魔法戦国群星伝





< 第四十六話 再会は闇の奥で >




御音共和国 大統領府 地下階



いつまで私は待ち続けるのだろう。
もう、なにを待ち続けているのかすらわからなくなってきた。
私は、なにを期待しているのだろう。
私は、なにを望んでいるのだろう。

私は…自分の心が凍りついていた事に気がついてしまった。
気がついてしまったのなら、もう今までと同じではいられない。
いることができない。

でも、私はどうしたらいいのかわからない。
だから、今までと同じ様に、心を凍らせようとする。
もう…無理だとわかっているのに
溶け出したものを再び凍らせるには、それ相応の冷たさが必要なのだから…



あの人を失ったと知った時の恐怖、絶望。
それを思えば、ここに居てくれるのなら、私はそれでいいと思っていた。
貴方さえ居てくれれば、いいと思っていた。

でも

もう

私は耐えられなくなっている。

貴方でない貴方を…見続ける事を…








「帰ってきた捜索員はたった一人か」

「はい。その他24名はすべて消息を絶ちました」

御音特別調査局局長 里村茜は自分の言葉の語尾が微かに震えていた事に気がつき、それを抑えようと瞼を強く閉じた。 強く圧力を掛けすぎて、涙が滲んだ気がしたが、恐らく錯覚だろう。
涙は…随分昔に枯れ果ててしまった。

いや、と茜は記憶を振り返った。

そういえば少し前に涙が流れた事があった。

過去の自分、まだ未来になんの疑いも抱いていなかった頃の私自身と再会したような、 向き合ったような不思議な感覚を抱いたその時に……


……思えば、あの時から私は――


「もし、『失われた聖地』がガディムの本拠ならば一人も帰ってこない可能性の方が高いと思っていたが…運が良かったな」

報告を受けて、T機関の総帥である男が応える。 その無感動な声音の中に、微かだが苦渋と安堵が霞みのように移ろいだように感じて、茜は瞼を開いた。
陶磁器の人形のように白く、感情のない端正な顔。幾ら見つめても、そこには何の揺らぎも感じられなかった。
今、感じたものは、錯覚……彼女の願望だったのだろうか…
そうなのだろう。言葉の内容を見れば、それがどれだけ非情なものかは良くわかる。
この青年が命じた任務は、正に帰ってこないことを前提にしたものだったのだから。
いつから、この人はこんな非情な命令を、なんの感情もなく下せるようになったのだろう。
幾度…重ねたかもわからない問いかけを、心の内で繰り返す。 もう……そこに意味を見出せなくなって随分と経つのに…飽きもせず、幾度も、幾度も

いや、今はもっと辛い。辛いと感じる心を思い出してしまったから。

茜はもう一度瞼を閉じた。
まるで、現実の虚無を漂わせる青年を見ないように、かつて、あの慈愛と優しさに満ち溢れた青年を取り戻すかのように……
無意味な行為を続けた。

だが、内側の混沌をそれ以上表に出す事無く、茜は青年に問い掛けた。

「『失われた聖地』…そこが魔王ガディムの本拠地という事は確定したと考えてよろしいのですね」

「間違いない。ガディムはそこだ。里村君、小坂大統領に報告を、それとカノンと東鳩にもこの情報を渡してくれ」

「…はい」


事務的な会話。
以前、それ以外の会話を交わしたのは何時だったか…

何故私は凍った心を溶かしてしまったのだろう。
何故私はかつての自分を思い出してしまったのだろう。

こんなに辛いのに
こんなに哀しいのに

だから…心を凍らせたのに


もう一度、私は心を凍らせる事は出来ないだろう、と茜は漠然と確信した。
二度も自分を殺せるほど私は強くない。

それでも…彼女にはこれまでと同様に待つことしか出来なかった。

雨の降る中で佇んでいるように
在りもしないユメを焦がれて……


ただ、待つだけしか出来ないのだ。


ただ、待つだけしか………




「…おい、茜」

その声は唐突で…
茜は内心驚いて伏せ気味だった顔を上げた。
勿論、傍目には驚きの欠片も見せない。動揺で動きを乱すには、自分を殺している時期が長過ぎた。

声を掛けられた事で、茜は自分がいつの間にか地上階まで来てしまっていた事を認識する。
振り向くと、良く見知った顔が二つある。

「…浩平、長森さん」

猪名川での戦いを終え、この中崎の地に帰ってきた二人。
激戦であったと聞く。
見れば長森瑞佳の額には包帯が巻かれていた。
彼女が傷つくともなれば、よほどの戦いだったのだろう。
茜はふと眼を細めた。
普段とは違うような違和感。
茜は今しがた二人を見て感じた違和感が、彼女の怪我に帰するのかと考える。
だが、もう一度二人を見比べ、ああ、と違和感の理由を悟った。

