上、全魔導術の起動呪を統一化…………完了。
統一起動呪の創意刻名………完了)」

呪の奏でが名残惜しげに途切れた。
導かれしは静寂。
火砲より放たれし銃声も、黒魔の叫びし嬌声も、箱舟が解く黒光の響きも…
すべてが失われ、静寂が訪れる。

深遠に閉じられていた魔女の瞳がゆっくりと開いた。

そして……

静謐なる空気は、静寂の魔導師により解放された。


「『天墜(ラグ・ナレク)』」









保科智子はその光景を生涯忘れる事はないだろう。

それを見たとき、完全に据わっていたはずの肝がひっくり返った。
一瞬、完全なパニック状態になり、それでいながらどうやら正常に稼動していたらしい脳の一部がポカンと開いた口を動かし絶叫を放った。

「全軍後退……いや、間に合わん!! 伏せろぉぉぉぉぉ!!」

天が墜ちてきたと後にこの光景を見た者たちは一様に述懐した。

それはまさに天の崩落。
赤き黄昏の空の墜天。

空を覆い尽くしていた十万を越す魔術弾が一斉に落ちてきたのだ。
その迫力たるや、それまで死を覚悟して戦っていたはずの死兵たちが、前後の見境無く泡を食って逃げ出したほどである。


そして―――

墜ちた空は、ラルヴァたちが満ちた盆地へと降り注ぐ。



その瞬間、十万を越す爆裂球がコンマ一秒の乱れもなく一斉に炸裂。
降山の地は爆光に満たされ、すべての衝撃は音すらも破壊した。

無音の衝撃が、すべてを薙ぎ払う。
赤く、そして白い光が閉じた目蓋すら貫き、目を焼いた。


やがて……

爆風に叩きつけられた身体を起こし、焼かれた目蓋を何とか開いた人間たちはそれを知る。
なだらかに流れる風に、視界を遮っていた煙が吹き払われたその後の光景を、彼らは見た。

戦場を覆い尽くしていたラルヴァの大群、その三分の一が文字通り跡形も無く消え去ってしまっているのを…


「……くはっ………う…わ」

吹きすさぶ衝撃破を必死に身を伏せて凌いだ智子は、ようやく全てが収まったのを察し、ずれた眼鏡を戻しながら顔を上げ……言葉を無くした。
そこには狂乱のままに前進するラルヴァの姿も、決死という麻薬に犯され戦う将兵の姿も無く、
ただ茫然と地面に転がる者どもばかり。
そして爆球が降り注いだ一帯だけが、緑色の絨毯という草原から、荒涼とした荒野と変貌していた。

「なんやねん…なんやねん、これは…。元はただの初級魔術やないか……それがこれ…かいな。あはっ…絶対魔術とどこがちゃうねんな」

これまでの張り詰めすぎた意識ゆえか、それが緩んだ瞬間、何かがガラガラと崩れていった。
それは理性か、意思か、それとも狂気か。

だが、智子の智子たる所以……智子という存在の中の絶対に揺るがない冷静さが何かが抜け落ちてしまった抜け殻を動かした。

「全軍!! 全軍に告ぐ!! 攻撃! 攻撃! 攻撃や!! 今しか無い! 今この時を逃すな! 攻撃を開始せい!! 前進! 前進! 前進!!」

その絶叫は、虚脱した帝国軍の将兵たちを動かした。
生も死も、決死の狂乱も絶望すらもまるで何もかもが吹き飛ばされてしまった、将兵たちはただ命令のままに動き出した。
まさに憑かれたとでも云うように。


この瞬間から、帝国軍10万はこの上なく純然たる攻撃群体へと変貌した。







箱舟が浮かぶ小高い丘からは、帝国の軍勢が凄まじい勢いでラルヴァの大群を押し返していく様が良く見えた。

「…一応、これでしばらくは持ち直しそうですね」

決して安堵したという口調ではない言葉を発したのは柏木楓。
おさげ髪の少女はカゲロヒが影の中に保持していた緋鞘を受け取り、抜き身の小太刀を納めながら続ける。

「ですが、あくまでしばらくです。このまま状況が変わらなければ直に戦況は此方の崩壊へと戻ってしまうでしょう。いえ、それはどうでもいい事です。事の本質はただあの醜い肉の塊を滅ぼす事その一点です。他の事態はただそれを補助するための瑣末に過ぎません。どうするおつもりですか?」

