魔法戦国群星伝
< 第五十三話 Summer >
盟約歴1085年 夏
水瀬公爵領 新想の森
前へと一歩踏み出す。
その意味としてはいろいろなものがある。
精神的な意味として捉えることもできるし、人と人との繋がりの中で使うこともできる。
だが、この場面で言えば、前へ踏み出すという意味は至極当たり前な、そのままの意味。
つまりは歩く、もしくは走るという行為の中での動作の一環である。
その一歩もまた、ただ単に森を走る中でのなんの代わり映えも無い一歩でしかなかったはずだった。
だが…
道無き道。下草に覆われた森の中をひた走っていた壮年の男はピタリ、と唐突にその疾走を止めた。
「なんだ…いったい?」
思わず、声に出して呟く。
彼が踏み出した一歩。
その一歩を境として、その森は完全に様相を異にしていた。
ひたすらに急いでいた彼をして、立ち止まらざるをえないほど。
それは異界。
一瞬、そう錯覚させるほどに、そこは今までの森とは気配が異なっていた。
いや、気配が違うのではない。空気に塗り込められたような濃密な血臭がそう感じさせたのだ。
嫌が応にも慎重となり、彼はゆっくりと歩を進めた。
だが、その意に添わぬ緩やかな歩みは更なる焦りを呼び込み、彼の心中に最悪の想像がじわじわと広がっていく。
「くっ!!」
その想像に耐え切れなくなった彼は、意を決し再び走り始めた。
だが、それは30歩も行かないうちに再び緩む。
眼に飛び込んだのは紅。
べっとりと、森の一面を覆い尽くした血色の紅。
その中心に、彼らは居た。
「…香里ちゃん?」
7,8歳くらいの金髪金眼の男の子が、困った様に、だが大事な者を守るように、彼が探していた女の子を抱き締めていた。
刹那、驚き、次に安堵する。遠目にも穏やかに上下する女の子の胸を見て。
なにより、その安心しきった寝顔を見て。
彼はゆっくりと二人の元へと歩き寄った。
女の子を抱き締めている男の子を、刺激しないように。
気分は野生動物に触れようとしているようなものだ。
じぃーっと女の子の顔を見ていた男の子が顔をあげる。そして、金色の視線が交わった。
これは……
彼は今さらの様に男の子の容姿に気がついた。
この大陸に住む人間は、まあ色とりどりといってもいい様々な髪の色を持っている(彼の奥方もまた青い髪の毛だ)
だが、金髪だけはいない。いるとすれば遠き異国の人種だが、目の前の男の子の顔立ちはこの大陸の者と変わらなかった。
異国人とのハーフとも考えられたが、その纏う気配に彼はその可能性を否定した。
そして結論を出す。
「…君は、魔族かい?」
同意も否定もなく、男の子は目の前に現れた彼を見つめ続けた。
その内に隠れた敵意を探るように。
彼は軽く苦笑した。
これでは僕はお姫様を攫いにきた悪者だな。さしずめこの男の子はナイトといったところか。
そこまで思い巡らし、彼はいやいやと内心首を振る。
まさにナイトそのものじゃないか。
少々血なまぐさすぎるけどなぁとも思いながらも、男の子の不信を拭うために、彼は穏やかに語りかけた。
「いや、大丈夫だよ。僕は…その女の子の保護者だ。どうやら君が彼女を助けてくれたみたいだね、ありがとう」
無言の少年。
此方を探るような気配は解かれない。
やれやれどうしたものかなあ、と彼が頭に手をやった時、返答は彼の後ろの森の奥からかえってきた。
