【遠坂さんの憂鬱なる日常】(後編)






 鼻歌が聞こえる。
 リズムや音階は拙いが、口ずさむ当人の心根を表すかのような涼やかな音色だ。
 凛が廊下から洗面所にこっそりと首を覗かせると、腕まくりをしたセイバーが気合の入った動きで風呂場の湯船を磨いている様子を見る事が出来た。
 垣間見えた横顔は、どこか楽しげですらある。

「まいったなあ。最初から分かっていたんだけど」

 廊下の床にぺたんと腰を下ろし、遠坂凛は頭をガシガシと掻き毟った。
 そう、それはもう聖杯戦争のさなかには分かっていたはずだったのだ。
 あの凛々しくも頑なで、厳然たる騎士であり、紛う事なき王として、自らを押し殺し戒めていたセイバーという少女が、一皮剥けばあんなにも初々しく、健気で、可愛らしい素顔を持っているなんてことは。
 あれが多分、本来の彼女の姿なのだ。
 アーサーではない、アルトリアという名の娘とは、きっとそもそもはああいう少女だったのだ。

 未だ彼女は王である自分を捨てたわけではない。自分が間違えていたのだと完全に認めたわけでもない。答えを得るために彼女は此処にいる。だから、彼女は今もなおアーサー王で在り続けている。
 だが、今の彼女は国の為だけに生きる王としての立場ではなく、一人の魔術師の生き様を見届け、その力とならんとして、此処に存在していた。
 それは一人の騎士として主に力を貸しつつも、その根底に王として聖杯を求める敢然とした信念があったセイバーとしての在り方とは違う、況してや自らを殺して国に隷属する王とも全く意を異にした生き方だ。
 そして、遠坂凛を含めた周囲は、当然のように彼女を王としてではなく一人の少女として扱い、接し、語りかける。
 彼女から、アルトリアという個が溢れ出したとして、何の不具合があろうか。むしろ、以前のままである方がいびつだろうし、今の姿の方が自然と言えよう。

 だから、凛にも分かっていたのだ。そりゃもう、聖杯が消えた後で士郎と彼女が再会した様子を見たときから薄々こうなるだろうなーってことぐらいは想像がついていた。
 だからといって。
 この沸々と煮え滾り、キュンと胸を締め付けて止まないこの感情が納得するかと言えば、これまた全くの別問題だったりするのだ、これが。




†  †  †  †





 正午から時計が三回りほどした頃の昼下がり。
 セイバーと凛の姿は衛宮家の居間にあった。

 藤村大河が放り出していったと思われる地域情報誌を捲りながら、凛はチラチラを目線を動かしていた。窺う先では、電卓を傍らにセイバーが家計簿と睨めっこをしている。
 カタカタと電卓を操っては、表示された数値に顔を顰め、家計簿に数字を書き込んでは眉間に皺を寄せ、ボールペンを薄桃色の唇に押し当てる。
 そんな彼女の仕草や悩ましげな溜息を目にするたびに、雑誌の陰から覗く凛の瞳が揺れに揺れた。
 セイバーという少女は同性である自分から見ても、落ち着きある佇まいをしている。学校じゃあおしとやかで通っている遠坂凛さまがそう思うのだから間違いない。
 だというのに。
 まったく反則じゃないか。
 凛然として静粛な雰囲気の合間に、あんな風に意外なくらい、表情がコロコロと変わっていくのだから。
 これってつまり……あれだ。
 か、可愛いじゃないのよ、こんちくしょう。

 いかんいかんと、内心の動揺を打ち消そうとして、凛は難しい顔をしているセイバーに話しかけた。

「ど、どうしたのよ。なんか溜息ばかりついちゃって」
「はい。実はどうにも先月より出費がかなり多くなってしまっているようなので」
「ふーん、で、その内実は?」

 何気なく問い掛けたら、セイバーの白磁の頬に朱が散った。

「お、主に私の食費と衣裳代、のようです」
「ああ」

 そういえば、と凛は首肯した。
 先日、自分のお下がりしか持ち合わせがなかったセイバーの衣服を、みんなで――桜と藤村先生も加えて――買いに出かけたのだった。何と言っても女が四人も集まっての買い物だ――しかも服!――。オマケに最初から購入する量は一着や二着で済まさないと決めて掛かっている。生半可で済む筈もなかったわけで。
 実際、帰る頃には唯一無二の荷物持ちが大変な目にあっていた。人の手助けをするのが何よりの趣味な男が、翌日まで愚痴を零していたくらいだから、どれぐらい大変だったかは押して知るべし。
 お陰さまでセイバーに与えられたクローゼットは春を越せる程度にはお腹を満たし、衛宮家の財政は右斜め下へのラインを辿ったというわけだ。
 むう、そういえば服を見立ててあげるために付いて行ったわたしたちも、何故か自分の服が増えてたしなあ。善哉善哉。

