魔法戦国群星伝





< 第五十六話 想いの先にあるものは >




御音共和国



妹が死んだ。



その理由は未だに自分の中で消化しきれていない。
彼女の死の理由とやらの周辺には、様々な事象と要因があったはずだ。

本来は関わりないはずの国の権力争いに巻き込まれ、死んだ地方貴族の父。
敗残者に対し容赦なく断を下した王権。
奴隷同然に強制労働の対象となった領地の気のいい住民達。
転落する現実に錯乱し、まだ幼い息子と娘を裏切った…母。


折原みさおの死因は病死だ。
だが、その死に至るまでの過程こそが、彼女を死に至らしめた要因には違いない。

もし、母の妹である小坂由起子が助けてくれなければ浩平自身もどうなっていたか……

どちらにしても……彼の小さな世界の崩壊、その過程が凄まじく凄惨だった事は間違いない。
その凄惨な現実が…小坂由起子をして王国を憎悪させ、王国を破壊するに至った事はどういう意味を持つのだろう。

ただ、浩平に関して云うならば、それは紛れもなく幼い彼の心に傷痕を残したのだ。

世界そのものへの――絶望/虚無。


妹をなんら救う事が出来なかった自分への、無力感から来る絶望。



今、浩平が感じているもの。

それはまるであの時と同じような無力感。
無力な自分への絶望だった。

自ら影となり、闇へと墜ちようとしている親友を、今まで足の下に踏み敷いていた事にまったく気がつかなかった事への怒り、嫌悪。
だが、踏み敷いていたが故に、決して助ける手をもたないことへの…絶望。

知ってしまったならば、もう笑うことはできない。
親友を踏み潰しながらどうして笑えようか……。

そして、折原浩平は、ただ自らも闇が侵食していくのをじっと動かず感じ取っていた。



「貴方までそんな顔をしてちゃダメだよ、こうへい」

不意に響く声。
ただ、懊悩の海に漂うだけの浩平に、その声は間近から囁くように紡がれた。

儚げで、だが真ん中に柱が通ったような不思議な存在感を覚える声。
思わず、浩平は振り返ってしまう。
視線の先、闇の狭間。
目を凝らすと小さな6,7歳ほどの女の子が彼の部屋の中に立っていた。

いつから居たのだろう。

最初から居たのかもしれない。


ただ、その声はよく聞き覚えのあるような気がした。
思い至ると、その姿も知っているような気がした。

少女は無垢でありながら、すべてを見透かしたような不思議な眼差しを、静かにこちらに向けている。

浩平は引き寄せられるように彼女を見つめる。

……知っているはずだ。知らないはずはない。だってその姿は誰よりも彼が知る……

「…な、長森?」

云って、首を振った。

そんなはずはない。浩平の知る幼馴染は、長森瑞佳はこんなに歳は離れていない。というか、同い年だ。
そこまで考え、浩平は愕然とした。

「まさか…俺ってまだ六歳だったのか!?」

「どこをどう考えたらそんな結論が出るのかとても不思議だけど、とりあえず貴方はもう六歳じゃないよ」

もしかしたら結構余裕があるのかなあ、とその女の子は首を傾げた。

「お前…いったい誰だ?」

気を取り直したように女の子はニコリと笑う。

「こうへいはわたしが誰だか、もう知ってるはずだよ」

「長森…か?」

反射的に、とでも云っていいほど何の思考も動かせず答える。
無理もない、その姿は浩平の記憶にある長森瑞佳の幼い頃の姿。
そう、初めて会った頃の長森瑞佳の姿そのもの。

瑞佳の姿をした少女は綿毛のような笑みを浮かべるとクスリと声を漏らした。

「正解。でも間違い。わたしはみずか。でも、長森瑞佳じゃないんだよ」

「どういう…意味だ?」

「それももう、あなたは知ってるはずだよ」

そう云うと、ゆっくりとみずかの姿がぼやけて行く。
消える? いや、その肖像が変わっていく。
形を無くした輪郭が、再び人を象っていく。

それは先ほどまでよりもっと小さな姿。

女の子。
歳に似合わぬ理知的な眼差し。歳に見合わぬ頬のこけた、だが可愛らしいその横顔。
どこか、浩平に似た容姿。



それは……。


「み…みさお!?」


永遠に失われた妹の姿。



「お前、なんでその姿を!」

驚きの底辺に、怒りを滲ませて浩平は叫んだ。誰しもが他人に触れて欲しくはない領域。
そこを無理やりに踏み荒らされた。そんな怒りが迸る。

だが、少女はトン、とステップを踏み一歩遠ざかる。
風に乗ったような柔らかな動き。
少女は浩平の怒りに優しく首を振った。
そして、クルリと白のワンピースを翻して回る。

