魔法戦国群星伝





< 第五十七話 涙/雨 >




御音共和国



ポツリ、と頬に落ちる雫。
人差し指でそれを拭い、柚木詩子はどんよりと日が隠れた空を仰いだ。

「…雨…か」

旧御音王宮――現在の御音大統領府の大門の前に佇んでいた詩子は小さく独りごちた。

見上げる空から、雨は音もなく静々と降り注いでくる。
詩子は身動ぎもせず、しばしの間だけその雨に濡れながら思う。

雨は…嫌いだ。
なにかすべてを押し込めてしまうような…そんな気がして
雨が嫌いだ。

昔はそうじゃなかったのを覚えてる。

足元で弾ける雨粒、大気に満ちた水気、しっとりと濡れる髪。

……静寂の気配。

雨とそれを取り巻く穏やかな世界が好きだった。



でも…今は嫌いだ。

まるで、誰かの涙みたいで……

雨を見ているのが哀しいから。



長く癖の無い淑やかな髪の毛を振り払い、詩子はその小柄な身を翻した。
向かう先は大統領府。

迷いの果てに、選んだ彼方だった。

背後で雨音が激しく音色を奏でだすのが聞こえる。

詩子は振り返らなかった。





思い悩むのは柄じゃない。
こうと決めたら走り出し、突き進むのが詩子さんの本領だ。
でも走りだそうにも方角がわからなければ、どうしようもない。
どちらに向かって進めばいいのかわからない。

だからといって、闇雲に走り出すなんて事はできやしない。
それは下手をすれば最悪の道へと迷い込んでしまう。

だから、詩子はまず進むべき方向を見つけ出すことにした。
進むべき道を見つけ、探し出すには情報が必要だ、と彼女は情報に携わる者らしく考えた。
全ての因果がTと呼ばれる人物に集約される。
もつれた紐を解き放つには、Tという人物を知らなければならない。
Tの正体を露にしなければ、この皆が陥っている闇を払う手管が見つからない。

だが彼へのガードは硬い。

ならば、と彼女はその周りを見回した。

彼の正体を知る者に当ればいい。


里村茜――彼女がTの正体を知っていることは確実だ。
だが、茜が口を割らないであろうことは幼馴染である彼女には容易に想像できた。
頑なさで彼女に敵う人を詩子は知らない。
その頑なさを解きほぐす達人である詩子にも、この件に関して茜の口を割る自信はなかった。


氷上シュン――彼の得体の知れなさはTにも匹敵する。まともに話したことすらないし、第一あの手の飄々とした性格は彼女の苦手な部類であった。
恐らくは真正面からぶつかっても、のらりくらりとかわされてしまうだろう。

そして折原浩平――冗談じゃない。彼が明るさを失ってしまったのは自分の依頼による。とてもじゃないが、これ以上彼に負担をかける訳にはいかなかった。
傍若無人に見られる詩子だが、決して無神経ではない。むしろ人の心には並以上に気を使う性格なのだ。
でなければ、とてもではないが茜とあれほど密接に付き合うことなど出来るはずも無い。



結局、詩子が情報を引き出せそうな人物はただ一人。
ただ、どちらにしてもこれから行う事が憂鬱である事には変わりなかった。





コンコン、と扉をノックする。
どうぞ、というそっけない声が返ってきた。
柚木詩子は固い面持ちのまま、ゆっくりと扉を開き、部屋へと踏み入った。

なんの装飾もない、無機質とも表現できそうな部屋。その真ん中で大きなデスクに座り込み、周囲に控える人々に指示を飛ばし、書類に眼を通し、サインをする一人の女性。

「これは工部の管轄でしょ? 椎名に一任してあるはずだわ。こっちの書類にはサインしてあるからすぐに持っていって作業に入りなさい」

また、一人の執政官が飛び出していく。
部屋の主は一瞬だけ詩子の方を一瞥して、また視線をデスクの上に戻しながら口を開いた。

「アポは聞いてないわよ、詩子ちゃん。忙しいから早めにいってちょうだいな」

御音共和国大統領 小坂由起子は羽根ペンを走らせながらそっけなく言い放った。
彼女はいつもこうだ。止まらない。決して止まることなく働き続けている。
確かにこの国は復興途上に加えて大戦争の真っ只中に置かれている。そのTOPである彼女の忙しさは尋常ではないだろう。
それでも詩子は思うのだ。
まるで、自分を痛めつけるようにこの人は働いている…と。

