御音共和国 降山盆地



大乱戦。

前衛の銃撃戦の後方。銃弾の障壁を飛び越え、帝国陣営深く進撃するラルヴァとの戦いは、まさに大乱戦の一言で言い切れた。
近衛鉄熊兵部隊隊長 神岸あかりは、日常生活では決して出さないような大声を張りあげながら、ともすれば全てを狂乱の渦に飲み込まれそうな状況を操作する。
無論、敵味方入り混じり、しかも相手の方が多いような状況では、彼女自身指揮だけに没頭できるような状況でもなかった。

突如、右側面から襲い掛かってきたラルヴァを振り向きもせず右手に持ったマスケットでぶち抜く。

「第五から第七分隊を西に回して! 速く! 急がないと全面突破されちゃうよっ!!」

云いながら、クルリと銃口を上に向け、素早く早合を詰め込み装填。

「第一から第三はこのまま新たに侵入してきた一団を迎撃! 早く掃討終らせて!」

グルリと顔を巡らせて命令を発しながらあかりは唐突に身を翻す。
寸前で上から降ってきたラルヴァの爪を躱し、下から顎に銃口を押し当て引き金を引く。

上頭部を失って倒れかかってくるラルヴァを避けながら、あかりは左手で前髪をかきあげた。


「もー、限が無いよ。このままじゃ抑えきれない」

曇った表情がチラリと背後、巨大な光りの箱舟が浮かぶ方を見た。

「あっ」

思わず声が漏れた。
彼女が見たものは、丘を駆け降りてくる小さな人影が一つ。
遠目には、その姿は良く見えない。
だが、あかりは確信した。この状況で討って出るのは彼女しかいない。

「『閃光』…そう、貴女が来るんだね」

その声音には戦慄とも希望ともつかない感情が滲んでいた。










魔法戦国群星伝





< 第六十三話 死を招く者たち >



御音共和国 降山盆地




その姿は一言で云うならば異装だった。


地を駆ける一人の少女の装い。
前で合わせられた滑らかなる布地を腰に繋いだ朱の帯が彩る。
華奢な肢線を補うようにややも張りを仕込んだ肩。細い腕を手首まで覆う袖口。
そのかしらには左右のこめかみに二本の紫紐を垂らした白の冠りが乗せられている。
それは確かに異様だが、不思議と荘厳なる優美さを周囲に醸し出していた。

その装束の色は白。

白を基調とした異装束を纏った少女が地を駆ける。

後ろ手に交差させた両の手には光煌めく小太刀が二振り。

柏木楓。

『閃光』の字名を持つ少女は足音も軽やかに疾駆していた。


前方にはラルヴァの群れ。
先陣を行く十四、五の黒魔の一団が、近づいてくる小さな影を見つけ一斉に爆炎を喚び始める。

すっと、楓の眼が細まる。
途端、その三〇からなる紅の目の見る前で、楓の姿は土煙を残し跡形も無く消失した。

驚愕に紅の目を剥くラルヴァたち。

次の瞬間、彼女の姿はラルヴァの群れの中心に在った。
フワリと空から舞い降りたように身を沈め、二振りの小太刀を眼前に交差させた柏木楓。
そして、楓の後ろにいた五鬼のラルヴァが血飛沫を巻き上げて倒れる。

「ガァァァァァ!」

それを合図に、漸くラルヴァたちは目の前の少女が、つい先ほどまで前方20メートルの地点に存在した人間だと理解。
攻撃呪法を継続し、召喚した爆炎を叩きつけた。

遅すぎる。

ラルヴァたちが呪文を放った時には、その場には既に楓の姿は無く、爆炎弾が着弾し爆風と炎熱を周囲にぶちまけた時には八鬼のラルヴァが既に切り捨てられていた。

楓は、刹那だけ閃光の加速を解いて停止。
大地に踏みしめられた細い足。弓矢のように曲線を描き力を溜める膝。
次の瞬間、爆音とともに蹴った地面がひび割れ、彼女の姿は掻き消える。
そして残りの二鬼を0.2秒でかたずけると、楓は後続するラルヴァに向かって走り出した。


恐るべき事に、柏木楓は一五鬼のラルヴァを延べ三秒で殲滅した。
一鬼に一秒もかけていない。
おそらく、聖剣を握った藤田浩之ですらどれだけ頑張っても最速で十秒強はかかるだろう。
まさに閃光の他に形容のしようがあろうものか。


その閃光のスピードの秘密は幾つもある。

それは神速を耐えるエルクゥ種の強靭な肉体。
見た目は華奢で可憐とすら云える柏木楓のその身体だが、やはり鬼の力を解放した状態ではその見た目とは裏腹の強靭さを備える。
それが、人外の超高速と高機動を可能としていた。

そして、二振りの小太刀。
通常、これだけの速度で相手に接触するなら、例え斬撃であろうと腕、そして全身に加わる衝撃は想像を絶するものになる。
下手をすれば斬撃を加えた瞬間、腕がもげ兼ねない。
だが、彼女の得物は『倉掛古桐』。
大盟約前紀から存在したと云われ、龍の角を真火を以って鍛えたとの伝説の残る緋刀。
その触れるだけで全てを切り裂く切れ味は、彼女に加わる負担を最小のものとしていた。