普段はふざけた様子しか見たことのない折原浩平が、ひどく怒ったような表情でこちらを睨みつけていたのだ。
珍しいとは思う。
が、それに関しての感想はない。どうでもいいことだ。

「何か御用ですか?」

一応聞いてみる。だが、浩平はムスッ、とした顔のまま黙りこくっていた。
代わりといっては何だが、彼の傍らにいた長森瑞佳が心配そうに自分の顔を覗き込んでくる。

「里村さん、顔色悪いよ」

茜はじっと春風のような雰囲気を醸し出す少女の顔を見つめた。
いつも、自然に幼馴染の隣にいる彼女。
いつも、彼の横で幸せそうに笑っている彼女。


…………………


「大丈夫です、別になんでもありません」

「でも…」

淡々と応える茜に、瑞佳は思わず浩平を振り返るが、彼女の幼馴染は険しい顔のまま茜を見つめるだけだった。
その厳しい視線に何の痛痒も感じる風でもなく、茜は彼らに向かって口を開いた。

「ガディムの本拠がわかりました。すぐに他の二国との協議が始まると思われます。準備を整えておいた方がいいですよ」

そう言い残し、立ち去ろうとする茜の背中に、浩平の声が被さってくる。

「茜、お前っ……」

だが、言いよどむ浩平を振り返ることなく、茜は歩みを止めなかった。
何かを拒絶するように、疲れきったように……

彼女は背を向け続けた。





「浩平…」

瑞佳の呼びかけに応える風でもなく、浩平はポツリと呟いた。

「覚えてるか?」

恐ろしく端的な言葉。だが、瑞佳はその意を正確に汲み取り、小さく頷く。

「覚えてるよ、覚えてる。あの里村さんは、昔の里村さんそっくりだよ。ううん、もっと酷いかもしれない」

そう…まるで知らず知らずに積もり積もっていたものが、一気に噴出してしまったような。

瑞佳は哀しげに眼を細める。
この御音共和国が誕生して間もない頃の、里村茜を思い出し…
特別調査局という部署の長に収まってからの彼女の姿を思い起こし…
あの時の彼女は、傍目から見ても酷かった。日に日に落ち込んでいく、まるで流砂にでも墜ちていくような彼女の様子を思い出して。

いつしか、それは彼女の無感情な表情の中に埋没し、隠れてしまった。
誰もが流れ往く日々の中に気を止めなくなったモノ。
本人ですらなかった事にして心の内から消してしまったモノ。
それが今、再び表に現れている。

瑞佳は、あの時彼女の悩みをどうして晴らしてあげられなかったのだろうと、小さく唇を噛んだ。
あの人は人知れず、恐らくは自分すら気がつかないままに苦しみ続けていたというのに……
いや、わかっている。助けてあげるなんて傲慢な考えだ。
それに例え、聞いたとしても、彼女は何も言ってはくれなかっただろう。親友である柚木詩子にすら何も語ろうとはしなかったのだから。

「やっぱり…変だよねぇ」

「どわっ!?」

突然隣から聞こえた声に、浩平は思わず飛び上がった。
同じくびっくりして振り返った瑞佳の目に、当の茜の親友の姿が飛び込んできた。

「柚木ー、だからいきなり現れるのはやめろって」

「うーん、でも趣味だしー」

「イヤな趣味だね」

「…何気にキツイわね、瑞佳ちゃん。まあ、それはいいとして…茜の事だけど」

柚木詩子の表情に影が差し、昏い眼差しを流れるように二人に向ける。

「ああ、お前の言ったとおり、ありゃ酷いよ」

浩平は言って、顔を顰めた。瑞佳も沈痛な面持ちで二人を見比べる。
折原浩平と柚木詩子。御音でも特に自分勝手で、マイペースで、騒ぐのが好きな二人。
この二人が集えば、いつもそこには騒動が巻き起こる。

それが、日常の風景。だが今は……

瑞佳は思わずギュッと胸の前で祈るように、心を押さえるように両手を握り締めた。
あまりにも苦しげな二人の空気に。
とても苦しい自分の心に。
押し潰されないように……

