「士郎の元気がない?」
「ええ」
不意にセイバーが漏らした一言に、遠坂凛は赤鉛筆を動かすのを止め、眉根を寄せた。
二人が居るのは柵に囲われた円状の広場。その柵の外枠最前部だ。柵の外には一見ではとても正確な数を把握できないほど無数の人が集まってガヤガヤと口々に何かを語り合ったり、柵に囲まれた広場や手にした紙面を真剣に睨みつけている。
カパラカパラと蹄鉄を小気味良くかき鳴らしながら前を通り過ぎていくサラブレッドの一挙手一投足を注意深く観察する視線を和らげぬまま、セイバーは小さく頷いて見せた。
「なにかあったの?」
「……本気で云っているのですか、凛」
「本気だけど?」
「……はあ」
チラリと凛の顔を一瞥し、セイバーはこれ見よがしに溜息を落とすと、手にした新聞に細かい文字でメモを取りながら、素っ気無く言い放った。
「シロウが気落ちしている原因は簡潔にして明瞭です。凛、あなたにフラレたからだ」
「はぁ? いつわたしが士郎のことフッたのよ」
「三日前です」
「三日前?」
ハタと考え込んだ凛。思い当たる節があったのだろう。ああ、と手を叩いてセイバーを指差す。
「ああ、貴女の事いただいちゃった日!」
「――ぶっ」
美味しくいただかれてしまった金髪の少女が吹き出し、赤鉛筆を取り落としそうになりながら慌てて周囲を窺った。朝からパドックの最前列に陣取っている外国人の娘とすこぶる美人な赤いスーツ姿の女性の組み合わせは何かと注目を集めていたものの、幸いにして今の会話の内容を気にする人はいないようだ。
「り、凛、そのようにあからさまに。場所を考えてください、場所を」
「なによ、全然あからさまじゃないじゃない」
と云いながらも、自分が口走った内容の危うさは自覚したのだろう。凛は顔を赤らめ、唇を尖らせながらも紙面に顔を埋める。
そうこうするうちに、パドックでは馬に次々と騎手が跨り、本馬場に出るために地下道へと消えていく。
スタンドへと流れていく人の流れに乗って、凛とセイバーもパドックを離れた。
「ともかく、わたし、士郎のことをフッたつもりなんてないわよ」
「ですが」
意見ありげなセイバーを制して、「そもそも」と凛は前置きし、
「わたし、あいつから正式に交際の申し込みを受けた覚えないもの」
記入しおえたマークシートを券売機に挿入しながら凛は鼻を鳴らす。画面入力する手付きや財布からお金を取り出す仕草が妙に荒々しく、なんだか怒っているようにも見て取れた。
「……そうだったのですか?」
「そうなのよ!」
怒っているらしい。
「あの、訊いてもいいでしょうか、凛」
「なあに。言ってみなさいな」
一点総流しの3連複馬券の束を握り締めた凛に、券売機から出てきた単勝馬券の束を丁寧に両手に包んで、セイバーが向き直る。
「貴女はシロウのことを好いているのですよね」
「ええ、好きよ」
周囲を慮ってか小声になりながらも、胸を張って凛は答えた。
何故か渋面となって付け加える。
「非常に不本意ではあるけれど」
「では、先日の私との……あれは、シロウへのあてつけだったのですか?」
「まさか」
心外だと云わんばかりに眉間に皺を寄せ、腰に手を当てて、
「見縊ってもらっては困るわ。そんなの、アルトリアに失礼じゃない」
「ではどうして……」
「どうしてって」
何を言うのか、と言わんばかりに目を見開く。
「貴女ってば本当に可愛らしかったんですもの」
何を思い返したのか、にへらと相好を崩す遠坂凛に、セイバーは悪寒を感じて数歩後退った。
「えへへ、好き〜」
「ちょ、凛。こ、こんなところでしな垂れかからないで」
「はっ。こ、コホン」
デレデレといちゃつきかけて我に返る。
「いけないいけない、つい場所を弁えずにゴロニャンと甘えてしまうところだった」
「…………」
最近、というかこの三日ほどで知ったのだが、遠坂凛は思いのほか甘えん坊だった。