詩子は少しだけ息を吸い込むと、ゆっくりと言葉を連ねた。

「…由起子さん…聞きたいことがあってきたんです」

「今でないといけないの?」

「はい…」

「なに?」

「……Tについて」

ピタリ、と由起子が走らす筆が止まった。
ゆっくりと彼女は顔を上げ、詩子の瞳を見つめる。
そこに悲痛という光を見つけ、由起子は吐息をつくように瞼を閉じた。

「みんな、少し下がってくれない? ちょっと早いけど休憩にするわ」

ぞろぞろと執務室に詰めていた人間達が出て行ったのを確認し、由起子はおもむろに立ち上がると窓際に歩いた。
天より流れ落ちる雨が窓を濡らし、彼女の姿をガラスに映す。
佇む二人。雨音が世界から他の音を消してしまい、微かな雨のざわめき以外、何も聞こえない。
そんな世界の中で、二人は無言で佇んでいた。
詩子は見た。ガラスに映った由起子の微笑みを。

似合わない。

そう詩子は思う。
まるでこの澱んだ空のような微笑み。
そんな笑みはこの人には似合わない、と思う。
いつもみたいにカラカラと、笑って欲しい。
でも詩子にも分かっていた。
これからする話は、決してそんな笑みを浮かべる事の出来ない話だと……

やがて、由起子は雨の世界から目を離さないまま口を開いた。

「彼と彼の組織については聞かないというのが暗黙の了解だったと思っていたんだけれど……その様子じゃ、もう限界のようね」

詩子は吐息を漏らすように答えた。

「…茜が…泣いています。それに…折原君が彼と会いました…そして、彼も…」

「そう…浩平は会ってしまったのね。最近、様子がおかしいのはその所為か…。確かにそれなら、ショックを受けても当然だわ」

小さく、哀しそうに由起子は唇に笑みを象った。

「由起子さん! Tって一体誰なんです? なんで、みんなそいつに苦しめられなきゃならないんです!?」

声を張り上げる詩子に、由起子はそっと首を振った。そして振り返る。その表情を見た詩子は思わず息を詰めた。

痛みがこちらまで伝わってきそうな、見るだけで心を締め付けられる辛すぎる表情に

「詩子ちゃん、それは違うわ。彼がみんなを苦しめているわけじゃない。もし、苦しめているとすれば、それは私の所為なのよ」

「由起子さん」

「詩子ちゃん、彼の正体を知りたいって云ったわね」

詩子を遮るように彼女は言った。
そのあまりに昏い眼差しに息を呑む。

そして由起子はその一言を口ずさんだ。


「あなたも良く知っている人よ」



「……え?」


その言葉は――

パタン、と――

詩子が無意識に閉じていた扉を――

押し開いた――


一人の男の姿が脳裏に浮かび上がる。


「まさ…か」

今まで気が付かなかったのが不思議なくらい、Tと彼との肖像が重なる。
だが、同時に信じられなかった。
重なりながらも、どうしても同一の人物とは思えない。あまりに違いすぎる。
だが、なぜか、心に浮き上がる想像を、否定する事は出来ない。

「Tって…まさか…」

「そうよ、T機関総帥…彼の名は城島司…あなたと里村さんの幼馴染」

ガツン、と頭を横からハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
なかば悟りながらも、その名前は詩子の精神を乱気流に飛び込んだように無茶苦茶に揺さぶった。

「そんな…司は…」

死んだはずだ。死んだはずだった。
彼は…あの負け戦から最後まで帰ってこなかった。

茜が、折原君が、そして…あたしが、ずっと待ちつづけていたのに…

彼は最後まで帰ってこなかった。

城島司は、あの時、死んだ。



だが…

もし…


彼が生きていたなら様々な事象に辻褄が合う。



彼ほどにこれだけの謀略戦を戦える人材が他にいるだろうか…
謀略を司りながら、同時に国家戦略・戦争戦略・戦術を見据えて動く事の出来る人間が他にいるだろうか
茜が…あれほど無私に付き従う相手が他にいるはずがない。

すべてのファクターがTこそが司だという事を示していた。
誰もそれに気がつかなかったのは、司が死んだという事実と、あまりに違いすぎるその容赦呵責のない冷酷性。

「…ああ」

思わず漏れる溜息。

知らずに流れ出していた涙。

詩子は思い知った。

思い知らされた。



茜、これがあなたの感じた想いだったの?