ちょっといいかな、と詩子は浩平と瑞佳を促し、歩き始めた。
重い足取り……その先は彼女のオフィス。

意外と殺風景な部屋へと詩子は二人を誘い入れた。
だが、詩子はすぐに話を始めるでもなく二人を座らせて、自分は無言でお茶を入れだす。
お客にお茶を出す詩子。普段の彼女ならまずその思考に無い行為。
だが、浩平と瑞佳はそこに詩子の憂いと惑いを感じて、ただ黙ってその様子を見守った。
やがて、意外と滑らかな手際でお茶を入れた詩子が、茶菓子を伴い戻ってくる。
テーブルの上にそれをならべ、自身もまた二人の前に腰を降ろした。
しばらく、言葉も無く手に持ったお茶を覗き込んでいた詩子は、一口、区切りをつけるように手に持ったそれに口をつけると、おもむろに切り出した。

「T機関って…知ってる?」

その名前に浩平と瑞佳は顔を見合わせると、苦々しげに頷いた。
そこにいい印象を抱いていない事を、その表情から見て取った詩子は納得したように視線を落とし、頷く。

「そうだね。T機関はあたしたち共和国の中核メンバーには公然の秘密ってやつよ。でもね、その詳細は軍の最高指揮官である折原君も、諜報部長のあたしも知らないの」

瑞佳の元々大きな眼が驚きに見開かれた。

「え? 柚木さんも知らないの?」

詩子は不機嫌そうに頬を人差し指で掻いた。

「そーなの。最高機密組織の名前は伊達じゃないってこと。どうやら知ってるのは由起子さんと茜、それと……」

「氷上か」

遠慮なく、出された塩饅頭にかぶりついていた浩平が、詩子の言葉を遮り呟いた。

「氷上って?」

突然出てきた知らない名前に、瑞佳が目を瞬かせる。

「そうか、長森は名前、知らなかったよな。ほら、偶にそこらへんをブラブラとうろついてるヤツだいたじゃないか。妙に存在感の薄いヤツ」

「んー、前に浩平と話してたなんか中性的で、髪が焦げ茶の…なんか不思議な笑みを浮かべてる人?」

「ああ、たぶんそいつだ。名前は氷上シュン、俺も詳しく知らないんだけど、かなりヤバめの仕事をやってるみたいだ。本人は飄々としてて捕らえどころのないヤツなんだけどな…」

「そう、折原君とは知り合いなんだ」

「まあ、何でか向こうからちょくちょく話し掛けてきてな」

と、浩平はなんとも言い難い表情を浮かべ、ハッと思いついたように詩子を見た。

「まさかあいつが?」

「残念、彼はあくまでT機関内の一部署の長。ボスは別にいる。問題はね、茜が不意にいなくなる事があるのよ。それでいつの間にか戻ってきてる。さっきみたいにね。それで…」

詩子は表情を歪めると、苦痛に耐えるように囁いた。

「…戻ってくるたびにひどい顔になってる。本人は気がついてないみたいだけど」

「そのT機関のボスと会ってるのか?」

「そうだね、たぶんそう。それでね、アタシにはその度に茜は心を傷つけてるように見えるのよ」

俯き、震えるように言葉を重ねていた詩子がぐっ、と顔をあげた。
浩平の視線が涙混じりの彼女の眼差しと交差する。
その瞬間、詩子の張り詰めていたなにかが一瞬だけ綻びた。

「ねえ、折原君、どうしよう! このままじゃ、茜が壊れちゃう! どうなっちゃうかわかんないよっ!」

それは紛れもない恐怖。
失う事への…怖れ。
そこには普段のぶっ飛び少女の姿はなく、吹き荒ぶ風に震え、俯く疲れ果てた女の子がいるだけだった。
先ほどまでの多少明るさに翳りが出ていた様子ですら、まだ無理をして振舞っていた結果だということがくっきりと見て取れた。

「柚木さん……」

心を突き刺すような、痛み。
瑞佳は詩子の傍らに座ると、そのかすかに震える肩を抱き寄せた。
痛みを、耐えるように……

その光景から眼を逸らした浩平は、ぐいと湯呑みに入ったお茶を呷った。
苦味が口内に染み渡る。
心の中にも染み渡る。

渋みを弾こうとするように、浩平は口を開いた。

「とにかく、そのT機関のボスとやらに会ってみるか。茜は何を言っても話してくれそうにないしな。直接元凶に当たってみるさ。で、柚木、そいつの居所はもう掴んでるんだろ?」