「狂的な惨状、血みどろの情景、その中にいるのは魔族。それであっさりとその魔族に礼なんぞ言ってのけるとは、変な人間だな、あんた」
驚くでもなく、動揺するでもなく、彼は微笑みを浮かべた。
「うーん、でもこの子が彼女を助けてくれたのは明白だったし、それならお礼は言わないとねえ」
声のしたほうに視線を向けながら、彼は穏やかに言葉を連ねた。
「それが変だと云う。普通は怯えて、疑い、敵意を撒き散らすもんさ。魔族は人間にとって脅威であり嫌悪の対象だからな」
木陰からユラリと姿を現す金髪金瞳の男の言葉に、彼は考え込むように眉を寄せ、首を傾げて訊ねた。
「そうなのか…じゃあ今度同じ場面に出くわしたら、君が言うようにした方がいいかな?」
至極マジメなその声音と眼差しに、森の奥から姿を見せた男はキョトンと眼を丸くした。
「……そういう事を当の相手に訊ねるなって」
金髪にして金瞳の男は、ようやく声を捻り出すや、吹き出すように笑い始めた。
蒼黒の髪の男も、一瞬何を笑っているのかと不思議そうに瞬きしていたが、やがてつられたように穏やかに微笑む。
血に塗れた森の中で、自分たちを挟んで笑う二人の大人を、男の子は不思議そうに見比べていた。
やがて金色の男が笑いをおさめ、その金色の眼差しをすっと定める。
そして、明らかな好意と好奇心を滲ませた声で名乗った。
「俺の名はヴォルフ・デラ・フェンリル。これでも魔界で魔王をやっている。そこでぼけーっとしてる坊主は一応俺の息子扱いになってる奴で、ジューン・ライツ・フェンリルという」
魔王さんですか、と彼は眼を丸くして驚いた。といってもせいぜい有名人と出会えたという程度の驚き方で、それがまたヴォルフの口元を緩めさす。
彼は改めて身を正すと、こちらも丁寧に挨拶を返した。
「僕の名は水瀬純一郎。一応公爵なんてものをやっていますよ」
§
「さて、僕は魔族についてはよく知らないんだが、飲み物は紅茶でいいかな?」
「幸いにも血をすする種族じゃないんでね、ありがたくいただこう」
新想の森の奥。そこには深き青を湛えた湖が冷たい水をたゆたわせていた。
その湖畔に佇む屋敷。そのバルコニーにある樫の椅子にゆったりともたれかかりながら、ヴォルフは湖を眺めていた。
「けっこうな別荘だな。ロケーションも見事としか云いようが無い。だが、今ここにいるのはお前とあの女の子だけか?」
「お褒めいただきありがとう、ここは僕もなかなか気に入ってるんだ。僕の奥さんもお気に入りでね。それからここにいるのが僕と香里ちゃんだけなのはちょっと事情があってね」
聞きたいかい? と菓子を探しながらの声が屋敷の方から聞こえてきた。
ところで当の子供たちはというと、女の子の方はまだ意識を取り戻さず。魔族の少年は何故か彼女から離れようとはせず、そのままじーっと側についている。
「さっきの物騒な連中が絡んでるなら面白そうだし、興味はあるな」
ティーセットと菓子を持って現れた純一郎にヴォルフは先程の答えを返す。
そこでふと気がついたようにカップを見て、今さらのように訊ねた。
「これは渡来物か? 確かこの大陸ではこの手の茶はあまり飲む風習がなかったと思ったが」
「普段は抹茶だね。でも君はどちらかというとこっちの方が似合いそうだったんでね」
まあ確かに、とヴォルフは神妙に頷いた。自身、あまり正座して湯飲みを啜るのが似合うとは思っていない。
「彼女はね、このカノンのお姫様なんだ」