まるで地の果ての無い草原で戯れるように…

「これはね、こうへいの影響だよ。これは貴方の思いを投影した姿。心。想い」

「な…に? 俺の…思い?」

思わず茫然と、その姿、仕草に見入っていた浩平は熱に浮かされたように言葉を紡いだ。

「そう、みさおは貴方の思いの残滓。貴方から流れ込んだ強い強い思いが…そして悲しみがわたしにみさおの形を与えたの。みさおというわたしは貴方の絶望と虚無と悲しみの形」

怒りは、もう無い。
彼女が自分の領域を踏み躙ったのではないと、理解したから。
だが、わからない。
明確な姿を見せない情報の塊が浩平を押し流そうとする。

「…わからない…じゃあ、さっきの長森の姿は?」

「みずかの姿もまた貴方の想い。そして長森瑞佳の思いでもあるんだよ」

「長森の…」

少女は眼を伏せる。
そして静やかに、詩を唄うように言葉を紡ぎはじめた。

「瑞佳の強い思い。悲しみと絶望に暮れる折原浩平という存在を助けたい。この世界から消えようとしている貴方を引き止めたい。
その強い思いがわたしに流れ込んできて、わたしはほんの少しだけ瑞佳に力を与えた。
そして文字通り世界から消えてしまうはずだった貴方をこの世界に抱き止めてくれた。
瑞佳の強い思い。そしてそれに抱きとめられた貴方の瑞佳への想い。それがわたしにみずかの形を与えたんだよ」

浩平は、困惑と混乱の表情を浮かべ、頭を振った。

「意味が…わからない。思いが流れ込む? 俺が世界から消える? なんなんだよ、それは!」

そっと少女の手が挙がり、細く小さな、だがたおやかな人差し指がすっと浩平を差す。

「それは貴方が世界感応者と呼ばれる存在だから」

「世界…感応者?」

「そう、文字通り世界に思いを届かせる事が出来る能力者。世界と意思を通じ合わせ、思いを伝え、世界の力を得る事が出来る者たち。世界の楔。世界の思いの体現者。世界意思の代行者……もっともわたしは自分の意志を代行してもらおうと思ったことはないけどね」

「世界と通じる…俺が?」

「そう…そして世界と通じるという事は、世界と繋がる、同化するという事。もしその世界感応者が世界そのものに絶望し、拒絶したなら?
それは自分を否定するのと同じ。ううん、貴方達は同時に自分をも否定していた。だから容易にその存在が消えようとしてたんだね。
世界と強く重なるが故に、世界を拒絶すれば自らの存在が消えてしまう。世界は消せないから、自分が消えてしまうんだよ。えいえんにこの世界から消えてしまうんだよ」

理解…したのだろうか。浩平は俯くと唸った。すべてを理解できたわけではない。だが自分が消えてしまおうとしていた事はわかった。

「みさおを失って、自分や世界に絶望して…そして俺が消えようとしてたのを、君が助けてくれたのか?」

ふわり、と仄かな光の流れが少女のワンピースを翻し、少女は刹那、宙に浮かぶ。
彼女が再び地に足をつけた時、彼女の姿はみさおから、みずかの姿へと戻っていた。

みずかは、慈母の笑みを浮かべて首を横に振る。

「それは違うよ。貴方を助けたのは瑞佳。瑞佳の強い思い。わたしはほんの少しだけあの子の背中を押しただけ。小さな勇気を与えて、わたしはただ見守っただけ。貴方の絶望を吹き払ったのは紛れもなく長森瑞佳なんだよ」

「…そう…か」

そうなのだろう。
思い出せばわかる。何故今まで考えもしなかったのかわからないが。
考えもしなかった自分が苛立たしい。
そうだ…そうなんだ。


何もせず、ただ閉じ篭っているだった自分を外に連れ出してくれたのは長森だ。
座りこんで動かなかった自分を立ち上がらせ、歩かせてくれたのは長森だ。
ずっと泣いていた自分を包み込むように抱き締めてくれたのは…長森だった。


