魔法戦国群星伝





< 第五十四話 Little Promise >




   盟約歴1085年 夏



水瀬公爵領  新想の森







まどろむような闇の中で、チラチラと明るい光がちらついた。
瞼の裏にまで差し込む光。
その眩しさに、香里は目を擦りながら薄く瞼を開ける。

「起きた?」

木々の隙間から夏の日差しが差し込んでいる。
森の匂いと湖の香りが鼻をくすぐった。

「私、寝てたの?」

視界に男の子の静かな顔が飛び込んできた。

「うん、気持ちよさそうだった」

少しだけ女の子の顔が赤らむ。

「ばか、レディの寝顔を見るんじゃないわよ」

その言葉にほけー、と男の子は首を傾げた。

「…よだれをたらしながら寝るのは…レディ?」

沸騰する女の子の顔。

「ばばばばば」

「ば?」

「ばかぁーーー!!」

拳が唸った。



惨状の後は、目を回す男の子と息を荒らげる女の子。

はあ、とため息をつくと女の子は男の子の横に大の字になって寝転んだ。
そして、ポツリと呟いた。

「明日、帰るんだ」

「…聞いてる」

「そう」

しばらく無言。
風がざわめき、屋敷に組まれた木が香る。

「楽しかったなー」

「うん」

「これまで生きてきた中で一番かも」

「…僕もだよ」

どちらかというと、あまり確固とした意思の感じられない男の子の声音に、はっきりとした思いを感じ、女の子は男の子の顔を眺める。

金の瞳が綺麗だった。
何度見ても、綺麗。
きっと、この瞳だけは忘れられないんだろうなぁ、と女の子はぼんやりと思った。


「私はこれからまたお姫様に戻るのねー」

「イヤなの?」

その声に憂鬱を通り越した痛みすら感じられ、男の子はじっと女の子を見つめる。
女の子はうん、と頷いて言った。

「お姫様は大変なの。色々なモノが私を苛めようとする。苦しくさせる。命だって狙われちゃうわ」

男の子は彼女との出会いを思い出した。あの黒ずくめは確かに彼女の命を狙っていた。
無力な幼い女の子の命を。

「私はずっとそんなのと向かい合ってた。ずっと逃げなかったよ。でもね、ジュン君……ホントは怖かったのよ」

「みさちゃん」

「お姫様って怖いの」

震える小さな手。こんな子供がなぜこうも怯えないといけないのだろう。
男の子はギュっとその手を握った。

「だからね、だからお姫様には守ってくれる人が必要なんだと思う。ほら昔からお姫様には命をかけて守ってくれる人がいるのが定番じゃない」

香里はバッと身を起こすと、引きずられるように起きた男の子に向き直る。

「ね、ジュン君、私を守ってくれる人になってよ」

「え?」

いきなり破顔し、明るく言う少女
さっきまで震えていた少女の一変に、やっぱりついて行けず呆けたように口をポカンと明ける男の子。

「あこがれてたのよねえ、そういうの。ねえ、お願い、いつかね、もっと強くてカッコよくなって私を守りに来てちょうだいよ」

無邪気に声が弾む。
たぶん、冗談混じりだったのだろう。
軽い気持ちだったのだろう。
彼女自身、ちょっと頷いてくれるだけで良かったのかもしれない。
少しだけ、気を楽にしてくれるだけでよかったのかもしれない。

だが、それを受けた男の子の顔は、これ以上なく真剣だった。

「それは契約?」

「え?」

彼の言葉の意味がわからなかった女の子に、彼は子供とは思えぬ厳かな声で言う。

「魔族にとって契約は絶対なんだ。そして契約を果たすために行動する。その代わりに契約した相手から報酬を貰うんだ」

幼い少女も聞いたことがあった。
魔族は魂と引き換えに、相手の願いをかなえるのだと……

「みさちゃんは僕と契約を結ぶことを願ってるの?」

再度、男の子は問いかけた。

女の子は小さく眉を寄せる。
何かが気にくわなかった。
魂とかはよくわからなかったが、女の子にはそれがちょっと違うような気がしたのだ。
むー、と女の子は不機嫌そうに押し黙る。男の子は何か悪い事を言ったかと不安になり、彼女の顔を覗き込んだ。

