魔法戦国群星伝





< 第六十話 Kiss in the Dark >






御音共和国 折原浩平私室



カシャン、という音が響く。
それはカーテンが勢い良く開かれる音。
そしてまどろみの暗がりに閉ざされていた部屋に燦燦と降り注ぐ日の光。
窓から広がるのは突き抜けるような蒼い空。
彼女は眩しげに目を細める。
そして弾むように身を翻しながら小さく息を吸い込んだ。

云うべき言葉はいつもと同じ。
そして始まりの言葉。

「ほらー、浩平起きなさいよ!」

「むにゃ?」

二人の関係が変わっても、この情景だけは変わらない。
恐らく、これからもずっと。

柔らかい枕に顔を沈めていた折原浩平は、夢の淵から叩き起こされるにしては心地よすぎるその声に、ぼんやりと顔を上げる。
重たい瞼を引き上げた眼に映る光景。
朝の光に照り輝く窓。白いカーテン、そして、その窓際で優しく微笑む彼女の姿。

…あれ? トラップは?

ふやけた頭にふやけた疑問が浮かぶ。
瑞佳の眼差しはただひたすらに優しい。
いつもなら、折原浩平仕様の対睡眠妨害型長森用トラップ群との戦いの果てに、少し困ったような表情を浮かべているのだが……
と、首を傾げかけた所で漸く思い出す。

長森瑞佳の姿は小さなネコが沢山刺繍された寝衣の上だけ。白い素足が太腿の付け根まで見えてる姿。
とてもじゃないが、外に出られた姿ではない。

そっか、昨日も一緒に寝たんだっけか。

まだ覚めない頭のまま、清々しい朝に相応しいその健康的な肢体を堪能しつつ、浩平はくすぐったい気分に身を震わせた。

「浩平、起きてってば! 今日は流石に遅れられないんだよ」

「ふぁぁ、なんでだ? みんなでピクニックにでも行く予定だったけ?」

「もーう、そんなわけないよ」

困ったような怒ったような不思議な顔をする瑞佳。けっきょくいつもどおりだ。
だが何の事はない、浩平にとってそんな彼女の表情は朝起きるために必須なものなのだ。
浩平は身を起こしながら乱れた髪の毛を掻いた。

「わかってるって、今日は…」

ゆっくりと、彼女の顔を仰いだ。

「出発の日だ」







引き絞るように右の掌を握り込む。
皮製の指ぬきグローブが乾いた音を響かせた。

その感触に満足しながら、茶色のハーフコートを勢いよく羽織る。 簡単だが仕立ての際に呪印を施し、わずかだが抗魔能力を備えたコートだ。気休め程度だが、備えるに越したことはない。何しろこれから立ち向かう相手は魔王の名を冠する相手なのだから。

「浩平、準備は済んだ?」

トテトテという軽い足音。
同時に響いてくる柔らかい声。
その奏でられる音色はいつも心地いい。

「んー、だいたい」

応える相手はさらさらとした髪の毛を流す幼馴染の少女。
いや、もう恋人という肩書きで呼んでもいいのだろう。
寝衣が流石にもう着替え終わり、いつもの格好だ。
ふわふわと裾の翻るスカートが彼女の柔らかな雰囲気をさらに周囲に醸し出している。

浩平は両手を腰に当てながら、彼女に向かって仁王立ちして云った。

「どおだ、カッコいいだろ」

「うん、熱血って感じだね」

ポーズととったまましばし硬直する折原浩平。
にこにこと笑みを浮かべたまま「ん?」と首を傾げる長森瑞佳にヒクヒクと引き攣りまくった笑顔を向けながら、声を絞り出す。

「いや、俺としてはクールでニヒルなイメージで…」

「あ、それは絶対無理だよ」

「なんで!」

「だって、浩平だもん」

ぽかり

拳骨が落ちた。

「あたっ! な、なんで殴るの〜?」

「過去現在未来という時空流離の先天的境界幽線の中で認識せざるを得ない通感空間的枝葉の理を断ち切り、黄金律の真詩を具象実現するためにはこうせざるをえなかったんだ」

「……浩平、自分で何言ってるかわかってる?」

「いや、まったく」

「もー」

唇を尖らして唸る瑞佳。それをチラリと横目で確認した浩平は持ち前の悪戯心を揺り動かされた。
彼女の怒りを逸らすようにそっぽを向き、油断を誘うや否や、パッと顔を寄せ、唇を奪う。