彼女たちの頭上では、今この瞬間も光の箱舟≪ヨーク≫が絶え間なく全てを穿ち切り裂く黒き魔光を放ち続けている。
だが、それが狂的な再生を続けている『灰燼の卵』に対して致命的な損傷を与えているかと言えば、どうにも苦しいとしか言い様がなかった。
切り刻まれ、穿ち続けられながら、『灰燼の卵』は尽き果てる事無く再生を続けている。

膠着は崩れていない。

そして今必要なものは、その膠着を打ち破る決定打。

楓が芹香に期待したのはその決定打だった。
彼女がこの場に現れた事。それがこの現状を打開する策を持つが故なのだと楓は考えていた。

そして、彼女の期待に、確信に答えるように芹香はコクリと頷いて見せる。

「(これから、初音ちゃんと≪ヨーク≫の接続意識領域へと割り込みをかけます。楓さん、お力をお貸し願えますか?)」

その眼差しを少しキョトンと見返した楓は、なるほどとばかりに頷いてみせる。

「分かりました」

「なんで楓ちゃんなの?」

「初音の次に古の血が濃いのが楓なんです。さすがに異空間上にある守護船にアクセスできたり、この世界に召喚するだけの力はありませんけど、媒介として来栖川さんの意識を≪ヨーク≫に繋げるくらいなら…」

小さな声で囁いた志保に、千鶴が神妙な顔をしながら答えた。
その視線の先で楓を伴った芹香が祈るように手を組んで佇む初音の前へと立つ。
そして、その唇から再び風を彩る調べが流れ始める。
初音と同じように目蓋を閉じた楓の手を左手で握り、右手を初音の額へと当てた。

その瞬間、青白い光が芹香を包み、楓が「うっ」という呻き声とともに顔を顰める。

「楓!?」

梓がそれを見て咄嗟に駆け寄ろうとし、千鶴が差し出した手に遮られた。梓が姉の顔を見上げると彼女は無言で首を横に振る。
その瞳を見た梓が、苦しげに妹たちに目を戻した時、ちょうど芹香を覆っていた青白い光が吸い込まれるように消え去った。








ポワポワとした不甲斐ない感覚。
芹香が最初に感じたのはそんな感触だった。
色の無い空間。
芹香はそこに浮かぶ自分の姿を見ようとして……見るという行為の無意味さに気がつく。
ここでは姿などと言う形は無く、ただ来栖川芹香という存在が剥き出しの存在としてあるだけ。
見るなどという事は出来ないのだ。
ただ、在る事を識るのみ。
そして、芹香は同時にヨークと初音の存在を識った。

(誰ですか?)

初音の意識が言葉という情報となって直接芹香の存在に流れ込んできた。
その感じたことの無い感覚をどこか楽しみながら答える。

(お久しぶりです。来栖川芹香です、初音ちゃん)

そうやって自分の存在を伝える事で、初音は彼女の存在を認識した。

(あ、来栖川さん、こんにちは…え? あれ? どうしてこんなところに?)

(どうしてアレを使わないのですか?)

芹香は混乱する初音に答える事無く、単刀直入にしかも簡潔極まりない言葉を投げかける。
初音はまったく芹香の言葉の意味を理解できず、戸惑い言葉を詰まらせた。
答えたのは≪ヨーク≫だった。

(介入者よ。アナタの云うモノとは―――ですか?)

(そうです)

言葉としてではなく、イメージとして流れ込んできた情報に芹香は頷くという行為を伝えた。

(え? え? そんなのがあったの?)

(今のあなたの攻撃方法では『灰燼の卵』を完全消滅させるには力不足ではないでしょうか)

(…同意します)

なぜかマスターである初音を脇に追いやって会話を進める芹香と≪ヨーク≫
話に置いて行かれて「はう〜」とオロオロするしかない初音を余所に、彼女らは初音には全然理解できぬ会話を続けていく。

(ですが、ワタシのRWシステム≪プログラムSGHB≫でも対象を完全滅殺できる可能性は現在攻撃執行中の中性魔力粒子砲より低いモノと結論します)

解かっているという風に、頷くという情報を送った芹香だったが重ねて提案するように問いかける。

(プログラム、即ちSGHBに自壊命令を組み込む事は出来ますよね?)