詩子は翳りが混じりながらも無理やり笑みを見せて言った。

「これでも諜報部の端くれだからね。T機関の本部は…この大統領府の地下だよ」

浩平と瑞佳は思わず顔を見合わせた。

「地下? そんなのがあったのか!?」

「あったのよ。入り口自体も隠されてるし、関係者以外立ち入れないように、強力な魔術や機械式の結界が敷かれてるのよ」

「なるほど、それで俺の出番ってわけか」

ニヤリ、と笑う浩平に、詩子は頷き、お願い、と囁いた。





浩平たち三人は大統領府の一階まで降りると、人目のつかないところにコソコソと移動する。
辺りを見回し、誰もいないのを確認し、浩平は心配顔の瑞佳と詩子に視線を向け、ひょいと右手をあげた。

「じゃ、ちょっくら行って来るぞ」

言うや否や、浩平の姿が一瞬歪み、次の瞬間唐突に消失した。


『空渡り』


空間を自在に操る能力を持つ折原浩平が使うことが出来る一種のテレポートである。



「よっと」

一階部分と地下階を隔てる床をすり抜けた浩平は、とん、と小さな足音だけを響かせて地下階の廊下へと降り立った。
何の飾り付けもない殺風景な通路である。そこには人の気配はあまり残っておらず無機質さだけが漂っていた。

「さてと、どこへ行けばいいのかなっと」

キョロキョロと辺りを見回しながらの呟きに、背後から応えが返ってきた。

「どこに行きたいのかな? 折原君」

ギョッ、と不意を疲れて振り返った浩平が見たものは、微笑を浮かべつつ、こちらを眺める青年――氷上シュンの姿だった。

「よう、氷上か」

「いけないなぁ、折原君。ここは関係者以外立ち入り禁止なんだけど…知らなかったのかな?」

ふん、と不敵な笑みを浮かべて見せて、やや挑発的に言ってみる。

「俺は関係者じゃないのか?」

「ないよ、残念ながらね」

すっぱりと切られた。
浩平は食い下がる風でもなく、だが語気と眼差しを強くして氷上を睨みつけた。

「そうかい…だがな、俺はここの責任者と話があるんだよ。立ち入り禁止なんか知ったことか!」

氷上の透明な眼差しがスッと細められる。

「彼といったい何の話をするつもりかな?」

その普段はけっして不快ではない、その飄々とした声音が今の浩平には癇が障った。
意図的に抑えていた感情がカッと沸騰する。浩平は思わず目を吊り上げ、声を荒げた。

「茜の事だよ!! 文句あるかっ!? あいつ、ここに来るたびに傷ついてやがるんだ! 誰だか知らないけどな、仲間をそんな目に合わされてほっとけるかよ!」

「君は勘違いをしているよ、折原君。里村さんは望んでここに来ている。傷つくことを望んでいるとは言わないけど…」

「望んでるかそうでないかは関係ねえ!! あいつが傷ついてることが問題なんだ。仲間が苦しんでるのをどうにかしたいって事が悪いかよ!! とにかく会って確かめてやる、どんな奴なのかなっ!! 場合によっちゃあ、それなりに対処させてもらう!」

その言葉に氷上は一瞬、唇を結ぶと、そうか、と小さくため息のように呟き、視線をあげた。
憂いを湛えた瞳が、怒りの滲んだ浩平の視線と交わる。
その深い眼差しに、浩平は微かに戸惑った。
煮えたぎっていた怒りがすっと冷まされる。

「いいよ。彼の所に案内しよう。だが、折原君…………いや、会えばわかるか」

「氷上?」

一瞬、浩平はその瞳と声音に哀しみを感じたような気がして、声をかける。
だが、氷上はその問いかけに応えることなく、普段の仕草とは違うどこか疲れたような動きで踵を返した。
その背がついてこいと言っているのを感じ、浩平は無言でその後に続く。
彼の眼差しに射抜かれた時から、心中にじわじわと広がりだした漠然とした不安を抑えながら



しばらく、言葉も交わさないまま二人は歩いた。
やがて、氷上の足が止まり、一つの小さなドアの前に立つ。
氷上の後ろにたった浩平は小さく唇を噛み締めた。ドアの向こうからイヤでも感じる漠然とした忌避感に、頭の奥がジリジリと引き攣る。

氷上はその浩平の様子を気にする風もなく、コンコンとドアをノックした。
僅かな間を置き、「誰だ?」と問い掛ける声がドアの向こうから聞こえた。

「僕だよ、氷上だ」

そういうと氷上は答えも聞かず、扉を開いた。


闇が…漏れ出した。


何もない、凍れる虚ろの闇が扉の向こうから漂ってくる。

こんな所に、茜はいつも出入りしていたっていうのか?