ポットからお茶を注ぎながら言う純一郎に、ヴォルフは一瞬何のことかと視線を上げ、先程の話の続きだと気がつき、内心苦笑した。
どうもこの穏やかな空気に当てられたかして、イマイチ頭の回転が遅い。
純一郎はそんなヴォルフの様子に頓着する様子もなく、お茶を入れ終わると自身も椅子に腰掛け、続きを口にする。
「今、この国はいろいろと面倒事が起こっててね、皇王と諸侯衆が対立してるんだ。それで今が一番危ない時期でね、香里ちゃんも皇都にいたんじゃ彼女にまで危険が及ぶんじゃないかってね」
「それで避暑がてらにここに連れてきたという訳か」
「そうなんだ。本当は僕の娘と妻も付いて来る予定だったんだけど、娘が熱を出してね。妻ともどもお留守番。それで彼女と二人でって訳だよ。まあ危険云々は口実で、それこそ彼女の息抜きが目的だったからね、まさか本当に香里ちゃんの命まで狙ってくるとは思わなかった」
言葉の終わりはため息混じりだった。
その手のため息の意味をヴォルフはそれなりに心得ている。
それは愚か者と対峙した時に出るため息だ。
「おかげで君たちには助けられたよ。香里ちゃんを助けてくれてありがとう」
「俺は何もしてないし、何をするつもりもなかったさ。礼なら坊主に言ってくれ」
肩を竦めながらヴォルフはそっけなく言い、ティーカップを手に取った。
口につけ、ほうっと感嘆のため息が漏れる。
「これはいけるな」
「お褒めいただきありがとう。これでもお茶の入れ方には自信があるんだ」
嬉しそうにニコニコ笑いながらのたまう。
これ以上誉めるのもなんとなく癪だったので、肩を竦めて話題を戻す。
「確か皇家にはもう一人娘がいなかったか?」
言外にその娘は狙われないのか、と訊ねる。
詳しいね、と純一郎は少し瞼を落とした。
そこには先程までとは違い、沈痛さが滲み出ていた。
「確かに香里ちゃんには栞ちゃんという妹がいる。だが、彼女は生まれた時から体が弱くてね。それだけじゃなく、今はあまり良くない病気にかかっている」
その言葉の端々から、ヴォルフはその娘の様子が見て取れた。
静養であるこの旅路にも同行していないという事は、外に連れ出せないほどに身体が弱っているのだろう。
ヴォルフは詰まらなさげに鼻を鳴らした。
「つまり諸侯の連中から言わせれば、次女の方は放っておいても直に死ぬという訳か。長女さえ消しておけば後継者はいなくなる。皇王にとってはショックだろうな」
「君は直接過ぎるね、だが概ね間違っていない」
まだ二人とも幼いのに、彼女たちが置かれている状況は酷過ぎる、と彼は我が事のように言う。
「まあ向こうも今回は脅し程度だろう。失敗したからといってまた刺客を送り込んでくる事はないと思うよ。もちろん安心はできないけどね」
それより、と純一郎は表情を変え、目の前の魔族に問い掛ける。その瞳に宿るのは好奇心だろうか。
「君達はわざわざ魔界からこんな所に何の用だい? まさかバカンスという訳じゃないだろう?」
ヴォルフは黙って苦笑した。
答えるのは簡単だ。ある女の生まれ変わりに会いにきた。それだけだ。だが、言うつもりはない。言ってしまえば、目の前の男との関係が、ひどく打算的になってしまいそうな気がしたからだ。
答えないヴォルフに、純一郎は微苦笑を浮かべるとそれ以上は追及しなかった。いいたくなければ無理に聞く必要もない。
それより今は、この男ともうしばらく言葉を交わしたかった。
