魔法戦国群星伝







< 第二十三話 気がつけば下り坂 >




西園平原 来栖川勢


朝靄が立ち込める早朝。冬に差し掛かるこの季節、日が昇ってもしばらくはその寒さは減じない。
草原にはまるで全ての音を吸い取ってしまうような、白色の空気が立ち込めている。その中を一人の人影が駆けていた。

その表情には険しさが垣間見える。

立ち込める暗雲が、まごう事無き嵐雲だと知らしめる使者が今、訪れようとしていた。



§




「綾香お嬢様」

陣幕の中で簡単な朝食を取っていた綾香は、現れたセバスチャンの顔を見て食事の手を止めた。彼が久しく見せた事のない表情――焦りを浮かべていたからだ。

「どうしたのセバス?」

「御音に放っていた草の者が戻りましたのでご報告を」

「もう? 昨日じゃない、命令を出したのは」

「それが、別働隊を国境域で発見したらしく」

綾香は顔色を変えて、傍らのセリオと顔を見合わせる。

「やっぱり居たんだ。それでどこに?」

「それが……巳間峠に」

「巳間峠!? ちょ、ちょっと待ってよ!」

その名前に聞き覚えのあった綾香は混乱したように声音が上ずる。

「巳間峠って南にある難所でしょ? あそこは軍隊が通れるような場所じゃないわよ?」

「いえ、どうやら奴ら、軍隊が通れるように道を広げておるようですじゃ」

「道を広げてって…どれだけ時間がかかると思ってるのよ…」

綾香は御音軍の真意を理解できず困惑を浮かべる。
新ルートを開拓するのは結構だが、戦争が終わるまでに開通しなければ意味が無い。
だが、セバスチャンは自身も信じられないと言わんばかりの面持ちで答えた。

「報告では明日にでも開通すると申しております」

「あ、明日ですって!?」

絶句する綾香を尻目に、じっと考え込んでいたセリオがはっと息を飲んだように呟いた。

「黒鍬組」

「え? セリオ、なんだって?」

「御音共和国の戦闘工兵部隊 黒鍬組です。迂闊でした、かの部隊ならば山林を切り開くなど簡単なことでしょう。侵攻ルートを既存の街道に限定して考えていた私のミスです」

微かに声音が揺らいだのは動揺の所為か。だが、綾香はセリオの言葉に反問した。

「ちょっと、単なる工兵部隊がこんな短時間で道を切り開けるわけ?」

「我が軍の工兵部隊とは格が違います。先年の革命戦争では『黒鍬なくば勝利なし』と呼ばれ、各地の攻城戦や野戦築城で圧倒的な活躍を示した部隊ですから」

「……なるほどね、その部隊さえあればどこからでも国境を越えられるってわけだ」

言いながら綾香は内心とても平静ではいられなかった。これが意味する所は、御音軍の前には天然の要害なるモノは存在しないという事になる。どこからでも侵攻してくる御音軍。守勢にまわった場合これ以上の悪夢はない。
綾香は歯噛みをしながらセバスチャンに睨みつけるような視線を送る。

「セバス、敵別働隊の兵力は」

その問いに、セバスチャンは苦味潰した表情となると、苦しげに言い放った。

「……およそ三万二〇〇〇」

その数に綾香は今度こそ絶句した。

「…ッなによそれ!? 御音にはもう余力はなかったはずじゃないのぉっ!?」

多くても五〇〇〇程度だと考えていた綾香は、自分が現状を徹底的に勘違いしていた事を思い知らされた。
今、帝国は劣勢にあるどころの話では無い。正しく亡国への道を驀進している最中なのだと……

それは、これまで彼女が持っていた楽観的な余裕を消し飛ばすには充分な情報だった。

悲鳴のような綾香の疑問にセリオが答える。

「……推測ですが、恐らく、以前から御音に対するカノンからの財政支援があったのでしょう。御音の小坂大統領と水瀬秋子公爵とは同じ学び舎に通った古い友人と聞きます。そのルートから流れたと思われます。もしかしたら革命軍時代から繋がりがあったのかもしれません」