≪ヨーク≫が一瞬というには長すぎる沈黙を紡いだ。
それは芹香の言葉を吟味しているというより、むしろ驚き慄いているとでもいう風に。

やがて、≪ヨーク≫は変わらぬ淡々とした答えを返してきた。

(……了承できません。SGHBの自壊による反応作用は皇血操者の生命維持に大きく危険な影響を及ぼします。並びに皇血操者の行動目的は攻撃対象の破壊と同時に、皇血操者が認める人間種並びに各種生命体の保護防衛と認識しております。それに照らし合わせてもその提案は了承できません)

(反応作用に関しては私が完全に押さえ込みます。『灰燼の卵』周辺を私の術で完全に封鎖する。それによりさらに密閉作用により攻撃効果の増大が見込めるでしょう)

(……不可能です。現状、ワタシはSGHBの自壊による反応作用の封絶方法を想定不能。アナタの言動は不確定要素と判断)

(…………)

芹香の困惑した意識がダイレクトに流れ込んでくる。
初音は思わずおずおずと声を出した。

(…あ、あの)

芹香と≪ヨーク≫の意識が此方に向いたのを認識し、初音は続けた。

(えっと、聞いてたんだけど……≪ヨーク≫にはあの『卵』を壊せる力が別にあるんだよね)

(ハイ、ハツネ…RWシステム・プログラムSGHBに介入者の提案に即した効果を加えれば、現状の攻撃『中性魔力粒子砲』よりも42.15%の破壊効果が上がるモノと思われます。ですが―――)

(それをやっちゃうと凄く大変な事になっちゃうんだね)

(ハイ、ハツネ…想定によれば四方一〇キロメートルは完全に破壊…全生命体が活動を強制停止…即ち死亡すると思われます。それにはハツネ、アナタも含まれております)

さすがにその言葉の内容には初音も思わず息を飲んだ。
動揺した心を大きく息を吐く事で落ち着かせようとして…今の自分が呼吸という行為を必要としない存在である事を思い出した。
少し照れを覚えながらも気を取り直し、芹香に向かって重ねて訊ねる。

(でも、芹香さんにはそれをどうにか出来る自信があるんだ)

コクリ、と芹香が頷いたのが分かった。
しばし沈黙し考えよう…として初音は思わず口元を綻ばせる。

決まっている。
最初から迷うことなんてない。
決めているのだから考えるフリなんかすることはない。

(≪ヨーク≫……お願い)

ふわりと、空間が揺れた。
初音には、それが≪ヨーク≫が微笑んだように思えた。

(了解しました、ハツネ……これより≪ヨーク≫はRWシステムの起動を開始します。中性魔力粒子砲砲撃停止。全稼動エネルギー供給をRWシステムに連結。RWシステム起動…SGHB精製開始します)

(初音ちゃん)

芹香の声。
初音は芹香の存在を視る。

(来栖川さん)

(芹香お姉ちゃんと呼んでください)

(う、うん、芹香お姉ちゃん)

(はい♪)

何故か嬉しそうに返事する芹香に初音は意識を紅く染めてしまう。
そうしている間にも、徐々に芹香の存在がこの意識領域から消えていく。

(く…芹香お姉ちゃん)

(貴女のお姉さんたち、みんな見守っています。頑張ってくださいね。私もお手伝いしますから)

(…うん!)