彼は一瞬迷うように視線をさまよわせると、その穏やかな眼差しを見据えて言った。
「もし、構わなければしばらくここでの休暇に付き合ってくれないか? 香里ちゃんも一人じゃ詰まらないだろうし、同い年の子供が一緒にいれば楽しめるだろう。僕も…茶のみ友達がいてくれると幸いだ」
ククク、と魔王は笑いを漏らす。
「これでも俺は魔族だぜ。それでもいいのか?」
「魔族だろうが何だろうが君なら構わないさ」
変なヤツだなあ、あんたは、と金色の魔族はカップの底に残った茶をあおり、
「いいさ、つき合わせてもらうよ。息子もどうやら彼女のことを気に入ったようだしな」
嬉しそうに微笑む人間の男を端目に見ながら、ヴォルフは様々な意味を込めた笑いを顔に貼り付けた。
さて、ろくに計画も無く大盟約世界に来ちまったが、まさかこんな事になるとはな。巡り会わせとは面白い。これが運命と言うやつかね。
ヴォルフは先程見た、眠る少女の姿を思い起こした。
互いに見知らぬ者同士か。これは皮肉というものかな? まあ俺が判断することじゃないか。
ふふん、と自嘲するように笑う。
新たなる幕は上がったって訳だ。
さあ、後はお前次第。これからお前が何を考え、何を思い、どうするのか……楽しみに見物させてもらおう。
§
夕焼けよりも紅い世界。
見上げる空も紅く、踏みしめる地も紅く、そよぐ風すらも紅い。
その紅い世界の中にいるのはたったの二人だけ。
血の氷雨の向こうに立っている。
光り輝く金の髪と、月のごとく冴える金の双眸。
夜の様に深い黒き衣裳。
その胸元にネックレスとしてさげられた孤独な星のように輝く銀の指輪。
そんな姿をした男の子が立っていた。
そしてその月瞳でじっと此方を見つめている。
自分もまた、じっと彼を見つめている。
不思議な…思い。
それは懐かしさ?
不思議な感覚。
躯の奥底から何かがこみ上げてくるような、もどかしさ。
魂が微かに、ほんの微かに震えた気がした。
パチリ、と眼が開く。
見えたのは天井。体の下にはベッドの感触。
パチパチと目を瞬かせる。景色は変わらない。
夢?
夢みたいな光景だった。
紅い紅い世界、そして……
いったい、どこからどこまでが現実と夢の境なのだろうか。
はあ、と香里はため息をついた。
ようやく、自分が目を覚ました事を自覚する。
でも、夢から覚めてしまった事が酷く残念でならなかった。
あの瞳をもっと見てみたかった。
その瞳が笑みに彩られるところを見てみたかった。
もし夢だったとしたら、覚めて欲しくはなかった。
永遠に見続けたい。
そんな不思議な夢。
そんな切ない思いを抱きながら彼女はふと顔を横に傾け、眼を見張る。
夢の続きが、そこにあった。
自分をじっと見つめる、金色の瞳。窓から流れ込む風に、シャワーのように揺らめく金髪。
しばし無言で
見つめあう。
「…ねえ、聞いていいかしら?」
ようやく、言葉が口にでる。男の子は不思議そうに首を傾げた。
その仕草に思わず次に言おうと思っていた言葉が消し飛んでしまった。
はて…何を言おうとしていたのだろう。
なんで人の寝顔を見てるんだ、とか
なんでここにあんたがいるのよ、とか
文句を言おうとしてたような気がする。
だが、そんなことはどうでもいいことに気がついた。
聞きたいことは、そんなことじゃない。
知りたいことは、そんなことじゃない。
聞きたいことは?
知りたいことは?