「そうよ、違うわ!」

「…わっ!?」

高らかに叫ぶ少女に、男の子は思わず仰け反り気味になる。
彼女はその彼に詰め寄ると、顔を寄せちょっと怒ってますと言う風に眉を寄せて言った。

「ダメ、契約なんてダメよ。契約じゃなくて、約束よ、や・く・そ・く!」

「やく…そく?」

少年はおずおずと繰り返す。

「そう! 約束よ! これはジュン君と私の約束。だからね、約束を守るのは君の意思なんだよ。契約っていうのに縛られないで、自分の意志で相手と交わした約束を守るの。契約じゃダメよ!」

少年は思わず頷いた。
約束……今までなんの興味も無かった言葉がすごく熱く感じる。
それは…契約なんかよりずっと重くて、暖かくて、大事な気がした。

何故か目の前の少女と交わすモノは契約より約束の方が嬉しかった。

今までからっぽだった心に思いが満ちてくる。
そのくすぐったさに、暖かさに彼は瞳を閉じ、そして開いた。
彼女の…美坂香里の瞳が間近に映る。
彼は万感の思いを込めて、言葉を紡いだ。

「わかった、約束するよ。これは約束。ボクはもっと強くなって君を守ってあげる。絶対に…相手がなんだろうと、なにからでも、苦しい事からも、ツライ事からも、君を守ってあげる。それがボクの意思。それが…」