幼い頃からただ独りで自律して生きてきた凛という少女は魔術師としては勿論の事、一個の人間としても誰にも寄り掛からない凛然とした生き方を示している。その反動からなのか、それとも単に楽しいからなのかは分からないが、アレ以来時折、凛はセイバーに対してベッタリと甘えてくるようになった。勿論、自制を失って、ではなく、ちゃんと機を見て甘える事を自分に許す、という感じであったが。
でも、べったりといちゃついているのはそのままなのだから、見せつけられている方はたまったものではないだろう。
シロウとか。
思わずセイバーは顔を押さえた。
「凛、シロウの前でも、あまりああいう事はしないでいただけると、そのありがたいのですが」
「ああいうことって?」
「あ、う」
詳しく言うなら、抱きついたり、胸元に手を突っ込んだり、耳たぶを噛んできたり、首筋に顔を埋めてきたり、スカートの裾を捲り上げたり、上に圧し掛かってきたりすることだ。
「いやよ。だって士郎の反応が面白いんですもの。もう笑っちゃうくらい動転しちゃって」
そう言ってケラケラと笑う凛。
「貴女の恥ずかしがりようもね、アルトリア。可愛くて可愛くて」
と、要らない台詞も付け加えてくる。
「り、凛っ!」
「うふふ、ごめんごめん」
やれやれと溜息が漏れる。
「まったく。凛はシロウが好きなのでしょう? だったら、シロウにも甘えてあげればいいものを」
「ば、ばか云わないでよ。あんな真似、士郎相手に出来るわけないでしょう。恥ずかしい」
一転顔を真っ赤に染めて、がーっとセイバーのコメントを掻き消す凛。
なんで自分ならOKで、士郎だと恥ずかしいのだろう。わけがわからない。
「……色々と複雑な精神構造をしているのですね、凛」
「なによ、文句ある?」
「いえ。ですが、このままではシロウが……」
ここ数日の士郎の様子に思いが飛ぶ。心なしか輝きが鈍くなった瞳の光、気の所為か皮肉っぽくなった言動、少しやつれたようにも思える面差し、艶を失ってきた赤味掛かった髪の毛。
「……アーチャーのようになってしまうのではないかと」
それも十数年後どころか来月早々ぐらいには。
「む、それはマズいわね。アーチャーにもあいつの事は頼まれてるし」
本馬場を一望できるスタンドに出た二人は、ゲートに集まり出した競走馬たちを遠望しながらゴールが見える場所に陣を取る。
「ねえ、アルトリア」
「なんですか?」
「貴女、士郎のこと好きなんでしょ?」
「――ッ!! な、なんのことですか!?」
「いや、そんな飛び退って驚くようなことじゃないでしょう。足元、踏んづけてるわよ」
飛び退った拍子に押し倒して足蹴にしてしまった中年男性に平謝りし、セイバーは凛に喰って掛かった。
「と、突然悪趣味な冗談を口にするのはやめてください」
「冗談なんかじゃないわよ。ていうかさ、あんたもしかして隠してるつもりだったわけ?」
「――っ」
「本気? あんなあからさまに好き好き光線撒き散らしていながら? 気分はもう若奥様だったくせに? 夜這いされてもOKとかまで云っちゃったのに?」
「あ……うう、そ、そんなことは。わ、私はシロウの行く末を見届けさせてもらうために残ったのです。その代わりに彼の力になると誓ったんだ。彼の身の回りの世話を手伝うのはその誓いの一端で、その、伽云々は、許容範囲というか嫌ではないという表明というか」
モゴモゴとはっきりしないセイバーを、凛は半眼で睨み据える。
その視線に、セイバーはますます焦り、赤くなりながら捲くし立てた。
「そ、それに私の気持ちがどうあれ、シロウの思いは貴女に向けられているのです、凛。私には貴方達の間に割って入ろうなどという意思はないし、私がどうこうしたところでシロウが靡くとは思えない」
「えー、わたしは別に構わないんだけど」