(じゃあまた後で。ごきげんよう)

そう言い残すと、芹香の存在は至極あっさりと消えてしまった。
少しの間、その存在の余韻を探すように沈黙した初音。
次の瞬間、その意識は≪ヨーク≫と重なるように寄り添った。






フラリ、と唐突に楓の身体が支えを失ったように後ろに倒れた。
スッとその下に飛び込んだバルトーがその銀色の毛並みで受け止める。

「楓!」

慌てて駆け寄る千鶴と梓に、瞳を開いた芹香がややすまなそうな声音で囁く。

「(すみません。思ったよりも負担をかけてしまいました。意識を失っているだけですので大丈夫とは思いますけど)」

千鶴が伏せたバルトーにもたれるようにして眠る妹の艶やかな黒髪をそっと撫でる。
芹香の云うとおり、楓の呼吸は穏やかだった。

「芹香殿。≪ヨーク≫の攻撃が止まった。何をしたのだ?」

「(≪ヨーク≫に最終兵器を使用するよう説得しました。私も準備しなければいけません。すべてを脅かすあの忌むべき存在を滅するために…)」

カゲロヒに向かってそう云うと、芹香は右手をスゥっと顔の前に上げた。
その姿はまるで舞を舞おうとするように。

「(すべての破滅を此処から始めましょう。滅亡の果てにあるものは静寂。消失の果てにあるものは静寂。そして始まりの唄を…)」

カゲロヒは思わず後退った。
吹き上がる魔力の波動に空気が震え、ローブが翻り、高帽子が飛んだ。
長い長い黒髪が踊るように舞い上がる。

右手が流れるように横に振られる。
するとその跡に煌めく光の粒子が天女の羽衣のように美しくたなびいた。
あまりに濃密となった魔力が結晶化しているのだ。

やがて唇から呪が奏で始められる。
世界の理を歪め、新たな律を与える印が、静やかな舞を踊るように編まれ始める。

その姿は幻想的で、あまりに美しく…


カゲロヒは思わず身を震わせ……

――彼女に抱いた感情の名が、恐怖だと知った。














御音共和国 千葉



限界を悟った者はここにもいた。

…これじゃぁっ…ダメだよっ。

名雪の食い縛った口元から一筋の血が流れていく。
その細められた眼は普段の眠たげなものではなく、まるで流れ出る血に耐えるように苦しげだった。

どれだけの魔力が失われたのだろう。
どれだけのプラズマ火球が撃ち放たれたのだろう。
少なくとも、万の軍勢を千回焼却せしめるほどの熱量が『灰燼の卵』めがけて投射されていた。

傍目には≪けろぴー≫の猛威たるや凄まじいものがあった。
そして、『灰燼の卵』の光景たるや、惨憺たるものだ。
肉片を撒き散らし、松明のように炎を立ち昇らせている。
それでもなお再生を続けている姿は惨たらしさすら滲ませていた。

まさに消滅は時間の問題に見えていたのだ。

だが…


その時間にわたしは耐えられない。


恐怖に近い怖れを名雪は抱く。
実感がひたひたと思考を侵していく。

魔力が尽きる。

アレを滅ぼす前に、確実に自分は力尽きてしまう。

それは確信だった。

口元から流れ続ける血の雫。
まるで彼女自身の魔力のように
まるで彼女自身の生命のように

そう、このままではダメなのだ。
ならば結論は一つだけ。
後は決断するだけだ。
それは遅すぎたかもしれない。
だが、これ以上遅れる訳にはいかなかった。

「≪プラズマ・ブラスト≫強制閉射!」

名雪の声が響いた。
そして、その言葉が解き放たれた時、≪けろぴー≫から間断なく発射されていたプラズマ火球が停止する。
何が起こったのか、名雪が何をしたのか理解できなかった彼女の部下たちが絶句したまま名雪を振り仰ぐ。
そして、無言のまま『灰燼の卵』を睨みつける名雪を見て、全員が再び『灰燼の卵』に眼を向け、皆が絶望の息を飲んだ。


攻撃が加えられなくなった途端、『灰燼の卵』はその無限の再生力により完全な姿へと戻っていった。

まるで、今まで与えられた破壊の力が、無かった事にされたように……
いや、まさに無かった事にされたのだ。


「なんで!? 何故ですか!」
「あと少しだったのに!!」
「これじゃあ、今までの攻撃が全部無駄になって…っ!!」

栓を抜いたように噴出した怒号を、名雪は一度首を横に振るだけで黙らせた。
それだけの重みが彼女の仕草に溢れていた。

「ダメだよ。ダメなんだよ。それまで…アレが消滅するまでわたしがもたない」

誰もが眼を見開き、そして言うべき言葉を見つけられず頭を垂れた。
その意味するところは絶望。
もはや、あの究極かつ最悪の爆弾が爆発するのを…大陸が沈むのを座して見守るしかなくなったという事。
それは敗北。
そして滅亡。