「まあ服に関してはそんなに気にする必要ないわよ。女の子は衣裳にお金の糸目をつけるものじゃないわ」

 そう平然と嘯く凛に、セイバーは困ったように眉を傾けた。

「私は……別に身につけるものなど程ほどで良かったのですが」
「ばっ」

 何を云いだすかと思いきや、この娘は。
 思わず頭が真っ赤になった。手にしていた雑誌がムギュと悲鳴を上げて握りつぶされる。
 ギンと眦を切り上げ、メガホンになった雑誌を突きつけ、凛はセイバーをしかりつけた。

「なに、莫迦なこと言ってるのよ。いいこと、アルトリア! 貴女は凄く可憐で可愛いの。それこそこの私が嫉妬するくらい綺麗なんだから、ちゃんとお洒落しないと勿体無いでしょう。ううん、勿体無いどころか罪悪よ。世界に対する損失よ。わたしに対する敵対行為よ。貴女のマスターとして、そんな無体なことは許しません」
「い、いえ、ですが私は騎士であって、その、着飾るような真似は」
「悔い改めなさい!」
「す、すみません」

 逆らえばガブリと噛み付かれそうな剣幕に、思わずセイバーは謝ってしまった。

「ふん」

 仕方ない、許してやろうと云わんばかりに鼻を鳴らし、ようやく興奮を収めた凛は、もはや読めないほどくしゃくしゃになってしまった雑誌に眼をやり、こめかみをポリポリと指で掻きながらそれを放り捨てると、開き直ったように頬杖をついてセイバーをねめつけた。

「まあ、服はそれでいいとして。食費ってなに?」
「…………う」

 途端、勇壮で鳴らした剣士の横顔が真っ赤な色に染まってしまった。
 あたふたと眼を泳がせ、パクパクと言葉にもならない言い訳を空回りさせた挙句、観念したように俯いて、ポツリと口を開いた。

「し、シロウのご飯が美味しいのがいけないのです」
「ほう」

 それはまた、ステキなご説明だことで。
 左の口許だけがクイと釣りあがる凛の奇妙な微笑みに気圧されたか、セイバーは慌てて、

「わ、わ私だとて、まずい食事を好んで食べようとは思わないわけで、ですから……その、居候ですので、三杯目はそっと出しているつもりなのですが、タイガが遠慮なく、というより元気溌剌と四杯目を差し出すものですから、いえそれだけならまだしも、タイガと来たら茶碗を差し出しながら横目に私を見やって薄笑いを浮かべるのですよ。
 こう、ニヤリ、と。そう、眦をクイッと吊り上げて、口許を邪悪に歪めて。
 あら、あなたもうそれでお終い? と云わんばかりに!
 く、悔しいではないですかーっ!!」

 ポツリどころか捲くし立ててるし。
 ていうか、叫んでるし。
 ご飯の量で張り合いなさんなよ、女の子。

「……あれ、毎日やってたんだ」

 セイバーの迫力に思わず仰け反りながら、凛は夕餉の定番のようになってしまった光景を思い出す。
 藤村先生が「おかわりーっ!」「このおかず美味しーっ、もう一個ないのーっ?」と元気一杯にお茶碗やお皿を差し出す度に、自分の手元と山盛りになって戻っていく先生のお茶碗の間でオロオロと視線を泳がせ、やがてプルプルと肩を震わせ悲壮感を漂わせだすセイバー。
 それを見かねた士郎が毎回言葉を労してお代わりを薦めて、何とか食材と引き換えに事なきを得るのだ。
 てっきり、偶々自分が夕食をご相伴に預かっているときだけなのだと思ってた。
 そりゃ……増えるなあ、食費。

「でもさ、私や桜がご飯作ったときは、あんまりお代わりしないわよね、アルトリアって」

 してもおおよそ茶碗三杯、おかず二品だ…………いや、それでも充分多いけどさ。
 でもこちとら、洋食や中華に関しては士郎よりも腕は上だって自負がある。比べれば自分の料理のほうが美味しいってセイバーにも言わせる自信だってある。
 だというのに、なんだって……。

