【遠坂さんの憂鬱なる日常】(前編)






 誇り高き英霊たちが駆け抜け、赤き外套を纏った騎士の微笑を最後に終わりを見た聖杯戦争。その余韻も記憶の中の情景に残されるばかりとなり、衛宮の屋敷に一人の異国の少女の姿がある事がもう当たり前の風景になった頃。
 高校も春休みへと差し掛かった三月の中旬。春の兆しとも云うべきまろやかな涼風が吹きぬける。
 新春だ。
 そんな気分も弾む季節柄のはずだというのに。

 近頃、遠坂凛は何やらもやもやとしたスッキリしない気分に苛まれていた。



「忘れ物はないですか、シロウ。ハンカチはちゃんと持ちましたか? 以前のように財布を置いたままという事はありませんか?」
「あー、うん。大丈夫大丈夫」

 玄関で靴を履いている士郎の背中に、セイバーが甲斐甲斐しく確認する。先ほどまで洗い場に立っていたため、ライオンのアップリケをあしらった専用のエプロンを身につけたままだ。ちなみにお揃いで虎のアップリケがあしらわれたエプロンも置いてあるのだが、幸か不幸か使われる事は滅多にない。
 士郎の答えに満足したようにセイバーは薄っすらと微笑む。

「シロウ。怪我などしないように気をつけて」
「怪我するような仕事じゃないんだけどな」

 立ち上がって振り返った士郎の顔に浮かぶのは同居人の過保護さへの照れと苦笑だ。
 だが、セイバーは澄ました顔をして、言い聞かせるように人差し指を立てる。

「それでもです。シロウは時折常人以上に不注意な時がある」
「ああ、うん。それは否定できない。分かった。心がけておくよ」
「はい、それが良いでしょう」
「じゃあ行ってきます。出来るだけ早く帰ってくるよ」
「はい、お待ちしています」
「それじゃあ、遠坂も」
「え? あ、うん」

 ぼけーっと二人のやり取りを眺めてしまっていた凛は、慌ててコクコクと応じる。
 一瞬不思議そうに目を瞬いた士郎だったが、遠坂凛が不可解な挙動に興じるのは何時ものことなので、すぐに暢気そうな顔になりヒョイと手を上げて挨拶を残すと、スタスタと休日のアルバイトへと出かけていくのだった。

「ちぇっ、せっかく久しぶりに三人で遊びに行こうと思って早起きしたのに」
「それは先に約束していなかったリンが悪い」
「そう言われると反論出来ないんだけれど」

 アルバイトなんて休んじゃえばいいのに、と不満そうに口を尖らせる凛に、何故かセイバーが済まなそうな顔をして、

「病欠が大量に出て人手が足りないそうなのです。シロウも色々と以前からお世話になっている所だそうですし、彼の性状からしても当日になって断る事は……」
「ああ、分かってる、分かってるわよ。ただの愚痴、聞き流して」

 パタパタと手を振ってこの話題を終わらせようとするマスターに、セイバーはペコリと頭を下げた。その仕草を横目に見て、また凛の表情が名状しがたいものになった。


 魔術師には、持て余すような暇など存在しない。
 何かと物入りな宝石魔術師である遠坂凛なら、なおさらだ。
 やるべき事は多々溢れ、休日の予定が潰れてしまったからといって、ぼーっと何もしないで呆けているような時間などないはずだった。のだが。
 何となく自宅にも帰りそびれ、凛は衛宮家の居間に陣取り、セイバーが入れてくれた番茶など啜りながら、ぼけーっと何をするでもなく家事に勤しむセイバーの姿を目で追っていた。
 現界した当初は三食昼寝付きで文字通り喰っちゃ寝の毎日を過ごしていた元セイバーのサーバントであったが、さすがにそれではいけないと思ったのだろう。学業やアルバイトでそれなりに忙しい士郎に成り代わり、いつしか家事の一切を引き受けるようになった。
 はじめは洗濯の際に洗剤の分量を正確に量るのに夢中で、それが超強力漂白剤と気付かずに洗濯機を回してしまったり、お風呂を磨いているうちに熱中して擦りすぎて湯船に穴を開けてしまったりと、いささか危なっかしかったものだが、今では随分と様になってきている。
 柔らかな日差しに照らされた庭先で、眩しそうに目を細めながら洗濯物を干している様子などまるで…………。