だが、次の瞬間名雪が発した言葉により、彼らは一瞬にしてまったく別の絶望に包まれた。


器壊封禁(ファイナル・セーフティ・プロテクト)を解除するよ」


紙のように白くなった部下たちの顔を見渡して、名雪は微笑んだ。
ほら、急いで、と子供を急かすように。

「だめ…です」

誰かが呟く。

それを無視して名雪は口ずさんだ。

「その緑の獣の根源にわたしは触れる。その優しき瞳に討たれ、わたしは誓いの口づけを交します。すべての力を今ここに…」

「ダメです! それだけは絶対にダメです! 秋子さんに、相沢さんに何て云えばいいんですか! やめてください!! 名雪さんっ!!」

それしかないのだと分かっていながら、名雪の幕僚を務めていた魔導師の少女は叫んだ。
それは今この場にいる全ての人の声。
だが、あえて名雪はそれを聞かないフリをして……

終焉を紡いだ。

「≪カノン・ケロピー≫最終殲滅機構の起動を了承します」





それは真琴が放った狐火が、ラルヴァの口に飛び込みその頭蓋を吹き飛ばし、周囲のラルヴァを全滅させた時だった。
真琴の頭の上に陣取っていたピロが物凄い勢いで空を振り仰ぎ、ついで背後を振り返った。

「いかん! 名雪殿早まった真似を!! いや、これは仕方ないのか!? 解くしか無いのか!? クソッ! ダメだ! どちらにしても最後までもつはずが無いッ!!」

見たことが無いほどに取り乱した猫の姿に、真琴は怯えにも似た感情を抱いた。

「ど、どうしたのよ、ピロ」

「見よ、真琴。≪ケロピー≫の攻撃が止んでおるッ!」

「あ、ホントだ。どうしたんだろう」

ピロは吐き捨てるように言い放った。

「名雪殿はこのままではアレを倒せないと判断したのだ!」

「え? な、なら…」

「クソッ! クソッ! あの娘、異界幻主(ファンタズマ・ロード)封禁(プロテクト)を破るつもりだ! 馬鹿者め! 馬鹿者め!」

「ぴ、ピロ?」

「無茶だ。ただでさえ大量の魔力を消費しているのだぞ! そんな事をすれば…!」

ピロは全身の毛を逆立てながら、歯を軋らせて最後の言葉を飲み込んだ。
その迫力に息を飲む真琴に向かって、彼女の頭から飛び降りたピロが仰ぎ見て静まり返った声で告げた。

「真琴、ここはもう良い。名雪殿の元へ行け」

「な、なななんでよ!」

「異界幻主…即ち≪ケロピー≫の封禁を解いての殲滅機構は想像を絶する魔力をそれこそ根こそぎ術者から奪い尽くす」

そして、ピロは呪いの言葉を吐くように云った。

「このままでは名雪殿は全魔力を枯渇させて……死ぬぞ」

蒼白となって絶句する真琴に畳み掛けるようにピロは叫んだ。

「早く行け! そして名雪殿をサポートしろ! お前は術はともかく魔力だけは有り余ってる! お前が手伝えば何とかなるかもしれん!!」

「で、でも!」

真琴は渋るように唸った。
いつの間にか目の前に広がっていた光景に、動けなかったのだ。
≪ケロピー≫の攻撃中止に動揺した前線を突破し、此方に目掛けて乱進してくるラルヴァの大群を。

「馬鹿者。我輩を心配しておるのか? あんな木偶人形など我輩一匹で充分だぞ!」

「だ、だって!!」

真琴の顔がくしゃくしゃに崩れる。
それは彼女にとって、それは名雪とピロ、どちらかを選べと云われているようなものだった。
決断は辛く、厳しい。

ピロが噛み付かんばかりに自分を睨む。
早く行けという視線に、だが真琴は動けない。
押し寄せる黒い波の前に、この小さな猫を一匹だけ置いていけるなど出来ようはずもない。

だが、自分が行かなければ名雪は確実に死んでしまうという。
子供の頃から水瀬の城に出入りしていた自分にとって…名雪は本当の姉のようなものなのだ。
その名雪が死ぬなんて、真琴には許せるはずもない。

心が引き裂かれそうな痛みに、真琴はただ立ち尽くすしかなかった。


あうー!! どうしろっていうのよぉっ!