激昂しそうになった綾香は、それをぶつける対象を見つけられず険しい表情のまま目を瞑り沈黙する。しばらくして目を開いた綾香は静かに呟いた。

「私たちの見通しは、最初から…全てにおいて甘かったというわけね……」

そして自らに確認するように語り始めた。

「現在帝都には兵力は存在していない。民兵の招集は行われているけど、御音軍は革命戦争を経験している歴戦の部隊よ、正規軍でもないと対抗は難しいわ。帝国本土最後の正規軍である私たちは現在敵軍と交戦中、御音別働隊を阻止できる戦力は存在しない。このままでは――」

言葉を切り、綾香は二人と視線を交える。

「帝都は陥ちる」

そうなると、とセリオが後を続けた。

「我々は御音軍に挟まれることとなります。いえ、我々だけではありません。藤田様たち主力軍もまたカノン軍との間に挟まれることとなります。つまり、帝都が落ちた時点で我々東鳩帝国の命運は尽きるということです」

綾香の顔に自嘲の笑みが浮かぶ。

「いつの間にこの戦争、帝国が滅ぼされないように苦心しなきゃならないモノに変わったのかしら。つい数日前まで、いつ私たちがグエンディーナ大陸を征服するかって話してたのに……」

その言葉にはセリオもセバスチャンも沈黙するしかなかった。

「さて、この状況どうしたものかしら……。帝都を空けたのは結果として最悪の選択みたいだったし」

苦渋に満ちた表情で呟いた綾香にセリオはおもむろに首を振った。

「この事態を想定できなかった事は私の責任です」

「…セリオ、今更責任をどうこう言っても仕方ないでしょ。それに決めたのは私よ」

「ですが……あらゆる事態を想定し、最適の作戦案を提示する。それが私の存在意義です。それが敵の意図を見抜けず、自軍の危機を招くなど……これでは私はなんの価値もないガラクタに過ぎません」

「セリオっ!!」

綾香の怒号が響き渡る。

「それ以上くだらない事を言ってみなさい、引っ叩くわよ!!」

「ですが……」

怒りに顔を真っ赤にする綾香に、セリオは反論しようとしてセバスチャンに遮られた。

「セリオよ……それ以上言うことはお前を親友だと言ってくださっている綾香様に対する侮辱になる。自分をガラクタなどと言うものではないぞ。それではお前を娘のように思っておる源五郎も悲しむわ」

諭すようなセバスチャンの言葉にセリオは俯くと小さな声で「はい」と言った。

セバスチャンはセリオの返事に「うむ」と頷くと綾香に向き直った。

「それで綾香お嬢様、これからいかがなさる所存で御座いますか?」

ふッと息を抜き、怒りを抑えた綾香がぶっきらぼうに答える。

「とにかく帝都に戻らないと。でも下手には撤退できないわよ。目の前の御音軍だって充分手ごわいんだから…。何か策はある、セリオ?」

セバスに諭されたものの、どこか普段より思いつめた雰囲気を漂わせていたセリオは、あくまで冷静な声音で発言した。

「夜襲で本陣を襲撃し、敵司令官を討ち敵の混乱を誘う。少ない損害で帝都に撤退するにはこれしかありません」

うん、と頷いた綾香はセバスチャンに視線を向け名前を呼んだ。

「セバス」

若き頃より『鋼の獅子(アイゼン・レーヴェ)』と恐れられた老人は、深々と頷いて見せた。

「はい、綾香お嬢様。今夜我が『鋼』を以って襲撃を行います」





§




「セバスチャン様」

襲撃作戦の準備を整えるために本陣を離れたセバスチャンをセリオが呼び止めた。

「セバス様、今晩の作戦、私も同行させていただけないでしょうか?」

これにはセバスチャンも眉をしかめた。

ふむ、どうやらまだ思いつめておるのか。あのバカ息子が創ったにしては些か真面目が過ぎるわい。

「綾香お嬢様はお前が戦闘に加わることに良い顔はなされないだろう。あの御方はお前が戦うために創られたなどと決して考えてはおらんからな」

「私は……戦うために造られました」

「お前にその機能がついているのは時代が戦乱だったため。源五郎は決してそのようなことのためにお前を産み出したのではない」

「私は……」

口篭もる少女の姿をした人形に、セバスは深々と溜息を吐いた。

「まあいい。同行は許そう、それでお前の気がすむのならな。綾香お嬢様にはワシから謝っておこう」

「…ありがとうございます」









――同日 深夜

西園平原 御音第二軍団総本陣


虫の声ひとつしない、静かな秋の夜。
戦いに明け暮れた兵士達も、明日の戦いに備え静かな眠りに入っていた。
とはいえ、司令官ともなると、仮眠できるまでに仕事は山ほど残っている。