溢れ出る感情は歓喜。

それは押え切れずに心を駆け巡る。荒れ狂う。


生きていた! 生きていてくれた! 

司が生きていたんだ!


他のすべての思いを押しのけ、その喜びだけが意識を染める。思いを塗り尽くす。
永遠に失ってしまったと思っていた何よりも大事なもの。それが戻ってきたと知ったときのその感情は……



すべてを押し流す。




それは……


生きてさえ、いてくれたなら


そんな言葉とともに……




それこそ、司が何をしていようと……

どれほど変わってしまっていても……

それが生きていたという喜びに比してどれほどの意味があろうか…



茜…あなたは変わってしまった司を受け入れちゃったんだね。
それでもいいと、思っちゃったんだね。
生きていてくれさえすればって…
自分の前にいてくれさえすればって…


それは、なんて哀しいことなんだろう。

司が帰ってきてくれたという歓喜。
変わってしまった司の側にずっと居続けるという苦しみ。


矛盾が矛盾を呼び、自身の分からぬまま、心を擦り切れさせていた。

その心の軋みに耐え切れなくなったのが、今の茜。

詩子は泣きながら、無性に自分の一番大切な親友を抱き締めたくなった。
でも、今目の前に彼女はいない。
それが無性に…もどかしかった。


身を抱くように涙をこぼす詩子に、由起子はとうとうと語り出した。


「彼が私の前に姿を現したのは、行方不明になってから二ヵ月後。氷上シュンという青年を伴って、司くんは私に会いに来た。 そしてこう言ったの」


『由起子さん、今の革命軍には影が必要とは思いませんか?』


右手を額に押し当て、唇を歪めながら由起子は言った。

「私は、私のために動く影を手に入れる誘惑に勝てなかった。あの時、喉から手が出るほど欲しかったのは、圧倒的な独裁権。 革命軍に属する全ての力を私の元に集結させる力。そのために、排除すべき者達を抹消する組織」

由起子はそう言って、嗤った。

「私は…そうして…司君を殺した」

びくり、と詩子の身体が震えた。

殺した…殺した。
そういう事だ。そういう意味だ。
彼女は…革命軍指揮官であり、私たちの幼馴染であった城島司を…事実上抹殺したのだ。
そして…Tという一文字だけの表号で現される影が誕生した。

「彼はとても良く働いてくれたわ。哀しいくらいにね。私はそれを止めるでもなく、ただ経緯を眺めていた。みるみる私の元に権力が集中していく様には戦慄すら覚えたわよ」

ククク、と肩を震わせる彼女を見あげ、詩子は涙を流し続けた。

この人は、何も考えずただ目の前の敵を打ち破ってきた私たちと違って、ずっと闇を見続けてきたんだ。
闇と光の狭間を行き来し続けていたんだと
それが革命という破壊の指導者という立場の姿

詩子の視線が突き刺さる事など気がつく様子すら見せず、彼女は口ずさむ。
嘲るような口調は、誰に向けられたものなのか…

「革命が為され、王国が倒れた時、司君は茫然自失していたわ。当然でしょうね、彼の生きる目的…復讐の対象がなくなってしまったんですもの。
でもね、私は全く容赦しなかった。虚脱する彼を解放しなかった。彼は当然のようにこなしてくれた。今度は身内の粛清をね。かくして共和国は私を中心として安定したわ。革命後につきものの内部争乱はこうして未然に防がれた
すべてが終わった時、もはやそこにいたのは司君ではなくTという影たる者。
目的を失い、見るべき未来を見失い、虚無の闇に身を横たえる躯」