最期に彼女の纏う白の闘衣。
およそ、この大盟約世界には見られぬその独特の異装は元はエルクゥ種の族裳だ。
それを先の魔王大乱の際に、来栖川芹香が改良した魔導装束。
その効果は慣性相殺。これにより神速の状態から一瞬にして停止状態に速度を落とせる。つまりは加速・急停止に対する肉体への負担を軽減化する事にも繋がる。
幾ら強靭とはいえ、所詮は男のエルクゥとは違い肉体ごと化け物になる訳ではない楓には必要不可欠な装備だ。
これぞ閃光の速度を自在に操る術。
流石に超高速機動はそれこそ一瞬しか出来ず、超高速の巡航機動など出来ようはずもないが、戦闘においてはその一瞬の超加速で充分だった。


閃光の乱舞は続く。


まるで空間を縮めたとでも云うように間合を詰め、寸前で身を翻す。
あえて速度を殺し切らずに地を滑り、逆手に収まっている左の『緋樂』を背後のラルヴァの腹部から斜め上に刺し通した。
そして小太刀越しに魔核を貫いた感触を感じながら、身体を駒の様に回転させニ刀を閃かす。一瞬にして輪切りになるラルヴァ。

ふっと呼吸を抜いた瞬間、三方から同時に殺気を感じ、楓は後ろに跳んだ。
直後には、真空刃を喰らってさらに細切れになるラルヴァの残骸。
楓はひらりと宙で身を捻ると、攻撃してきたラルヴァの一鬼の胸板に滑空の勢いのまま両手の小太刀を並べて叩き刺し、次の瞬間そのラルヴァを踏み台にして反対側に向かって加速。
駆け抜け様に、群れていた七鬼を裁断し、こちらの姿を見失って見当違いの方角に視線を向けている二鬼の首筋を断ち、未だ状況を把握していない鈍間な三鬼を0.5秒で切り伏せた。

最初の五鬼を倒してからまだ5分と14秒。
既にスコアは48鬼に達している。

とりあえず周囲のラルヴァを片付け、足を止めた楓はふぅ、と大きく息を吐くとゆっくりと振り返った。
視線の先には尽きることなく蠢く黒い群れ。
空を見上げれば、背後に輝く光の船から絶えることなく黒い光条が天を切り裂いて疾っていく。

楓はゆらりと両の手をたなびかせるように開いた。
両の八双。

タン、と一歩。
タンタン、と二歩。
タンタンタンと滑るように、弾むように走り出す。

徐々に沈む小柄な身体。
前傾となっていく白の衣裳。

  タタタタタタタ

軽やかに地に奏でられるステップのスタッカート。

そして、再びラルヴァの群れが近づいた瞬間。

  シュッ――――ン

楓の姿は閃光と化し、立ち昇る土煙を残し掻き消えた。

その後に彩られ、奏でられるのは、閃光の道筋に迸る血飛沫と黒魔の断末魔。



銃弾の雨、そして紅色の暴風を突破した黒魔たちに立ち塞がる最期の防壁 ――白い閃光は今、凄まじいペースで襲撃者たちを狩り続けていた。







御音共和国 山葉



「凍りつきたる雫は鋭戯 我が手の中には集いし雫は曳誼 今こそ仰ぎ見よ大いなる空を 汝等を貫くは天の一滴!」

人差し指と中指を揃え、伸ばした右手を空に掲げ、少女は告げる。

「『刺殺襲雨(スタッバー・レイン)』」


7メートルほど上空に突如発生した水塊から、飛沫が雨となって降り注ぐ。
光の加減で青みがかったようにも見える黒い瞳の向いた先には、指揮剣を振り翳して指示を飛ばす茶色の髪を白のリボンで結んだ少女。
一滴一滴が鋭利な刃片と化した刺雨は、彼女に向かっていた三鬼のラルヴァを一瞬にして襤褸雑巾に変えてしまった。

「あ! ありがと、里村さん」

「構いません。でも乱戦ですから気をつけてください」

「うん」

さっと駆け寄ってきた里村茜に長森瑞佳は頷き返した。
最前線を突破してきたラルヴァの数はまだ二〇〇〇を越えた程度。瑞佳の八匹の猫たちの獅子奮迅(剛虎奮迅?)の活躍もあって、まだ落ち着いて指示を飛ばす余裕があった。

瑞佳はチラリと傍らの茜の面差しを見つめ、視線を戦場に戻しながら小さく囁きかける。

「里村さん、大丈夫?」

厳しい眼差しで瑞佳と同じ方向を見据える茜の表情は、ややも青ざめ額には汗が滲んでいる。

「ええ、大丈夫です、御気遣い無く。戦場は久方ぶりなもので多少緊張はしていますが」

「そっか…そうだね」

瑞佳は小さく頷く。
考えてみれば、里村茜が実際に戦場に立つのは革命戦争以来だったはずだ。
魔導師として優秀な技量を持つ彼女ではあったが、後方での活躍を考えれば前線に出なくなった事も仕方が無いだろう。

「長森さん」

「うん?」

「すみません。無理を云って付いてきてしまって」

「ううん! そんなことないよ。里村さんの腕は貴重だしね。実際、さっき助けられちゃったし、えへへ」

はにかむように笑う瑞佳。
そんな彼女の横顔を見つめる茜の表情には、どこか羨望の色が浮かんでいた。
しばし二人の空気は穏やかな沈黙に包まれた。
不意に、茜の瞳が迷うように揺らぐ。
だが、すぐに瞳の光はすっと定まり長森を見つめる。
そして、茜はどこか押し殺したような声で瑞佳の耳元に囁いた。