―――それがボクと君との約束だよ―――



ふわりと彼女は笑った。
笑顔が零れた。
眩しくて、暖かくて、太陽みたいな笑顔。

そして――

「…ありがと、それじゃあこれは…コホンッ、えーっと…約束の印」

「―っ!?」

暖かさが伝わる。
唇を通して、その柔らかさと暖かさが伝わった。
恥ずかしげにちょっとだけ頬を染めながら、彼女は小さくクスリとはにかんだ。

眼を白黒させる男の子に、女の子はクスクスと笑い、囀る。

「もし……ちゃんと約束を守ってくれたら、もう一度キスしてあげる。うん、お姫様のキスだよ。ふふふ、欲しかったら絶対に約束を守ってね」

「…うん」

恥ずかしげに眼を伏せながら頷き、そして思い直したように真っ直ぐ少女の瞳を見詰めると、男の子はもう一度力強く頷いた。


「…うんっ!」


魔族の少年が交わしたモノは、契約ではなく約束。
他愛も無い、小さな約束。
子供らしい無邪気な約束。



でも……大切な約束。





「約束かぁ。いいなあ、ああいうのは。そう思わないかい? ヴォルフ」

「――!? 純一郎か」

背後の気配に気がつかなかった事に内心驚愕しながら、ヴォルフは後ろを振り返った。
ニコニコと佇む蒼黒髪の男。

「覗き見とは性質が悪いね」

「そういうお前はどうなんだ。今のセリフ、話を聞いてたとしか思えないぞ」

「ふむ、これでも彼女の保護者なんでね。相手の男には気をつけないと」

少し意地の悪い笑みでクスクスと口元をほころばす純一郎。
その眼差しが一瞬、鋭くなりヴォルフを突き刺す。

「さて、それでこの展開は君の思惑通りかい?」

「純一郎、お前…」

「なに、ちょっとそんな感じがしただけだよ」

一瞬、緊張を漲らせた魔王の気をすかすように彼は微笑みながら呟いた。

「……お前は、やっぱりヘンなヤツだ」

「よく言われる。でもそれが僕だと思うんだよね」

秋子が僕を好きになってくれたのは、そのおかげだと思うし、とまた惚気かける。
その純一郎にヴォルフが懐から取り出した何かを投げかけた。

「これは?」

咄嗟に受け取り、摘み上げる。
小さな袋。
中身を取り出してみた純一郎は困惑に眉を寄せた。
そこに入っていたのは、複雑な魔術文字をその内側に封印した小さな玉。

「それはパラケルススの宝玉というモノだ。原材料の入手や精製方がとてつもなく困難でな、魔界でも5つもない代物だ」

「昨日から姿を見ないと思ったら、わざわざ魔界に戻ってたのか。それにしても…なにに…使うものなんだい?」

ヴォルフは睨みつけるような視線で純一郎を見つめ、言った。

「一種の万能薬だ。大概の病はそれを飲めば治る」

じっと手のひらの上の玉を見つめていた純一郎がポツリと口ずさむ。

「何故、そんなものを僕に……?」

ヴォルフはゆっくりと面差しを子供たちに向けた。
目を合わせることもなく、淡々と告げる。

「……お前、もう長くはないのだろう?」

沈黙が舞い降りた。

その言葉の意味を咀嚼し、自分の考えと違いがないことを確かめ、ゆっくりと純一郎は言葉を紡いだ。

「……気づいてたんだ」

「鼻だけは利くんでね。匂いというモノは色々な情報をオレに教えてくれる。初めはその違和感が何だかわからなかったがな」

「まだ誰にも知られてなかったんだけどねえ」

苦笑が滲み出ていた。

風が優しく二人を撫でる。
魔王の金色の髪と、公爵の蒼黒い髪がさわさわと揺らいだ。

「そうだね、貴重品らしいけど、折角だからありがたくいただくよ」

そう云って微笑みながら純一郎はそっと玉を入れた袋を懐に入れた。
その微笑みを見て、ヴォルフは自分の想像が間違っていなかった事を悟った。
表情が歪む。

やはり、お前は自分に使うつもりはないんだな、純一郎。

ヴォルフは搾り出すような声音で呟いた。

「奥方が…悲しむな」

ふっと、彼の目元が緩む。
それは…本当に静かで、穏やかな顔だった。

「そういう所も含めて、僕を好きになってくれたんだと思ってる」

「……けっ、言ってろ」

「ねえ、ヴォルフ。君と会えてよかったよ」

その穏やかな声が耳朶を打つたびに、彼の心は震えた。
金色の瞳が閉じられる。

「俺の生きる時は悠久だ。十日という時間はまさに瞬くモノ。だが……」

瞼が開かれる。
金色の視線が純一郎を穿った。

「俺は、この十日をともに過ごしたお前の名と存在を魂に刻み、決して忘れる事はないだろう」

ふっと、眼差しが緩む。
純一郎はそっと微笑んだ。

「そうか…ありがとう」

「もう会う事もあるまい。さらばだ、我が友」

「ああ、さようなら。僕の親友よ」








§









別れの時が来た。

たった十日だけ。

なんて短い十日だったんだろう。