詩子は応えない。言葉が見つからないのだ。一体何を言えというのだろう。
由起子は答えを期待していた風でもなく、一拍の間を置き、続けた。

「それでも私に止めるという選択肢はなかった。主に領土拡大を図る事が透けて見えていた帝国への対応が必要だったから。私は彼に訊ねたわ。どうすればいい? とね。
かくして彼は里村茜という人材を望み、私はそれに応じた。私はそうやって茜ちゃんをも闇へと引きずり込んだのよ」

そう…茜が特別調査局を任されるようになったのは、共和国が誕生した後。
彼女の様子が、一度わたしと彼女と司が、当たり前のように一緒に居た頃に戻り……そして、流砂に囚われたように心を凍らせてしまった頃。
この頃、茜は死んだはずだった司と再会したのだ。恐らくは…もはや以前とは違う司と…

「そして…司は影のまま、茜は影に縛られたまま、今に至るんですね」

詩子の声音は吹雪の中を突っ切ってきたかのようで…
でも、由起子はその声に僅かも心を動かされる事がないように、淡々と答えた。

「ええ、そうよ」

「でも、それは……私たち御音にとって必要なことだったんですよね。避けられないことだったんですよね!!」

爪が皮膚を突き破らんばかりに拳を握りながら、止まらない涙と嗚咽を吐き出しながら、詩子は泣き叫んだ。

「そう…思う?」

「だって!!」

詩子は喉が張り裂けんばかりに声を枯らす。

「だってそうじゃなきゃ、二人がっ、茜と司が可哀想すぎるじゃないっ!!」

「私はそうは思わないわ」

だが、それは彼女の血に濡れたような声に断ち切られた。
ヒュッ、と息を呑んだ詩子が見たものは、十字にかけられ焔に晒されながら皆を頭上から睥睨する魔女の笑み。

「もし、あの時、私が司君に影になる事を頼まなかったら、許さなかったら、彼は苦しむことはなかったと思うの」

「で、でも!」

「私はね、未だに思うの。あの時、行方不明になって、もう一度私の前に姿を現したのが司君じゃなくて浩平だったとしたら?」

詩子は絶句する。
そして、心底恐怖した。

なにを…いったいなにを言い出すのだ、この人は!?

赤く充血した眼を限界まで見開き、詩子は目の前の女性を凝視した。
その痛いような視線をむしろ心地よさげに受けながら、由起子は独白した。


心が怖れ、泣き叫ぶ。


やだ…やめてよ! 聞きたくない! 嫌っ!


だが止まらない。



それは……

「私は…多分、浩平が影になる事を絶対に許さなかった。瑞佳ちゃんを闇へと引きずり込むなんて絶対に出来なかった。 わかる? 詩子ちゃん。私はね、天秤にかけたの。可愛い甥と、その親友を……」

決して自らを許す事のない罪の告白。



「そんな…」

駆け巡る激情。あまりに混沌として、何を思えばいいのかわからない。
どんな顔をすればいいのかわからない。

痛い!

