さあ、どうするか。
のんびりと熟慮している時間はない。敵の指揮官が愚鈍でもない限り、すぐに増援を差し向けてくるだろう。残念ながら敵が先ほど襲ってきた連中で打ち止めと考えられる状況ではなかった。ホテルの全室を封鎖したのは、此方の動きを限定すると同時に余計な障害物が通路に出てこないようにするため。これから派手に戦闘をやらかすと大声で主張しているようなものだ。
一人か二人、逃がしてしまったから此方が独りというのはもうバレているだろう。だとすれば、圧倒的な数量で一気に押しつぶすのが最良の戦術だ。
「……考えるまでもない、か」
名雪は敵から奪取したガバメントを腰のベルトに差し込みながら苦笑気味に独りごちた。
守りに入ったらその時点でチェックメイト。隠れる場所もないところで、前後左右から包囲を受けてあっという間に蜂の巣にされるだろう。
ならば、敵が集結する前に打って出て各個撃破するより他あるまい。幸い、ホテルという建物の構造上、敵の進撃路は容易に想像できる。先手を取るのは不可能ではない。無論、向こうも相手から攻撃してくる事ぐらいは想定しているに違いない。だが、深刻には考えまい。先ほど部屋を襲ってきたグループの人数は五名。恐らく他の敵グループの人数も――屋内での戦闘単位としてその辺が最良であるから――同程度だろう。つまり、敵側は集結前に攻撃を仕掛けられても5対1の数的優位を確保できる。それで勝つ必要もない。数分も粘れば他のグループが応援に駆けつけるからだ。
つまり、名雪に課せられた生き残るための条件は、少なくとも最初に攻撃したグループを二分以内に全滅させ、構築されつつある包囲網を突破しなければならないという事になる。
「キツすぎだよね、これって」
知らず、口に出して愚痴ってしまう。
銃器で武装した五人ものプロを相手にするだけでも困難だというのに、さらに二分以内に無力化しなければならないとは。しかも、とにかく一度さえ包囲網を突破すれば、戦闘のイニシアティブを取り戻せる可能性が出てくるとはいえ、その後も綱渡りの状況は変わらないだろう。洒落にならない厳しさだ。そして失敗すれば即、死への門が開かれる。自分の命だけではない、親友の命もだ。
これほど後に引けず、引くべき後もない状況は滅多にあるまい。だが、不可能ではない。やれなくはない。
自分にはその力がある、と水瀬名雪は冷徹に判断していた。
【墓碑銘刻み】には、この状況を切り抜けるだけの能力が備わっている。この程度の状況を支配し、制圧出来ずしてDコード・アサルトは名乗れない。
さあ、此方の優位点は主に二つだ。相手が此方の正体を掴みかねている事。そしてまだターゲットである美坂香里の所在を、襲撃をかけたあの部屋だと思い込んでいるだろう事だ。少なくとも当面、名雪は香里の身の安全を気にせず動け、敵は姿の見当たらない香里に気を取られることになる。微細としか言えないアドヴァンテージだが、後先を考えずに済むのは名雪にとってこれ以上ない優位点だった。
不安を掻き立てるような非常灯の光の下を、一匹の獣のように彼女は疾駆する。
結い纏められた艶やかな黒髪が、尾のようにそよぎ、そのしなやかな体躯は澱みのない挙動で音もなく廊下を駆け抜けていく。
そして、名雪は非常階段へと繋がる通用口の脇へと滑り込んだ。壁に背を預け、呼吸を極限まで細める。
意識を研ぎ澄ませ、空間へと溶け込ませていく。自分自身が体の外まで広がっていくような感覚。
レーダーと化した感覚器が、階下より駆け上がってくる複数の足音を捉えた。距離、人数、配置、次々に詳細な情報を検出していく。