それは……
「あなた、名前はなんていうの?」
君のこと
男の子は困った様に眉を寄せた。
それは、名前を言っていいものかと悩む風ではなく、むしろ自分の名前はなんだったか思い出そうとしているような……
「ジューン・ライツ・フェンリル」
「え?」
「みなは僕をジューン・ライツ・フェンリルって呼んでる」
七歳の美坂香里は困った。
まさか横文字が出てくるとは思わなかったのだ。
「え、ええっと…外国人?」
言いながらそれは違うなぁと自分で思う。
案の定、男の子はまた困った様に眉を寄せた。
うーん、面白いかも
思わずその仕草にそんなことを思ってしまう。
「魔族」
え? っと、香里の意識が引き戻された。
「僕は魔族なんだ」
語尾が微かに震えていた。
恐らく彼女には分からなかっただろうが、その声には微かだが怯えが含まれていた。
彼を知る魔族たちがそれを知れば、ひどく驚愕するに違いない。彼がそんな感情を表すことなど、これまでなかったのだから。
それも、その怯えがこの小さな少女に怖がられるのではないか、という怖れから来ているのならばなおさらに。
だが、男の子は不思議と嘘をつくことは考えなかった。
彼女に嘘をいって自分を誤魔化すという事をまったく想像すらできなかった。
もしかしたら、自分を知ってもらいたかったのかもしれない。
初対面の女の子に、なぜそんな思いを抱いたのかは分からないが。
だが、自分を知ってもらうという事は、彼に怖れを抱かせる。
しばしの静寂。
破られるのは唐突。
グイッ、と特に手入れもされた様子もない伸びきった髪の毛を引っ張られて、男の子はびっくりしたように顔をあげた。
興味深々にベッドから身を乗り出して髪の毛を引っ張っていた女の子は、男の子の視線に気がつきニコリと笑う。
「わたし、魔族に会うのは初めて。へぇー、こんなのなんだ」
と言いつつ、やっぱりグイグイと引っ張る。
「い、痛い痛い!」
思わず悲鳴をあげる。
「あ、ごめん」
抜けちゃったとさり気にとんでもないことを呟きつつ、テヘヘと金色の髪を放した女の子は「ふーん」とちょっと涙目になってる男の子の顔を覗き込む。
「じゅーん君じゃ呼びにくいわよねえ」
何の事かとキョトンとする男の子に「名前よ、名前」と笑いながら告げ、少し考え込むように人差し指を唇に当てると、
「でもライツ君だと犬みたいだし」
「い、犬!?」
普段はみなからライツと呼ばれていた男の子は、パカン、と口をあけた。
ショックだったみたいだ。
「よし! 君のことはジュン君って呼ぶわ」
女の子は高らかに宣言する。
そして勢いに圧倒されぼーぜんとしている男の子にニコリと笑いかけ、彼女は言った。
「わたしは美坂香里…香里よ。よろしくね、ジュン君」
こくこくと無意識に頷く男の子の奥底で、
魂のピースがカチリと合わさる音が響いた。
§
「やあ、おはよう」
男の子を伴って姿を見せた香里に、純一郎はにこやかに挨拶する。
「……おじ様、この場合ちょっと違うような気がするわ、それ」
「そうかな?」
むー? と首を捻る純一郎の仕草にクスクスと笑いを漏らしていた香里は、ふと、彼の向かいに座る見知らぬ男に気がついた。
「お客様ですか?」
「ん、まーな」
よろしく、とばかりに手に持ったカップを掲げてみせた男の容貌に、香里がハッと気が付き声をあげた。
「あ、もしかしてジュン君のお父様ですか?」
「ん? ああ、一応な。ヴォルフ・デラ・フェンリルだ。よろしくな、お嬢ちゃん」
「はい、よろしくお願いします。――なんだ、君、迷子じゃなかったのね」
「…ま、迷子」
傍らの男の子に振り向いて小声で囁く香里。
迷い子扱いされていたと知ってまたもショックを受けてる男の子に、ツンツンとそれをつついて彼の表情の変化を笑う香里嬢。