「む、んむー!?」

ボン! と空気と顔が爆発する音とともに浩平が顔を上げた。

「ぬー、長森、風情がないぞ」

「どどどどっちがだよー!!」

顔をこれ以上ないほどに真っ赤に染めた瑞佳がどもりながら声を張り上げる。

「いや、今回はそっちだと思うぞ。キスしてる最中に『んむー!』とか唸られたりしたら風情も何もあったもんじゃない。 だいたい今さらだぞ、キスなんか。まだ恥ずかしいか?」

「は、恥ずかしいよ、浩平は恥ずかしくないの?」

「ん? うーん、まあ……そりゃちょっとは」

心持ち頬を染めながら顔を背ける彼の様子に、頬を染めていた瑞佳は思わずクスリと笑みを零す。

こう云ってはなんなのだが……そんな姿が可愛くて仕方がない。

可愛いなんて云ったら浩平は怒るだろうけど…

瑞佳は微笑みを浮かべながら、すっと音もなく浩平の懐に入った。
ギュッと抱き締められる感触に浩平は解かっていながらも下を向く。
自分を正面から抱き締めながら見上げる瑞佳の顔があった。

「浩平…大好きだよ」

「ああ、正直言うと俺もだ」

「浩平、なんか遠まわしに消極的だよ」

「俺って実はシャイなんだ」

「それは今まで気づかなかったよ」

「見る目がないな」

「そんなことはないと思うな」

しばし、言葉が途切れる。
まどろむような沈黙。
二人は無言で互いの温かさ、触れ合う感触に浸っていた。

「ねえ、浩平」

「なんだ?」

その眼差しに不安の色を感じた浩平は、茶化すことなく問い返す。
瑞佳は少しだけ眼を伏せると静かに…告げた。

「ちゃんと…無事に帰ってきてね。私は、多分浩平のいない世界には耐えられないと思うから」

「バカだな」

そっと、瑞佳の髪の毛を撫でながら浩平は囁く。

「帰ってくるさ、ちゃんとな。なにしろ…」

思わず小さな苦笑が浮かんだ。

「俺はお前にベタ惚れしちまってるんだから、お前を放っておけるわけないだろ?」

「うわっ」

「な、なんだよ」

「真面目な顔して恥ずかしい事云うのって、全然似合わないね、浩平」

そう云った瑞佳の表情は心底本気でそう思ってますという感じ。
ピキリッ、とこめかみが引き攣る。

「お前な、俺の一世一代の名セリフを…」

「あ、イタイイタイ!」

グリグリと拳を頭にねじ込む浩平と、わたわたと彼の背中に回していた両手を振る瑞佳。

「あったく…」

「うー、痛いよ〜」

「自業自得だ」

云いながらもちょっといじけてる浩平の様子に、瑞佳はクスクスと笑いを漏らす。
そしてとりなすように名前を呼ぶ。

「浩平」

「なんだよ」

「嬉しかったよっ」

驚いたように振り向く彼の見たものは、本当に嬉しそうに笑う瑞佳。

「ありがとう、本当に嬉しかったよ」

「…バカ、本心を云っただけだ。瑞佳…」

「うん…え?」

嬉しそうに頷きかけ、今彼が呼んだのが自分の名字ではなく名前であった事に気がつき、目を丸くする。
その様子を無視するように、浩平は今度は自分から彼女の頭を抱え込むように抱き締めた。

「お前こそ、無理するなよ。俺は…俺の方が瑞佳のいない世界に耐えられないんだからな」

「……浩平、大丈夫だよ。だって…」

腕の中から彼女が顔を上げる。

ふわりと…笑顔が羽ばたいた。

「わたしも浩平が大好きなんだから」



すっと、それが必然のように瑞佳が瞼を閉じる。
浩平は、ゆっくりとその甘い匂いのする少女の面差しに顔を近づけ、その桜色の小さな唇に自分のそれを重ねた。
優しく、ひたすらに優しく唇を求める。
温かさが、想いが流れ込んでくる。
全身が痺れるように打ち震えた。

離れがたいが故に、永久に続く口づけ。

ただ、微かな吐息、身体が擦り合う音、唇を重ねあう音、パシャというシャッター音が部屋に響いていた。

……はい? シャッター音?

思わず薄めを開け、部屋を見回した浩平が見たものは……。

「あ、まもちゃん見つかっちゃったかも」「あ、こらみんな押すな」「みゅー、見えないよ」「うわ、なんかクチュって音が聞こえるけどこれってキスかな? キスかな?」「ちょっと、倒れ――!?」


どんがらがっしゃーん!!