獣が獲物を狙うときのように、彼女の目は眠たげな半眼からレザーエッジの如き鋭利なものへと変貌した。全身の筋肉が弛緩し、同時に力が漲る。
回路は接続された。
「Ready」
木の葉が翻るかのようにして、女の肢体はその場から掻き消えた。
空気すら揺るがさず、むしろ風に乗るようにして、水瀬名雪は非常階段の踊り場へと滑り込んだ。
丁度、腰溜めにサブマシンガンを構えて通路へと出ようとしていた男の足をすり抜けざまに払う。如何なる作用か男はキョトンとした顔のまま、一回転するかの勢いで宙に浮いた。
黒髪が水平になびく。
名雪は投げた男が床に落下するより早く、二番目の敵、その懐に伸び上がるようにして半身で飛び込んだ。
左手で喉を掴む。
同時に右腕を真っ直ぐ真横斜め下――後頭部から地面に落下しようとしている男に向ける。
水瀬名雪は両手の指に、ささやかな力を込めた。
――ゴキッ
――パンッ
骨がずれる音と銃声、そして頭蓋骨が勢い良くコンクリートに打ち付けられる音が重奏。
まずは二人を制圧。経過時間一秒弱。
視線は既に残りの三人を捉えている。
一人は名雪から見て階段を下から駆け上がっている最中。もう一人は下の踊り場。殿は下の踊り場に差し掛かっているところ。
敵の反応は素早い。既に階段を駆け上がっていた敵が銃口を此方に向け、引き金を引こうとしている。位置関係上、下の二人は射線が確保できず今この瞬間は無視しても構わない。
名雪はザウエルを離して右手を自由にしながら、頚部を壊した男へと突っ込んだ勢いのまま肩を寄せ、魔法のような体移動でその大柄な体躯のバランスを破壊した。
そして、崩れる方向をずらす。
男は大の字になって階下へと落下し始めた。引き金を引こうとしていた敵は面喰い、躊躇した。落下してくる男の身体が盾となり、射線どころか視界まで塞がれてしまったのだ。このままでは押し潰される。銃を撃っても手にしたサブマシンガンの弾では防弾着を着用した味方の身体を貫いて後ろの女まで届かない。
「く――」
必死に体勢を崩して避けながら、三人目の敵は落下してくる男を払いのけ前方の視界を――――
「――そがぁぁ」
瞠目。喚こうと口を開きかけ、そんな猶予すら与えられていないことを知る。
開けた視界には、後を追って飛び降りてきた女の両足と、空中でありながらしっかりと固定されたガバメントの銃口が。
三発の銃弾を浴びせて動きを止めつつ、名雪は幅跳びの要領で階段の中途にいた男の胸郭部を踏みつけ、そのまま下の踊り場に着地した。足の下で肋骨が盛大に圧し折れる感触と、肺が潰れる気色の悪い音色が鳴った。
残りは二人。三秒が経過。
「野郎、ぶっ――」
殺す、とでも続けたかったのか。
名雪は自分と足の下の男に弾き飛ばされ転倒しかけている、踊り場で待機していた四人目の鷲鼻の敵を敢えて無視した。
殿の敵が、罵声をあげながら膝をついた名雪に向かって引き金に力を込めた。避けようのない必殺のタイミング。
だがその瞬間、何かが名雪の前に立ちはだかるようにして、男の視界から彼女の姿を遮った。
「――――ッ!?」
それでも指はしっかりとトリガーを絞る。銃弾が轟音と共に放たれる。
弾丸のチェインソーは、だが女を引き裂くことはなかった。
まるで計ったかのようなタイミングで、遅れて転がり落ちてきた二番目の男の大きな上半身が射線を塞いだのだ。男の身体は銃弾を浴びつつ床に激突すると同時に軽くバウンドし、奥の壁にぶつかって停止した。それは刹那のスクリーン。それが払われた後には、女の姿は最初から其処にはいなかったかのように掻き消えていた。
なんだよそれ、手品か?