「どうやら相手はまだ気づいていないみたいね」

御音軍第二軍団司令官 稲木佐織は敵の動向を記した書類に眼を通しながら、横で同様に書類に向かっていた副司令官の住井護に声を掛けた。

希望的観測。

だが、今日一日、帝国側に大きな動きがなかった以上、まだ別働隊の存在には気が付いていないと考える方が確実といってよかった…のだが。

「う〜ん、それはどうかねぇ」

筆を止めた住井はいかぶしげに辺りを見回した。

「どしたの? まもちゃん」

まもちゃんはやめろって、と笑みを引き攣らせて言いながらも注意は佐織には向いていない。

「な〜んかいやな感じがするんだよな」

佐織も住井が言わんとする所を察知して、そっと立ち上がり、ソロソロと住井の傍らに寄り添う。

「そう言えば、警備の人たちの気配がしないような」

「ああ、静か過ぎる。こりゃヤバイかも…」

二人は顔を見合すと背中を合わせ、剣を抜き放った。



次の瞬間――



「佐織!!」

住井がとっさに佐織を抱えて飛んだそのすぐ後に、くない型の手裏剣が突き刺さる。
慌てて陣幕を飛び出た佐織と住井は絶句した。

「まもちゃん、もしかして私たちって大ピンチ!?」

住井は「だからまもちゃんはやめてくれって」と律儀に返してから答えた。

「いやこりゃ、見事に絶体絶命だな、オイ」

御音軍本陣は黒装束に身を包んだ一段により囲まれていた。本陣を警備していた兵士たちは例外なく大地に伏している。


来栖川公爵家私設隠密部隊『鋼』である。


黒装束たちの中でも一際大柄な人物―セバスチャンが低く声を発した。

「お前達がこの軍勢の指揮官だな?」

二人は顔を見合わせるといっしょに答えた。


「「違いま〜す」」


「……………」


気まずい沈黙。



「お命頂戴する」

とりあえず先の発言は無視することにしたらしいセバスチャンの言葉と共に黒装束たちが殺気を漲らした。闇が揺らぐように黒装束たちは一斉に得物を抜き放ち、あるいは構えた。
ジリジリと包囲の輪が狭められていく中で、佐織と住井も剣を構える。だが、多少腕に覚えはあるといっても、この包囲を逃れる事は難しい。状況は絶望的だった。
ぶわっと殺気が膨れ上がり、黒装束たちが佐織たちに襲い掛かる。だが―。


