御音共和国 大統領府地下

 

 

コツリコツリと一定のリズムで足音が静寂を刻む。
遅くも無く、さりとて早くも無く、足音は静寂を刻む。

彼女のその歩みは普段とまるで変わる様子もなく…
圧倒的な絶望と微かな期待を抱く心も変わらず…

ただ、この窓もなく、日の光の当たらない無機質な廊下を儚く照らす魔術灯の連なりの先―闇の奥を見つめる眼差しだけが違った。
目を逸らさず、視野を暈すのでもなく、底の見えない闇を貫き通そうとする強き意思を持った眼差し。

心を押し潰す圧倒的な絶望を、見据え、受け止める強い意志。

一定のリズムを刻む足音が止まり、彼女はじっとその扉を見つめた。
幾度も潜りぬけた闇への扉。虚無への入り口。

今、彼女は恐れ慄いている。
そして、まっすぐ前を向いている。

これまで彼女は自らも虚ろと成り果て、この扉を潜ってきた。
決して報われえることのない、淡い期待を胸に、この扉を潜り抜けてきた。
そして…変わらぬ虚ろに打ちのめされ、自らの心の空洞を深くしていった。

だが……

里村茜は大きく息を吸った。

 

そして吐き出す。

 

今から彼女は一歩踏み出す。
踏み出し、扉を潜る。
だが、その一歩はこれまでとは決定的に違う。

決別?
いや、これは決断の証。
その一歩は自分への叱咤。

いつもここに踏み出していた一歩はなんだったんだろう。
それはきっと、いつか帰ってきてくれるかもしれないという期待を胸に、あの優しい彼の帰りを待つために行く一歩。

でも、もう、それはいけない。

詩子が教えてくれた。

それじゃあ、いけないのだと…

 

「詩子…私に勇気を」

 

何よりも大切な、大事な幼馴染がくれた、夜を終えた大地一面を照らすような素晴らしい笑顔を脳裏に思い浮かべながら、里村茜は右足を踏み出し、ドアノブに手をかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

魔法戦国群星伝

 

< 第五十九話 笑顔をあなたに >

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『茜…あたしはね、あなたの事が大嫌いなのよ』

 

 

 

 

 

 

 

 

そう、詩子が私に向かって言い放ったのは、珍しく冬の夕立が降った日の次の日の朝でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

柚木詩子…私の一番の親友。
彼女はいつだって唐突で、私を驚かせようとします。
それがわざとなのか、天然なのか、何年経ってもわからない。不思議な人。
本当に不思議で…温かい人。

 

雨が降った日の翌日の朝は、どこか普段より清清しいものでした。
見上げると、空は果てしなく蒼く、雲ひとつなく晴れ渡っていました。
と、言ってもその時の私に、世界を省みる余裕なんてなかったと思います。

その日も、ただ鬱々と上から圧し掛かってくるような重苦しさから逃れるように、足早に仕事場へと向かっていました。

今日も、司のところに顔を出す予定です。

そして…それは私にとって、とても苦しく、そして楽しいという矛盾した心が露わとなってしまう時間でした。

詩子が待ち伏せしたように佇んでいたのは、そんな私にとっては何も変わらない朝の事だったのです。

彼女は私に気付くと、行く手を遮るように私の前に立ち塞がりました。
そして
何故か、彼女はいつものように笑って私に声をかけることなく。
何故か、酷く物憂げな表情で、黙って私の顔を見つめていました。

 

「…詩子?」

 

沈黙が続き、耐え切れなくなった私は、微かに眉を寄せながら声をかけました。
不思議でした。
いつも、沈黙に耐え切れないのは彼女の方だったのに。
そう考えると少しだけ可笑しく思いました。

彼女の握り込んだ両の手が小刻みに震えている事に気がついたのは、そう思ってしまったすぐ後のことでした。

そのことを不審に思うその前に、彼女は寒さに青ざめた唇を開いたのです。
そして、押し殺した声で投げかけられた言葉。
彼女は私にその言葉を告げたのでした。

 