「そういえば……そうでしょうか。自覚はなかったのですが」

 と、彼女と来たら首を傾げるばかり。
 あー、つまりはそういうわけですか。士郎の作った料理の方が、遠慮なく召し上がれると、そういうわけ。
 ふーん、そうでございますか。

「凛、どうしました? 急に不機嫌そうな顔をして」
「ま、負けないんだからーっ!」
「――っ??」

 突如仁王立ちに立ち上がって拳を握るや、天井目掛けて吠え叫ぶ凛の姿に、セイバーは眼を丸くしてポカンと口をあけるばかりであった。




†  †  †  †





 なんだか訳が分からないまま鼻息荒く興奮している遠坂凛を宥めるために、セイバーが用意したのがライガから頂いてこっそりと棚に隠していた大福餅だったのは、ある意味彼女らしいといえば彼女らしく。

「……なに、それ」
「ライガから頂いた茶菓子です。私の秘蔵の一品です。何があったか分かりませんけど、これでも食べて、落ち着いてください、凛。今、お茶を入れますから」
「ふん、あのねアルトリア。いきなり茶菓子なんか差し出されて落ち着けなんて云われるなんて、まるでわたしが荒れ狂ってるみたいで心外なんだけど、それ以前にわたしを食べ物なんかで宥めようなんて思ってるところからどういうつもりよ!
 わたしは藤村先生や貴女みたいに食べ物食わせりゃご機嫌が直るような御目出度い愉快キャラじゃないんですからね!」

 と、お怒りになりつつ、出されたものはちゃんと召し上がるのがまた遠坂凛らしいといえば彼女らしい。
 言うだけ言ってすっきりすると、セイバーの手から皿をむしりとり、上に乗っかった大福へとかぶりつく。

「む、いけるわね。ケーキなんかの洋菓子もいいけど、やっぱり和菓子よねえ」
「愉快キャラ……私は愉快キャラ?」
「ところで秘蔵の一品ってどういう意味?」
「愉快愉快、愉快痛快奇想天外?……ええ、実はあとでこっそり私独りで食べようと……はっ!?」
「……ふーん」

 流し目でセイバーを見ていた凛の口許がにへら、と緩む。顔を赤らめた金糸の髪を持つ少女は、プシューと蒸気を吹きながら背を丸くして小さくなってしまった。それでも両手で掴んだ大福を離さず、悄然としながらチビチビ口にしているのだから大したものだ。さすがはハラペコ。


 パラパラと屋根瓦に雨粒が弾ける音が聞こえてきたのは、その時だった。

「あら、雨みたいよ」
「そのようですね」

 湯のみを両手で受けながら、背筋を反らして窓の外を覗く凛と、はぁ、なんて溜息をつきながらハムハムと大福を齧るセイバー。
 ……いやさ、そのようですね、じゃなくって。
 期待した反応が得られず、凛は目の形を糸にしながら、小さな声で呟いた。

「せんたくもの〜」

 正座姿勢から飛び跳ね上がり、慌てて駆け出していくセイバーの姿はなかなかの見物だった。
 あたふたと残った大福を無理やり飲み込み、剣戟を打つ際の氷の上を滑るかのような足捌きは一体何処へいったのかというバタバタという足音を残して、縁側を飛び出していく。

「んーんーっ!」

 喉も詰まらせたらしい。
 それでも、なんとかシーツを掻き込み、腕一杯に洗濯物を抱えて戻ってくる。さすがはセイバー。
 でも、頭にひっかかってるトランクスは外しなさい。

「凛っ、凛っ、ちょっと手伝ってください!」
「……あー、はいはい」

 突然の雨に慌てふためいて庭に干した洗濯物を入れて回る金色の少女。
 思わずぼぅっと眼を潤ませながらその様子に見惚れていた遠坂凛は、云われるがままフラフラと縁側まで出向き、

「って、うひゃああああわっぷ……むぎゅう〜」
「……あ」

 セイバーが渾身の力で放り込んでくるシーツやらシャツやら下着やら直撃を受け、哀れな悲鳴だけ残して即席で積み上げられた洗濯物の山へと埋没した。




†  †  †  †





「あ、あんたねえ! マスターを死なす気? 殺す気? 始末する気? もしかして、わたしってば嫌われてた? 嫌いなのね? そうなんだ、嫌われてたんだっ、わたしなんかいなくても士郎さえいればいいんだ、キィィィ!!」