ザザザザザスッ


その瞬間、黒装束たちの足元に何かが突き刺さり、黒装束たちは咄嗟に飛びのく。

「これはッ!?」

足元に突き刺さったモノに視線を当てたセバスチャンの、驚きを含んだ声が響く。

「紙!?」

そう、そこに刺さっていたのは少し大きめの画用紙だった。そしてそこには夜でも見えるように発光塗料でこう書かれてあった。



『ちょっと待ったぁ〜なの』



「むぎゃぁ!」

次の瞬間、どこからともなく飛び降りてきた小柄な少女が住井の上に見事に着地していた。

「み、澪ちゃん!?」

佐織は住井の上に降って来た少女に茫然と声を掛ける。

『上月澪、参上なの』

ビシィィッ!! と掲げられた画用紙に、セバスチャンが目を剥く

「上月だと!? 音無の澪か! いかん、全員散開!」

セバスチャンが叫んだ瞬間、周囲から銃声が鳴り響き抜剣した闇色の戦闘服に身を包んだ兵士たちが『鋼』たちに襲い掛かる。

黒ずくめ同士が入り乱れた戦いが始まった。

新たに現れた兵士たちこそ「サイレント・コア」の名で知られる御音共和国大統領府特別調査局実働部隊であり、彼らの隊長が「音無の澪」こと上月澪だった。

「くッ、夜襲を見抜かれていたというのか!?」

敵兵の攻撃を避けながら思わず毒づいたセバスチャンは、ある人物の姿がないことに気付き、うめいた。

「セリオ? どこに行った」




§



『ごめんなさい、着地に失敗したの』

「いや、助けてもらったわけだし、踏まれるぐらいなんてことはないよ、はっはっは」

今だ起き上がれず、うつ伏せのまま虚ろに笑う住井護。

澪ちゃんてば今のセリフ、新しく書かないでめくって出したわね。

その意味する所は追求せず、佐織は澪に問い掛けた。

「でも、澪ちゃん。なんでこんな所にいたの? 私聞いてなかったよ」

澪はコクコクと頷くとなにやらスケッチブックを開いて見せた。

『茜さんから命令を受け取ったの。敵が別働隊に気付いた場合、撤退を無傷で進めるために本陣を奇襲する可能性があるって。急いで来たらギリギリだったの』

「そっか、里村さんが…。でもそれなら帝国は第一軍団の存在をもう知っているってことね」

「そのとおりです」

いきなり掛けられた声に佐織と澪は身構えた。

「ぐあ、い、痛い。動けん」

住井は無視。

立ち塞がる「サイレント・コア」を突破して彼らの前に現れたセリオは続けて言った。

「そして我々はあなた方を抹殺する事でしかここを乗り切ることはできません」

セリオの左手首がパカリと開き銃口が覗く。

「御覚悟を…!」

その言葉が放たれた瞬間、澪がスケブに一瞬で何かを書き込み、それを破いて目の前にかざす。

銃声が鳴り響く。続けて三度。だが……。

セリオは驚きを示すように微かに眉をしかめた。
銃弾は全て澪がかざした紙面に突き刺さっていた。そしてその紙にはこう書かれていた。


『盾なの』


セリオは無言で左手を嵌め直すと、腰に下げた金属の棒を抜き出し、一振りする。
縮められていた棒は一瞬で1メートル80センチ近くに伸び、先から内蔵されていた刃が飛び出した。

一瞬にして巨大な大鎌が現れる。

セリオの字名は「戦女神の人形(ヴァルキリエ・プッペ)
まさにその異名通りの魂を借り集める大鎌を持って、感情の見えない瞳で澪たちを睨む。
セリオは採魂の大鎌を構えると、澪目掛けて大地を蹴った。

澪はスケブに『剣なの』と書き込むと、それを破いて一度バサリと一振りする。その途端、紙は長剣の形に姿を変じる。
澪は紙の長剣を頭上に掲げ、振り下ろされたセリオの大鎌を受け止める。
斬撃を受け止められ、一度大きく飛びのいたセリオに、澪はスケブをまとめて破り、セリオめがけて投げつけた。

高速回転しながらセリオに向かって飛ぶ画用紙。

振り回すのさえ困難に見える大きな鎌を瞬時に回転させ、セリオは咄嗟に三枚を切り落とす。だが残り二枚が続けて左右から襲い掛かった。

避けきれない間合い。だが紙がセリオを斬り裂くかに見えた刹那…。


パサッ



『やるの』

最早避けようのなかった画用紙の攻撃を、いきなりセリオの前に出現したセバスチャンが両手を交差させ、二本の指で挟み取っていた。
セバスチャンは自分が受け止めた画用紙をチラリと見る。
もう既に硬度を失ったその紙面には『手裏剣なの』と書かれていた。

「うむ、紙を自在に操る術。紙法術師か……」

紙法術――呪符に術を込める符法術の亜種に当たる魔術系統であり、その自在度と習得の難しさから伝説とまで言われた魔術だった。
これをマスターしたものは、紙に事象を書くことでその効果を自在に紙に付与することができるという、唯一、呪を必要としない魔術である。
上月澪はこの紙法術をマスターした歴史上でも数少ない紙術師だった。