「いつも…側にいてくれたのは、長森だった」



ふわり、と蕾が開くように幼い瑞佳の顔をした少女が笑う。

「その瑞佳を貴方はまた悲しませてる。あの時と同じように心を沈ませて、瑞佳を悲しませてる」

「俺は…長森を悲しませてたのか」

「だから、あなたはそんな顔をしていたらダメなんだよ、こうへい」

…でも、と浩平の面持ちに影が差す。

「俺は司をあんなところに押し込めたまま、もう一度笑うことなんて出来ない。あいつも…俺と一緒だから。あいつは、俺の影なんだから」

そして小さく、だが強く呟いた。

「あいつは何もかもなくしたと思ってる。昔の俺みたいに…昔のあいつ自身のように。復讐っていう生きる意味をなくして…また絶望に囚われているんだ。 俺にはみんながいたから、長森がいたから、王国がなくなって、全てが終わっても前を向いていられた。でも、あいつにはその時、誰にもいなかったんだ」

そう、革命が終わった時、司と共にあったのは闇と何も言わない氷上だけ。
彼を救えたであろう茜はまだその時、司の生存さえ知らなかった。

「絶望…この世界には絶望を抱く人が沢山いる。こんなわたしもね、今では普通に考えたり感じたりするんだよ。それでね……わたしを拒絶されたり、わたしに絶望されたりする事はとてもとても悲しいって感じてしまうんだよ」

本当に悲しそうに少女は瞼を閉じて静かに言った。

「だから、わたしは沢山の人たちの絶望を晴らしたい。でも…わたしには何の力も無い」

そう呟いた少女は…本当に悲しそうで…泣き出しそうで…。

「だから、せめてわたしに思いを届かせる人は助けたいんだよ。わたしが力をほんの少しでも貸せる人は助けたい。それが…贔屓だとしても…」

俯くように閉じていた大空を思わせる瞳がじっと浩平を見つめた。

「この大陸でわたしと意思を通じさせる事が出来る人は四人。一人は貴方、折原浩平。一人は彼女、長森瑞佳」

「…長森も」

ハッと顔を上げた浩平にみずかは頷いた。

「彼女もまた世界と通じる者だから、貴方を引き止めるための一歩を踏み出す、その勇気を分けてあげる事が出来た」

そして続ける。

「そしてもう残り二人は貴方も良く知っているはずだよ。それは城島司であり、里村茜だもん」

「それは…」

言葉を失い、目を見張る浩平。

「彼女達はまさしく貴方達を同じ道を辿り……そして違えてしまった。
司は再び虚無の世界へと足を踏み入れ絶望の海へと身を浸そうとしている。そして、一度は彼を絶望から抱きとめた茜もまた…同じ絶望の海へと共に沈もうとしている。
世界に絶望してしまった彼女にわたしは勇気を与えることが出来ない」

「それじゃあ…あいつらは」

掻き毟るように声を捻り出した浩平に、だがみずかはゆっくりと、安心させるような笑顔を見せて言った。

「浩平…貴方は言ったよね。助けてやってくれって」

「え?」

そう。確かにそう言った。
忘れたりはしない。
司を踏み躙っていた俺には出来なくても…同じところでずっと彼を見続けていた彼ならば…と。縋るように…言った。

「氷上に…」

少女は静かに…だがこれ以上ないほどの信頼を込めて囁いたのだ。

「彼を…氷上シュンを信じてあげて。シュンは貴方達とは違う時間を歩いてる。その違う時間は彼にとって辛くて、哀しくて、だからその時間の中でずっと絆から眼を逸らして生きてきた。
でもね、彼はホントは優しくて…ホントは強い人なの。
浩平はシュンを友達と思ってくれてるよね。司もきっと友達だと思ってる。そして…シュンも貴方達をかけがえのない友達だと思ってるんだよ。
浩平…シュンを信じてあげて。友達と言う絆を信じてあげて。彼はきっと司を助けてくれるから……」