「少しだけ…お話していいですか、長森さん」

キョトンと振り向いた瑞佳が見たものは、どこか思いつめたような…でもとても静かな蒼黒い瞳。

「私…貴女に話しておかなければならない事があるんです」

瑞佳は無言で頷く。
幸い、彼女たちを取り巻く戦況は一時の空白の時を迎えている。

茜の目蓋が、感謝を伝えるように静かに閉じられ、瞳を覆い隠す直前にしてゆっくりと開く。

そして

茜は告げた。


「私は…あなたにずっと嫉妬していました」


「え?」

まるでいきなり頬を叩かれたように、瑞佳は身を震わせた。
その傍らで、苦い笑いを浮かべながら、茜は小さく云う。

「もしかしたら…憎んですらいたかもしれません」

「…あ、あの」

瑞佳は眉を寄せ、必死に考え込みながら不安そうに小さく訊ねる。

「ごめんなさい! わたし…何か里村さんに酷いことしたかな」

「違うんです! …違うんです」

銃声と、猫の咆哮が鳴り響く中で、茜は普段の無表情に近い気配を崩しながら慌てて首を振った。
その仕草がゆっくりと止まる。
茜は俯き、下がる前髪に瞳を隠しながら、

「羨ましかったんです。ただ、羨ましがっていたんです。あなたと浩平の関係を…。二人の仲の良い姿を」

「…っ!」

瑞佳の顔が青ざめる。思わず口元に手を当て、瑞佳は絶句した。

「ごめ…なさい。そう…だよね。わたし…無神経だったよね。ごめんなさい…わたし…わたし」

恨まれても当然だろう。憎まれても当然だろう。
瑞佳は動揺に揺らぐ意識の中でそう思った。
一番大切な幼馴染を失った里村茜は、ずっと自分が失った光景を見せ付けられ続けていたのだから。
折原浩平と長森瑞佳。
もしかしたら、それは城島司と里村茜であり。それを見続けなければならなかったもは自分かもしれないのだ。

瑞佳は薄々ながら感じていた。
だが、それをはっきりと本人の口から告げられた事は、やはりショックだった。

だが、

口元に当てられた両手に、そっと茜の両手が添えられる。
茜は彼女の両手をそっと包み、手元に引き寄せながら囁いた。

「違うんです。そうじゃないんです…私は…」

視線を二人の手から上げ、瑞佳の震える瞳を覗き込みながら茜は云った。

「私はあなたの様に強く在れなかった。だから…強い意志で、暖かい心で浩平を…一番大切な人を包んでいるあなたを逆恨みしていたんです。長森さんは何も悪くない。それは私の醜い心の所為なのだから…私は貴女に謝りたかった」

「でも! でも…それは…」

瑞佳は一瞬躊躇うように口篭もると、小さく、凍えるように囁いた。

「城島君が…逝って…」

ハッと…瑞佳は言葉を途切らせる。
それは彼女の――里村茜の眼差しが微笑んでいたから。

「違うんです」

そう、彼女はきっぱりと云った。

「司は生きているんです」

「…え?」

呆ける瑞佳。茜は少し目を伏せながら繰り返した。

「司は生きてるんです」

「え……ええっ!?」

「特別調査局の上位組織 T機関…その総帥が司なのです」

「そん…な…」

茫然とする瑞佳を前に、茜はまるで懺悔するように語り出す。

「共和政府が誕生した後、私は司と再会しました。彼は既に革命戦争当時からT機関を稼動させていたそうです。
ですが、私が再会した司は以前とは違っていました。復讐と言う生きる糧を王制の追放により失い、全てが虚無に包まれてしまっていました。
長森さん…あなたなら解かってくれますよね。彼の虚ろを…」

未だ信じられないとばかりに表情を強張らせながらも、瑞佳は答えた。

「…それは多分、妹さんを失った浩平と同じだったんだね」

「そうです。そして、以前、司が沙江子先生を失った時を思わせる姿でした」

茜は天を見上げた。悔いるように。

「私はその彼を助ける事が出来ませんでした」

「…里村さん」

「あなたのように、司を助ける勇気を私は持たなかったのです。だから、私はただ彼の側に居る事だけを望みました。自らも彼と同じ虚ろであろうとしたんです」

すっと、視線が天から降りる。
でも、と呟き、茜は地面まで視線を降ろすと、はにかむように笑った。
瑞佳が初めて見る暖かな笑顔だった。

「詩子に怒られました。そんなんじゃダメだって。怒られてしまいました」

漸く、瑞佳は理解した。
彼女が自分を戦場に連れて行って欲しいと云ってきたその時から感じていた違和感。
それまでの、何か押し殺したような気配が霧散していた茜の雰囲気。

瑞佳には解かった。
彼女は虚無を振り払ったのだと。

茜は眩しそうに此方を見つめながら云った。

「私は…あなたのように光で在りたい」

「里村さん…」

「今、改めてお願いしていいですか?」

「え?」

「私の弱さを貴女を憎む事で覆い隠してきた事を謝罪させてください。そして、改めて…友人して付き合っていただけませんか」

瑞佳は驚いたように目を瞬いた。
彼女はずっと、茜を友人と思っていたから。だがすぐに気付く。
これは、彼女なりの心のけじめなのだろうと。
だから、瑞佳は微笑みながら頷いた。