浩平は愕然と思った。ここはまともな人間がまともな意識を持ったまま居られる場所じゃない。
これじゃあまるで、昔の俺の虚ろ――

「…いつもノックもなしに入ってくるくせに、どういう風の吹き回しだ?」

浩平の思考を遮る様に、闇の奥から声が響いた。
その声も虚ろ。問いかけながらも、相手がどう答えようとどうでもいいとすら思える意思の見えない声。
それに氷上は肩を竦めて応えた。

「今日は、お客をお連れしたんでね」

そう言うと、氷上は部屋へと踏み入り、浩平に場所を譲った。
一瞬、浩平の足が竦む。闇が、足元に流れ込む。
懐かしい…虚無の闇が…

だが浩平は、むしろ誘われるように闇の中へと踏み入った。
全身が、闇へと満たされる。

ああ

一瞬、浩平は瞼を閉じた。

この虚無を…俺は良く知っている。覚えている。

そして、闇の奥から視線を感じた。
虚無の闇を少しだけ揺らす、小さな驚きの感情とともに……
だが、その揺らぎもすぐに収まり、先程と同じ静かな声が響いた。
落ち着いた、だが中身の感じられない無形の音が。

「久しぶりだね、浩平」

彼の静かな声は、水のように浩平の頭のなかに染み渡る。
聞き覚えの在る声。
その声の記憶を探りながら、浩平は瞼を開き、あまり光度を持たない部屋にもう一度、眼を凝らした。

薄明かりから浮き上がるように、部屋の主の端正な顔が視界に映った。
ようやく、浩平はその顔に見覚えがある事を察した。
まるで今まできっぱりと忘れていたものを思い出したように。

いや、違う。間違いだ。

一歩部屋に踏み込んだその時から、自分の肉体が、精神が、意識が、記憶が彼の名を叫んでいた。
自分と同じ傷を持った…自分と同じ虚ろを抱いた少年の名を

この闇は…かつて自分たちが抱いた虚無そのものだということを

自分の存在すべてが叫んでいたのだ。


不意に、過去の虚ろに、そしてこの部屋の闇に飲まれかけていた意識が集う。
そして、今見ている光景が紛れもない現実だと、認識した。

そして浩平の顔から色が消える。
顔色を紙の様に白くした浩平の口から、擦れた声が漏れた。

「嘘…だろ? おまえ…死んだはずじゃ…なかったのか?」

相手は答えない。
ただ優しげな、だが何もない瞳をじっと向けているだけ。

カタカタと全身が細かく震えだす。無意識に左手首を握り締めた右手、その皮膚に食い込んだ爪先から赤い血が滲み出だした。
すべての感情がかき混ぜられ、自分が何を感じているのかすらわからなくなる。

歓喜? 恐怖? 驚愕? 困惑?

感情が混じり合い、それは混沌と云う名の混乱となり……

そして、浩平は奈落へと突き落とされたような声で叫んだ。

「何とか…何とか言えよ!! ……司ぁっ!!」



その何も無い黒瞳で、静かに浩平を見据える者

T機関を束ねるただ<T>と呼ばれるだけの存在。 

彼の名を城島司という。




    続く





  あとがき


八岐「という訳で前回までとはガラリと様相を変えまして、御音・虚ろなる者たち編です」

静葉「また勝手にサブタイなんかつけて……あまり誉められたもんやありまへんよ」

八岐「こりゃまた静葉さん」

静葉「こんにちは、ものみの丘は双子狐の片割れ・双尾の静葉ともうします。以後よろしゅう」

八岐「こりゃまたご丁寧に」

静葉「それで八岐はん。これからしばらく御音が中心になりはるんですやろか」

八岐「いえいえ、今回は浩平や司たちの問題が露呈するまでの段階ですんで、一応次回で区切ります」

静葉「ほうほう」

八岐「というわけで、次回第47話『虚無はやがて絶望へと至る』――光と闇に分かたれた者たちの再会は、新たなる絶望を呼び寄せるのだった」

静葉「おお! 渋いナレーション入ってますなあ」

八岐「な、ナレーションって(汗)」

静葉「ほしたら、また次回のあとがきで、よろしゅうお願いします」

八岐「どもども〜」


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