買った馬券をチェックしながらあっけらかんと凛が言う。
一瞬耳を疑った。
「……は?」
目を丸くするセイバーに、赤い衣裳に身を包んだ魔術師は、しなやかな仕草で腕を組み、口許を緩めながら艶やかな流し目をくれた。
「士郎もアルトリアもわたしのものだもの。わたしのことさえ第一に慮ってくれさえすれば、わたしのもの同士が情を交わそうが何をしようがわたしは構わないわよ。勿論、わたしに隠れてコソコソやられたり、わたしの見てる前でイチャイチャされたりしたらガンドぶちこんでやるけど。アルトリアとイチャイチャしていいのはわたしだけだし。
まああれよ、わたしたちって何があろうとこれから三人で生きていかなきゃいけないじゃない。だっていうのに、誰か独りだけが寂しい思いをするなんて嫌だし、気分が悪いもの」
「で、ですが」
「む、女性をたくさん囲っていた王様のくせに文句在るの?」
「うぐ」
あ、あれはあれで本当に色々とたいへんだったのです、だのなんだのブツブツと言い出すセイバーに、凛は喉を震わせて笑った。
「笑い事ではありません。まったく、男と偽らずに済むようになってからも女性と睦みあう羽目になるとは思わなかった」
「あら、嫌だった?」
「…………」
セイバーは何か反駁しかけ、結局顔を真っ赤にして口を噤んだ。
「うふふ、それなりには満足していただけたみたいね」
「り、凛!」
「怒らないでよ」
「むぅぅ、ともかく! 私の気持ちがどうあれ、シロウが凛だけでなく私にまで思いを傾けてくれるとは思えない。もう数ヶ月同じ屋根の下に暮らしているのです。だというのに、何も起こらなかったんだ。それどころか、女性として意識された覚えもないのです。いまさらそんな」
口にするうちに心なしか段々と熱を失っていくセイバーの声音。
なんだかなあ、と凛は頭をかいた。
「貴女も貴女で士郎に劣らず眼が節穴よね」
「……は?」
「まあいいわ。実はね、前に貴女から聞いたマーリンの魔術、ちょっと試したいものがあるのよ」
突如変わってしまった話題に、セイバーは目を白黒させながらも、内容に聞き捨てならないものがあるのに気づき、反射的に問い返す。
「試すって、あんな私のイメージだけの情報で、再現できるというのですか?」
「ああ、勿論再現なんて無理。魔術師でもない貴女の心証程度の情報じゃ、基盤だって違うのにかの大マーリンの魔術の再現なんてとてもとても。ただ、ちょっとその情報を踏まえて組めそうな魔術があるのよ……むふふふ」
「……また、宜しくないことを企んではいませんか?」
「なによ、またって。あ、スタートするわよ!」
高らかにファンファーレが鳴り響き、ゲートがオープン。一斉に、騎手を背に乗せたサラブレッドたちが馬場へと解き放たれる。
途端、凛の隣で熱気が渦巻いた。
横目で窺う凛の目に飛び込んできたのは、先ほどまでの沈着とした姿勢はどこへやら、血相を変えて目を血走らせてるセイバー。
「ぬうう、馬鹿な、位置取りが後ろ過ぎる!! もっと前でしょう、何を考えているのですかーっ!」
「ああ、もうこの娘はレースがはじまったらこれなんだから」
大声でがなりたてるセイバーの横で、凛は顔を顰めながら数歩間を空けた。うるさいし、興奮してくると腕を振り上げるので、肘やら拳やらが危ないのだ。最初のレースで肘を脇に叩き込まれて悶絶した自分がいうのだから、間違いない。
そうこうするうちに、馬群は四コーナーを回り、直線へと差し掛かる。観衆は大歓声、セイバーもヒートアップ。握り締めた新聞を振り回し、購入した馬の名前を連呼する。
「いけっ、かわせ、クーフーリン!! おのれっ、なにをやっている!! サーヴァント中最速などと吠えていたのは嘘偽りかーっ!!」
どうやらセイバーの本命馬はランサーと同じ名前らしい。
「サーヴァントじゃないって。名前が一緒なだけでしょうが」