「勿論だよ!」

つられて、茜も微笑む。

「瑞佳…と呼んでもいいですか?」

「うん! じゃあ…わたしも茜って呼ぶね」

「嫌です」

「はえ!?」

思わずつんのめって引っくり返る瑞佳。
その彼女を澄ました顔で見下ろしながら茜は告げた。

「冗談です」

「そ、その冗談は凶悪すぎるよ」

照れた様に頬を引きつらせる瑞佳にすっと手をさし伸ばす茜。
その手を取り、立ち上がった瑞佳に茜は云う。

「これからもよろしくお願いします…瑞佳」

「うん、よろしくね…茜」

そんな二人の和やかな雰囲気を吹き飛ばすように、新たな報告が飛び込んでくる。

「カノン皇国軍の担当方面から約五〇〇〇のラルヴァが新たに突破!! 強襲魔獣兵団は至急カバーに回れとの命令が下りました!!」

「了解だよ!!」


力強く瑞佳は頷く。
束の間の二人を取り巻く時間は終わり、再び戦争の時間が到来する。

瑞佳はフワリと振り返ると、今度は彼女から手を差し伸べる。

「行こう! …茜」

コクリ、と茜も頷き返し、手を伸ばす。

「はい! 瑞佳」
















時を少しだけ遡る。

場所は倉田一弥の率いる倉田公爵軍。





これが二回目の総指揮となる倉田一弥。しかも今回はものみヶ原会戦のように姉―佐祐理のサポートがあるわけではない。
だが、その指揮振りは、佐祐理が見ていたとしても充分合格を与えるだろうものだった。
姉のような派手さは無いものの、その堅実な統制能力は被害を最小に抑えながら、最大の攻撃効果を演出している。

「よし! そのまま射撃速度を落とすな!」

声を張り上げて叱咤する幼い少年の姿に、倉田軍の将兵たちはこの性格の良い次期当主の期待に応えようと奮起する。
人々の連環は、この瞬間まで良い方向へと転がり続けていた。

凄まじい轟音が北の方角から鳴り響く。
恐らく、無理矢理に持ち込んだおよそ三〇基近くの大筒が火を噴いたのだろう。
数的にあまり効果は見込めないが、それでも無いよりはマシだ。それに今回は小さな鉛球を無数に押し込んで発射する散弾を用意していると耳に挟んでいる。
上手く使えば、炸裂弾を上回る効果を見込めるとの評判の代物だと聞いた。
倉田一弥は、その効果が如何ばかりかと、北の方角に視線を向ける。



そこにソレは居た。



風に巻き上げられた土煙に霞むように、一つの白い影が佇んでいる。
白い、ロウを塗り固めたような異様な白い面に、窪んで底の見えない黒洞が二つ並んでいた。
干からびたようにぼさぼさの伸びきった髪の毛。
襤褸のような小汚い布を纏っているだけの貧弱な身体。
骨と皮だけにしか見えない両手。
それは、見様によっては、戦場に紛れ込んできた物乞いの老人かと見間違うような姿。
だが、それが物乞いであるはずがない。
物乞いは宙になぞ浮かんでいるはずがない。
ソレは、ほんの拳一つ分ほどだけ、地面から浮き上がり、じっと此方をその底の無い両目で見つめていた。

そして…

ソレを見てしまったからには、気付かずにはいられない。

ソレから流れ出る、身の毛のよだつような邪気の渦を……


「う…あ…」

ソレはゆっくりと口を開いた。
ヌラリ、と耳元まで避けた口は、やはり底のない黒だった。

「有象無象とは脆き物。特に人間の軍勢と言うものを滅ぼすのはとても簡単な事だ。それはそれぞれの集団の頭を潰してしまえば良いという事。 人の子よ。良く指揮を取る人の子よ。儂の云う意味が解かるかな? 解かろうな?」

「ぼ、僕を殺しにきたのか」

中身の無い口がぞっとするような邪笑を浮かべた。

「然り然り。まずは手始め。一番幼いお前から殺してやろうと思うて来た。
子供は良い。肉が柔らかい。人という生き物は決して美味いモノではないが、子供は例外だ。人に限らず、子供は美味い。故にお前を最初の獲物に選んだ。幸いな事に指揮する人間以外でも、この場で一番幼いのはお前のようだしな。
安心しろ。喰うのはお前だけだ。他の連中はただ殺すだけだ。もっとも、色々と遊んでやるがな。人の子よ、人間とはどれだけ血を抜けば死ぬか、人間は端から刻んでいくとして、どこまで刻んだら死ぬかなどという事象に興味を持ったことはあるか? 無いか。詰まらんな」

高揚もなく、冷たさもなく、ただ淡々とソレは語り続けた。
口にしている内容に、何らの疑問も抱いていない。
連ねる言葉に、何の違和感も抱いていない。

それは…狂気だ。

震えが、止まらない。

倉田一弥はガタガタと震える自分を抑えられない。
彼の周囲にいた誰しもが、声の無い悲鳴を上げた。

これは…紛れもない恐怖。

震え上がる人間達を前に悪魔は告げた。

「ワシの名はポエニスカ。御神 ガディムの僕。真なる力を与える魔晶核をガディムより受け取り、埋め込まれた魔将の一人。人の子よ、喰われる相手の名前を意識を失うその時まで覚えておくが良い」