まあ、お約束のように開いたドアから溢れ出てくるデバガメども。

「……てめえら、なにしてやがる」

「え? え?」

恐ろしく冷ややかな眼差しをこれでもかと突き刺す浩平と、事態がわからず混乱しまくっている瑞佳の前で、団子になって倒れた連中はそろって「あはは」と笑顔を貼り付けた。


「折原、ちゃんと決定的シーンは収めたからな、俺が責任を持って国中に配布してやるぞ」とガハハと笑う住井護。
「瑞佳、あんたやったじゃない。うんうん、奥手のあんたがねぇ。お姉さんもこりゃ一安心だ」と、満足そうに頷く稲木佐織。
「く、くやしー! なんかもうこれ以上ないほどの乙女を見せられたって気分だわ……自信なくしちゃうかも」とガックリ膝を付く七瀬留美。
「……まあ、あんたには到底無理よね、最初から」と半眼で呟く広瀬真希。
「キスかあ、いいなあ、やっぱりキスってカレー味ってホントかな、雪ちゃん」と物欲しそうに人差し指を唇に当てる川名みさき。
「……あんた、どこから知識を仕入れてくるか知らないけど、激烈に間違ってるわよ、それ」と疲れたように頭を抑える深山雪見。
「みゅー、もういっかいキス見せてー!」とピョンピョン跳ね回る椎名繭。
『………凄いの!! でも甘すぎて恥ずかしいの』とスケブの端に小さく書いて差し出すのは上月澪。


「みなさん」

「「「はい?」」」

「覗きとはいい趣味してるじゃないか! 特に住井!」

「あれ? 何故に俺だけ名指し?」

「当たり前だろうがぁ! 写真返せ!」

「返せと云われて返す馬鹿がどこにいる! ほれ、佐織パス」

「ほい、キャッチ」

「さ、佐織ぃ!?」

宙を舞うカメラをひょいと掴まえた佐織に、瑞佳が混乱したまま声を上ずらせる。

「ごめんねー、瑞佳。でも……私は瑞佳の晴れ姿をみんなに見てもらいたいのよー!! という訳でさらば!」

「あ、待て稲木ぃ!!」

「待てと云われて待てるかぁ! ほらみんな逃げるよ」

「みゅー、逃げるー」

『危険なの、退避するの』

バタバタと走り去っていく稲木以下三名。
住井は抹殺したものの、その逃げ足の速さに茫然と見送る浩平と瑞佳。

「じゃ、じゃあそろそろわたしたちも行こうか」

「…留美、棒読み過ぎて笑うに笑えないわ、それ」

「真希、うるさい!」

「ななせ〜」

千年の眠りから覚めたミイラのような声で名前を呼ばれ、冷や汗を滝のように流しながら七瀬はガクガクと振り返って硬直した。
爛々と輝く凶暴な目をした折原浩平が狂ったようにケタケタ笑っていた。

「お、落ち着きなさいって折原ぁーー」

「けけ、けけけけけけけけけ、これだけ虚仮にされて黙ってられるかぁ。生贄は決定したぞぉナナセ〜」

「ひっ、ひゃ、み、瑞佳、ちょっと助け――」

「はうー、見られた見られた見られたキスしてるとこみんなに見られちゃったどうしよ〜」

「って、どっかイッちゃってるしー」

「あらま」

「ククク、覚悟はいいかぁ」

「ねえねえ浩平君、キスどんな味がした?」

「そりゃ勿論牛乳味……って、みさき先輩ぃ!!」

気配も感じられずにいきなり耳元から囁かれ、かなりビビる浩平。
その様子に頓着する風でもなく、マイペースに笑うみさきさん。

「あはは、雪ちゃん、牛乳味だって。やっぱりカレー味じゃないんだ」

「当たり前でしょうが。でも牛乳味も瑞佳ちゃん限定だと思うけどね。それじゃ折原君ごちそうさま。いこ、みさき。ほら、広瀬ちゃんも」

「はいはい」

「うん、じゃーね、浩平君」


なんつーか、どうどうと去っていく三人を唖然と見送ってしまった浩平は、いつの間にか七瀬の姿まで消えている事にようやく気が付いた。

「ぐあ、七瀬まで! あいつ、あの逃げ足の速さのどこが乙女なんだぁー!」

うやむやの内に半死人と化している住井以外の全員に逃げられてしまい、頭を抱えて咆える浩平。ちなみに瑞佳はまだ真っ赤っかのまま頬を押えて悶えている。


「ったく、あいつらは」

帰ってきたら覚えてやがれと心の中で毒づきながら、浩平は住井を放り捨てようと廊下に出ようとしてそこに立っている小柄な女性の姿に気がついた。

交錯する視線。
その薄く笑うような表情に、浩平は一瞬迷う。
だが、迷いはすぐさま振り捨て、ただいつもと変わらぬ調子で声を掛けた。

「あれ? 柚木、お前もいたのか」

「いたのかって失礼だね」

惚けた浩平の言い草に、部屋の向かいの壁にもたれ掛かって見るとはなしに中を覗いていた柚木詩子は口を尖らせて見せる。

「だっていつものお前だと率先して俺をからかうじゃないか」

「まあ…ね。でも、雪見さんじゃないけど、ごちそうさまってね。もうあんまり熱いんで、からかう気もなくしちゃったわ」

苦笑を浮かべながら首を竦める詩子。
その普段と変わらぬ様子に、浩平は見透かすように目を細めた。
あの日。彼女が自分に頼ってきたあの日から、考えればそれなりに日々が過ぎてしまった。