 達人が振るうのならば、濡れた手ぬぐいさえ鉄棒に勝る凶器となる。とは良く聞く話だが、セイバーが本気で放り投げたのなら、ポカポカと陽だまりの匂いがする洗濯物も充分殺人可能な礫となり得るらしい。
 なんにしろ、色々な意味で顔面にペシンと喰らったトランクスは凶器であった。

「ちゃんと洗い立てですし、そこまで怒らなくても」
「だれが士郎の下着、顔にぶつけられた事を怒ってるのよ! って、そりゃ怒ってるけどさ!」

 乙女の顔に男の下着をぶつけられ、これが怒らいでか。
 だが、セイバーと来たら、凛の激昂も暖簾に腕押し。悪びれもせず、お茶など啜っていらっしゃる。どうやら、先ほど愉快キャラ呼ばわりされたのを根に持っているらしい。
 反応の無い使い魔の姿に頭にカーッと血が昇る。

「どうせぶつけるんなら、なんで自分の下着ぶつけないのよっ!! そっちの方が良かったのに!」
「…………………………」
「…………はっ、はうわっ、あ、いやその」
「…………ズズズ」

 春に似合わない肌寒い風が、リビングを吹きぬけた。
 静かに湯飲みに残ったお茶を飲み干したセイバーは、ゆっくりとした仕草で部屋をグルリと見渡した。窓は全部締め切られ、外気が入ってくる余地は見当たらない。
 セイバーはおもむろにペン立てを手繰り寄せると、耳掻きを抜き出し、自分の耳の中の掃除をはじめた。
 しばらくして、じっと耳掻きを見つめて、ポツリ。

「……おかしい。特に耳垢は見当たらないのに」
「…………」

 しまったーっ、要らないこと口走っちゃったーっ、とテーブルの向こうで七転八倒している女魔術師。

「さて、そろそろ士郎のアルバイトも終わる頃ですし、迎えに出るとしましょう」
「あ、ああ、ちょ、ちょっと、アルトリア!」

 さり気なくそんな台詞を口にして、腰を上げるセイバー。
 口振りだけは平然としているものの、その顔と来たらバッチリ青ざめさせてたり。
 そそくさと居間から出て行くセイバーの後を、凛は慌てて追いかけた。
 行く先はセイバーの自室。部屋に入ろうとする凛の鼻面で、ピシャンと障子が閉められる。締めだされてしまい、押し入るわけにもいかず、焦りながらもセイバーが出てくるのを待つ凛の耳に衣擦れの音が聞こえだした。やがて清楚な空色を基調としたロングスカートとカーディガンという外出着を身に纏ったセイバーが、凛の前へと姿を現わす。

「凛、士郎は傘を持って出なかったはずなので、今から私が迎えに行って来ます」
「えっえっ、じゃ、じゃあわたしも」
「凛は、留守番をお願いします」
「なんでよ、いいじゃない。わたし一人残っても退屈――」
「お願いします」

 少し充血した蒼い眼は心なしか据わっていて、藤村先生の無茶苦茶から必死こいて逃げ回る士郎とおんなじような目付きにも思えた。
 追い詰められた小動物の目だ。つまりはこれ以上追い詰めるとなにしでかすかわかんねー目。
 って、追い詰めるって何のことよっ。

「それでは、行って参ります」
「ああっ、ちょっと、こらまて。アルトリア、あんたなんか勘違いしてるでしょ! してるしてる絶対勘違いしてるってコラ聞けぇぃ!」

 両耳を塞いだセイバーは、追いかける凛を振り切るように、玄関まで突っ走り、傘立てに差し込まれた傘を一本だけ抜き出すと、そのまま外に……。
 一本? 一本ってなんだ、一本って!?