「氷上を…信じろと?」

少女はゆっくりと頷いた。
その眼差しに打たれ、思わず浩平は目を伏せた。

「俺は…あいつの事をよく知らない。いや、何も知らないって言ってもいい」

でも、と口ずさみながら浩平はしっかりと彼女の瞳を見つめ直した。

「俺はあいつに司を助けてくれって思わず言ってた。それはきっと、俺もあいつの事をどこかで信じてたのかもな」

「こうへい」

「わかった、今、俺があいつらにしてやれる事はこんな所で自分の馬鹿さ加減に愛想をつかす事じゃなくて、あいつらを信じてやるって事なんだな」

「あなたの思いはみんな分かってる。だからあなたは前を向いていて。それがみんなに力を与えるんだから」

浩平はじっと、少女の無限に広がるような不思議な瞳を見つめ、ぽつりと呟く。

「君は…いったい誰なんだ」

「もう…わかってるでしょ? わたしは世界。この世界の意思。世界意思存在。わたしの意思を具現させた人たちは、わたしを世界の女神と呼んだよ。
でもね、今はみずかの姿と心、思いと名前がお気に入りかな」

そう涼やかに囁いて、少女の姿がだんだんとぼやけて来る。

「こうへい…あなたはあなたでいてね。そしてあなたの為すべき事を……。わたしにはわかるよ、きっとみんなが笑って会える日が来るから…だからその前からあなたは笑っていてあげて」

そして、彼女は世界を照らす日の光のような笑顔を浮かべて告げた。

「じゃあね、こうへい。わたしの大切な子供(チャイルド)

瑞佳によろしくね、と最後に微かに囁いて、みずかと名乗った少女の姿は消えてしまった。




物音一つしない暗がりの部屋。
誰もいない。
ただ自分だけが立ち尽くしている。

今のは幻だったのだろうか……

でも

幻かもしれない少女が囁いた言葉は…とても、とても、強く心を震わせた。

「笑っていて…信じてあげて…か」

彼女の消えた虚空をぼけーと見つめながら小さく呟く。在り来たりの言葉。でも、その響きは…なぜか心地よく心に響いた。



「浩平…入っていいかな」


唐突に声がかかった。
ドアの向こうから、不安げな声が。

思わず苦笑が浮かぶ。よろしくってこのことかと思わず邪推してしまう。

「いいぞ、鍵は掛かってない」

うん、というちょっと驚いた呼吸と答えが聞こえた。
そういえば、司と会ってからずっと周りを拒絶していたような気がする。
勿論長森も……

恐る恐る扉が開き、長森瑞佳の姿が覗いた。
自分と同い年の、大人に差し掛かった少女。誰よりも大切な幼馴染である長森瑞佳の姿が…

みずかは、あなたはまた瑞佳を悲しませていると言った。
そうなのだろう。今の彼女の表情は苦痛だ。そして馬鹿みたいにこちらの事を心配している。

彼女にそんな顔をさせる自分が、ぶん殴ってやりたいほどに憎らしくなる。
そんな顔をさせていた事に全然気がついていなかった自分が、最悪な人間に思えてくる。

「…長森」

「浩平…あのね」

ようやく拒絶されずに面向かい、瞳に意思の力を込めて口を開こうとした瑞佳は浩平と視線を交え…きょとんとした。

その視線の先にあったのは、つい先日まで彼女が見ていた虚ろに染まった浩平ではなく…
よくわからない、怒りにも似た混沌とした感情を宿した…でも自分に対してはすごく温かな眼差しを向ける浩平の姿であり……

「…あれ? えっと…浩平?」

「ん? なんだ?」

彼女の様子に気がつかない振りをして、すまして言う浩平。
こういう所は自他ともに認める天邪鬼だ。

「あ…うん。えーっと…だいじょう…ぶ…だよね」

「…なにが?」

「何が…って…うーん、そ、そうだ! お腹痛くなかった? ずっと不機嫌だったし、どこか痛いのかなーって思って。でも大丈夫みたいだね」

「……何言ってるんだ?」

パタパタと慌てたように手を振って、とり繕うように捲くし立てる瑞佳にとうとう笑い声を漏らしながら浩平は言った。
場を誤魔化すためとはいえ、お腹が痛くなかったはないだろう。

「なにって…その、浩平が何でもないんなら別に構わないんだよ、うん」

安堵したように溜息を吐く彼女を見て、浩平は思う。
さっきの、入ってきた時彼女の強い意思の宿った瞳。きっと彼女は自分をまたあの初めて会った時と同じように、虚無の闇から引きずり出そうとしていてくれたのだろう。
それは彼女にとっても絶対辛いことなのだ。苦しい事なのだ。拒絶の壁を乗り越える事は、絶対に心を痛めるものなのだから。
それなのに、彼女はまた…また自分を助けようとしてくれていた。