色々あった。

そして、彼女にも色々あったはずだ。

でも、今も自分達はこうして笑っている。

まだ、何も解決はしていないけれど……きっと、すべては流れはじめているだろう。

微笑する詩子。
それを眺めていた浩平は、思わず云ってしまう。

「柚木はさ…強いよな」

苦笑を象った表情が止まるのがわかった。
笑顔が消え、少し考え込むように眼を伏せると、彼女は少しして再び噛締めるような笑みを浮かべる。

「さあ、あたしにはよくわかんないよ」

でもねえ、と詩子は顔を逸らし、傍らにある窓から肩越しに外を眺めながら言葉を紡いだ。

「もし、あたしが強く見えるのは…心底から信じぬける相手がいるからかなあ」

その決して光を失わない瞳を見ながら、浩平は思った。

柚木…そうやって信じぬける相手を信じ続ける事が出来る事こそ強い証拠だと思うぞ。


結局、浩平は何も云わず、何も訊かないことにした。
彼女が自分に何も訊ねようとしないように……

もう、二人とも解かっているのだ。

後は、信じるだけなのだと……。


「さて、じゃあ行きましょうか折原君」

「そうだな、面倒事をさっさと終らせに行くとしますか」

自分たちがやれる事を…全力で成し遂げるために。


「浩平!?」

漸く、正気に戻った瑞佳がパタパタと駆け寄ってくる。
浩平は素早く彼女を抱き寄せると、さっと掠めるように口づけた。

「はうわっ!?」

「……なんか、君しばらく見ない間にすっごいプレイボーイになっちゃったね」

「失敬な、柚木くん。これはあくまで瑞佳限定だ」

「はー、そーですか」

呆れ果てる詩子を横目に、浩平は目を白黒させている瑞佳をペチペチとはたく。

「ほれ、眼を覚ませ」

「わっ、こ、浩平〜!?」

ようやく正気に返った瑞佳はもうこれ以上ないほどに頬を朱に染めながらバタバタと両手を振り回す。

「お前ってパニクるとそれだよな。ほれ、行ってくるぞ」

「ど、どこに? って、そうだった」

さっと、真顔に戻る瑞佳を見て、浩平はもう一度彼女を抱き寄せる。
その胸に顔を埋めながら瑞佳は囁いた。

「ちゃんと、帰ってきてね」

「ああ」

小さく頷くと、名残惜しげにもう一度だけ彼女たちは口づけを交す。

「……あんたら、いつの間にそんなに……、はぁ、眼が痛い」

「ははは、羨ましいだろー」

「実は無茶苦茶恥ずかしいクセに。真っ赤だよ、折原君」

「ぐは」

「あはは、可愛いねえ。じゃ、行こっか。じゃあね、瑞佳ちゃん、茜のことよろしく」

「うん、詩子ちゃんも…無事に帰ってきてね」

「詩子ちゃんは無敵だから大丈夫よー」

なにか言い争いながら廊下の端に消えていく二人。
それを瑞佳はじっと、見送っていた。


なぜか、瑞佳は思ってしまう。

これから彼らが行く先は戦場…それも魔王との戦いが待っている。

それなのに……


「どうして、わたしはこんなに安心して見送れるんだろう」


もし、浩平か詩子がその言葉を聞いていたなら、こう云うに違いない。




『それは瑞佳が皆を信じ抜く心の強さを持っているからだ』…と。




























虚ろと云う名の闇に閉ざされた部屋で







音も無く。
不気味なほどに音も無く扉は開かれた。

澱む闇を押しのけるように光が差し込んでくる。
その光を背に受けながら、彼女はゆっくりと部屋へと踏み入ってくる。

里村茜。

その表情は硬く、険しい。
だが、そこにもはや迷いはない。

それは普段の磨耗したような表情ではなく、 確固とした意思を秘めた決意の面差し。


彼女の前に広がるは、差し込む光にあがらう漆黒。
だが、彼女は躊躇うことなく踏み込んでいく。
闇に身を沈めていく。

そして…
甘美なる仄かさを以って心まで覆おうとする闇に、茜は逆らうでもなく、
されどこれまでのように闇に総てを委ねるでもなく、受け流す。
もはや、闇は彼女を押し潰せない。