「ねえ、アルトリア」
「なんですか、凛」

 シーツの皺をパンと伸ばして物干しに掛け、次の洗濯物を手にとりながら律儀に応じる。凛はセイバーがパンパンと伸ばしている洗濯物を半眼で睨みつけながら問い掛けた。

「あなた、男のパンツ洗うのって、抵抗はなし?」

 言われてキョトンを凛を見て、セイバーは手にしたトランクスに目を落とした。
 チェック模様のオーソドックスなタイプのトランクスだ。

「おかしな事を聞くのですね。抵抗などあるわけがない」
「あるわけがないって……随分と言い切るのね」

 無意識に唇を尖らせた凛に、いっそ幼いとすら呼べる容姿の少女は、パンと最後に切りよくトランクスの皺を伸ばし、なんでもない事のように言い添えた。

「シロウの下着ですから」
「…………うぐ」
「どうしました、凛?」
「あー、うー、なんでもない」

 半面を片手で覆って何やら悔しそうに歯噛みしているマスターの様子に、セイバーはその涼やかな瞳に不思議そうな色を浮かべ、微風になびく金色の髪を押さえた。



「よし」

 干し終えた洗濯物を閲兵の如く一望し、少女はおもむろに頷く。満足に至る干し具合であったらしい。
 セイバーは足元に置いていた篭を抱えあげると、縁側から居間へとあがってきた。

「……ご苦労様」
「いえ。まだまだ私は未熟だ」

 なにが未熟なのだろう。

「洗濯もまた、奥深い」
「……はあ」

 分からなくもないが、分かりたくもない。
 遠坂凛にとって、洗濯なんてものは汚れさえ落ちれば良いんであって、それ以上を極める必要なんて感じない。のだが。
 ……うむむ、これって女の子としてちょっとヤバいのかしら。

「さて。凛、私はこれから買い物に出かけますが」

 凛はどうしますか?
 そう言外に問い掛けられ、口許に手を当てて難しい顔をしていた凛は、ハッと顔をあげると何故か斜め下にじっと視線を固定しながら、首肯した。
 そして何事もなかったかのような顔をして、

「そうね、付き合うわ」

 と、同行の意を示した。













「助かりました、リン。トイレットペーパーはどうしても嵩張ってしまう。私だけだったら、少々困った事になっていたでしょう」
「………………いいんだけどね」

 両手にトイレットペーパーの詰まったビニール袋をぶら下げながら、遠坂凛は内心ちょいとご立腹。
 なんで私がこんなものえいこらと運ばないといけないのよー。
 しかも、衛宮の家のトイレットペーパーを。
 クラスメイトには絶対見られたくない姿だ。
 それでも、何か一言言いたげな思いをグッとこらえ、複雑そうな顔をするに留めた。

「それにしても、たくさん買ったわね」

 嵩張るとはいえ比較的軽い凛の荷物と違い、セイバーが両手にぶら下げている四つの買い物袋には、それこそ一杯に食材や飲料が詰め込まれている。大根やジャガイモなどの野菜や牛乳・ミネラルウォーターもその中に含まれているからには、その重さたるや相当なものだろう。少女の細腕には文字通り荷が重そうだったが、彼女の力が見た目通りでないのは周知の事実だ。

「チラシでチェックはしていたのですが。思いの他特売の品に良いものが多くて、ついつい手が伸びてしまいました」

 ついつい、ねえ。
 自制が効かなかった事を恥じているのか、反省の弁を自分に向かって呟いているセイバーを横目に、凛はスーパーでの彼女の様子を反芻する。
 買い物カゴを腕にぶら下げ、商品の棚を前にして悩みに耽る金髪の少女。周りなど目に入らぬほど集中しながら商品を手にとっては値段を比べ、賞味期限を確認し、産地を吟味して考え込む。脳裏で料理の出来上がりを連想したのか、ときおり幸せそうに顔を綻ばせては、一転、値段と品質が折り合った最良の商品を見抜こうと剣士の気迫を漲らせて眼光を鋭くする。その迫力たるや、周囲で同じく商品を買い物カゴに放り込んでいく主婦達に決して遜色がなかった。

「……遜色なくてどうするのよと思うんだけど」

 これだけ目立つ容姿でありながら、ああいう場所にもうあれだけ馴染んでしまっているというのはいいのか悪いのか。

「って、あれ? アルトリア?」

 ふと気が付けば、傍らを大量の荷物にも足取りを乱す事無く颯爽と歩いていた少女の姿が見当たらない。立ち止まってキョロキョロと首をめぐらせた凛は、いつの間にか店先で何かを買い求めている金髪の少女の後姿を発見した。