「ちょっとたんまぁぁ! アルトリアっ、士郎迎えに行くのにどうして傘一本だけしか持っていかないのよ!?」

 その一声に、急いで靴を履いて外へと飛び出そうとしていたセイバーの脚が止まった。
 目を大きく見開いて振り向いた彼女の胸には、まるで命よりも大事なもののように花柄の傘が抱きかかえられていた。

「ま、ままま、まさかあんた」
「…………っ」

 凛はプルプルと震える指を、セイバーへと突きつけた。その指がまるで彼女の中のスイッチを入れたみたくして、さぁっとセイバーの頬が林檎みたいに綺麗に染まり、つつぅと目が逸れる。
 凛はひっくり返った声で絶叫した。

「あ、相合傘狙いーーっ!?」
「ば、莫迦な! ちっ、違います。私はそんな、狙ってなどいない。ただ、二本持っていくのを忘れてしまっただけです!」

 忘れたってあんた、まだ家出てないじゃん。

「だ、だから不可抗力なのです! そういうわけですから、行って参ります!」
「ま、待ちなさい、アルトリアーッ!」

 凛の怒声を背中に受けながらも、セイバーは怯まず玄関の引き戸を引っ叩くように開き、

「――っと、な、何事だ、いったい?」

 帰宅して丁度軒下で傘を畳み、玄関の戸を開けようとしていた士郎の胸へとぶつかった。

「あ、し、シロウ?」

 自分の胸元で目を白黒させているセイバーと、玄関の奥で勢い余って三和土へと転げ落ちそうになって必死に踏ん張っている遠坂凛の姿を交互に見やり、衛宮士郎は不思議に思うより先に、なんだか胃が痛くなりそうな予感を覚えて、背筋を震わせた。




†  †  †  †





「それで。二人とも、いったいなにをやってたんだ?」

 なにやら切羽詰った様子の二人をなんとか落ち着かせ、居心地の悪さを堪えながら、士郎は二人の顔を見比べた。
 普段なら、自分が帰宅する気配を察して、玄関に待っていてくれて、扉を開けると同時に「おかえりなさい、シロウ」なんてくすぐったい台詞で柔らかく迎え入れてくれるはずのセイバーが、今日はどうやら気配にまったく気づいていなかったみたいだった。
 おまけに、なんだか遠坂の此方を見る目がなんだか……怖い。

「あ、あのシロウ。傘は」
「ああ、あれ? 仕事場に置き傘してたんだ」
「……そうですか」

 何故かガックリと肩を落とすセイバー。
 代わりに、妙に不貞腐れてる遠坂が、

「帰ってくるのが早いんじゃないの?」

 なんて、まるで帰ってくるんじゃないと言いたげに鼻を鳴らす。

「あ、ああ、今日って臨時だっただろ。それで後からだけど別の人が来てくれたから、今日は先に帰っていいって言われたんだ。でも、給料は何時もより沢山もらったんだ……けど」

 ああ、視線が痛い。針のようにチクチクと突き刺さる。だから何でさ?

「一つ聞きたい事があるんですけど、いいかしら、衛宮くん」

 なんて改まった口調と姿勢で、問いかけてくる遠坂。
 こいつが薄笑いを浮かべながら衛宮くんなんて呼び方をするときは、だいたい何かろくでもないことが待ち受けてるわけで。

「な、なんだよ」

 と、声がどもってしまったからといって別に小心者だからじゃないと言い張りたい。
 そんな士郎の怯えた様子に、ギラリと凛の眼光が戦慄いた。
 グイと身を乗り出し、鼻先が触れそうなほど近づいた遠坂凛の整った顔が、ギタリと笑みを象った。だから目が笑ってないって。

「もしかして、とは思うんだけど」
「だ、だからなんだよ!?」

 思わず声を上ずらせてしまった士郎に、あかいあくまはとっくの昔にピンが抜けてた手榴弾を、渾身の力で投げつけてきた。

「衛宮くん、まさかあなた、アルトリアに手を出してないでしょうね」
「…………へ?」

 言葉が耳から入ってそのまま抜けていく。
 意味がまったく理解できない。

「あー、遠坂。言ってることの意味が良く分からなかった。ちゃんと説明して欲しいだけど」
「だからっ!」

 バン、と机を激しく叩き、吼えるように彼女は言った。

「この娘とえっちしたかって聞いてるのよ!!」
「……………」

 その瞬間だけは間違いなく、衛宮士郎という人間の全機能は完膚なきまでに停死した。

「は、ははは、じょ、冗談にしては悪質だぞ、遠坂」
「冗談でわたしがこんなふざけたことを口にすると思っているのかしら、衛宮くんは」
「……本気?」
「本気」

 キッパリと言い切る遠坂凛。
 胃の腑がグルリとでんぐり返った。
 思わず素っ頓狂な声を張り上げながら、こんな馬鹿げたことを正真正銘の本気で口にした遠坂に、必死に抗議し捲くし立てる。