  
同刻  坂下・来栖川連合群本陣




 血の泉。

あまりに大量にぶちまけられたために、地面へと染み込むのに時間が掛かっているのだろう。

泉の周囲には源泉たる、人の残骸。
強大な力に接触し、原型を止めぬまでに損壊した人の残骸が散らばっている。
元は十五人からなるそれを、今は判別はできないだろう。


血の泉の中心に佇むのは鈍く輝く鋼の人型。
2m半ほどの巨体が自分の作り出した骸を無情に見下ろしていた。


「貴様は…なんなんだ?」

静かな声が掛かった。
静かすぎて…恐ろしい声が。

鋼の人型はゆっくりと鋼鉄の頭を持ち上げた。

憤怒が人の形を持って立っている。
憤怒の名は坂下好恵という少女。

「ラルヴァじゃない…いや、もう関係ない。アンタは私の部下を殺した……」

ざわり、と殺気が吹き上がる。

「潰すっ!!」

坂下好恵は全身を震わせ、咆哮。次の瞬間、鋼の巨人目掛けて飛び掛る。

「でやぁぁぁあ!!」

大気がひしゃげた。

一閃。

巨人の懐に潜り込んだ坂下が、天空めがけて左足を昇龍の如く打ち上げる。
その大木をもへし折る渾身の一撃は、見事に巨人の顎に炸裂した。

だが、

凄まじい激突音とともに跳ね上がった鋼の頭は、やがて何事も無かったかのようにゆっくりと元に戻り、眼下の坂下を睥睨した。

「なっ!?」

会心の一撃が何の痛痒も与えていない事に、坂下は思わず絶句した。その空隙を突き、巨人は坂下の脚を掴み、無造作に放り投げる。

「がっ!」

受身は取ったものの、勢いは止まらず派手に転がる。

「坂下様!」

慌ててセリオが駆け寄るが、坂下はそれを制しつつ、巨人を上目に睨みつけながら立ち上がった。

「ホウ、人間ニシテハ頑丈ダナ」

「見てくれ通りの鋼の体だと!? 何なんだ、あれは!」

怒り狂った獅子が唸るように声を掻き毟らせる坂下に、巨人を注意深く観察していたセリオが囁くように答えた。

「坂下様…あれは魔族です」

「なに?」

「ラルヴァではありません。金属生命体ヴェッフェ・アイゼン…今では魔界でも殆んどその姿を見ないと云われる稀少種族と思われます」

「詳シイナ、人ノ作リシ人形ヨ」

ゆっくりと、鋼の巨人が大地を陥没させながら近づいてくる。
巨人はその顔に二つ黒く穿たれた無明の闇に、黄色く光る双眸をギョロつかせ、生命が発するとは思えない完全なる無機質な音声を発する。

「我ノ名ハ ゼルダット=アイゼン。娘ヨ、貴公ハ我ト同ジ鋼鉄ノ名ヲ冠スルト小耳ニ挟ンダ。故ニ、我ハ此処ニ来タ。サア、娘ヨ、其ノ名ニ相応シイ戦イヲ見セルガイイ。
我ハ、王ガディムノ僕。鋼ノ魔将―ゼルダット=アイゼン。貴公ノ鋼ヲ砕ク者ナリ」


怒りに満ちた眼差しを、坂下は一度閉じる事で遮った。
彼女は無言で右手を掲げると、澄み切った声で叫ぶ。

「総員、しばし戦闘を各個の判断に委ねる。私が指揮に戻るまで、耐えてみせろ」

その言葉に歓声にも似た雄叫びが返ってくる。

坂下は満足げに頷くと、殺気の篭もった眼差しをゼルダッドに戻して云った。


「いいだろう、部下の仇だ。相手をしてやる、鋼のポンコツとやら」

口元に滲んだ血を拭いながら云う。



「面白イ」

ゼルダットが歩き出す。
好恵が右足を引き、構える。
セリオが全装備のセーフティーを外し出す。



そして、激闘は始まる。






御音共和国 山葉



邪なる者。
悪しき者。
その禍々しきを以って、振り撒くは恐怖。
おぞましき結晶は理性を蝕み、破滅させる。
絶対死の予感を振り払うために、人は激情へと走る。


「一弥様は下がって!」
「ここは我々が!」

「待って! 待つんだ!」

一弥の悲鳴は聞き遂げられず、倉田家の近習たちが抜剣し駆けて行く。
その行く先には、無明の口を開け、笑いの仮面を貼り付ける白き悪魔ポエニスカ。

「健気健気、故に愚か。主を守らんと無謀に走るが愚か。怖れに捕らわれ、振り払わんとするが愚か。我に敵うと思うておるところなど、さらに愚か」

邪気が膨れ上がる。

「愚か者は不快だな。ささ、早う死ね」

その言葉が招きの言霊か。
声の震えが空気を震わし、邪気の狭間から何かが産まれ出でてくる。

世界が歪む。

 目玉。

一メートルを越える巨大な目玉が五つ。邪気の中から産まれ出る。

「おのれ、化け物があ!」

一人の近習が、手近に浮かぶ目玉に向かって斬りかかった。
ギョロリ、とその巨大な目玉が蠢き彼を見つめた。


  グシャ


次の瞬間、現出した光景に、誰もが血の気を失せさせた。

突然縦に裂ける目玉。
その裂け目には凶悪なまでに研ぎ澄まされた刃歯が並ぶ。
そして、大口を開けた目玉は異様なほどの素早さで、斬りかかろうとしていた近習の上半身に喰らいついた。
凶悪に並ぶ刃のような歯が、あっさりと人間の胴体を食い千切る。