それほどの決意を宿していたのに……自分が立ち直ってると見たら何事もなかったように立ち去ろうとしている。
笑って、良かったと言ってくれる。

これは…いったいなんなんだろう。

彼女はいったい、何を思っているのだろう。

「何も…聞かないんだな」

そのまま出て行こうとした瑞佳は、ぽつりとした浩平の一言に立ち止まった。
ゆっくり振り返り、視線と視線が絡み合う。
いつにない、浩平の凪のような眼差しに何かを感じ取ったのか、瑞佳は取り繕うような笑みを消した。

沈黙。

やがて、彼女は静かに目を伏せ、視線の交錯が途切れる。

囁きが漏れた。


「浩平は…何も言ってくれないから…でも、それで良いんなら良いんだよ」

「お前は…それでいいのか?」

小さく、微笑みが浮かんだ。

「わたしは…わたしは話して欲しいかな。浩平に、何でも打ち明けて欲しいかな。でも、いいんだもん。それでいいんだもん」

「ばか、あまりよくない。そういうのはちゃんと言ってくれ。幼馴染なんだから、そういう文句も言ってくれ」

浩平の右手が、そっと瑞佳の左手を握る。
ビクリ、と彼女の全身が驚いたように震えるが、構わない。離さない。

「でも、俺は意地っ張りだから、やっぱり何も言わないかもな」

「…意地悪で、意地っ張りだからね」

俯きながら、微笑みながら、瑞佳はそっと囁いた。
そうだな、と頷いて応える。
頷いておきながら、訥々と言った。

内なる思いを――

初めて彼女に打ち明けた。

「心が痛かったんだ。すごく哀しかったんだ。そして、自分が許せなかったんだ」

「そう…なんだ」

「でも…だからってじっとしてるのはやめた。お前にまた面倒かけちまうもんな。お前を悲しませるのは嫌だからな」

「…え?」

瑞佳が顔を上げる。それを見計らうように、浩平は彼女の体を抱き寄せ、そっと抱き締めた。

「こっ、こここここここ」

「鶏?」

「浩平ぇ!!」

真っ赤になって素っ頓狂な大声をあげる彼女の姿に、浩平は大声で笑い出したくなった。
もう何というか、可愛くて仕方が無い。
心が膨らむような、不思議な感じ。

「ちょ、ちょっとまって、私、あの、その、わー」

腕の中でパニックになってる瑞佳の耳元で、浩平は悪戯っ子のような表情を収め、そっと言葉を紡いだ。

「心配かけて悪い、俺、もう大丈夫だから。…お前にはさ、ずっと心配かけっぱなしだよな、俺。初めて会った時からずーっと」

ゆっくりと、暴れていた瑞佳の動きが止まった。

しばらく、無言。
そして、やっぱりゆっくりと彼女は囁く。

「…うん、わたしはずーっと浩平の事が心配で心配で堪らないんだよ。いつだって馬鹿で、変な事ばっかりして、迷惑かけて…」

それなりに広い浩平の胸に額を押し当て、瑞佳は呟く。

「でもね、そういう心配ならもっとかけてもいいんだよ。そういう心配は全然辛くないから、楽しいから。でもね、浩平が辛いのは…わたしも辛いんだよ」

「馬鹿だな。お前まで辛くならなくてもいいのに。ホント、馬鹿だよな」

「ホント、馬鹿だよね」

小さく、その朱唇をほころばせ、瑞佳はクスクスと笑った。



魅入ってしまう。

眼を一瞬でも離すことなんか出来なかった。



綺麗な長森の顔。

朝日のような長森の表情。

透き通るような長森の瞳。

桜の花びらのような瑞佳の唇。


その衝動は唐突であったようにも、ずっと前からそこにあったようにも思えた。



衝動に、なんら逆らう事無く身を任す。

そして不意をつくように、その笑みを零す唇に、自分の唇を押し当てた。

啄ばむようなキス

ボン、という音を立てて大気が沸騰した。

「わ、わ、わ、わたし、き、ききききき、キス!? な、ななななっ!?」

「ん、牛乳味」

「浩平ぇぇぇ!!」

腕の中で先ほどに倍するほどの勢いでパニクってる瑞佳を逃さぬように抱き締めつづける。

逃がすものか。

やがて、顔中をこれ以上ないほどに真っ赤に染めながらも瑞佳は暴れるのをやめた。
その彼女の頬を両手で挟み、真正面から覗きこむ。

あうあう、と言葉が出てこない彼女の様子にやっぱり笑いそうになりながら、でも浩平は表情を心持ち引き締めて…告げた。

「…なあ、長森…………俺、お前のこと、好きだ」

ヒュッ、と呼気が漏れた。真っ赤に染まったきれいな顔が息を呑む。

「嘘じゃないぞ。俺は嘘つきだけど…今はホントの事を言ってる。もう一度言うぞ。
俺は長森が好きだ。ずっと一緒に居たい。今までずっと一緒に居てくれたのに図々しいけど、それでも、これからもずっと一緒に居て欲しい」