「魔術師のくせに何を言っているのですか、凛!! 名前もまた魔術の一つ。名が共通するのであれば、おのずとその特性も引き継がれているはず!!」
「継がれてない継がれてない」
「ぬううっ、そこですっ、もう少しだ、いけっいけっ、ランサーっ!! ああっ」
一際悲痛なセイバーの悲鳴が響くと同時に、先頭に届こうかという勢いで伸びてきていた青鹿毛のたてがみが逆立った馬が、ズルズルと後方へと下がっていく。
そのまま青鹿毛の馬は馬群に飲み込まれ、馬券とは到底関係なさそうな順位でゴール板を駆け抜けていった。
「そ、そんなば、馬鹿なぁぁぁ!! お、おのれ、ランサァァァーーっ! よくもよくもよくも私を弄んでくれましたねぇぇっ! 次に相まみえることあらば、イの一番にそっ首掻き斬ってくれる!!」
馬券の束を引き千切って地団駄を踏んでいる金髪の少女を横目に見ながら、遠坂凛はふうと落胆の吐息をこぼした。
「ったく、当てが外れた。未来予知にも匹敵する直感があるって言うから、連れて来たのに全然じゃない。おまけに……」
「くっ、仕方ない。いつまでも敗北に拘っていてはいけませんよ、凛。ああ、勿論ランサーへの恨みは忘れませんが。次です、次のレースこそ当てます!! ああ、なにやら次こそは当たるような気がします。それも万馬券が当たる気がしてきました! 間違いありません。私の勘は外れた事がないのです!!」
「はずれたことがないって、たった今はずれたじゃない」
「さあ、急ぎましょう。はやく行きましょう。パドックが埋まってしまいます!」
「って、こら聞けぇぇ!」
という凛の叫びはナチュラルに聞き流される。
完全に頭に血がのぼっているセイバーさん。朝からずっとこの調子で、凛が帰ろうと云っても聞く耳持たず。勝つまでやるのだと云う事を聞いてくれない。勝負事になると熱中して周りが見えなくなるという彼女の性格を忘れていたわけではなかったが、勝負事がギャンブルとなるとさらにヒートアップするとは思わなかった。
ああ、こんな事なら渋るアルトリアに、お金は私が出すからなんて云うんじゃなかった、なんて後悔したってもう遅い。
ズルズルと引き摺られていきながら、みるみると減っていく財布の中身を茫然と反芻し、凛は断末魔の悲鳴をあげた。
「だぁぁ! もうあんたと競馬場には絶対行かないんだからーっ!!」
「む、では今度は「ぱちんこ」という賭場へと連れて行ってくれるとありがたい。ライガの家人から以前どのようなものか窺ったのですが、あそこならば私の直感もより鋭敏に働く気がします」
途端目の色を変える凛。
「え、マジ? 稼げる?」
「む、私の直感と動体視力を疑うのですか?」
「ふむ、確かにスロットなんかだったら充分いけるかも。くくくっ、オーケーオーケー。稼げるなら問題なしよ。分かったわ、今度一緒に行きましょう!」
ほくそえむ凛を引きずったまま、セイバーはコクコクと思慮をめぐらしているかのように何度も頷きながら言う。
「では、その前に、ここで資金を稼がなければいけませんね。次のレースには有り金すべてをつぎ込みましょう」
「いやぁぁ、資金が根こそぎなくなるぅぅ!!」
途端頭を抱えて暴れ出す凛。
「大丈夫、当たればノープロブレムです、凛」
「そういう台詞は一度でも当ててから言えぇ!!」
「了解しました、マスター。次のレースで必ず」
グッと拳を握り締め、力強く宣誓するセイバーの勇姿はあまりに雄々しく神々しく、遠坂凛は胸が熱くなり、感涙に咽ぶのであった。
「あああああ、話が通じないーーっ!!」
――続く
※学生は馬券を購入できませんのであしからず。
※未成年も購入できませんが、このSSには何故か未成年が登場していないようなので関係ない模様です。
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