 

 

 

「茜…あたしはね、あなたの事が大嫌いなのよ」

 

 

 

 

世界が壊れてしまったのだろうか…

その言葉が耳朶を撃った時、私は茫然とそんなことを考えていました。

風が流れる音も、鳥が羽ばたく音も、心臓が鼓動を刻む音も、何もかもが聞こえなくなりました。
ただ、私自身の引き攣るような呼気だけが、耳に飛び込んでくるのです。
視界は突然日食にでもなったように漆黒へと反転し、その中で見たこともない厳しい眼差しで私を睨む詩子の姿だけが浮かび上がっていました。

 

私が抱いたものは驚愕だったのでしょうか。

それとも哀しみだったのでしょうか。

 

わかりません。

 

もしかしたら、その瞬間…少なくともその瞬間だけは私の心は壊れていたのかもしれません。
それほど、私の頭の中は空白と化していました。
まるで果てのない永遠のような空白でした。

 

私は、この時初めて、
言葉というものがこれほどまでに心を穿てるものだということを知りました。

 

声もなく、ただ大きく眼を見開いて立ち尽くす私。

見るに耐えがたい醜態を晒す私の姿を前に、彼女は真っ向から、目を逸らさず、いつもニコニコと笑みを浮かべるその唇を真一文字に結んで、繰り返すようにこう言い放ちました。

 

 

「ずっと、ずっと前から大嫌いだった」

 

 

鈍い痛みが頭の中を駆け巡りました。

 

さらなる言霊は、逆に必死に精神の奥底に逃げようとする私の心を、掴み、引きずり、この向き合う現実の前へと連れ戻したのでしょうか。
私は、ようやく彼女が発した言葉の意味を、捉えることができました。
そこにあったのは、ただ、ぽっかりと身体の中心に大きな穴が空いてしまったような、真っ白な感覚でした。

 

 

「…な…ぜ」

 

 

よく、言葉が出せたものだと思います。
自分の口から漏れ出るそれを、他人事のように聞いてる私がいました。

思えば、その時の自分の様子は司が死んだと聞かされた時のようだったかもしれません。

 

唐突な決別。

 

永遠の喪失。

 

大切なものを失うという事は、とても耐えられることではありませんでした。

 

そして、

 

 

詩子の言葉は、私にその喪失を思い出させるに十分な力を持っていたのです。

 

 

なにしろ、彼女の言葉はまさに私との決別を宣言したものだったからです。
それは、まさに大切なものの喪失以外のなにものでもない。
私にとって、詩子とは命よりも大切なものに他ならなかった。

 

その詩子が私を嫌っていた……

 

これほどの悪夢があるでしょうか……
私は、何もかもを勘違いし尽くしていたのでしょうか。
私は詩子の事を何もわかっていなかったのでしょうか。
誰よりも大切に思っていた幼馴染なのに。

 

親友なのに。

 


幸いにも、詩子は粉々に砕け散ってしまいそうな私の抱く疑問に答えてくれました。

彼女は言うのです。
私を目を吊り上げて睨みつけ、白い歯を食い縛りながら。

何もわかっていなかった馬鹿な私にもわかりました。

それは怒りでした。

 

「何故? そうね、それはとても簡単な事よ。
あなたはいつだって、何もしようとしない。自分で動き出そうとしない。
周りに期待して、自分は動かない。
自分は何ひとつ動こうとしない、その癖にすべてを手に入れようとしている。
それは卑怯だよ! 
そして……茜は何も手に入れられない。何もかも失おうとしている。それでもあなたは自分の足で歩こうとしない。眼を逸らしてる!
それを愚かって言わないで、何を言うの?」

 

詩子は一気にそう捲くし立て、息を荒らげました。
大きく吐かれた息は冬の芯まで冷え切った朝の空気に白い靄を残して消えていきました。
そして、茫然とする私に向かって、詩子は少し顔を歪ませたのです。