まじまじと見つめあう。大きく見開かれた眼。言葉を失った表情。



永遠のような時間。



やがて、その小さな唇が少しだけ隙間を空けた。

一言だけ、漏れ出でる言葉。

「…ばかぁ」

挟み込んだ浩平の両手を濡らすのは涙。
その宝石のような双眸から溢れるように涙を流しながら、瑞佳は浩平にこぼした。

「ば、ばかって…しかもなんで泣く!?」

「浩平が馬鹿だからだもん!」

「だから…なんで?」

慌てる浩平をちょっと上目づかいに睨み、涙を、雫を伝わしながら、瑞佳は自分の頬を挟む両手にそっと自分の両手を添えた。

万感を込めて、告げる。


想いを


「頼まれなくったって…嫌がられたって…わたしは、わたしは…ずっと浩平と一緒にいるよ。ずっと側にいるよ」

両手をゆっくりと顔からはずし、彼女はぎゅーっと浩平を抱き締めた。顔を胸に埋めて、ぎゅーっと抱き締めた。

「だって…わたしも浩平が好きだもん。大好きだもん。絶対離れたくないくらい、好きで好きで…大好きなんだから…ばか」

「…長森」

無意識にその柔らかい髪の毛を撫でながら、思い巡らせる。

いつからだろう。この幼馴染の少女がこれほど愛しく思えたのは…
いつからだろう。この幼馴染の少女にドキドキされられたのは……

明確に気付かされたのはほんの先ほど。
扉を開けて入ってきた長森の姿と瞳を見たとき。

びっくりした。

ついその直前まで彼女の幼い頃の姿を見ていたからか……凄く長森がきれいに見えた。

そして…相も変わらず、自分が傷つくのも厭わずこっちの事を心配してくれるその心。
相も変わらず……だが、今更のように彼女の思いは心を穿った。心地よく染み渡った。

それは本当に暖かくて……
みずかが…色々言ったからだろうか……

多分、気付かせてくれたんだろう。自分の…彼女への想いを。



「…長森」

彼女が顔を上げる。
間近に映る、彼女の顔。
涙と、また別の思いに潤む瞳。

仄かに桃色に染まった小さな唇。

「…キス…したい」

「わたしも…浩平とキスしたい」

自然と…瞼が閉じ……
柔らかい感触。
暖かい感触。

思いが流れ込んでくる。

心が打ち震え、重なる。





「大好き…だよ、浩平」

「…うん、俺もだぞ」







それは二人だけの刻の訪れ









§









闇は決して悪しきモノにあらざりて、闇は優しく心と体を包むもの。

そう、言ったのはいつだったか。

結局、闇とは心の在り様だ。

心が凍えれば、闇もまた冷たく凍る。


虚空に手を差し伸べ、握る。
何も掴めない。
何も掴めるはずがない。

闇は掴めるものではない。


だが、心はどうだろう。
意思を込め、真摯となり、勇気を持って手を差し伸べれば、心は掴めるのかもしれない。

だが、ここには心はない。

自らの心を写す、闇が満ちているだけだ。

何より、意思もなく、真摯でもなく、勇気すらなかった自分に何が掴めようか……

そもそも、手を差し伸べようとすらしなかったのだから、掴めるはずもない。



人で無くなったものが人を導こうとするのは、人に道を指し示す事は、傲慢だと言った。
今でも間違っているとは思っていない。
人は容易に人以上の存在に頼ろうとする。
自らの意思を放棄してまで……

それ故に、自らを戒めてきた。

自らに誓約を課した。


それが…どんなに苦痛を伴う事かを…知ってしまったのだ。
麻酔が切れてしまったかのように。

逸らしていた目の前に、突きつけられたのだ。
誓約を守ったが故の咎を……




彼の在り方は矛盾しているといえた。
人を避け、人と離れて暮らし、それでいながら一度人と関わったならそれを見捨てる事ができない。
見捨てる事ができないくせに、何もしようとはしない。