瞬間移動のマジックが、一瞬停止した思考の端で思い浮かんだ。
硬化した視線は、消えた女の姿を見つけられず、男は思わず立ち竦む。
次の瞬間、ガンというブレが生じるとともに、男の視界は幕が落ちたように暗闇へと塗り潰されていった。
「……あ?」
血臭に塗れた静寂の帳が下りた中、間の抜けた声が漏れた。
尻餅をついた四人目の鷲鼻の男は呆然と、最後の仲間が頭を吹き飛ばされて倒れていくさまを見送り、横っ飛びに跳んでくるや自分のサブマシンガンを踏みつけ、ガバメントをぶっ放した女を見上げた。
女がゆっくりと視線を此方へと向ける。かすかに濡れた、雪のように冷たい瞳。
「おまえ、いったいなんなんだよ?」
返事を期待していたわけではない。ただ無意識に口にしただけ。
だが、意外にも女はポツリと口を開いた。
能面のような表情そのままの声で訊ねる。
「墓碑銘は必要?」
その声に失調を起こしていた意識が正気に戻る。
鷲鼻は暫し言葉を失い、脳裏に浮かんだ今の台詞に符合する名詞に、皮肉げに顔を引き攣らせた。
「その戯言。そうか、聞いたことがある。エピタフ、てめぇがそうなのか」
Dコードネーム――【墓碑銘刻み】
現在GBに僅か四名しか存在しないという、かの組織内でも最も特異な位置づけがなされたエージェント――Dコード保持者の一人。
GB実働戦力の中核を担う十二座の『Beast Numbers』が、狙撃や格闘といった直接的な戦闘技術のみならず、戦闘部隊の指揮、作戦の立案、電子戦、情報戦、諜報戦、破壊・偽装・隠蔽・宣撫・潜入等の工作活動。他にも各種車両・船舶・航空機の運転技能や交渉能力、調達能力等等、あらゆる分野で才幹を求められる、言わばゼネラリストとしての能力を認められた者に継承される称号であるのとは違い、Dコードは余人の追随を許さない際立った専門技能を特化し持つ者のみに保持を許される認可状だ。
これらの専門特化者は、まさにその専門でしか能力を発揮できないという非常に使い難い存在であると同時に、特定の状況下では想像を絶する成果を発揮する。
汎用性の無さを許容させるだけの高い技能を有したオーヴァー・スペシャリスト、それがDコードという存在だ。
そしてDコード【エピタフ】の専門はスナイプとアサルト。即ち狙撃と強襲。
目下GB内で最も優秀な固体戦闘能力を保有しているとされるエージェント。
そう、GB最高の兵器として自他共に認められているのは【赤エイ】でも【獅子】でも【毒蛇】でもすらもなく、そして【狐】でもない。
【エピタフ】と呼ばれるエージェント。
まさか、女だったとはな、おい。
GBきっての【墓石製造機】が、こんな奮い立つような色気を醸す女だったとは思いもせず、鷲鼻は悪くない気分に肩を震わせ、酷く歪んだ笑い声を掻き鳴らした。
「クククッ、墓碑銘がいるかだと? 面白い冗句じゃねえか。キツい皮肉だ。この世界で生きてる以上、碑文どころか墓石ですら残せるもんじゃねえ。そういうものだろう? なあッエピタフよぉ!」
咆哮とともに男は腰のホルスターから拳銃を抜き出た。
照門が狙いを定めるより早く、鷲鼻の額に冷たく凍える鉄の塊が据えられた。
「そう言うてめぇは、なんて墓碑銘を遺すつもりなんだ?」
その言葉を最期にして、鷲鼻は額に小さな穴を穿たれ、血走った目を見開いたまま仰向けに倒れ、絶命した。
硝煙立ち昇るガバメントを構えたまま、水瀬名雪は静かに眼を細めた。
「水瀬名雪、愛と友情に生き、そして死す。そんなのが良いなと、思ってる」
戯言とも本音ともつかない呟きを吐いて、女はもう自分が何を言ったかも忘れたかのようにガバメントを腰へと差した。
手早く死体からサブマシンガンをもぎ取り、マガジンもかき集める。
「そろそろ二分」
最後まで淡々と時間を確認し、水瀬名雪は非常階段を軽やかに駆け下りていった。
彼女が敵の殲滅に擁した時間は約15秒。フェスタ直属の戦闘部隊『メルクリウス』Bチームは、状況を司令部に報告する余裕さえ無いままに全滅。水瀬名雪のホテルミネルバ遊撃戦は、まずはこうして彼女のプランに完全に即した形で幕をあげたのだった。
だが、何もかもが彼女の思うとおりに運んでいたわけではない。
それどころかこの時点で、既に名雪の目論見は致命的な綻びを孕んでしまっていた。
事態はさらなる混沌へと転がっていく。
「Bチーム、応答……ありません」
「…………」
語尾が心なしか震えているオペレーターの報告に、メリクリウス部隊長【少佐】ギュゼッペ・フォザッティは周囲に聞こえぬように奥歯を軋らせた。
どうやら相手は想像以上の手練らしい。まさかこうもあっさりと包囲を突破されるとは。
「ノワールの現在位置は?」
答えるのは、傍らの補佐役の女。
「まだ不明です。防犯カメラを避けるように移動していると思われます」
「早急に予想経路を割り出し、展開を急がせろ」
「はい」
命令を下しながら、ギュゼッペは内心疑問を抱いていた。
報告を聞く限り、ノワールはクイーンを伴っている様子はない。部屋を襲撃したDチームの生き残りも、クイーンの姿は見ていないという。では、クイーンはいったい何処に行った?