その様子に神経一つ動かさなかったものの、内心では息子の感情の揺らぎにヴォルフは少々驚いていた。
ったく、俺らが何やったって表情一つ変えやがらなかったくせに……女を前にしたらそれかよ。 女たらしとは気がつかなかったな。
ジロ、と幼い金瞳が父親を睨む。
善からぬ想像を巡らしていたことに勘付いたようだ。
ヴォルフは白っと視線を逸らした。
かなり白々しかった。
「香里ちゃん」
「はい?」
男の子の頬をつつくのを止めて、むにむにと引っ張っていた香里は純一郎の声に振り向く。
でも手は離さなかったので、むにーと男の子の頬が引っ張られた。
「彼ら二人はしばらく一緒に滞在してくれることになったんだ」
「ホントですか!?」
「うん、ホントだよ」
「わっ、やったー。ジュン君、しばらく一緒に遊べるねっ」
「もう遊ばれてると思うんだけど」
思い切り嬉しそうに破顔して、振り返った先では、困った顔のまま頬を思いっきり引っ張られて珍妙な顔になった男の子と、ひっくり返って爆笑する彼の父親の姿があった。
「あら、ごめん」
「あははははははっ」
「笑いすぎ……あの、いい加減離して欲しいんだけど」
「あっ…あははは、頬っぺた赤くて可愛いわよ、うんうん」
「だはははははははっ」
「だから笑いすぎ」
「ふふっ」
純一郎は小さく笑みを漏らす。
カップを傾けるその先では、パタパタと手を振って気にするでないぞ、と鷹揚に言ってのける香里嬢。少しご機嫌斜めに目つきが怖い男の子と、壷に嵌ったのかまだ笑い転げてる魔王の姿があった。
「どうやら、いい休暇になりそうだねえ」
ざわざわと緑の森をそよぐ風が、涼しげに流れる夏の昼下がりだった。
§
日々、これ恙無く
ただ、過ぎ行くままに
「で…なんで?」
聞くからに、あまりご機嫌のよろしくない声音。
そんな声で、こちらに視線も寄越さずに唐突に問われ、魔族の男の子は目をパチクリと瞬かせた。
出逢いの日の翌朝。
朝日が昇るや否や、まだ寝ていた彼の元に彼女は現れ、外へと引きずり出された。
なんというか、朝から元気一杯だ。
傍目から見たら、どちらかというと歳に似合わぬ落ち着いた雰囲気をまとっているのに、そんな印象を蹴飛ばすように美坂香里は大いにはしゃいでいた。
元々、周りに関心なく生きてきた男の子にとって、いきなり引きずりまわされるという怒涛の展開は、これまで経験のないほどの混沌とした日々の始まりであった。
まだそんな開けっぴろげな雰囲気に慣れていない男の子には、彼女の唐突さに即座に対処するなど出来様はずもなかった。
さらさらと流れる小川に裸足になった足を浸していた女の子は、答えを返さない男の子の方をむぅっと睨み、口を尖らせる。
「なんで、私の事、香里って呼ばないの? って訊いているのよ! そう呼んでって言ってるのに君はー」
「なんでって言われても……なんとなく…」
「なんとなくってねえ」
心底困った様に答える男の子に、彼女は呆れた様に流れる水を蹴飛ばす。
きらきらと飛沫が飛んだ。
「だからって、なんでミサちゃんなのよ!!」
「みさかかおりだからみさちゃん…ヘンかな?」
「ヘンに決まってるでしょーが!!」
怒声とともにバシャーン、と水に落ちる音。
不意をつかれ、小川に引き落とされた男の子が、ずぶ濡れになってキョトンと流れの中に座り込んでいる。
むすー、と頬を膨らませてそれを見ていた女の子は、やがてぷっ、と息を漏らしケラケラと笑い出す。
「もう! 良いわよ! ジュン君だけに許してあげる、みさちゃんて呼んでいいのはジュン君だけだからね、感謝しなさい」
ぽけー、とその言葉を聞いていた男の子は、返事が無いのにまた睨みつけるような視線が襲い掛かってきたのに慌てて、コクコクと頷く。
その様子に、彼女はまたケラケラと笑った。
小川の流れかキラキラ輝き、笑う女の子と呆ける男の子を照らしていた。