何故だか、どうしてかわからないが…とても痛い。心が悲鳴をあげる。

泣き叫ぶ心。
震え、軋む心。

嫌だ…

嫌だ……

ココロガ

イタイ





「そんな事あたしに言って! あたしにどうしろっていうのよっ!!」

「弾劾、告発…復讐だってなんだっていい」

笑いながら、詩子に目も向けず、由起子は瞳にどこか陶酔すら浮かべながら告白を続け、

「ただね、どうしてもぶちまけたかったのよ。私は二人に一番近いあなたに、私を――」



「ひどいよ…」


ぽつりと漏れでた小さな言葉。
詩子はもう、由起子の言葉を聞いてはいなかった。

「ひどいよぅ」

冷水を浴びせられたように、由起子の心を覆っていた昏い愉悦の熱気が冷める。

「そんなの、ひどいよぉ」

響くのはさらなる泣き声。

嗤いが引っ込む。言葉が途切れる。

茫然と…彼女は見下ろした。











死にたくなった。











今更のように、理解した。
今更になって、悟った。

やってはいけないことをしてしまったのだと。
言ってはいけないことを言ってしまったのだと。

責めて欲しかったのだと、由起子は言いたかった。
罪を咎めて欲しかったのだと、由起子は思っていた。

わたしは最低の女だ、と由起子は泣き崩れる詩子に視線を硬直させながら思った。

何が罪の告白だ。
わたしはそうやって、今度はこの娘を無茶苦茶に傷つけたのだ。

弱い女だ。
ずっと抱えつづけて、溜め込んで、耐え切れなかったものを、この娘に思いっきり叩きつけたのだ。

何という最悪な大人だろう。私は、自分が背負う重荷を…たった今彼女にも背負わせようとしたのだ。
最悪だ。仮にも大人の自分が、たとえどれだけ優秀であろうとまだ二十歳にもならない子供に心の傷を押し付けようとしたのだ。

「ごめっ―――」

吐き気がする。

自分に吐き気がする。

これまでずっと苛まれ続けていた自己嫌悪が、さらにその姿を醜悪なものに変え、洪水のように自分を押し流そうとする。


だが、

崩れ落ち、ガタガタと震える由起子を、

誰かが思いきり抱き締めていた。
それは…
わんわんと泣きつづける詩子。

「ごめ…んなさいっ」

自らも、泣いている事にようやく気が付きながら、由起子は詩子を抱き締め返した。

しとしとと雨音が静寂を刻む中、二人の雫が音を奏でる。



その日は結局、仕事の続きは出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「落ち着きました?」

日も落ち、夜の帳が世界を閉ざしている。
いつしか止んでいた雨の名残が夜を彩っていた。

「ええ、本当にごめんなさい」

ちなみに先の声が柚木詩子。今の言葉が小坂由起子だ。

先に立ち直ったのは意外にも詩子。由起子の方が自失は長かった。
恐らくそれは自虐という陶酔のままに、他人を傷つけようとしてしまったのことへの慙愧の念から。
ずっと内に仕舞い続けていたモノをぶちまけてしまった事への虚脱と悔悟から。
自分の苦しみなどどうでもいいことだったのに、伝えるべきは司という少年の苦しみだったはずなのに…



詩子はややも平静を取り戻しながらも、未だ顔色の悪い彼女の顔をぼんやりと見ながら思い巡らせた。

何故、彼女の告白に自分はあれほど取り乱してしまったのだろうと……

考えて、考えて、行き着いた。

同じだからだ。

きっと、由起子と自分が同じだから

だから……彼女が自分の罪と考える事柄は、そのまま自分の罪の様に思えたのだ。

「ねえ、由起子さん」

と、詩子は雨の止んだ夜を見ながら呼びかけた。
泣きはらした由起子の顔がこちらを向く。

「あたしは…たぶん由起子さんを許せない」

言った。
明日も雨が降るんだろうか…そんな他愛もない事を訊ねるように、そっけなく。

由起子は今更動じる風でもなく、ただ落ち着きを取り戻した彼女本来の眼差しで詩子を見続けた。
その瞳が次の一言に微かに揺らぐ。

「でもね、同じ立場だったら、あたしも同じだと思うんだ。あたしだって…司を殺すことなんかできないもん。茜を闇に引きずり込むなんてできないもん」

そうだったのか、と由起子は漸く理解した。
何故自分の罪を柚木詩子に吐露してしまったのか。今まで誰にも言わなかった事を、いくら向こうから訊ねてきたとはいえこうも簡単に明かしてしまったのか。
答えはここにあった。