「どうしたの?」
「ああ、リン。あなたも一つどうですか?」

 そう言って近寄ってきた凛に彼女が差し出したのは。

「……コロッケ?」
「美味しいですよ。熱いうちにどうぞ」
「……買い食い?」
「ええ、その。買い物帰りにはいつも。この店のコロッケは実に味わい深いので」

 幸せそうに目を細めて、胸の前で両手を握るアルトリア。
 それを聞いてコロッケを売っていたおばちゃんが嬉しそうにコロコロと笑う。

「まあ、ありがとうねー、アルトリアちゃん」
「いえ。こちらこそいつも美味しいものをありがとうございます。おや、このコロッケ、少し肉の量が普段よりも多いようなのですが」
「ほほほ、アルトリアちゃんの為の特別性よー」

 何気に既に常連らしいやり取りだ。
 仕方なく、凛は受け取ったコロッケを一口パクリと口にした。

「あ、美味しい」










「天津飯、完成しました」

 パクッ。

「ボツっ! 甘すぎる。餡に砂糖を入れすぎだわ。それに比してダシが足りない」
「……くっ、確かに」

 お昼ご飯である。
 ダメ出しを受け、自身も料理を口にし、セイバーは悔しげに唇を噛み締めた。
 家事に関しては一通り様になるようになったセイバーだったが、料理に関してはなかなか上達は見られなかった。これでも当初の酷さと比べれば食べられるものになっているのだから、上達はしているのかもしれないが。美味しい料理を作るというワンステップ上の技量向上に関しては、完全に頭打ちだった。
 藤村大河と自分が料理に関しては大差がない事を知った時のセイバーの落ち込みようは、傍から見ていてなかなか面白かった。
 以来、彼女らしくひたむきに努力を重ねているが、その量と腕の伸び具合はお世辞にも比例しているとは言いがたい。
 はっきり言おう。セイバーは食べ物については食べるしか能がない。

「我ながら口惜しい。なぜもっと上手く出来ないのだろう」

 ガックリと肩を落としているようにすら窺えるセイバーの様子を、凛は不思議に思う。

「別にいいじゃない、貴女が上手くならなくても。美味しいご飯なら、士郎が作ってくれるんだし」
「それはその通りですが」

 一度反発するようにあげた目を力なく落とし、少しだけ恥ずかしそうに顔をそらして、独り言のようにポツリと言い添えた。

「やはり食べさせてもらうばかりでは悔しい。私も凛や桜のように、偶には美味しいものを作ってあげたいと思うこともある」
「っ――!!」

 遠坂凛は、不覚にも夕陽に向かって大声で叫びだしそうな衝動に駆られた。

「どうしました、凛。顔が赤いですが」
「う、ううん。ちょっとこうムカムカーっと来ただけだから」
「それは……申し訳ない、凛。今、胃薬を持ってきます」

 自分の料理で胃の不調を起こさせたと勘違いしたらしい。薬箱を取りに居間を出て行くセイバーの背を追い、凛はばったりとテーブルに突っ伏した。
 ここ最近の胸をチリチリと焦がすような感覚の正体がようやく分かった。
 多分、これは。

「お、おのれ〜」


 嫉妬だ。








 昼食を終えた後も、遠坂凛は自宅に帰らず衛宮の家に居座った。何をするでもなく不機嫌そう、というか不貞腐れてるみたいな顔をしてキビキビと働きまわるセイバーの様子をこっそりと観察する。

 午後になってからも、セイバーはまったくもって働き者だった。
 服が汚れるからなのか、藍色の作務衣へと着替えたセイバーは、聖杯戦争の頃のように綺麗な金髪を結い上げて、板張りの廊下を軽快に雑巾掛けをしてまわる。
 締まった腰を高く掲げ、細くもしなやかな脚を軽やかにたわませて、一気に端から端まで駆け抜ける。柳同寺で修行僧としてもやっていけそうな堂にいった駆けっぷりだ。
 タタタタと廊下を蹴る足音のリズムが心地よい。
 一頻り隅から隅まで廊下を拭き終え、セイバーは「ふう」と色気のある吐息をついて、満足そうに額を袖で拭った。
 そんな少女の艶姿に、縁側の角から様子を窺っていた凛は、顔を林檎のように染めてガリガリと柱に爪を立てた。

「う、うきーーっ」

 なにやら心中穏やかならざるご様子。






 後半へ、続く。










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