そのあまりに凄惨な光景に、皆が絶句し動揺する。
目玉たちは獲物が見せたその隙を逃さなかった。
上半身を食われた男の、残った下半身がバランスを失って倒れた時、他方でも心を凍らせるような断末魔の絶叫が鳴り響く。

頭部を半分だけ齧られ、プティングのような脳味噌をボタボタと零している者。
はらわただけを食い破られ、この世のものとは思えぬ悲鳴を上げながらのたうち回っている者。
下半身に食いつかれ、ベロンと白目を剥いて逆さ吊りにされて痙攣している者。


地獄だった。


ポエニスカの声が阿鼻叫喚の渦の中に淡々と響く。

「これが、愚か者の末路と云うモノだな。うむ、如何なる用句もやはり実践してみる事が大切だ。そうは思わないかね、人の子よ……ふむ、思わぬか、詰らん」

「き…さまぁぁぁ!!」

「怒るか、人の子よ。怒りは思慮を滅する、思考を滅する。常なる冷と静を宿さねば、それは敗北に繋がる…」

「黙れぇ!!」

剣を抜き放ちながら、一弥は絶叫する。

「ふむ、怒りに火照った肉というのも良い趣向かもしらん。さて、そろそろ戴くとするか」

ポエニスカはフラリとその骨ばった指先を一弥に向ける。導かれるように人間を咀嚼していた目玉たちが一弥に向かって動き出した。
その巨体にも関わらず異様に速い。
一弥は半ば恐慌を来たしながらも無意識に剣を薙ぎ払った。切先は、偶然かそれとも必然か、襲い掛かってきた目玉を深々と切り裂く。
握る柄から柔らかな肉を切り裂く気色の悪い感触が伝わった。
耳を塞ぎたくなるような悲鳴を上げ、地面に転がりのた打ち回る目玉。

やれる?

勢い込んだ一弥はそのまま残りも叩き切ろうと剣を振りかぶり…絶望した。

左と右、同時に迫る人食い目玉。ガバリとその身を限界まで広げ、一弥目掛けて食いついてくる。
一弥に出来る行動は残り一手。片方を切っても、もう片方が残っている。逃げるには体勢が悪すぎた。

だめ…なのかっ!?

それでも、一弥は剣を振った。
一矢報いる。
それが彼の激情。

唇を噛み締めながら、左手の目玉に向かって剣を振り下ろす。
再び肉を切り裂く嫌な感触。脳味噌をつんざく異形の悲鳴。
一弥は構わず体重をかけ、一気に剣を押し切った。

殺った。

気持ちの悪い緑の体液を頭から被り、その臭いに吐きそうになりながら、一弥は必死に振り返ろうとする。
背後には大口を開けた目玉の怪物。
予想通り、反撃は間に合わない。このまま、頭から噛り付かれて死ぬ。

そう、それは絶対なる確定死。

目の前に広がる大口の無明の空間を覗きながら、一弥は姉とその親友である憧れの女性の顔を思い浮かべた。

走馬灯…か。

恐怖が摩滅する。
それでも死に慄く身体が剣を振り翳そうとしている。そしてそれは間違いなく間に合わない。
無意識に自嘲の笑みを漏らしながら、一弥は時間の流れが遅くなる感覚の中で自分を喰らう大口の奥を見つめ続けた。

自らを喰らう闇。
闇の入り口に並ぶ歯が、一弥を食い千切ろうとした刹那、闇の中に光が生まれた。

光輝。

それは闇の中の灯火。
口内にいきなり輝いた光を一弥が疑問に思う間も無く、目玉の怪物はいきなり急制動をかけ、物凄い勢いで一弥から遠ざかっていった。

いきなりの展開にポカンと口をあける一弥の目に、漸く状況が映る。

高々と空に舞う目玉。その背後からは光の鎖が伸びており、その先には一人の青年が鎖の先端を持って立っていた。
整った面差し。少し伸びた漆黒の髪。鼻先に乗せられた品の良い眼鏡。その奥に鈍く輝く瞳はまるで刃のように鋭い。
そして、紺の外套を纏ったその姿は光の差さぬ影のごとき冷たさを纏っている。
そこまで見て、ようやく一弥は認識した。
あの人が、手に持った光鎖を目玉に突き刺し、高々と宙に放り上げたのだ、と。