いかに、その相手が奈落へと転げ落ちていこうと、行くべき道を間違えていようと、手を差し伸べず、道を指し示さず。
ただ、相手の望むがままに力を貸すだけ。

矛盾していた。

それでいて、矛盾に苦しんでいた。



闇に閉ざされた部屋の中、クッションのやせ衰えた椅子に身を投げかけ、座る彼の姿に、普段の妙に浮世離れした雰囲気は無い。

もはや目を逸らす事は許されない。
自らの矛盾を自覚してしまった以上、それをなかったことにはできない。


それは罪。

それは咎。


だが、それ故に、もはや何をどうしたらいいのか、わからなくなっていた。
泣きたくなる。
痛くて仕方がない。
心が痛くて仕方がない。

「僕は…どうすればいいんだ?」

「それは、簡単なことなのだよ、氷上」

思わず漏らした自問。
返る筈の無いそれに、応えは返って来た。

その声は深く、深く、底の見えない、意思の声。

唖然とし、振り返る。

いつしか、闇の中に生まれた気配。
そこから声が響いてくる。

「結局、お前はまだそうやって迷っているのだな」

呆れた様に、だがその底に親愛を込めてその声は深く溜息をついて見せた。

「…なぜ」

言葉も浮かばず、ただうめくような声を漏らし立ち上がった氷上に、彼は答えた。

「何故、ここに現れた…か?」

僅かに開いた口端から白い歯と紅い舌がチロリと見えた。

「我らが女神に教えられたのだよ、お前の事をな。それで一言言ってやろうと思ってな。それにしても、女神殿があのような姿になっているとは思わなかったので少々面食らったわ」

鈍く光る灯火の傘に、声の主が踏み入った。
その姿が露わとなる。
その姿はあまりにも懐かしく、古き郷愁を思い起こさせる姿。

「何年ぶりになるだろうか、氷上シュン」

「もう…二百年以上になると思うよ…バルタザール」

「共に同じ大陸にいながら、縁がなかったものだな」

「そうだね」


暗く、沈んでいた心に、自然と微笑みが浮かぶ。

旧友と会うという事は、ただそれだけでこれほどに心安らぐものなのだろうか

その昏い微笑みを見て、バルタザールは眉を顰めた。

「まだ、繰り返しているのだな、お前は」

嘆息とともに漏れ出でる言葉。
その意味を理解しつつ、抵抗するように氷上は呟く。

「何がだい?」

「虚勢は止せ。お前に似合うものではない」

「…すまない」

苦笑を滲ませ、応える。
素直に同意するのも自分らしくはないと思うが、だからといって無意味に足掻いてみせるのも自分らしくない。
尤も、自分らしいという言葉にすら意味を見出せなくなっているのだが。

「お前はいつもそうだ。全てを理解していながら決して認めようとはしない」

「理解なんかしていないさ。もう、何もかもがわからなくなってる。やはり人になど関わるべきではなかった。僕は不幸を招く」

「それは違うな。不幸を招くのはお前の存在ではなく、お前に関わったものの選んだ道だ」

「僕はその間違った道をゆく彼らの手助けをしていた」

「それが彼らの意思だったからだろう?」

「そうだ。だが、僕は……」

やはりわかっているではないか、とバルタザールは深く嘆息した。
変わらない。何年経ようがこの馬鹿者は変わらない。 そこが彼の好ましいところなのは確かだが、今はそれが彼を苦しめている。

「氷上よ、いくら孤独に浸り、孤高に生きようともやはり人に関わることはある。お前のお節介な性格ならなおさらだ。
いくらお前が人との関わりを恐れようと、それは逃れられん。長きを生きるというのも考え方次第だな。同じ長きを生きる者としてはお前より人との出会いを楽しんでいるぞ」

そう、彼はその永遠に近い時間をずっと孤独に過ごしてきた。
人里離れた森深くに居を構え、孤独に時を過ごしてきた。それは人との別れを恐れたから。
時の流れの違いは彼を残し、誰しもが世を去るという事。
それ故に彼は出逢いを恐れ、関わりを恐れ、だがその生来の世話好きから関わった者を見捨てる事ができないのだ。
だが、常に彼は自分を戒める。
例え一時関わろうとも、決してその心に踏み込むべきではないと……
乗るべき時間の流れが違う自分が、人の行く道を指し示すべきではないと……