「セリオよ。ここは一旦撤退するぞ」

セバスチャンは背後のセリオに語りかけた。

「ですが、ここで仕留めて置かないと我が軍は――」

咄嗟に抗弁するセリオを遮るようにセバスチャンは言葉を重ねた。

「いや、もう無理じゃ。仕掛けを見破られておった上に、時間を掛け過ぎた。ここが敵陣の中であることを忘れるでない」

「ならば、私が残り――」

「…バカを申すな」

「あッ」

セバスチャンはセリオの言葉を遮り、その身体を抱えると後ろに向けて走り出した。

「総員、退け!!」

『逃がさないの』

澪が画用紙を飛ばす。

『燃えるの』と書かれた画用紙はセバスチャンたちの前に飛来し、空中で粉々に弾けた。その途端、細切れになった紙片が凄まじい炎を発し、巨大な炎の壁となり、セバスチャンたちの前に立ち塞がる。
だがセバスチャンはその炎をもろともせずに突っ切った。

『ああ! 逃げるの〜』

無論、その文字は逃げるセバスチャンたちには見えるはずもなかった。




§




「お放し下さい! 何故ですか!? 私さえ残れば帝国の危機は回避されるのですよ。たかだか人形一体に何を――」

「カアァァァーーーーーツ」

抱えられた腕から逃れようともがいていたセリオはその喝に動きを止めた。

「馬鹿者……我が息子の源五郎が娘と言うならば、お主は儂の孫に当たるわけではないか。孫を死地に残す祖父などがどこに居るものか」

セバスチャンの余りに暖かな声音にセリオは打たれたように俯き、震えながらその太い腕を掴んだ。

「私は……」

「忘れるでないぞ、セリオよ。お主がどれほど他の人間から愛され、大事にされているかを」

「…………」

セリオは胸の奥が軋んだような気がして、手を当てた。
そこは…何故か陽光の様に温かかった。








西園平原 来栖川勢


「そう、相手に動きは読まれているわけね」

「はい、申し訳ありません綾香お嬢様」

「仕方ないわ。待ち伏せまで受けていた上に相手があの「サイレント・コア」じゃね」

綾香の耳にも「サイレント・コア」の戦闘力の高さはよく届いていた。
特殊部隊としては『鋼』に勝るとも劣らないと聞いている。

「でも、相手がこちらの動きを読んでいる以上、明日には敵の大攻勢が始まるわね」

「それは…」

「ええ、私たちをここに足止めするため」

つかつかと陣幕を出た綾香はしばらくじっと瞬く星を見上げていた。

「セバス」

「はい、お嬢様」

「好恵をここに呼んで。寝ていたら叩き起こしてね」

「…………はい」

何か言いたげに口篭もったセバスチャンだったが、結局応える。

場を辞そうとするセバスチャンに綾香が声を掛けた。

「セリオはどうなの?」

その心配そうな声音にセバスチャンは莞爾と笑った。

「心配する必要はありませんぞ、綾香お嬢様」

その断定口調に驚いて目を瞬かせた綾香だったが、やがてふわりと眼を閉じると柔らかく微笑んだ。

「そう…ありがとうセバス」

セバスチャンは一礼すると闇に溶け込んでいった。



§



暫くして坂下好恵が肩を怒らせながら本陣に乗り込んできた。

「綾香! こんな夜中になんの用よ!」

恐らくは就寝していたのであろう。好恵の目は赤く充血していた。

「好恵、あんたに来栖川軍を預けるわ」

戻っていたセリオとなにやら話し込んでいた綾香は、唐突に好恵に言い放つ。

「!? ちょっと待て、それはどういう意味だ?」

「三〇〇〇ほど率いてここを抜ける。状況は聞いてるでしょ?」

「バカなッ!!」

好恵は大きく頭を振り、右手を振った。

「たかが三〇〇〇で敵の別働隊を抑えにいくつもりか? いや、それなら私が行けばすむだろう、率いる兵力は元々私の方が少ないんだ。それにここの責任者はお前だろうが!」

「そりゃそうだけどね」

綾香は器用に肩を竦めて見せた。

「でも、適材適所を考えたら、私の意見が最善じゃないかしら」

「て、適材適所だと!?」

困惑する好恵に綾香は薄く笑みを見せた。

「正直ね、万単位の軍勢を動かすのはアンタの方が上手いと思っているの、私は」

「っっ!?」

何を言い出すのかと目を白黒させる好恵に綾香は苦笑いを浮かべた。