暗がりに満ちた空間に、孤島の如く明かりが燈っていた。
その光の下に在った青年は、訝しげな視線を歩み寄る茜へと向けた。

「里村君。今の時間、君が来る予定は無かったはずだが?」

だが、茜は青年の問いに答えることなくゆっくりと様式すら見通せない部屋を見渡した。
暗く、昏く、ただひたすらに光を拒絶するような闇が漂っている。

「今更のように思ったのですが――」

改めて視線を交叉させ、彼女は云った。

「ずっと太陽の光に当たらないのは酷く不健康だと思います」

青年の顔に、明確な困惑が宿るのを見て、茜は改めて内心で頷く。
自分は今まで、この部屋にかけられた呪縛へと捕らわれていたという事を認識し直した。

そして今、自分は自分自身で在ることが出来ている。

「今日は報告に来ました」

彼が問い返す間も与えず、茜は続ける。

「私は皆と共に戦場へ赴きます」

答えは返らず、沈黙が紡がれる。

物音一つしない静寂。

二人の本当に微かな吐息の震えだけが、この時間が現実だと解からせる。

やがて、永劫にも思える沈黙の後、彼は断じた。

「……無意味だ」

だが茜はその言葉に反発するでもなく頷く。
それを見て、微かな疑問の気配を滲ませながらも彼は続けた。

「君はあくまで『特調』の長であり、その仕事をこなす事がみなの利益となる。それが君の戦いだ。その君が自ら戦場に立つことは単なる感傷に過ぎない。 それを分かっていながら何故君は…」

「けじめです」

「けじめ?」

「そう。私は、皆と同じ場所に自らを置く事で、今までの自分に対してけじめをつけるつもりです」

青年は解からないとばかりに瞼を閉じた。

「それは、どういう意味なんだ?」

彼には解からないだろうと茜は思った。
いや、あえて解かろうとしないのだ。本当は解かるはずなのに…

だから、自分はこうするのだ。
背ける顔を此方に向けさせるために…。


茜は微笑む。

そして囀るように囁いた。


「つまり――」


すう、と滑るように二人の影が寄り添う。


「こういう事です。司」



一つの情景が闇の中に浮かぶ。

瞳を閉じて座る端正な顔をした色白の青年。
三つ編みを流しながら、デスクを乗り越えるように身を乗り出す栗色の髪の毛をした女性。

そっと、重ねられた唇と唇。


闇の中の口づけ(Kiss in the Dark )


凍りつくでもなく、凝固するでもなく、ただ在るべきを以ってそこに在った二人の肖像は、やがて女が元の位置に戻る事で消え去った。

目を覚ますように、青年は目蓋を開く。

青年はゆっくりと指を唇に這わせる。
まだ…温かい感触が残っていた。

眼差しを自らの口元から上げる。
再び交錯する視線と視線。

薄く、茜が眼を細めた。
言葉の続きが紡がれる。

「もう、私は…あなたをTなどという記号で呼ぶつもりは無いと云う事です。私にとって、貴方は上司であるTなどではなく、大切な幼馴染であり、誰よりも愛する人…城島司なのだと……。私は、これから貴方を城島司と呼ぶ私に戻ります」

自分をじっと見つめる青年を、目を逸らすことなく見返しながら、茜は云う。

「私は宣言します、司」

「なにを…だ?」

彼女の目元に微笑が浮かぶ。
薄く、唇が不敵な笑みを象った。

白糸のように細く白い手が闇に翻る。

「無事、この最後の戦いより戻れたならば――」

その仕草はさながら、闇を払うが如く闇を指し示す。

「貴方をこの光の当たらない暗がりから引きずりだしてやるという事をです」

青年の面差しに再び当惑が浮かぶのを見届け、茜は続けた。

「私は、もう待つ事は止めました。貴方はいつか、この闇から出てきてくれるかもしれません。でも、私はもうそれを待つ事を止めます。詩子が教えてくれました。私は…待つのではなく、追いかけて捕まえる事にしたんです」