「少佐、探索チームから報告が」
「うん」
新薬の資料だけでも先に奪取すべく、例の部屋へと向かわせたチームからの連絡だった。
「それが」
だが頷き促したものの、補佐役の女は躊躇うように言葉を濁した。
「どうした、エルザ」
指揮官補佐 エルザ・リンガーツェットは、すぐに青い瞳から戸惑いを消すと普段どおりの抑揚のない口調で告げる。
「いえ、部屋にはクイーンの居た痕跡が見当たらないそうです。資料どころか身の回りのものも」
「……なんだと?」
嵩張る荷物を持ちながら逃げ出したとは考え難い。いや、荷物を纏める時間もなかったはず。
そこでようやく、ギュゼッペは一つの推論に至り、愕然とした。
「最初から、あの部屋にはクイーンがいなかったということか?」
嵌められたのか。まず、思ったのがそれだった。部屋は確かに美坂香里名義で取ってあった。前日には部下が直接彼女がその部屋を使用している姿も確認している。それが、まるで此方の襲撃を見計らったかのように、居なくなっているとなると、誘い込まれたとしか考えられない。だが、やはりそれにしては待ち伏せの人員も火力も少なすぎる。
いや、だが現にこうして現れた女にチームが二つも全滅させられているではないか。
「私のメリクリウスに対してたった一人で充分だと、そう言いたいとでもいうのか? 舐めおってッ」
思わず小声で罵りながらも、ギュゼッペはこの瞬間、真剣に撤退を考えていた。
誰に仕掛けられたかは分からないが、孤立無援のサラームたちではありえない。メリクリウスに与えられている目的はサラーム一派の殲滅と、クイーンの確保だ。現状はそのいずれからも外れてしまっている。此処で戦闘を続けることは無意味でしかなかった。それに、この状況が仕掛けられたものであった場合、ホテルミネルバというフィールドを掌握しているのは自分達ではなく、ノワールたち未知の敵という事になる。これ以上、此処に居ること自体が危険という可能性があった。
詰まらないプライドや感傷でこれ以上無意味な戦闘を長引かせることは愚行に過ぎない。
だが、次の瞬間オペレーターからもたらされた情報に、ギュゼッペの心理は大いに揺れることになった。
「少佐!」
「なんだ」
「13階フロアにて交戦発生」
「十三階だと? 新手か?」
「防犯カメラに映像が」
手早く手元の機械を操作し、オペレーターが正面のテレビジョンに当該の映像を映す。
音声がカットされた白黒の画面。その中を、サブマシンガンを乱射しながら歩く、チェロケースを抱えた女の姿が映った。
女はカメラを仰ぎ見るとニヤリ、と笑い、皮でも剥ぐようにしてオーバーコートと深紫のドレスを破り捨てる。その下から現れたのは機能的な黒色の上下を身につけた、やや幼げな顔立ちの青年の姿。
ガン、と手狭な司令部に壁を叩く音が響き、二人のオペレーターは思わず背後に立つ指揮官を振り返り、慌てて前に向き直る。
誰もいなくなった画面を唖然と見つめていたエルザだったが、まず見ることの無い指揮官の激昂に、訝しげな視線を投げかける。
「少佐?」
「サラームだ」
「え?」
「あれはサラームだ」
「いえ、ですが」
映像を見たにも関わらず、エルザはそれをそのまま信じることが出来なかった。
外部から侵入したという兆候は何処にも見られない。ロックした客室を含む全ての部屋も破られてはいない。
つまりは、サラームは外部から侵入したわけでも、何処かの部屋に潜んでいたわけでもなく、とっくの昔に内部に潜んでいたという事になる。
冗談ではなかった。それはつまり、此方が人員を配置している中、堂々と顔を見せた状態でどこか――応答が無い部署から推察するに15階のバーか――に紛れ込んでいたという事になる。警戒していた連中が、まったく誰一人として気づかなかったというのか?