フワリ、と誰かの白い手が、泣き顔の少女の頭をそっと優しく撫でたのは、そのときだった。
いきなりの感触にびっくりして振り返った真琴は、さらに仰天した。

「え? ええ!? えええ!?」

金切り声にも似た驚愕の叫びが真琴の口から飛び出す。

「驚き過ぎや」

叫ばれた方は顔を顰めながら、ペシンと手首をきかして真琴の頭を叩いた。

「あうっ! って、玉藻お婆ちゃん!」

「お婆ちゃん云うなって云いましたやろ!」

今度はゴキンと豪快な音が響き、真琴の顔が別の意味でひしゃげた。
プラプラと殴った拳を振る女性にピロが眼を見張る。

「狐殿、何故ここに!?」

「妖族みなが討ち出ておるのに、わらわだけが遊んでる訳にもいきまへんやろ?」

そう云って女は口元を袖で隠して楚々と笑った。
その調子に乗せて揺れる髪の毛は柔らかな金色。
底意地の悪そうにつり上がった切り目に浮かぶ瞳も黄金。
幾重にも重ねられた豪奢な単にもまた、金色の刺繍が織りなされていた。

彼女の名は玉藻前(たまものまえ)
このグエンディーナ大陸に住まう妖族、その全ての頂点に立つ大妖である。

「さて、真琴や。久しく見んうちにさらにアホになったんかえ?」

「あ、あほ!?」

「アホやないか。わらわが来たんやさかい、ここの事はもう解決しとります…そやろ? なら、何をぼさっと突っ立とるんやな。さっさと秋子の娘のところに行ってあげなはれ」

叱咤とも激励とも取れる祖母の言葉に、真琴の眼が潤む。

「お婆ちゃん」

 ゴキン☆ッッ!!

「アヴッ!」

「ホホホホッ」

青筋立ててにこやかに微笑む祖母の剣幕に、真琴は頭を押えながら駆け出した。
あうー、と半泣きの顔もやがて自分の大任を思い出し、駆ける内に真剣さを帯びていく。

「名雪ぃ! あたしが行くまで待ってなさいよーっ!! 勝手に死んだら許さないんだからぁっ!」



「やれやれ、行ったか」

苦笑じみた吐息を吐きながら、ピロは髭を震わせる。
それを聞いて玉藻は心底呆れたという風に、

「何を間抜けた事を云ってはりますのや、猫殿」

彼女の元々つり上がった眼が、さらにキリリと切り上がり、ピロを睨んだ。

「こんな所で油を売っていてはあかんのは、猫殿も同じであろうな」

「玉藻殿」

「正直に云いや。猫殿は今云うてはった秋子の娘の死を賭した禁忌の技…それでも足らん思うとるやろ」

何故それを、と髭を震わす猫に、玉藻は額に手を当てため息を吐いた。

「真琴が行ったのに、そないな余裕の無い顔しとったら嫌でもわかるわな。それに先ほどここに来る前に十二番目の人を見かけたんや。猫殿の事や、あの御仁と示し合わせてとっくに手立てをつけとるやろと推測も付くえ」

「いや、別に手立てなぞ付けていた訳ではない。だが、あやつが来ておるのなら……」

「ま、手があるんはあるんじゃろ。ならさっさと行きや。ここは預かりましょう」

「……すまん、恩に着る」

一瞬、沈黙したぴろは頭を垂れて云った。
その言葉に思わず玉藻の薄い唇が実に嬉しげに吊りあがる。

「なら一度遊びに来やれ……秋子の娘と共にの。いっぺん絞め殺されかけの猫殿というモノも見ておきたいわ」

うぐっと詰る猫の様子に笑いを漏らしながら、玉藻はさっと袂を翻した。
途端、溢れ出るように噴き出す火炎。
それは一瞬にして此方へと近づいていた五〇近くのラルヴァたちを飲み込み灰へと変えた。