それは私が見たこともない、詩子の昏い笑みでした。

 

「あたし、もう疲れちゃった。あなたを引っ張るの。あなたの前で笑うことも」

 

誰が聞いても間違える事はないでしょう。
それはこの上もなく決定的な、決別の言葉でした。

私はガタガタと震えながらも、何ひとつ言うべき言葉を見つける事ができませんでした。

だって……詩子の言葉には何ひとつ間違ったところなんてなかったんです。

解かっていました。
私には解かっていました。

 

自分が何もしようとしなかったことを。
自分が何からも眼を瞑っていたことを。

私が…卑怯で、愚かだということを。

 

それでも、私は、心のどこかで思い込んでいたのです。

詩子だけは、それでも側にいてくれるんだと……

 

それこそ私が愚か者の証明。

 

それは甘えです。甘えでしかありませんでした。
私はそうやって、詩子にのしかかり、押し潰そうとしていたんです。
詩子なら、助けてくれると、私を背負ってくれると、思い込んでいたんです。
私は詩子に対してなにもしていないのに……

 

最悪でした。

嫌われて当然でした。

自分というものを、詩子に最後まで教えさせられました。

 

ごめんなさい

 

今まで、ごめんなさい

 

そうやって、謝るべきだったのでしょう。
ですが、自分で歩くことも、そして立つ事さえ一人で出来ない私の心は、詩子という最後の支えを失い、へたり込んでしまっていました。
ただ、何も言えず、動くことも出来ず、立ち尽くしているだけでした。

詩子にとって、最後まで、私は最悪な人間でした。

そうして、私は辛すぎる現実から心を閉ざし
目の前の光景を視覚から遮断し
ただ茫然と…
虚空を見つめる人形になりました。

何もする事無く、このまま朽ち果ててしまえばいいとすら思いました。
そんなこと、なりっこないのに…

ただ、そうやって私はまた痛みから逃れようとしていたのです。

そんな事しか出来ない私は…やはり愚かでした。

本当に愚かでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どれだけの時間が経ったのでしょう。
どれだけの時間、私は暗闇に浸っていたのでしょう。
もしかしたら、一瞬だったのかもしれません。
それとも永遠だったのかもしれません。

そして、
不意に、私の意識は現実に引き戻されました。

 

「…茜」

 

私の名を呼ぶその震える声に…

 

はじめ、その声が誰のものかわかりませんでした。
小刻みに震える、かすれたような声。
聞くだけで、その人の痛みが伝わってくる真摯な、声。

 

詩子が立っていました。

 

目の前に…
本当に目の前に…
手を伸ばせば届くすぐ側に
詩子は立っていたんです。

 

瞬いても消えない彼女の姿。
眼を疑いました。
だって、詩子はもう私と決別してしまったのだから……
私の顔なんかもう見たくもないだろうから…

私は詩子がもう立ち去ってしまっていたと思い込んでいたんです。

ずっと無言で、私を見つめ続けていたなんて…
目の前にいたのに全然気が付きませんでした。

そう、私は何も気付かなかったのです。

何も…

 

まだ、何か私に言うべき事があるのでしょうか……

 

そう考え、私は思わず心の中で自分を嘲笑いました。
私が、詩子に犯した罪があれだけであるはずがありません。もっともっとあるはずです。
私はただ立ち尽くしながらも思いました。

 

最後まで聞こう、と。

 

詩子の声が…それが罵倒であったとしても、私に向けられたものならば聞きたいと思ったからです。
もしかしたら、もう、私に詩子は言葉を投げかけてはくれないかもしれないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

なのに……

 

 

 

 

 

 

 

 

それなの…に……

 

 

 

 

 

 

 

 

「し…いこ?」

 

 

ああ……何故なのでしょう。

 

何故なのでしょうか。

 

 

何故、詩子は泣いているのでしょうか

何故、私を優しく抱き締めてくれているのでしょうか。

 

 

あなたを苦しめたのは私です。
あなたを苦しめ続けていたのは私です。
それなのに、何故あなたは私を抱き締めて、そんなに苦しそうに泣いているのですか?
そんなに辛そうに泣いているのですか?