「そんなことが」
「彼奴はそういう性質の殺し屋なのだ」
既に激昂を収めたギュゼッペが、それでも眉間に怒りを滲ませながら、苦々しい口調で言う。
「いつのまにか其処に居る。気付いたときには標的の間近に存在し、確実に仕留める。浸透能力。それこそが、技量や経験で上回る者が何人も居るというのに、彼奴が『SSS』に指定された所以だ。だが、まさかこれほどとは。くそっ、舐めていたのは此方だったか。情報を流して渦中におびき出すはずが、最初から内部に入り込まれていたなど、笑い話にもならないぞ」
だが、と針のように目を細め、そのブラウンの瞳に決然とした光を宿したギュゼッペは、
「今回のお前が為すべきは暗殺ではないのだぞ、サラーム。内側に潜り込み警戒を破ったからと言って、お前が破れかぶれの行動に走ってしまったのは変わらぬわ。孤立無援の飼い犬は無残だな。エルザ」
「はっ」
「外周に配置したチームを最低限必要な人員だけ残して、すべてホテル内に放て」
「よろしいのですか?」
「当然だ。敵は外から来ず、既に内にいた。ならば、外に置いておく必要が何処にある」
「ですが、崔尚成の姿がまだ」
「無視して構わない。どうせシステムは此方が掌握しているのだ。外部から侵入すればすぐに分かる。対処はそれからでも充分だ。まずは一人ずつ確実に、そして速やかに押し潰す。ノワールはA・C両チームに動きを封じさせおけ」
「了解しました。サリタ、ヘルミナ、全部隊の展開誘導を開始してください」
鐘を打つようにオペレーターから命令受諾の応答が来る。
「さあ、袋のねずみだぞ、サラーム」
淡々と事実を口にし、ギュゼッペは腕を組んだ。
ふと、クイーンの所在が未だ見当たらないことを思い出す。
構うものか。それは所詮二の次だ。メリクリウスに与えられた任務の第一はサラーム一派の殲滅。この状況もそのために誂えたものだ。民間人の拉致など、あとでそれ専門の連中にやらせればいい。なに、機会は幾らでもあるだろう。
そうギュゼッペが、美坂香里の存在を意識の隅に押しやった瞬間だった。
手の足りないオペレーター業務を手伝っていたエルザが、振り返る。
「少佐、D−4から通信が」
「D−4? 待機を命じたはずだぞ」
「それが、後退中に目標を発見したと」
「ターゲット?」
「クイーンです」
「……なんだと!?」
「ああもう! なんで開かないのよ。故障?」
何度カードキーを通しても開く気配の無いドアを前にして、美坂香里は途方に暮れていた。
仕事用のファックス用紙が切れてしまい、ロビーの売店か外のコンビニに買いに行こうと部屋を出たは良かったが、肝心の財布を忘れていることに気付き、部屋に戻ろうとしたらこれだった。
ドアを蹴り飛ばしたくなる衝動を必死に堪え、苛立たしげに髪を掻きあげる。
「フロントまで行くしかないか。まったく、鍵が壊れるなんて聞いたことないわよ」
これ見よがしに溜息をつき、香里はエレベーターホールに向かって、絨毯の敷かれた廊下を歩き始めた。
だが、突然階上から空気を震わせるような音が響き、思わず足を止め、背後を振り返る。
「なんなのかしら、この音。そういえば、さっきからずっと聞こえてるような」
ずっと、と言うより断続的に、と言った方が正しいが、段々と接近しているような気もする。
まるで銃声みたいだけど。
頭を過ぎった連想に、だが香里は首を振った。
「まさかね」
それに、自分がアメリカで実際聞いたことのある拳銃の発砲音とは明らかに違っているし。
「誰か暴れてるのかしら。もう、ホテルマンは何してるのよ」
物凄い勢いでこのホテルに対する心証が悪化していくのを自覚しながら、香里は立ち止まったまま、自分が注意しに行くべきかに真剣に頭を悩ました。