青年は呟いた。

「爆」

途端、彼の手元から火花が鎖に走り、まるで導火線のように鎖が消えていく。
そして、火花が目玉に到達した瞬間、目玉は派手な爆音とともに粉々に爆ぜ飛んだ。


「ほう」

肉片が降り注ぐ中、ポエニスカの声音に初めて楽しげな感情が浮かんだ。
クイ、と指を動かす。それに合わせて残りの目玉二体が青年目掛けて飛翔する。

青年は詰まらなそうにそれを一瞥すると、右手を掲げた。

「その牙は邪悪を砕き、その毒は瘴気を滅す 四剣の瞳は敵を貫き、光撃は嘆きを排す その意思は憤怒と撹乱」

突き出した右腕に纏わりつくように、輝く光の帯が具現していく。
眼差しの先には狂ったように牙の連なる大口を開け、迫る怪異。

青年は微かに侮蔑を口元に浮かべた。

「其は魔を征する神威 其は意思を破する明滅の徒 其は躯を穿つ光の烈蛇なり」

腕に撒きつく一条の光より分かたれた二又の蛇頭が牙を剥く。

「《穿裂双蛇(ブレイク・オブ・レイザースネイク)》」


術式起動。
青年の右腕から解き放たれた双頭の光蛇は中間点でその身を裂き、それぞれの蛇頭が目玉に喰らいつき、穿孔する。
青年は再び同じ言葉を呟いた。

「爆」

二体の目玉が輝き、膨れ上がり、そして内側から爆ぜ割れた。
二つの爆球が空に生まれる。
バラバラと肉片の五月雨が降る。そのあまりにも非現実的な凄惨さの中で、冷たく佇む青年だけが現実という名の存在感をかもし出していた。
青年はゆっくりと一弥に顔を向ける。

「君は気が付けば危機に見舞われているな。やれやれだ。倉田の本陣の様子を窺っていて正解だった。まったく、倉田さんや川澄が気にかけるのも無理はない」

皮肉げなその物言いには多分に呆れが含まれている。だが、一弥はそんな意図にも頓着する事無く目を輝かせ彼の名を叫んだ。

「久瀬さん!」

その純粋な眼差しに当てられ、思わず苦笑を浮かべながら久瀬俊平は一弥に云った。

「この場は引き受けよう。君はすぐに自軍の指揮に戻りたまえ。既に戦線に乱れが生じている。それから僕の軍勢も君に従うように指示を出してある。しばらく預かってくれたまえ。幕僚は僕の部下を使うといい」

「で、でも…」

逡巡する一弥。恐怖が混じった視線の先は、白い悪魔だ。
この尋常ではない邪気の持ち主を相手に、久瀬一人だけ残す事は不安を通り越し、絶望に近い。
だが、久瀬は一弥の躊躇を見るや、表情を消し目を細めた。その彼の気配はまさに見下ろすといった言葉が相応しい。
そして、彼はすっと後ろを指差すと、凍りつくような声音で告げる。

「この場で君ごときが出来る事は何一つ無い。自分の力量と役割を弁えろ、倉田一弥」

グッと息を呑む一弥に久瀬は氷刃の言葉を重ねた。

「行け」

悔しさが滲む。だが、彼は哀しい事に聡明だった。
コクリと頷き、「ご無事で」と万感を込めた言葉を残し、この場に背を向けた。

その瞬間、白撃が飛ぶ。ポエニスカが投じた白色の粘塊が一弥目掛けて飛翔した。
だが、それは久瀬の側面を通り過ぎようとした時、彼が投じた外套に包まれ、墜される。
外套は粘塊に解かされ、ボロくずのようになり、地面に広がった。
一弥は振り返らない。顧みない。
久瀬は引き受けると言ってのけた。
だから振り返らない。



白の悪魔に動揺はない。怒りもない。感情の揺らぎはない。
ただ、淡々と告げる。

「邪魔をするのか? 若き魔導師よ。ワシの獲物はあの子供。それを邪魔しようというのか?」

「ああ。邪魔をさせてもらう。面倒な事に彼の姉君から彼の事は頼まれていてね…見過ごしては後が怖い」

「愚か愚か。他人の言葉に惑わされ自らの命を失うか。魔導師よ。自らの力量を弁えろと告げたヌシの言葉、そのまま返してやろうぞ」

「これでも弁えているつもりだ」

久瀬はおもむろに眼鏡を外し胸のポケットに差し込むと、不機嫌そうに言い放った。

「さあ、早めに終らせよう。時が惜しい」






東鳩帝国 降山盆地



藍の旋風が空を薙ぐ。
力が見事に乗った右後ろ回し蹴りがラルヴァの側頭部に直撃。だが、そのまま蹴りは弾き飛ばすのではなく巻き込むようにして、ラルヴァの顔面を地面に叩きつけた。
グシャリとラルヴァの顔面が潰れる音と同時に、体重が乗った足の裏が頚骨を踏み潰した。

柏木梓は踏みつけた右足を捻り、止めを刺すと軽く半歩左にステップ。
横面を通り過ぎる巨大な黒椀を掴み、その勢いのままに背後のラルヴァを投げ飛ばした。

「でぇーやっ!」

またもグシャという音が響き、頭頂部から鬼の渾身の力で地面に叩きつけられたラルヴァの頭が潰れる。

「梓!」

ホッと息を抜いた瞬間、千鶴の鋭い声が飛ぶ。
その声に込められた意図を察した梓は、振り向きもせず渾身の力で地面を蹴った。
直後連なって彼女の立っていた位置に着弾する爆炎弾。

「助かった、千鶴姉」

吹き飛ぶ大地に自分の末路を省みて、冷汗を垂らしながら長姉に礼を云う。
両の手に鋭く伸びた鬼の爪。その先端よりたなびく血筋の羽衣を纏った女性の背後で、切り刻まれたラルヴァが倒れる。
柏木千鶴は、妹に視線を向けると普段の惚けた調子の微塵も無い冷静な声で告げた。