なんて長い十日だったんだろう。

別れはすぐだと知っていた。

別れはすぐだと分かっていた。

ただ、偶然にすれ違っただけ。
ただ、少しの間仲良く遊んだだけ。

それだけのはずなのに……
ただそれだけの間柄のはずなのに……


なのに…なんでこんなに離れがたいのだろう。


まるで魂が繋がれたように…離れがたいのだろう……



じっと……じっと佇んでいた二人。
時の流れは止まらない。
やがて、少年が意を決したように身動ぎした。
そして、ゆっくりと少女と向き合う。

「これ」

そう云って差し出されたのは、男の子がいつも首からさげていた銀の指輪。

「くれるの? でも…大事なものなんじゃないの?」

ふるふると首を振った。

「生まれた時から持ってただけ…でも、大切と云えば大切なんだと思う」

「だったら――」

「大切だから…あげるんだ」

押し付けられ、受け取った指輪を両手の上に乗せてじっと見つめる。
そして、ポツリと口ずさんだ。

「ねえ、ジュン君。男の子が、女の子に指輪を渡す意味ってわかる?」

男の子は、彼女に会ってから毎日、何回も浮かべさせられた表情…間の抜けたキョトンとした顔を最後まで繰り返した。
それを見て、女の子はやっぱりクスリと笑う。

「わかってないわね……だから、わかるようになってから、もう一度渡して」

言葉の意味を理解していない男の子の手に、指輪を返し指輪ごとギュッと手を握り締める。

「もし…君が約束を守りに来てくれたら……その時にもう一度渡して欲しいな。これは…その時まで待ってるわ」

ハッ、と目を見開いた男の子の目が真剣な色を湛える。

「……わかった」

「うん」

女の子は目を伏せた。

「みさちゃん」

「うん」

「……待っててね」

「……うん」

「…さよなら」

「……ん」

「また…ね」

女の子は視線をあげる。
すぐ目の前に、金色の瞳があった。
それを焼き付けるように瞼に刻む。

そして、女の子は精一杯笑ってみせた。

「…またね」

にっこりと、男の子は微笑んだ。

彼女は思った。


やっぱり、君は笑ったほうがいいよ、ジュン君。

















一人、森の中に残された少女。
光と影が風に揺らぎ、佇む少女の姿を明滅させる。

背後からの足音にも彼女は身動ぎ一つしなかった。
やがて、足音が止まり、一つの人影が彼女の傍らに立つ。
どちらもなにも言葉にせず、沈黙が彼らを包む。

「ねえ、おじ様」

やがて少女が口を開いた。

「なんだい、香里ちゃん」

「私ね、もっと強くなるわ」

「…………」

「いろんなものから栞を守るために。そして…あの子に胸を張って守ってもらえるお姫様になるために、もっと強くなる」

純一郎は、両目からポタポタと涙を零す少女の頭にぽん、と手を置き、優しく、穏やかに言った。

「うん、頑張って…君なら出来るよ。僕はそれを知っている」

コクン、と頷く。
頭の上に置かれた手のひらが…染み渡るように温かかった。





それが夏の日の思い出。
かけがえのない出会いと別れ


約束の日












不治の病に冒され、15歳も迎えられないだろうといわれていた美坂栞が奇跡の回復を果たし……













水瀬純一郎が病でこの世を去ったのはそれから一年後だった。







――盟約歴1096年


カノン皇国 スノーゲート城



テラスに吹き込む風は冷たい。
あの夏の日に感じた風とはまた哀しいほどに違う風。


子供の頃の思い出など、いつか色あせ消えてしまうはずなのに、あの十日間だけはまだ色濃く記憶の底に刻まれている。

本当に楽しかった十日間。

美坂香里はさきほどの頭の上に手を置かれた感触を思い出し……

ほんの少しだけ涙した。


ねえ、おじ様…私は少しは強くなれましたか?


…約束

…大切な約束


ねえ、ジュン君…あなたはもうあの約束を忘れてしまったのかしら

それとも…もう









ある森の奥



俺は…

がばぁ、と跳ね起きた北川潤は呼吸器をフル稼働させて酸素を肺に送り込んだ。
息を吸い、そして吐く。

流れ込む記憶の奔流。
自分のモノと錯覚するほどの明確なヴィジョン。
紛れもない……死。

俺は生きているのか!?

地面に着いた右手の感触が、肌を撫でる空気の感触が、五感のすべてが生を肯定していた。

「俺は…生きて…いるのかよっ」

その声は弱弱しく、悲鳴のような響きを放つ。

「そうだ、お前はここに在る」

北川は声のした方を睨みつけた。だが視線には本人が意図したほどの強さはない。
視線に打たれるのは金髪金瞳の魔族。
ヴォルフ・デラ・フェンリルはじっと彼を見下ろしていた。