罪を犯したのは私なのに……
あなたはたった今、私という煉獄の楔から決別したというのに。

 

やめてください。

 

泣かないで下さい。

 

私はむずがるように詩子を突き放そうとしました。
でも、そうするたびに彼女は一層強く私を抱き締めるんです。

決して、離すまいと…

決して、逃すまいと…

 

泣きながら、必死に、私を抱き締めてくれるのです。

 

詩子の身体はとても温かいものでした。

今が真冬の朝だと言う事を忘れさせてしまうほどに。

 

詩子の眼からこぼれ出す涙はとても熱いものでした。

彼女自身の心のように

 

 

かつて…

私の心は私自身によって、凍りついていました。

 

その脆い氷結は、いつしか、私自身にも分からぬ、ほんの小さなきっかけから溶けてしまいました。
でも、それはとても唐突で…
あまりにも唐突で…
私はどうしたらいいのかわからず、心を凍らせていた時と同じように振舞おうとしました。

 

その行為はとても辛いものでした。

 

確かに心は氷結から溶けたのかもしれません。

でも…

それでも…

私の心は冷たく冷え切ったままだったのです。

 

ただ、茫然と立ち尽くすだけで、ずっと凍り付いていた私の心は、ただ冷たさに震えながら温まることをしようとしなかったのです。

 

そんな、冷え切った、凍えて震える私の心は……
今、詩子の抱擁と涙によって……暖められていった―――

いえ、

違います。

 

詩子ははるか昔から、ずっと私の心を暖めてくれていました。
私が気が付かなかっただけなのです。
詩子が、自分の心を凍えさせながらも、必死に私を暖め続けてくれていたのに……
私はずっとその事に気がついていなかったのです。

 

 

ああ…

 

やはり、私は親友失格です。

 

 

いつしか私は、詩子の腕の中から逃れようとする事を止め、彼女を抱き締め返していました。
そして、私は泣きました。
それまでの、不意の涙ではありません。
今までのような無意識の涙ではありません。

私は、私自身の意思で泣きました。

詩子の身体は、やはりとても温かくて…
とても小さな身体なのに
本当に温かかった。

 

そんな私たち二人の天から、いつしか静かに雨の雫が降り注いでいました。
雲ひとつなかった蒼い空から…
音もなく、気配もなく
温かな雫が私たちを包み込んでいました。

空も涙を流すのでしょうか…
世界も涙を流すのでしょうか…

ふと思いついたそんな言葉は…
何故か、心の奥底に刻まれました。

 

 

 

いつの間にか、泣いているのは私だけで、
蒼い空から降る霧雨も止んでいて、
しかも何故だか私は詩子の胸の中で泣いていました。

さわさわと頭を撫でられる感触。
私の髪の毛を滑る彼女の手の平の柔らかな感触。
彼女の胸に顔を埋めていた私からは詩子の顔は見えません。
ですが、私にはわかりました。

彼女が微笑んでいた事を……

この馬鹿な私に向けて、暖かな微笑みを浮かべていたことを……

 

結局、私は柚木詩子という幼馴染に、何ひとつ敵わなかったのです。

彼女が告げたのは決別ではありませんでした。
彼女の思いを私はやっぱり理解していなかったのです。

彼女がどれほど辛い思いを抱きながら、さきほどの言葉を吐き出したのかわかろうとしなかったのです。
彼女がどれほど身を切る痛みを耐えながら、自分の発した言葉に崩れていく私を見つめ続けていたのか気がつきもしなかったのです。


詩子は私が目を逸らし続けていた醜い心の真実を告げてくれたのに。
詩子は自分の心の真実を前に壊れそうになった私を、その醜い心を、目を逸らさず見守り続けてくれたのに。