「驚きだな」
「何がだい?」
視界の端に子供たちの騒ぐ様子を映しながら、視点は眼前に持ち上げたグラスに注ぐ。
「あの坊主は生まれてこの方無愛想というか、他人にも自分にも無関心でな。どうにも社交性というヤツに欠けてたんだ、生きるという事象に対してどこか欠損していたと言ってもいい。だが、どうしてどうして。あの娘と会ってからのアイツは…」
グラスに並々と注がれた酒をあおり、笑いを漏らす。
「それを言うならこっちもだよ」
と、純一郎もグラスを揺らして酒という液体が揺れ動くのを見て楽しむ。
「香里ちゃんも普段はもっと大人、というか大人びた子でね、あんなはしゃぐ姿を見ることはなかったよ。娘と一緒の時でさえね」
まあ城から離れた事もあるんだろうけど、と呟き幼い少女の無邪気な笑顔に目を向けた。
「それにしても昼間から酒とは……秋子に怒られちゃうな」
「まあそれは鬼の居ぬ間というヤツだろう。そんなに怖いのか? 奥方は」
「怖いよ、怖いねえ」
と言いつつ嬉しそうにニタニタ笑う純一郎。
ヴォルフが、自分が最悪の話題を振ってしまった事に気づくのにさほどの時間はかからなかった。
それから約半日に渡り、ヴォルフは純一郎による奥方の惚気話を聞かされるはめになる。
§
その日々は何があったわけでもない。
特別な出来事があったわけではない。
一緒に湖ではしゃいだ。
一緒に森の中で駆け回った。
一緒に木に登って遠くを観た。
一緒に食卓を囲んでお喋りした。
一緒にお菓子を作ろうとして失敗した。
一緒に釣りをしてて湖に落ちておぼれそうになった。
一緒に夜空を見上げて、星を指差した。
ただ、幼い子供二人が思う存分遊び、笑い、走り回った。
ただそれだけの日々。
傍目にはなんの変哲もない、ありふれた日々。
だが、今まで普通の子供とは違う人生を送ってきた二人の子供たち。
まだ七歳になったばかりだというのに、大人である事を強いられてきた美坂香里。
生まれてから七年。自分を含めたありとあらゆる事に興味を示せず、まるで人形の様に時を過ごしてきたジューン・ライツ・フェンリル。
この二人が初めて何も縛られる事無く、自由に時を過ごした時間。
姫君ではなく。
魔王の息子ではなく。
ただ、二人の子供である事が出来た時間。
だが、やがてそれも終わりに近づく。
夢が必ず覚めてしまうように……
続く
あとがき
八岐「うがー、我ながらこいつら全然性格違うぞーー」
楓「自分から先に言ってしまいましたね。脇腹から心臓めがけてグサリと差し込むように指摘しようと思っていたんですけど」
八岐「なぜにそんな具体的?」
楓「性分です。それにしても本当に性格が違いますね。まるで子供みたい」
八岐「いや、子供です」
楓「あら」
八岐「あら、じゃなくて(汗) まあ香里はそれで説明つくんですけど、北川っちはホントに違いますよね。餓鬼の時分はこんなヤツだったということで」
楓「よくもあんなバカに育ちましたね」
八岐「本当はそのバカの方が元々の彼の性格なんだけどね。昔いろいろあったのだ」
楓「……この時、まだ彼は七歳なんでしょう? 昔ってなんですか、昔って」
八岐「…はてさて」
楓「……恍けてますね、それは本編で、という事ですか? 別に構いませんけど。ではさっさと次回予告に行きましょう」
八岐「行きましょう行きましょう。香里ちゃん過去編は次回であっさりと終了です」
楓「盛り上がりもなく」
八岐「次回ちょっとは盛り上がんの! ちゅう訳で次回第54話『Little Promise』……それは約束。小さな、でも大切な約束」
楓「水瀬のお父様、短い出演でしたね」
八岐「そーだね」
楓「あとがきに呼んであげましょうか」
八岐「そーだね、じゃあ次回にでも」
楓「それではまたいずれ」
八岐「さよ〜なら〜」
SS感想板へ