だが、それは理屈だ、とバルタザールは思う。
それだけでは人は生きてはいけない。なにより、既に関わった時点で、彼は自分が相手の心と道に踏み入っているという事を、理解しながら目を逸らしている。

「関わった者がどうなろうと、お前はただ見守り、その行く末に力を貸すだけだと?  愚か者め、その者が苦しむのを見てお前自身、苦しむくせに。
自らを省みよ、お前は友が苦しむのを見たくないのだろう? 友を助けたいのだろう? その者が幸せである事を願うのであろう?」

黙して、その言葉に打たれていた氷上。
次なる言霊は彼の心願を貫いた。

「ならば、したいようにすればいい。思うようにすればいい。
何故進まない! 何故留まろうとする!? 何故自らの足を縛るのだ!?」

「僕は…」

「間違えるなよ、氷上。結局、お前もまた只の人間に過ぎないのだ。例え時の流れから外れていようと、何百、何千年生きようとな。
そして、只の人間であることは決して悪い事ではない。
氷上よ、人を導くなかれ…それはお前が課した掟だ…だからこそ、お前自身が破るべきだとは思わんか?」

そう言うと、バルタザールは瞼を閉じ、かすかに笑みを浮かべて見せた。

「この千年、お前が同じ悩みのループに陥っている事は良く知っている。だから――」

その鈍く光る瞳を開き、彼はさっと言葉を紡いだ。

「いい加減にしろ、と言っておこう」

「…バルタザール」

言葉が染み渡る。
自分と言う存在を何よりも知る友だからこそ、言える言葉。打ち据える言葉。指し示す言葉。

自らで課した掟だからこそ、自らで破れ……

何という言葉だろう。
だが、それゆえに、氷上は閉じた瞼が開かれたような気がした。
どうするべきかは最初からわかっていた。そう、遥か昔から。
だが、自らを縛り、律していたが故にそれを見据える事ができなかった。

気配が消えていく。
バルタザールは闇へとステップすると、最後にこう言い残した。
 
「氷上よ、迷え。だが、歩みは止めるなよ。例え、お前の時が止まっていようとな」

声が途絶え、気配が途絶えた。

闇に静寂が戻る。

先程と変わらぬ沈黙の闇。
されど、先程とは決定的に違う静寂の闇。

「…弟子は師匠に似る…か。まったく、君のそういうところはあの人そっくりだよ。でも…」

氷上は自然と微笑みを浮かべた。
だが、その微笑みは彼が今まで浮かべていた幽玄なものではなく、どこかいつもより生気に満ちていて……

「…ありがとう、古き友よ」




既にそこには凍れる闇は無く――

行くべき道は…指し示された



    続く





  あとがき

楓「…ぽ」

八岐「顔、真っ赤だよ、楓ちゃん」

楓「…私には無いんですか? こういう場面」

八岐「無い」

楓「…(怒)」

八岐「だ、だって、耕一って誰が好きか俺知らないし」

楓「私です」

八岐「うわっ、断言したよこの娘」

楓「何か文句でも?」

八岐「沢山あるけど言わないのが吉と占いにあるので」

楓「的中率の高い占いですね」

八岐「…ぅぅ」

楓「ところであの後二人はどうなったんですか?」

八岐「…………」

楓「目を逸らさないでください」

八岐「……そ、そりは言わぬが華でしょう」

楓「…………ぽっ(朱)」

八岐「みなさんお幸せに〜という事です(謎)」

楓「ちょ、直接的な描写は――」

八岐「な、何を期待してるんですか、あんたはーー(汗)」

楓「あ、いえ、失礼しました(真っ赤) と、ところで後半に出てきたバルタザールさん、大変唐突な新キャラですね」

八岐「いや、別に新キャラじゃないんだけど」

楓「…そうなんですか? でも見た感じ一発キャラのようにも……」

八岐「失敬な、また登場するよ。しかも重要な役回り」

楓「…はあ、そうなんですか。さて、それでは次回は?」

八岐「うん、引き続きONE編。浩平・瑞佳・氷上と来て次は詩子ちゃんです。ちょっと辛いなあ、次回は」

楓「キツイ内容なんですか?」

八岐「そんな感じだと思う。では次回第57話『涙/雨』…多分このSSで一番強いのが詩子ちゃんだと思う今日この頃」

楓「何が強いんです?」

八岐「心」



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