やはり、私は親友失格でした。




そんな私を、それでも詩子は優しく抱きとめていてくれました。


詩子は嗚咽を繰り返す私の頭を、慰めるように何度も何度も繰り返し撫でながら、聞いた事もないような、でもいつもと同じような優しい声で私に向かって語ってくれました。

「茜はね、いつもただ待っているだけ。自分で引っ張ろうとしない。張り倒そうとしない。追いかけようとしないんだ」

彼女のその言葉に、ようやく私は悟りました。
詩子が、司の事を知ったのだと。

詩子は飽きることなく、私を包みながら言葉を連ねました。

「待ってたってね、誰も帰ってこないんだよ。ただ待ってるだけじゃ何も変わらないんだよ。
自分で動き出さなきゃ。探さなきゃ。追いかけて、捕まえて、引っ張り出さなきゃ何も変わらないんだよ」


えいえんに


詩子はぽつりと、でもはっきりのその言葉を私に言い聞かせました。
私は顔を上げる事ができませんでした。
また、涙があふれてきてしまったからです。
彼女の言葉は叱責以外のなにものでもありませんでした。
口調も、声音も、言葉の意味も、私にとって厳しいものでした。
でも…でも…
それこそが…詩子が私の事を見守ってくれていたという証なのです。
私をずっと…ずっと見守っていてくれたのです。
私が、自分の殻に閉じ篭り、周りを省みる事をしなくなっていたというのに
詩子のことも見ていなかったというのに……
詩子はずっと、私の事を見守り続けていてくれたのです。

嬉しかった。

魂が震えるほど嬉しかった。

そして、申し訳ない気持ちで一杯でした。


私は、この時初めて、
言葉というものがこれほどまでに心に響くものだということを知りました。



詩子は私を優しく抱きとめ続けました。
嗚咽を漏らし泣きつづける私の頭を撫でながら。

「あたしは何もしようとしない茜なんて大嫌い。虫唾が走る」


はじめは分からなかった。 それは優しい言葉なのだと。


「それでもね」


コツリ、と額を私の頭に押し当て、


「それでも、あたしは茜が大好きだから、大好きだからずっとあなたの前で笑っていた。
でもね…もうダメ
もう、あたしはあなたの前で笑うことなんて出来ない。茜を包む事ができない」