「醜き上に、無粋な輩どもじゃ。このような者どもに我が愛する大陸を蹂躙されるのはやはり不愉快よのう、久々に力を揮うとしましょうか」

地を滑るように豪奢な装束を靡かせて前に出る玉藻。
ピロは複雑な視線をその背に向けると目蓋を閉じ、何かの気配を探るように髭を震わした。

「来ているのか…まったく、お前という奴は面倒な…」

苦笑じみた声が漏れる。
次の瞬間、猫の姿は掻き消えるように消失した。

背中越しに猫の気配が消えたのを確認し、玉藻もまた苦笑する。

「何が面倒や。猫殿の方もよっぽど面倒な性格をしとるクセに」

さて、と彼女は前方を見渡した。
とりあえずは目の前の障害を取り除かねばならない。

「居るかえ? 静葉! 紅葉!」

「ここに」
「はいな〜」

ポンというコミカルな爆発音と煙とともに、二人の女が現れる。
真っ白な白拍子の装束を纏った小柄な女性。
片や淑やかな深緑髪を腰まで伸ばした麗人。
片や煌びやかな蜜柑色の髪を肩口でクルリと跳ねさせた軽やかな娘。

「双尾の静葉(シズハ)、参上しました」
「双尾の紅葉(クレハ)、大姉さまのお呼びとあらば、何処なりとも来ますえ〜」

「よう来た、二人とも。駆逐すべきはあの木偶人形どもじゃ。遠慮のう暴れなはれ。そして人間どもに妖族ここにありと見せ付けておやりなはい」

「如何様にも」
「任せてくれやし〜!」

「真琴も力揮い尽くしておる。負けなや、二人とも」

玉藻の声を傍らに、二人の身体がまたも煙に包まれる。そして爆音の玉の中から飛び出したのは尾を二つに裂いた双尾の狐たち。

「そら頑張らなあきまへんな」
「真琴ちゃんの手助けせなあかんもんな〜」

二様の異なる声音が絡み合いながら、戦場へと駆け出していく。
それを見送った玉藻の薄い口元がつりあがり、細い眼が妖しい光を仄かに燈す。
同時にその周囲を青白い炎が凄まじい熱を発しながら渦巻いた。


「さあ、その双眸に焼きつけよ、人間たち……これがわらわ…大妖 玉藻の御力ぞ!」


轟音とともに九つの金色の火焔が立ち昇る。

天を焦がす炎の姿に誰もがその身を振り返り……

戦慄と共に知る。


金色白面九尾の狐……その降臨の時を。



    続く





  あとがき


八岐「……八時だよ全員集合」

あゆ「……見たこと無いくせに」

八岐「うぐぅ」

あゆ「うぐぅ」

八岐「……ごめんなさい」

あゆ「まったくもってうぐぅだね」

八岐「うー、ちょっとみんな再登場というイメージを出したかっただけなんだよぉ」

あゆ「新キャラまで出してるくせにー」

紅葉「新キャラやあらへんよっ」

静葉「以前にここで顔見せやっとります」

八岐「お、来たな雌狐ニ匹! 言っとくけど、多分誰も覚えてないよ」

あゆ「そだね、しかもこれで出番終わりなんだよね」

紅葉「な、なんやてぇぇ!!」

静葉「ほ、ほんまどすか?」

八岐「イエス」

紅葉「そんなん……嘘やん! だいたいこれだけってうちら出演する必然性まるで無さげやないの!」

静葉「そうどす! なにやらオマケのようやあらしまへんか!」

八岐「だって、オマケだし」

紅葉「…………」
静葉「…………」

八岐「オマケだし〜〜」

紅葉「ウキィィィィィ!!」
静葉「おほほほほほほ!!」

八岐「ギヤァァァァァア!!」

あゆ「…………」

あゆ「……まあ、お約束だね。さて、次回は第68話『唄の調べは再会とともに』…それじゃあねっ!」



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