いえ、とりあえずフロントに行くべきね。妙な連中が暴れているんならあたし一人じゃ危険だし。
手早く決断を下し、香里は今度は歩調を先程よりも足早にして、ホールへと向かった。
だが、それも五歩と行かずに止まってしまう。
前方のT字路。其処に一人の男が立っていた。黒いスーツ姿の、何という事のないサラリーマン風の男。耳に手をあて何か小声で喋っている姿に、香里の足は自然と止まってしまう。
ピリピリと、こめかみに嫌な痺れが走っていた。
男は微かに頷き、耳から手を離して顔を此方に向ける。
視線が交錯した。
途端、こめかみでたゆたっていた痺れが、爆発でもしたかのように強さを増し、背筋へと駆け巡る。
「な、なんですか?」
「……美坂、香里だな」
聞くや否や、香里は脱兎のごとく踵を返した。
あの男の眼、そこに宿っていたのは酷く冷徹で事務的な、でもこれ以上なく明確な悪意だった。
この男、なにかヤバい!
尋常ではない悪寒に、香里はその男が危険と判断していた。
だが、走り出す間もなく、頬を張るような乾いた音が響く。同時に左の脹脛に引き攣るような痛みを感じて、香里は足を縺れさせ、転倒した。
混乱しながら脹脛を見ると、ソックスに引っかいたような穴が開き、その下から微かに血の滲む肌が覗いていた。
そして男を振り返り、香里は息を詰まらせた。
男の手には大型の拳銃が握り締められ、その銃口からは静かに硝煙が立ち昇っている。
撃た……れた?
「言わなくても分かるが、動くなよ。次はかするだけじゃ済ませないからな」
動こうにも、体が完全に強張って立つことすら出来なかった。
本物の銃で撃たれた。それは凄まじい恐怖だった。ただ足をかすっただけだというのに、まったく足に力が入らない。焼け付くような熱さだけが足を伝わって全身に広がっていく。
怖かった。本当に怖かった。
ガクガクと震えている目標に哀れみとも嗜虐ともつかない色を浮かべながら、D−4は懐から薬品を染み込ませたハンカチを取り出す。
「なん、なんなの? あんたいったい」
「…………」
「来ないで! こっ、来ないでよぉ!」
覆いかぶさるように迫ってくる男に、ようやく香里の身体は呪縛から解き放たれた。
這いずるように後退り、隙を見て逃げようと。
「手間をかけさせるな。こっちも急いでるんだ」
「いやっ、いやぁぁぁぁ!!」
腰を掴まれ、引き寄せられる。背後から抱きしめられたと思った瞬間、口にハンカチが当てられた。
吸うまいと息を止めるものの、あっという間に意識がかすんでいってしまう。
あたし、殺されちゃうのかな。
意識とともに感情まで鈍っていくものなのだろうか。
松脂のように心を覆い尽くしていた恐怖が、薄れていく。
なんで、殺されるんだろう。なんで、なんで、なんで。
栞、名雪、お母さん、お父さん、あたしなんで。
訳も分からぬまま、理不尽な眼に遭わされているというのに、諦観めいた漆黒が、心を侵食していった。
頭が重い。指先が冷たい。まるで死んでいくようだ。次に眼が覚めることがあるのだろうか。このまま、起こされることもなく殺されてしまうのだろうか。それとも、何か酷い事をされるのかもしれない。
でも、まあ、どうでも、いいか。
不意にそんな言葉が脳裏をよぎった。
口許が緩むのを感じた。
なにか、急にどうでも良くなってしまった。
強制的に意識を眠らそうとする薬の作用が、香里の心の奥底の封印までも薄めてしまったというのか。
頑なに押し込めていたものが封を突き破り、姿を現そうともがき出す。
これまで張り詰め続けていた香里の中の何かが、綻びほどけていった。