記憶が、矛盾なく自分の中に染み渡っていく在り得るはずのない感覚に、彼はすべてを理解した。
すべての歪みを理解した。

そして……真実を


「一つ、聞かせてくれ!」

青ざめた顔、引き攣った表情
涙すら混じったように搾り出される声。

「俺を創った時、アンタは……」

魔狼王は答える。

「そうだ、俺はお前の魂に手を加えなかった。魂の加工を行なわず、オリジナルのまま魂を組み込んだ」

ギリッ、と歯軋りの音がする。

「肉体精製にも以前のお前の遺伝子組成と存在意味の因子構成を使っている。つまり今人間であるお前は、かつてのお前そのままという事だ。何一つ変わりない。魂も、姿形も」

「つまり、この記憶は別人のモノではなく、俺のものだってことか」

「そうだ」

北川潤は歯を食いしばり、空を見上げた。

「つまりこの悪夢は俺のものなんだな」

「そうだ」

泣きそうに、笑い出しそうに顔が歪む。

「もう一つ…美坂が…美坂香里がそうなのか?」

「ああ、そうだ」

口元が歪み、笑いを彩る。

やがて滲み出た笑いは、濁流となって漏れ出でた。

嘲笑う声が…響く。

「ははっ、そういう事かよ! あんたがっ、あんたが何もかも…お膳立てしてくれたって訳か!」

答えはない。
だがそれが答えだ。

「なら、なら俺がする事は一つだけだ。それが今の俺の存在意義だ。それが俺なんだな」


過去の悪夢は、過去の亡霊が絶つしかない。


「お前がそう考えるのなら、一つだけ問おう」

魔狼王は静かに訊ねた。

「お前にとって、美坂香里はなんなのだ? もはや欠片も残ってはいないあの娘の残滓を透かし見た身代わりか? それとも―――」

「わかんねーよっ!!」

大きな、だが力のない声が魔狼王を遮る。

「わかんないんだ」

あの夏の日、俺は一人の女の子に出会い、恋をした……ずっとそう思っていた。

今は…わからなくなってしまった。

もしかしたら、俺は単にあいつと美坂を重ね合わせて見ていただけなのかもしれない。そんな考えが俺を蝕む。

考えてみれば……俺は彼女を名前で呼ぶことをしなかった。
あの名前を呼ぶことが出来なかった。
昔も…今も

それが…答えなのだろうか…

「でも、わからなくてもいいじゃないか」

そう、それはもういいのだ
もう…いいんだ。

「だって…もうすぐ全部終るんだから……過去からの悪夢はもうすぐ消え去るんだから…」

何もかもを終らせれば、もうどうでもいいことになる。

「…小僧」

魔狼王の呟きに応える事無く、北川は背を向けた。

「アンタには世話になったよ。アンタの思惑がどこにあれ、俺はアンタに感謝してる。アンタのお陰で、俺はアイツを守る事が出来るんだから」

北川の背が少し震えた。
それは笑ったためか、泣いたためか

「一つだけ言わしてくれ。アンタはいつも悪ぶってるけどさ、けっきょく単なるお人好しのお節介焼きだと思うぜ」

「………うるさい」

ククッ、と今度は明確に笑いに背が震える。
その背中越しに、魔狼王は何かを取り出し投げて寄越した。

器用に受け取り、物を見る。
緑色をした液体の入った小瓶。

「これは?」

「試作品だ…それを使えばお前は一時的にだが<四傑死牙>の頃の力を取り戻せる」

「そんな都合のいいもんがあるのかよ」

「都合がいい分危険な代物だ。どれだけの時間戻れるかわからんし、副作用も最悪だ。原子配列変換を無理やりやるんだから寿命は確実に数年は減る」

力…か

北川は緑の小瓶を見つめながら思った。

師匠、あんたは言ったな。刀は、鞘から抜き放ってこその刀だと。
抜くべき時は躊躇わず抜けと……

鞘から刀を抜くべき時…どうやらそれが近づいてるみたいだぜ。

「寿命か…今更だな。でも…受け取っとくよ」

無造作にそれをしまう。
そして背中は告げた。

「じゃあな……親父」

「……ああ」

そして、彼は歩き出した。
別れは済んだ。
後に為すべきは一つだけ。

彼は胸からさげた銀の指輪を襟元から引き出し、手のひらで転がした。
そして視線が指輪の内側に刻まれた文字に注がれる。

奈落のような底の無い、深い、深い悲しみが、彼の心を穿った。

美坂…みさちゃん、約束は守るよ。でも、指輪を渡すのは勘弁してくれ。
本当は渡したいんだけどな、君に持っていて欲しいんだけどな。
でも、俺は指輪を渡す意味をわかってしまった。君の言う意味を知ってしまった。

ずっと本当の事を言えなかった。
言うのが怖かった。
殺戮の血に濡れた自分が、君を守るにたる存在なのか、ずっと不安で、言い出せなかった。

でも、いつかは言うつもりだったんだぜ。
いつかは渡すつもりだったんだぜ。

でも…ごめんな、美坂
もう俺には…無理だわ。
俺にはその資格がないんだ。


ギュッと腰に差した『五月雨龍征』を握り締める。

またお前と巡り会うとはな、これも運命ってやつか……
これも縁だと思ってもう少しだけ付き合ってくれや。今度は仕留めるからさ。

殺意の衝動が、明確な方向を示され、定められる。


高槻……次こそは殺す。
完膚無きまでに殺し尽くす。
もう二度と、お前には殺させない。

それが……死してなお果たすべき俺の誓いだ。






「お前は気が付かないみたいだったが……ここは俺とお前が初めて会った場所だったんだぞ」

息子が消えた森から目を逸らし、蒼い空を仰ぎ見る。

「最後まで俺を父と呼ぶか……本当に馬鹿野郎だよ、お前は」

寂しげに、本当に寂しげにヴォルフは呟いた。

「いいのか、あのまま行かせて」

影が云う。

「俺が与えたとはいえ、あいつの命だ。好きに使えばいいさ」

「お主も難儀な性格だな」

「バルトーにも云われたよ」

「儂に言わせればお前も馬鹿だよ。……儂はもうしばらくあやつに付いておるよ。これでも生まれた時から見守ってきた子じゃからな」

「好きにしろ」

応えを聞くまでもなく、影はドロリと足元に溶け込み姿を消した。
しばらく座り込んでいた魔狼王は、大きく息を吐くと立ち上がった。
すべてを振り落とすように。

立ち上がったその気配はまさに魔王。
つい先程までの身軽な印象は今はなく、威厳と力に満ちた王の姿だった。

「お連れした、王よ」

声と共に白き狼バルトーが姿を現す。
魔狼王は頷き、その背後に伴われるように現れた女に視線を向けた。

「お目にかかるのは久しぶりですね、魔狼王様」

「うむ、このような場所までご足労願い申し訳ない、だが話は急ぎでな…エビル殿」







カノン皇国 スノーゲート城



雲に覆われていた月が顔を見せ、月光が降り注ぐ。
その光に、美坂香里は時がいつの間にか夜に差し掛かっている事に気が付いた。

私…寝てたのかしら。

バルコニーに置かれた椅子に座ったのは覚えているが……
どうやら寝てはいなかったようだが、ぼんやりとしたまま時間を過ごしてしまったらしい。
ただでさえ忙しい時期なのに……