「ば、ばばばばばかなことを言うなーっ! そんな、そんなアルトリアに手を出すなんてそんな真似するはずないだろう。そりゃ俺だって男だから、見てるだけで心臓が止まりそうなくらい綺麗な子と一緒の屋根の下で寝泊りするのはドキドキしてたまんないけど、だからってほんとに手を出したらそれってただの外道じゃないかっ!!」
「この、外道!」
「ちがぁぁう!!」

 最初は質問というか詰問だったのが、既に犯罪者扱い。

「ちょっと待て、待ってくれ、遠坂。いきなりそんな事言い出すなんて、いったいなにがどうしてどうなったんだ? 訳がわからない。朝には全然そんな素振りなかったじゃないか。理由を教えてくれ、理由を。俺がどうして……その、彼女に手を出した、なんて思ったんだ?」

 さっきのえっち発言からトマトみたいに成り果てて固まっているセイバーをチラリと一瞥して、なにを想像したのか同じように顔を染めながら捲くし立てる士郎。
 凛はギリギリと歯を軋らせながら、ギロチンのように告げた。

「決まってるじゃない。今日、朝からずっとアルトリアのことを観察してたのよ。そしたらもう……うああああっ、思い出しただけでも顔から火が出そうだわ。なにあれ、もう飛びっきりじゃない。完璧にね、あれは若奥様そのまんまじゃないのよ! まるで新婚生活一年目の旦那様好き好き大好きの新妻じゃない! 絶対あんたとなんかあったって思ったっておかしくないでしょう?」
「ま、待ってください、凛。私はそんなつもりは……」
「ないって云いたいの?」
「わ、私はあくまでシロウの剣として鞘として、影に日向に力になると誓った身です。ですから、その、家事もその一環であって、別にそのような意図は……」
「ほ、ほら、彼女もそう言ってるじゃないか」

 浮気疑惑相手当人からの応援――浮気に当たるのかはちょっと自信ないけれど――を得て、士郎はようやく惑乱から立ち直り、前へと身を乗り出した。

「だいたいだな、遠坂。お前の勘繰りにはちょっと無理があるぞ。もし俺がその気になったとしてもだ、アルトリアがそんな、許すはずないじゃないか」

 そう言うことだ。もし万が一理性が本能に負けて衛宮士郎が彼女に襲い掛かるなんて真似をしたところで、幾ら力を減じたとはいえ英霊であるセイバーに掛かれば、見習い魔術師の一人や二人、簡単に撃退できるだろう。おまけにお仕置きまで付け加えてもお釣りが出るくらいだ。
 だというのに、遠坂のやつは、まるで納得した様子も見せずに「はんっ」と両手を腰に当て、ツンと頤を逸らすと、

「衛宮くんはああいう風に言っているけど、彼に求められたら、あなたどうするわけ?」
「……え? あ、その………………シロウが、私などに夜伽を求めるはずが」
「求められたらって聞いてるの、わたしは!」
「は、はい!」

 ビクン、と全身を痙攣させ、セイバーは酔っ払ったみたいに眸から焦点をなくした。陸に打ち上げられた魚みたいに口をパクパクさせながら、冷静沈着さの欠片さえもなくしてしまったみたく両手を胸の前で握り締め、夢に魘されるみたいにその小さくて仄かに赤い唇を戦慄かせた。

「……え、はい。わ、私は、シロウの鞘となるとも誓った身ですから、あの、どうしてもと仰るのであれば、吝かではありません」
「なっ」

 なにを言っているんだ、セイバーは?
 馬鹿な、という言葉が脳裏に浮かび、そのままがん細胞みたいに爆発的に増殖していく。馬鹿な馬鹿ながリフレリン。

「ああああ、アルトリア、なにを馬鹿なことを云ってるんだ? それは変だ。おかしいじゃないか。前にも言ったけれど、俺とお前はもう主従でもないし、それ以前に無茶な命令なんか聞く必要なんてないんだぞ。嫌な事に我慢して従う必要なんて全然ないんだ。いや、だいたい俺は、嫌がる女の子に無理を押し付けるなんて、そんなこと、絶対しないし、やりたくない。そもそも出来ない。そんな根性はない」
「シロウ」

 それは、台風に飲み込まれたみたいだった衛宮家の居間に、不意に訪れた台風の目のような静かな一言だった。

「貴方は誤解している。私は……嫌などとは一言も言ってはいません」

 呼吸が停止した。
 瞬きを忘れた。
 心臓がびっくりしすぎて一分くらい鼓動するのをやめてしまった。
 なんて無自覚な殺人行為。
 セイバー、それは俺みたいな男には、もう充分すぎるくらいの致命撃だ。