「私はどうも熱くなる性質だから、ワンマンプレーに走りがちなのよ。だから私は千単位の部隊で自由に暴れまわるほうが性にあってるのよね」

「確かに綾香様は我慢がきかない性格ですね」

セリオの適切なフォローにゲシッと突っ込みを入れつつ綾香は好恵を顎でさした。

「でもアンタは硬っ苦しいし、妙に冷めてるかと思えば結構しつこい性格してるしで、そういうのって大軍を率いるのに向いてると思わない?」

「……それは貶しているのか?」

「なかなか的確な意見かと思われますが」

ギロリと睨まれたセリオは無表情のまま空々しく視線を逸らす。

悪口のような言葉を羅列した綾香だったが、内心では非常に好恵の力量を高く評価していた。
大局を見る冷静さと攻撃性を失わない熱さ、消極的に至らない慎重さ、さらには機を見るに敏な感性に、大軍を自在に動かす指導力。
綾香の目には坂下好恵はこの全てを持ち合わせているように見えた。少し頑固な所はあるが、万単位の軍勢を動かすような場合にはそれは欠点とは言い難い。

一方のセリオも大体同様の意見を持っていた。後に帝国軍の指揮官の中で一番優秀な者は誰かと問われた時、彼女はこう答えている。

「私のお仕えしている綾香様は恐らく歴史上でも一流と言って過言ではない指揮官でしょう。他にも疾風迅雷で名高い佐藤様、矢島様。羅刹と恐れられる攻撃力を持つ柳川裕也様と、有数の指揮官の方々がいらっしゃいます。
ですが、こと数万を越える大軍を手足の様に自在に操るという能力に関しては、保科智子様・坂下好恵様。このお二人に敵う者は帝国には居りません」



「ふん、まあお前の意見は分かった。だが、来栖川の兵士が私の言う事など聞くかな?」

「ちょっと、好恵。私の兵士達を舐めないでよね。あんたの言う事ぐらい聞かせるわ」

「そうね、愚問だった。でも綾香、お前の方はたかだが三〇〇〇の兵力でどうするつもりだ」

「とにかく時間稼ぎね、浩之たち主力軍が戻ってくるまでの。時間稼ぎ程度ならこの兵力でもなんとかなるかも、難しいけどね」

「………わかった。なら私はここで御音軍の相手をしていればいいんだな」

「恐らく敵は日の出と同時に攻勢をかけてくるわ。お願いね」

「ああ、其方も無茶な事はするな。不利な事は間違いないんだからな」

「ええ、お互いに死なない程度に頑張りましょう」

神拳公主(ゴートリク・ファウスト)鋼鉄の華(アイゼン・ブルーメ)は一瞬笑みを向け合うと、颯爽と互いに背を向けそれぞれの行く道へと歩み出した。







西園平原 御音第二軍団


「出遅れた!?」

日が昇る前に攻勢を開始した御音軍だったが、司令官の稲木佐織は後方に走っていく軍勢を目撃して舌打ちをした。

「全軍を退かせるつもりかしら…」

「いや、そうじゃないだろう」

佐織の呟きを副司令官 住井護が否定した。

「撤退しているのは三〇〇〇ほど、他はこちらの迎撃に当たるみたいだぜ」

なら、敵はたった三〇〇〇で第一軍団を食い止めるつもり?
無駄な事を…あの軍団は私たち御音軍の最精鋭よ、その程度の数でどうにかできるつもりなの?
例えゲリラ戦を仕掛けたとしても、あそこには瑞佳がいる。あの娘の部隊は――

「佐織、どうする?」

佐織は住井の問いかけに思考を中断して前方を睨みつけた。

「あの程度なら抜け出しても問題はないけど……でも気に食わないのは確かよね」

「そうだな、なら……」

佐織はコクンと頷くと口元を凶悪に歪めて号令を発した。

「全軍、進撃開始!!」









西園平原 坂下勢


「まったく、何処も彼処も無茶ばかりだ」

好恵は顔を顰めながら、苛立たしげに眼つきを険しくした。
既に目の前の敵軍の詳しい情報は届いている。
司令官は稲木佐織。折原浩平や深山雪見などの名将に隠れてさほどの名声は聞かれないが、革命軍時代の戦評を良く研究していた好恵は、住井護とのコンビによる堅実な戦い振りを高く評価していた。
他にも『特攻乙女』七瀬留美、以下広瀬真希(現在は戦線離脱中)・南明義など名の通った将軍たちが揃っている。
簡単にあしらえる相手どころではない。下手をしたら殲滅されかねない。ただでさえこちらは数が少ない上に、殆どが臨時に指揮下に入った来栖川勢だ。どれだけこちらの意図通りに動かせるか…