嘘でした。


それは優しい嘘でした。


だって、

ずっと押し付けていた顔を思わず上げ、見上げたその先にあったのは、詩子の優しい微笑みだったのですから。

そして、今この瞬間、彼女は私のすべてを包んでくれていたのですから。



その嘘は、私に行くべき道を探す意思をもたらす嘘。


立ち止まり、俯いたまま動こうとしなくなった私の顔を上げさせる嘘。



「茜、茜、あたしは茜と笑いたい。茜と笑って過ごしたい
でも、もうあたしにはもう成せる事がないの…」



そっと、詩子のしなやかな指が私の右眼を拭い、そして左眼の涙を拭い去りました。



「あとは、茜次第だよ……
あいつを…あの馬鹿をあの薄暗い所から引きずり出してやりなよ…
茜なら出来るから…茜にしか出来ないから」



コツリ、と額同士が重なり合い、瞳と瞳が間近で向き合いました。

詩子の瞳に涙に濡れた私の瞳が映り、その中には彼女の強い光を抱いた瞳が映っていました。



「あたしは…茜を信じてる」



……ああ


また見えなくなってしまいました。


詩子の瞳が見えなくなってしまいました。


溢れる涙が止まらなくて、世界が滲んでいくのです。


ふわっ、とまた私は暖かな心に抱かれました。


「大好きだよ、茜。あたしは茜と一緒にいる事が一番の幸せ……」


言葉になりませんでした。
私自身にも、私の声が判別できなかったのですから、多分詩子にも聞き取ることはできなかったと思います。

でも、私は必死に、言いました。
言いました。

私も大好きだと。
詩子が大好きだと
詩子と一緒にいる事は、本当に幸せなんだと…



伝わったのでしょうか……

わかりません。

でも、詩子ならわかってしまったのだと思います。
何しろ、私の事に関しては、私なんかよりよっぽど良く理解しきっているのですから。


「茜、頑張れるよね」


はい、と言う声が出ず、私は必死に首を縦に振りました。


「もう、待ってるだけなんて、しないよね」


あなたの心に応えるために

私は必死に嗚咽にしか聞こえない声をあげました。


「じゃあ取り戻そう、あたしたちの日常を……あいつも巻き込んでさ」


日常……


わたしたちの日常


そう、私と詩子と司。


三人で笑っていられたあの頃に。


いえ、私たちだけでなく、浩平や、長森さんや、みんなも合わせて笑っていられる日常を…


「しい…こ。私は…取り戻して見せます」


うん! と詩子は私に向かって力強く頷いてくれました。


「信じてる。信じてるよ…茜。私に出来る最後の事……ほら、これが詩子さんの最高の笑顔だ
この笑顔を茜にあげる。
挫けそうになったら、逃げ出したくなったら、この笑顔を思い出して。
勇気を出して、あたしの茜」

そして、いつもいつも私に素晴らしい笑顔を見せ続けてくれた詩子は。


ニッコリと


本当に、本当に素晴らしい笑顔を私にくれたのです。



ポン、と優しく背中を押された気がしました。


それは、私に一つの思い出を思い起こさせてくれました。




あまりにも理不尽に生きる権利を奪われてしまった先生。

誰よりもあの人を慕い、もはや恋慕としか見えないほどの思いをあの人に抱いていた司にとって、それは世界の拒絶を意味していました。

泣く事すらも出来ず、ただ自らの意思をも失って、自失する司。

自らの存在すらも否定するように、虚無の闇へと沈んでいこうとしていた司。

あまりにも変わってしまった彼を前に、脅え、迷い、躊躇していた私の背中を、ポンと誰かが押してくれたのです。



その誰かがくれたものは勇気でした。



その勇気は、私に虚無へと転がり落ちようとしていた司を抱き止める力を与えてくれました。


私が、司に向かって一歩踏み出す勇気を。



詩子の笑顔は、あの時の誰かの手と同じように、私になけなしの勇気をくれました。


詩子、私はあなたの言うとおり、待つことをやめます。
ただ待つだけの自分をやめます。

一歩一歩、前に踏み出そうと思います。

これから行うのは、今までの私へのケジメ。
そして宣言です。

里村茜は、柚木詩子の親友だと、胸を張れる。
そんな私に、私はなろうと思います。


























笑顔が脳裏に浮かぶ。

本当に素晴らしい笑顔。

私の心を暖かくしてくれる笑顔。

私に勇気をくれる笑顔。


もう迷う事などない。
立ち止まることはない。



里村茜は一度閉じた瞼を、ゆっくりと押し上げると。


闇へと繋がる扉へと、一歩、踏み出した。



扉の奥にいるあの人に、
闇に沈む愛しきあの人に、

自分の想いを伝えるために…
そして決意を告げるために…



    続く





  あとがき


楓「いきなり手法を変えましたね」

八岐「うん、茜の一人称」

楓「どうでした?」

八岐「うん、どうだろう…よくわかんないというのが正直なところかな」

楓「…それでは私の方がわかりません」

八岐「あはは、ごめん。でも、この作品ではもうやんないと思う。面白かったけどね…」

楓「そうですか。さて、次回予告にいきましょうか」

八岐「そうだね。次回はONE編の最期、司君のお話」

楓「闇に沈み、虚無の海に漂う青年。その彼の前に立つ一人の少女と一人の青年。二人の思いは彼に届くのか」

八岐「第60話『Kiss in the Dark』……でも司の話といいつつ前半は…(汗)」

楓「……(真っ赤)」



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