香里はすっと立ち上がると柵に手をかけ、空を見上げた。
月が青白く冴え渡っている。

「今日は月が綺麗だなあ、美坂」

不意に声が響く。
香里は驚いて眼下を見下ろした。
バルコニーのすぐ下、庭の真ん中で月光に照らされた一人の少年が佇んでいる。

一瞬、文句の束が脳裏を奔流のように流れた。

いったい今まで何をやっていたのか。
そんな所で何を黄昏ているのか。
似合わない事を言うんじゃない。

そんな言葉が脳裏を走り、そして消えた。

訊こうと思っていた言葉。

昔のこと
約束のこと
指輪のこと

そんな言葉も消えてしまった。


だから


「そうね」

ただ、それだけを返す。

色んな事を言いたかったのに…

もっと…何かを喋りたかったのに…


それだけしか言えなかった。


二人の視線が月を離れ、彼女たちは無言で視線を交わらせる。


不意に、香里は泣きそうになった。

なぜだかわからない。

ただ、寂しくて、哀しくて……

何か大切な存在を忘れてしまったとでもいうように……



それでも

涙なんか流すわけにはいかない。

強くなろうと決めたから。

涙なんか流してはいけない。

あの日、美坂香里は強くなると誓ったのだから。


だから、香里はじっと北川の瞳を見続けた。


手の届かない…彼の姿をじっと見つめ続けた。


青白く夜を照らす月の下。


見上げる彼と、見下ろす彼女。



手が届きそうなほど近くにいるのに


でも、決して二人の手は届かない。


結ばれない。




今、二人の距離は…果てしなく遠かった。





    続く



  あとがき

八岐「さて、無事水瀬氏もお亡くなりになりましたので、こちらにお呼びしたいと思います」

純一郎「どうもみなさんこんにちは、水瀬純一郎です。ところで八岐くん、ここってあの世なの?(苦笑)」

楓「似たようなものです」

八岐「そうです」

純一郎「…そ、そうですか(汗)」

楓「それにしても純一郎さん、あなた全然娘と関わらずに死んじゃいましたね」

純一郎「あ、そうなんだよ。これでも怒ってるんだよ。だいたい秋子とも全然接触ないし」

八岐「へんっ! あんな激甘夫婦なんざ書いてられますかってんだ」

楓「…激甘なんですか?」

純一郎「えへへ〜(ふにゃ〜)」

楓「…(うらやましい…私も耕一さんと…ぽっ)」

八岐「…はあ〜」

純一郎「ところでもう僕って全然出番ないわけ?」

八岐「ないっすよ。だって死んでるじゃないっすか」

楓「死んじゃってますね…完膚なきまでに」

純一郎「ううっ、確かに」

八岐「まああの世から奥さんの活躍でも見守ってなさいって」

純一郎「寂しいよ〜、秋子助けてよ〜」

楓「…存外鬱陶しい人ですね」

八岐「悪霊になりそうだな」

純一郎「…うえ〜ん(泣)」

楓「はぁ…八岐さん、もうこの方の出番はないんですか?」

八岐「本編では絶対にないです。でもまあ、外伝でもあったら」

純一郎「あるの!?」

八岐「秋子さんとのなれ初めとか」

純一郎「ホント!!?」

八岐「書くかかなり怪しいけどね」

純一郎「書けぇぇぇぇ!!!」

八岐「ギャギャッ!? グガァガガガ??」

楓「あっ…それ以上やると……ああ、墜ちましたね。まああちらは放って置いて次回予告にいきましょう。
次回は第五五話『迷いと決断と』……どうもここらへんから疲労の溜まるお話が続くようです。
相沢さんと水瀬さんのお話です、そしてもう一つの再会と罪……はてさて。
それではみなさま、ごきげんよう」

純一郎「あ、さようなら〜、水瀬純一郎でした〜。秋子ぉ、見てたぁ?」

楓「鬱陶しいです」

八岐「…ぐげ」



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