「ストーーーップ! 待て待てちょっと待って待ちなさいよ、あんたたちぃっ!!! 私が言わせておきながらなんだけど、ふざけんなーっ!!」

 だから、一瞬死んでしまっていた士郎という人間を蘇生させてくれたのは、遠坂凛の悲痛な叫びだった。
 生気が戻る。なにか安堵したかのように、心臓が脈打つのを再会してくれた。
 すぅっと胸に清涼な空気が満ちて、動揺していた心が落ち着いた。
 引き攣っていた口許を緩め、衛宮士郎は自らが最も愛している少女へと、柔らかな視線を投げかけた。

「遠坂」
「そんなことダメに決まってるでしょうが。アルトリアはわたしのなんだから、士郎なんかに渡すかぁぁーっ!」
「大丈夫だ、アルトリアには悪いけど、俺はちゃんと遠坂のことを………………って、ええええ?」

 士郎、絶句。
 ガバッと両手を目一杯広げて、遠坂さんがその腕に抱き締めたのは、独りでかっこつけてた士郎ではなく、もう一人の少女の方であった。

「なによなによ、士郎ばっかり! アルトリアはわたしの使い魔なんですからね。ご主人様はわたしなんですからね。それだっていうのに、士郎ばっかり士郎ばっかり毎朝優しく起こしてもらったり、甲斐甲斐しく送り出してもらったり、一生懸命掃除してまわったりお風呂洗ってもらったり、下着まで洗わせて!! しーたーぎーまで!
 士郎、あんた全然気付いてないのかもしれないけどね、可愛いのよ、死ぬほどこの娘ったら可憐で素敵で健気で綺麗で可愛いのよぉぉぉ!! そのアルトリアに、アルトリアにっ、この娘ったらあんたのために一生懸命に料理の勉強だってしてるし、あんたの料理ばっかり一生懸命食べてるし、あげ、あげくに抱かれてもいいとまで言われちゃってぇぇぇ!
 あったまきたぁぁぁ!」
「ま、待て、待ってくれ、遠坂。お、お前、誰に叫んでるんだ?」
「あんたよ、あんたに決まってるでしょ、士郎!」
「な、なんで!?」
「わたしのアルトリアを独り占めしようとするなんて、なんてことするのよ、この間男!!」
「ま…………間男」

 ガシャンという破砕音は、士郎の繊細な少年の心が盛大に砕け散った音で、
 ズザザザーっ、という擦過音は、セイバーが壁まで後退りした音だった。

「り、りりり凛?」
「アルトリア、わたしたち、もう一度最初から親睦を深め直すべきだと思うの。今日貴女を見ててわたし、自分の気持ちに気づいたの。そして確信したわ。わたしたち、きっと新しい関係を築ける!」
「じ、充分です、けっこうです、遠慮します。わ、わわ私はそちらの気はなく、というか経験上もう女性は勘弁願いたいというか、聞いてますか、凛!?」
「ええ、貴女の声はとても綺麗だから、良く聞こえてるわ。ああ、もっと聞かせて欲しいところね。うん、啼き声とか」
「―――っ!!」
「大丈夫、心配しなくてもいいわよ、アルトリア。頑張ってなるべく優しくするから。ああ、そういえばそろそろ魔力も供給しないといけない頃だったし、丁度良かったかも」
「そ、そんな馬鹿な、魔力は契約している以上自動的に、ま、待って、待ってください。あ、ああ、ちょっと、凛っ!? どこを触ってる、あああ、し、シロウ、シロウ、救援を、救護をっ、た、助け……シロウーーーっ」

 あの死闘の連続であった聖杯戦争ですらただの一度たりとも聞かれる事のなかった、セイバーの救いを求める悲鳴。
 だが真っ白な灰と化して、サラサラと崩れていく士郎の耳には遂に届かず――届いたところでどうしようもないんだけどさ――眩いばかりの黄金の髪を持つ青と白磁の少女騎士は、ズルズルと為すすべもなく、あかいあくまに引き摺られて闇の奥へと消えていくのであった。


 合掌。








 まあ、これも一つの三角関係。というか三つ巴? 三竦み?



 ともあれ、なにあれ。


 めでたし。












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