「梓、戦いの最中に息を抜くなんて不注意すぎるわよ」

「悪い」

さすがに今回は自分のミスなので、普段のように文句も言えずバツの悪い表情を浮かべながら、梓は残り三鬼のラルヴァに襲い掛かった。



2分も立たずに最期のラルヴァを駆逐した梓はようやく安堵の息を吐いた。
彼女の傍らにまだ、鬼化を解いていない千鶴が歩み寄る。
いつでも突発的な事態に対処できるように、との事だろうが、そのプレッシャーは普段から色々と酷い目にあっている梓にとっては、条件反射のように重く圧し掛かってくる。
とはいえ、そんな個人的な事を云っている場合でもないから、梓は戦闘のためではない汗を拭いながらも特に言葉を紡がない。
千鶴は油断無く戦場を見下ろしながら、

「楓が出張ってるのに、ここまでラルヴァが到達してくるなんて……前線は想像以上に苦戦してるようね」

「今のところはあたしら二人で何とか出来るけどさ、これ以上一度に来られるとあたしらはともかく…」

と、梓は背後に視線をやる。
その先には目蓋を閉じたまま光の粒子の柱の中で佇んでいる末妹 柏木初音の姿が。
今の初音は≪ヨーク≫と完全に意識をリンクさせている状態だ。外界への反応は完全に途絶えている。つまりは生まれて間もない赤子と変わらぬほど無防備だと云う事だ。
こんな所を襲われてはひとたまりも無い。

「護衛の兵士を断ったのは早計だったかもね」

千鶴は少し悔恨を込めて呟いた。
だが、梓がからかうように返す。

「居ても役に立たないよ。千鶴姉の鬼気に当てられてきっと身動きも出来やしない」

「うー、なによその言い草。それじゃあ私がまるで敵味方見境いのない鬼女みたいじゃない」

「そうとまでは云ってないだろ?」

とはいえ、そう大して変わらないとも思うけど。

と、心の声は心に秘めておく。
まあ、鬼気が云々は置いておいても、一般の兵士に柏木家の秘密を見せびらかすのもあまり推奨できない。
それに、現実問題として前線では幾ら兵士が居ても足りない状態であった。自分たち姉妹で全てをカバーするつもりだった千鶴は保科智子の護衛の申し出を前線の厚みを減らすべきではないと断っていたのである。

「まっ、今さらグダグダいっても仕方ないって。だいたい妹を守るのは姉貴の義務だろ? だったら、来るヤツ片っ端から倒して初音を守るしかないじゃん」

首を竦めるように両手を広げて云う妹に、眉を寄せていた千鶴は一瞬呆けたように見つめると、やがて苦笑を浮かべて云った。

「あなたはいつも簡潔で良いわね。でも、今はまったくその通りだわ。私たちが初音を守ってあげないと」

「そうそう、貴様らが守ってやらないと、あのお嬢ちゃんはオレの毒牙にかかるってわけだ」

引き攣ったような笑い声の混じった声がいきなり姉妹の会話に割り込んだ。
千鶴と梓は一斉に振り返る。
一人の男が、もったいぶるように丘を上がってくる。

「あなたは…」

誰かと訊ねようとして、千鶴はすぐに止めた。
その男を見た途端、自分が殺気を撒き散らしていた事に気がついたのだ。
本能が、この男が敵だと断じている。
そして、それは間違いではなかった。

ボコリ、と歪な音を立てて、男の体が軋んだ。
カクカクと人形のような動きを見せながら、男の姿が変わっていく。

上着が引き裂かれ、曲がった背中に鋭利な刃のような背びれが生まれる。
ただでさえ、長めの腕がいきなりズルリと伸び、鞭のようにしなる。
そして、その伸びた二の腕に反りの入った硬質の角が体液を飛沫ながら生え出した。

「ま…ぞくなの?」

千鶴の呟きに、紅く裂けた口が引き攣るように捲れあがる。
そしてギョロリと左右の瞳が別々に動き、千鶴と梓を見た。

「クククッ、そうだぜ。オレの名は螺奸。お察しの通り、ガディムの僕よ。さてさて、見たところラギエリと同じ血族…いや、人間との雑種か。くくっ、まあどちらでもいいさ。麗しのエルクゥの女ども、良い声で鳴いてもらうぜぇぇ、ケケケケ」

凶笑が高鳴る。
笑いながら螺奸は両手を掲げた。

唐突に、彼の背後にいくつもの魔法陣が現れる。

「ハハァッ! 無力さにうちひしがれろぉ!」


千鶴と梓は、一斉に湧き出すラルヴァたちを背に、空を仰いで笑い続ける魔将を、絶望の滲んだ眼差しで睨みつけた。





    続く





  あとがき


八岐「題名が予告と変わっていたりして、ちょっとビビリながらのあとがきです」

あゆ「予告の信頼性がなくなっちゃったね」

八岐「元々あったかは疑わしいです」

あゆ「あ、それはそうだね」

八岐「という訳で現れいでたる魔将たち。苦戦死闘と相成ります」

あゆ「次回第64話『鋼鉄たる者」、次回もよろしくねー」

八岐「それではまた次回のあとがきで。さらば」




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