言葉が、厚く遮る闇を切り裂いた。


「私は宣言しました。覚えておいてください、司。そして――」


真っ向から司の顔を見つめる茜。

その面差しが、

ニッコリと

晴れ晴れとした笑みに彩られた。


「――覚悟、しておいてくださいね」


焼きつくような笑みの残滓を残し、すう、と彼女は身を翻す。
フワリ、と重いはずの三つ編みが浮かび流れ、里村茜は沈黙する青年に背を向け…闇の部屋を去っていった。














沈黙が戻った闇の中。
だが、無音はすぐさま破られる。

漏れ出す吐息。
否、それはやがて可笑しくてたまらないとでもいいたげな笑い声へと昇華する。

「あははは、これは…良い、はは」

「何を…笑う?」

空白のような声で司は訊ねる。
何処かより現れ、いつの間にかそこにいたのは氷上シュン。
手の平で顔を押えながらこみ上げる笑いに身を委ねていた氷上は、口元を曲げながら指の隙間から視線を投げる。
そこには珍しく気分を害したように唇を噛み締めている城島司の姿があった。

「何を…だって? 決まっている。決まっているじゃないか」

闇をそよぐように氷上はゆらりと左手を薙いだ。

「敵わないという事をだよ。君や僕が、彼女に決して敵わないという事をだよ。愚かな話さ、これが笑わずにいられるかい?」

「敵わない…」

当惑したように、その言葉を繰り返した司に、氷上は重ねて連ねた。

「つまりは彼女こそ僕らなどより遥かに強き、そして尊敬すべき女性だと云う事だね。 いや、彼女だけじゃないのか。世界に絶望し、世界を拒絶したが故にかつての如く世界から勇気を得ることは敵わなかったはず。 その彼女に勇気と道を示したのは親友たる少女か。そして彼女達を取り巻くこの国の人たち。みなの思いこそが彼女にこの道を選ばせたのか。 絆はやはり限りなく確かなものなんだね」

「何を…言っているんだ?」

耐え切れないとでもいいたげに立ち上がり睨みつける司。
ふふ、と氷上は自戒を込めて笑う。

「…わからないのかい? 理解できないのかい? そうか、やはり…僕と君とは良く似ている。本当に大切なことに気づいていながら目を逸らしてしまっている。本当に簡単なことなのにね」

「本当に…大切なこと?」

氷上は応えず逆に問い掛ける。

「君は今の自分が立っている位置を理解しているかい?」

「位置だと?」

「…自らが身を置くこの闇の意味をわかっているのかと聞いているんだ」

司は、すぐには答えずじっと氷上の瞳を見つめた。
意図を探るように…だが、読めない。
これまでだって読めたためしは無いが、だがその瞳はそれまでとは違うような気もする。

思考が道無き道を彷徨い出す。

司は答えた。

「意味……影となり、人知れず力を行使し体制を維持する…それがこの闇の意味だ」

「違うね」

氷上はあっさりと首を振った。

「君はもはや現世に興味を持っていない。もはやなにをするにも意義を感じられない。君の闇は今や光あるが故に存在する影ではなく、無明…何も無い虚無だ!」

氷上は見下ろしながら何らの容赦もなく突き刺すように指摘した。

「君は既に存在することに意味を見出せなくなっている」

「…………」

答える言葉を持たず、沈黙が返る。
帰ってくる静寂にも氷上は動じない。故に言葉を続ける。言葉が尽きるまで。

「君は要らざる過去へとその精神を舞い戻らせている。君が心底より慕った恩師を失い、世界に絶望したあの頃に。だが、君は気づいているはずだ。 あの時から、誰が君を見守りつづけていたのかを」

「僕を…見守りつづけていただと?」

「誰の目にも明らかだよ、それが誰なのかはね。だが、君は…君の心は一人の女性だけを見続けている。彼女の事さえ考えていればいいとすら思っている。南条紗江子…今は亡き君の恩師か」

その名前を聞いた時、それまで大きく揺らがなかった光の無い瞳が刹那、激しく震えた。

「君は彼女だけに焦点を合わせ、周りを見ようとしなかった。その結果がこれだ。反吐の出るような任務の数々、王国が失われた事での生きる目的の喪失……疲弊した心の果てか。同情はしよう、同時に何も言おうとはしなかった僕の罪でもある。 だが、所詮は逃げだ」

「逃げだと? 先生を思い続ける事が何故逃げになる」

「…なら訊くよ。…何故、里村さんを君の闇に引きずり込んだ?」

「……!」

今度こそ、本当に青年は全身を震わせた。
なぜかは自分で解かっていない。
だが、その言葉が自分にとって痛撃である事は理解できた。

その司の様子を見て、氷上は僅かに目蓋を下ろした。
まるで、眠る寸前のような面差しになる。

ようやく、何かが顔を出し始めた。

「はっきり云うならば、君の能力は里村さんがいなくても十分に発揮しうるものだ。君がただ任務を果たし続けることに彼女は必要ない。それなのに君は彼女と会った」

「…存在を秘匿する機関には限界がある。特別調査局は必要だった」

「それには同意するよ。そしてその任には里村さんが適任だった事もね。だが…君の存在を知らせることはなかった。僕や…由起子さんを介せばいい話だった」

「なにが云いたい!!」

「簡単な事さ。君はただ失われた彼女を思い続ける孤独に耐えられなかった……。君は里村さんに甘えているという事だよ」

「僕が……甘えている?」

闇に眼が見開かれる。
大きく息を呑んだ音が響いた。

驚愕?