一方の綾香の方も無謀に近い。

恐らく御音別働隊の編成はここにはいない、折原浩平・長森瑞佳・川名みさき・深山雪見などの、御音軍の名将たちが集っているはずだ。
四人が四人とも、恐らくは大盟約世界全体でみても最高レベルの指揮官だ。
どちらにしても、無理は否めない。

「両翼はそのまま、中央は少し窪むぞ! 全軍弾幕は密にしろ!」

とにかくここを確保する。後は知ったことか!

好恵は両目を吊り上げて叫んだ。

「全軍銃撃開始! 綾香の邪魔はさせるな!」







現・帝国占領下  皇城スノーゲート

紅く染まったもみじが描かれた湯呑みから、ゆらゆらと湯気があがる。

湯飲みを手に取り、ズズズとすする男が一人。
ただ、その仕草は実際の年齢よりも年寄り臭くみえる。

「別働隊ねぇ、それは困った」

長瀬源三郎はセリフと違って、全然困った様子を見せずにほっと吐息をついて湯飲みを置く。そして報告を持ってきた姫川琴音に首を傾げてみせた。

「でも、姫川君。なんで君がわざわざこんな連絡役を受けたんだい?」

「この情報は伝わるのが速ければ速いほど良いんですけど、芹香さんの転移魔術に耐えられるのが私だけだったので…」

なるほど、と長瀬は頷いた。確かに馬をチンタラ走らせるより、転移で目的地に飛ぶ方がよっぽど速いが、転移魔術に耐えられるのが琴音嬢だけならば、いざという時しか使えないだろう。

まあ、今がいざという時な訳だ。

「で、私にこれからどうしろと?」

「それは我々『深き蒼の十字(ティーフブラウ・クロイツ)』が意見することではありません」

「それはそうだねぇ」

意味深な笑みを浮かべた長瀬に一礼した琴音の足元に、魔法陣が展開される。

「帝都に戻るのかい?」

「いえ、その前に柳川伯爵の元にも別働隊の事をお伝えせねばなりませんので」

「そうか…柳川によろしく言っといてくれ」

今、柳川がどれだけ危険な位置にいるかを知りながら、全く心配していないような長瀬の飄々としたセリフに琴音は軽く苦笑した。

「はい、お伝えします。長瀬さんも藤田さんによろしくお伝えください」

そう言い残し、琴音は魔法陣の光の中に消えた。

「藤田さんによろしく…ねぇ」

口ずさみながら長瀬は窓際から眼下を眺めた。
そして傍らに控えていた部下に面倒くさそうに命令を下す。

「ここを引き払う準備を始めてくれや」

「引き払う? 皇都を放棄するのですか?」

戸惑う部下にコックリと頷きながら長瀬は頭をボリボリと掻いた。

「折角取ったのに勿体無いけどね、でも帝都まで危ないって事になるとここを確保するのも難しいんだ。一度仕切りなおしする他ないよ。藤田君たちが戻ってくるまでに準備ぐらいは済ませておこう」

長瀬の表情は、影に隠れて窺えなかった。

窓の外は、夜の帳に覆われようとしている。






    続く





  あとがき

八岐「ダメだ。ほんとに話が進まない(汗)」

浩平「これを俗に牛歩戦術という…」

八岐「言わない言わない。それに別に進ませたく無い訳じゃ無いんです(泣)」

浩平「それを更に悪いという」

八岐「……(号泣)」

浩平「あら? いじけてしまった。仕方ないなあ。では次回予告は俺がやるとしよう。次回第24話『北領戦線戦局模様』−文字通り、カノン北部に侵攻していた柳川・雛山両軍団のお話だ。
ホントに進まないが、そこは勘弁してくれ。それでは読んで下さった方々、管理人さまに感謝しつつさらば」

八岐「……(ウジウジ)」



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