仕事に没頭することで閉じ込めていたものが、ずっとずっと、ガマンしてきたものが、顔を覗かせる。
涙が、溢れ出した。
止め処もなく、溢れ出す。
会いたい。
会いたいのよ。
もう一度。もう一度だけでも。
でも、それは叶わぬ夢だから。
疲れた。
疲れてしまった。
待ち続けるには希望が足りず、諦めるには絶望が足りない。
そんな中途半端な世界の中で、頑なに肩を張って、思いそのものをなかった事にしようとする自分に。それでも思いを棄てきれずに抱きかかえている自分に。
疲れてしまった。
彼が消えてから三年。ずっと、自分を押し込め、偽り続けた。
本当に辛かったんだ。
だからもういい。もう、このまま何もかも捨て去って眠ってしまえばいい。それで、もうガマンせずに済む。耐えずに済むのなら。
香里は閉じかけていた瞼をこじ開け、最後とばかりに涙に滲む世界に眼を凝らした。
「……北川くん」
幻が、其処に立っていた。
少し頬がこけているけれど、心なしか知ってる姿より大人びているけれど。
それは紛れもなく、彼に違いなく。
ああ、なんだ、会えたじゃないか。
「会いたかった」
幻だけど、会えたじゃないか。
「くそっ、もう来やがったのか! 動くなよ、サラーム! 分かってるよな!」
「…………」
頭に押し当てられた冷たい感触にも、もう気づかず、香里は穏やかな微笑をたたえながら、力の篭らない手を必死に差し伸ばした。
「ばか、北川くん。ずっと……待ってたんだか、ら。遅いわ、よ、おん、なを待たせ、るなんて最低だわ、わか、ってるの?」
「……ごめん、美坂」
幻の彼は、本当に辛そうな顔をして唇をかみ締めて、だから香里は許すことにした。
本物の彼も、きっとそんな風に自分を待たせたことを後悔してくれるだろうから。そうやって、苦しんでくれるだろうから。
だからもう、いいのだ。
だって、そんな辛そうな彼の顔は見たくなかったから。
せっかくこんなにはっきりとした幻が見えているというのに、声まで聞こえるというのに、そんな顔は見せられるては損な気分になってしまう。
だって――――
美坂香里が幾ら見続けても飽きることのない、一番大好きな彼の表情は、
無邪気で、能天気で、底抜けに明るい笑顔なのだから。
「もう……仕方な、い、わね。今度、だけ、よ」
「……うん」
「よろ、しい」
もしもう一度、幻影を見られるのなら。
笑顔がいい。
そんな事を思いながらも、満足げに微笑み、
美坂香里はゆっくりと瞼を閉じ、意識を失った。
「…………」
歓喜・悲痛・慙愧・悔恨・安堵、それら様々な感情をないまぜにした顔をして、北川潤は三年の歳月を経て此処に再会した彼女の顔を見つめた。
言葉にならない、圧倒的なまでの思いの奔流が胸のうちで暴れ狂う。血が逆巻き、沸騰し、頭の中でのた打ち回り、気が狂いそうになる。
北川潤は歯が砕け散らんばかりに、奥歯を軋らせた。
カタカタと体が震え、握りこんだ銃把が無機質に嗤い出す。
「てめえ、その汚え手をどけろ」
低く低く、磨耗したような声。
それは人の声とは思えぬ、激怒に濡れた獣の唸りのようだった。
「う、動くなって」
「美坂から離れろ。美坂に触れるんじゃない。さっさと離れろ。今すぐ放せ。今すぐにだ。さもねえとてめえ」
サラームがゆっくりと伏せた眼をあげ、血走った視線をD−4へと当てた。
D−4は文字通り震え上がった。
「生きたまま地獄を味わわせてやる」
化け物の眼をした兇人が其処に居た。
to be next bullet.
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