いや、恐れか。

自らも気がつかぬ心の溝を垣間見る恐怖。

氷上は容赦しない。止めない。

そして、吐き出されたそれは、これ以上なく痛烈だった。

「そうさ、結局君は誰が自分を支え続けていてくれたかを理解していた。そして、彼女の思いに甘え、彼女を自分の虚無へと引きずり込んだんだ。それでいながら君は彼女を見ようとはしなかった。 酷い話だね。自分の闇を共有させようとし、絶望へと道連れにしようとしながら、片や彼女を無視し続け、彼女の想いを踏み躙り続けたんだから」


声の余韻が消える。

静寂が…痛い。



これまで、常に自分の傍らに居ながら、何ひとつ言葉を紡ごうとしなかった氷上シュン。

その彼が、ひとたび口を開き出した時。
紡がれる言葉のすべてが鋭利な刃物となった。

闇に覆われた事実と心を、容赦なく剥がしていく。

まるで生皮を剥ぐような作業。


それは…

今まで闇の奥で震えていた臆病な心の奥底が引き摺り出されて行く姿。

同時に、鍵を掛けていた枷が外れていく。
今まで、彼の中で道筋が無いがために澱んでいた思いの丈が、暴れ狂い始める。
ずっと溜め込んできた怒り。
理不尽なる感情。
それが、自分が犯し続けてきた残酷なる仕打ちを晒され、気付かぬ振りをしてきた歪みを認識してしまったが故に…

自分の心を取り繕うように、そして闇を保持するように噴き出す。溢れ出す。


やがて…

軋むような声が漏れた。

「ふざけるな…」

俯き、両手をついた机に向かって吐き出される――


「ふざけるなぁ!!」


絶叫。


「ふざけるな!! なにが悪い! 僕がただ先生のことを思い続ける事の何が悪い! 僕は先生が好きだった! 大好きだった! それなのに、あの人はあんなに輝いてたのにっ、それなのに理不尽に生きることを許されなくなって!」

心の傷痕。

「誰もが諦めてしまった! あんな許されない事が、仕方ないの一言で見過ごされ様としてしまっていた! 許せるはずないじゃないか! 先生を殺したヤツを! 先生を殺した国を! 先生が死ななくちゃならなかった世界を! そして…そして…過ぎていく時とともにあんなに好きだった先生の記憶が薄れていく自分を……」

ぐったりと、力なく、司は云った。

「僕はただ……ただ、紗江子先生を忘れたくなかっただけなんだ」

氷上の眼差しは優しい。
心を露にした彼を労わるように、しばし再びの沈黙を享受する。

やがて、司がややも落ち着きを取り戻したのを見計らうように、氷上は再び口を開いた。

「城島くん、忘れないでいること…それは本当に大切なことだ」

ゆっくりと、司の視線が自分のほうに向くのを感じ、彼は続けた。

「死人が生の証を残せるのは親しい人の記憶…思い出の中だけだ。だからこそ、故人を忘れることは本当の死を与えることになる。 でもね、それに捕らわれてはいけないんだ。思い出は思い出に過ぎない。それは過去だ。過去を現在と重ねては君は破錠してしまう…君の周りの人間すら巻き込んで。 今や、それは虚無という呪いとなり、そして絶望へと至ろうとしていた。里村さんをも巻き込んで。そして、折原君や長森さん、柚木さんをも飲み込みそうになっていた」

「……僕は…」

「気にすることはないさ。彼らは大丈夫だ。彼らが持つ絆は、決して断ち切れることなく強くあり続けた」

「絆…か」

司が、寂しそうに漏らした一言に、ふっと氷上は笑った。

「わかっているんだろ? 君の持つ絆を」

ぐっと息を詰めるように顔を上げた司は、苦渋を滲ませながら声を捻り出した。

「わかっていた! わかっていたさ! 僕はずっと見ようとしなかった。でもわかっていた! ……茜の思いを…悲しみを…」

「ならば、君は最後まで彼女に頼るつもりかい? 自らの闇を脱するのすら、彼女に頼るのかい?」

項垂れ、動かない司に、氷上は清々と告げた。

「里村さんは、黙っていても君をこの闇から引き摺りだしてくれるだろう。所詮、虚ろに犯された何も無い人間が彼女のように自ら光を放つ人間に敵うはずがない。
決して君は、里村さんには勝てない」