似た立ち位置…

折原浩平という甥と、幼い頃から面倒を見続け本当の娘のように思うようになった長森瑞佳という少女。
城島司と里村茜という誰よりも身近で大切な幼馴染。

由起子も詩子も、それぞれに彼らを見守る立場。だからこそ、同じような場所に立つ詩子に自分の闇をぶつけてしまったのだ。

「だから、許せないけど…あたしはあたし自身も許せない。同じだから…きっと同じだから」

そうして、私は同じ闇を彼女に共有させてしまった。
いや、現実にこれから余計に苦しむであろうは詩子の方だ。何より、司と茜の今の姿を考えれば……

「司君の事を知ったあなたは…これからどうするつもりなの?」

私は、この元気な女の子までも壊してしまったのかもしれない。

身も凍るような恐怖を覚えながら、由起子は訊ねた。

返ってきたのは……笑顔。

驚きに眼を見張る由起子の前で詩子はにっこりと笑って見せた。
思い起こすように眼を細めながら、口元を綻ばせながら、詩子は口ずさんだ。

「折原君と瑞佳ちゃん……二人は見てるだけで…眺めてるだけでこっちまで自然と笑っちゃうような…素晴らしい二人なんです。みんな、みんな、みさきさんも雪見さんも留美ちゃんも澪ちゃんも住井君も佐織ちゃんも…みんな、みんなそんな二人が大好きなんですよ。
でもねえ、知ってますよね。茜と司は……そんな折原君と瑞佳ちゃんに負けないくらい、素敵な二人だったんですよ」

パッと清清しい夜明けとともに目を覚ましたように瞼を思いっきり見開き、彼女は宣言した。

「あたしは何としてもあの二人を取り戻します。取り戻してみせます」

ニカッ、と白い歯を見せ、詩子は言い放った。

「それこそ、茜を引っ叩いてもね。進むべき道を見つけたなら、後ろも見ずに突っ走る。それが……詩子さんの真骨頂ってもんですよ」

柚木詩子は泣きはらした顔を上に向け、笑って言い放った。

「由起子さん」

茫然と、それを見ていた由起子がハッと意識を戻す。

「私は多分由起子さんを許せないと思うけど…でも、やっぱり由起子さんは大好きですよっ」

ふわり、と暖かなものが彼女を包んだ。

「だから…自分に負けないでくださいね。みんな、元気でやり手で、でも優しい由起子さんが大好きなんですから…頑張ってくださいよね、あたしも頑張るから」

もう、漏れ出る涙を止めようなんて思わなかった。
今だけは…思いっきり泣き出したかった。

「じゃあ、詩子さんは行きますね」

ふわり、と由起子の身体から離れて踵を返す柚木詩子。

「詩子ちゃん!!」

詩子が振り返る。
由起子は涙でくしゃくしゃになった顔になんとか笑顔を貼り付けて、声を枯らした。

「ありがと」

またニカッと笑った詩子がパタパタと手を振り、部屋を出て行く。

それを見届け、由起子は泣いた。少女のように、幼子のように、思いっきり泣いた。
泣いても泣いても、あの素晴らしい少女に暖めてもらった心は、涙を枯らすことはなかった。

由起子は世界に感謝した。この素晴らしい子供たちを自分のような大人に引き合わせてくれた事を……

私はきっと立ち止まれないだろう、と泣きながら思う。

だって……浩平が、詩子ちゃんが、瑞佳ちゃんが……みんなが側にいてくれるのだから。

世界よ、この出来そこないの私の、大切な、そして本当に優しい子供たちをどうか守ってあげてください。

     

    

    

    

    

誰かが、そっと涙を拭って頷いてくれたような気がした。








    続く





  あとがき


八岐「という訳で由起子さんを書いてしまいました」

楓「……何か…コメントし難いですね」

八岐「司の事は、結局国のトップである由起子さんが知らないはずないんだよね。
そして、全ての責任を持つのは国の頂点に位置する彼女。つまり、彼らの話を書くからには彼女は外せなくて書いたんだけど…ちょっとキツイ上に支離滅裂になってしまったです」

楓「精進あるのみです」

八岐「どもども。で、お分かりのとおり御音編はまだ続きます。茜と司がまだ残ってますからね。でも、次回は話が変わってラストバトル準備編です」

楓「そういえば、確か最終決戦が迫ってたんですね。もはや忘れているのかと思ってました」

八岐「忘れてないよう。でも、いい加減ちょっとは触れないと、忘れ去られてしまいますから」

楓「そうですね。息抜きも必要ですし」

八岐「という訳で次回第58話『爪は砥がれる』…題名の割には内容は軽いような」

楓「これまでの反動ですね。ちなみに私も出るそうです」

八岐「久々の柏木家(笑)」


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