苦しげな沈黙に、少し戸惑いと小さな不平が混ざるのを感じ、氷上は少し笑みを浮かべると声音を落としゆっくりと言葉を紡ぎかけた。

「振り返り、周りをよく確かめるんだ。見なければいけないものから目を逸らしてはいけない。自分以外の人間を認識してみなよ。そして、思いを受け取るんだ」



やがて、司は頭を上げた。
視線がまた交わる。

どこか、落ち着きを取り戻した声が、静かに闇に響いた。

「氷上、君は他人の意思や心に踏み込まない事で、自らを維持し続けていたんじゃなかったのか?」

氷上は思いだしたように苦笑した。
愚かな自分を悼むように。
そして懐かしむように。

「ああ、それはもう、やめたよ」

「なに?」

「もう、やめたと云ったんだよ。古き友に説教を喰らったんだ。僕は……間違いの無い未来を保つために、目の前で友人が墜ちていくのを平然と眺めていられるほど…出来た人間ではないということを気付かされた。 使い古された言葉さ。やらずに後悔するより、やってしまってから後悔しろ、とね。僕はやっぱり君に言葉を与えた事を後悔するかもしれない…だがね、もうガマンするのはやめたんだ」

これもまた絆かな。と呟き、氷上は彼に向き直った。

「さあ、時間はまだある。だが君は決断しなくてはならない。この冷たい安らかな闇に安寧と留まり、最後まで里村さんの手を煩わせるか、それとも自分の意志で、僕のこの手を取るか……」

まっすぐに、闇を貫くようにまっすぐに見つめながら云う。

「時間の許す限り…考え、そして確かめるんだ。自らの本当の意思を! 心を! 思いを!」

コツリ、コツリと足音が響く。
司は自分をじっと見つめる氷上を仰ぎ見た。

彼はゆっくりと手を差し伸べる。
深い闇を弾くように、その白い手は差し伸べられる。

「そして自分で決めるんだ、城島君。もし、君がこの手を掴むのなら、僕は躊躇わず君をこの虚ろから引き揚げよう」

「氷上…」

「君の今と未来は失われてなどいないのだから――」

司は驚き、目を見開いた。
氷上の両目から、一筋の涙が絶える事無く流れていた。

ただ、音もなく、意図もなく――


心を締め付けられずにはいられない思いが伝わる。

それは本当に悲しそうに――


「だからもう……僕に友が奈落へ墜ちるのを見せないでくれ」



司は、ただ――


差し出される手と――


流れる涙に――



眼を奪われていた。









    続く





  あとがき


八岐「今回でいわゆる御音編は終了。次回からラストバトル――山葉/降山の戦い(灰燼の卵)編に突入します」

あゆ「あれ? ラストバトルの前に過去編をやるって云ってたんじゃ――」

八岐「…コラ」

あゆ「な、なに?」

八岐「楓ちゃんはどうした?」

あゆ「もうすぐ本格的な出番だから忙しいんだって」

八岐「……別にあとがきは本編の舞台裏じゃないんだけどなあ(汗)」

あゆ「繋がってないの?」

八岐「そんなわけないでしょう。で? なんであゆなわけ?」

あゆ「な、なんか相手が弱いと見るといきなり強きだね」

八岐「それじゃあまるで俺がいじめっ子みたいじゃないか」

あゆ「違うの?」

八岐「どちらかというといじめられっ子だ」

あゆ「……それはそれで問題だね」

八岐「うがっ、あゆのクセに生意気な。だいたいここに顔を出す面々の特徴わかってるのか?」

あゆ「え?」

八岐「出番の無いやつだ」

あゆ「うぐぅぅぅ!?」

八岐「しかも捕らわれのお姫様って実は影が凄く薄くなる傾向が――」

あゆ「うぐぅぅぅ!!」

八岐「まあしばらくは影も形も無い事を覚悟したまえ、自称ヒロイン君」

あゆ「うぐぅぅぅ!(泣)」

八岐「さて、次回だが、過去編こと『魔法戦国群星伝・異聞』はラストバトル・失われた聖地編の前となります。
というわけで、冒頭の通り次回は灰燼の卵編突入の巻。久方ぶりの斉藤君と何故かゲームとはキャラが全然違う南君の激闘編となります」

あゆ「うぐぅ。次回第61話『ラスト・プレリュード』 最期の序曲だよ」

八岐「それでは次回のあとがきまでさようなら」

あゆ「さようならー」


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