「こちらD−1。配置完了した。これより突入。クイーンを確保する」

インカムに低く語りかけながら、D−1――Dチーム・リーダーはなかなか緊張感が張り詰めない自身の精神に、軽く気合を入れなおした。わざわざそんな事をし直さなければならないのも、今回の任務があまりに簡単なものだからだろう。さり気なく見渡した視界には、自分と同じ外国人ビジネスマン風の男が四人。尤も、内二人はアジア系であるため、外国人とは思われないかもしれない。どちらにせよ、都内にあるこのホテル・ミネルバでは商談のために来日している外国人ビジネスマンの姿は決して珍しくはない。一般人には一瞥で不信がられる事もないだろう。
 四人の内、二人は自分と共に718号室の前に張り付き、残る二人は廊下の両端で見張りに立っている。

 たかが、素人の女独り拉致するのに大袈裟な話だ。

 D−1はメリクリウス部隊長【少佐】ギュゼッペ・フォザッティの相変わらずの慎重さに苛立ちという程ではないものの、物足りなさを感じていた。尤も、その十重二十重の慎重さこそが彼を一流の指揮官たらしめている事は認めているし、それ以上に敬意を覚えている。また、機さえ得たのなら、彼は慎重居士が嘘のように恐るべき大胆さを発揮する。不満などは抱きようもなかった。
 それでも、今回ばかりはどうだろう。
 作戦目的は『クイーン』のコールサインを与えられた女の拉致と、研究データの奪取。ターゲットの殺害は認められてはいないものの、相手は自分が狙われているのも知らない無警戒の、それも銃を握った事もないような素人の若い女だ。そんな簡単な作戦に、【少佐】はDチームの他に3チームも戦闘待機状態に置き、警戒要員を二十名以上も投入している。通常ならば、過剰な人員投入と言われても仕方ない。
 無論、D−1はその理由を理解していた。『メリクリウス』には、この後アドルファスの残党の殲滅が命じられている。D−1は何故かは知らないのだが、そのアドルファスの残党が『クイーン』の奪取を妨害しに来る怖れがあるというのだ。怖れ、と【少佐】は口にしていたが、D−1は違うだろうと検討付けていた。それくらい分からなければ、チームリーダーは拝命していない。そう、これは誘引作戦。餌は『クイーン』、獲物はアドルファスの残党【銀星】【サラーム】【アプサラス】の三名というわけだ。獲物がわざわざ罠の中に飛び込んで来るかどうかについては、D−1は疑問を抱いていたが。
 だが、その時は単に次の掃討作戦に『クイーン』を人質に使えばいい話。また、女には組織の管理化で何らかの作業を強制する事となるというから、誘引が失敗に終っても、この作戦自体は無意味ではない。まさに【少佐】らしい慎重ながら無駄のない作戦だ。

 とはいえ、D−1は自分が気楽な立場にいると認識していた。既にホテル内は洗浄済み。不審人物の存在は確認されておらず、外部からの侵入には、ホテル各所の出入り口、通路に配置した警戒要員がすぐに報告をあげてくるはず。つまり、警報が鳴らされない限り、自分たちは無抵抗の女を捕まえるだけなのだ。

 彼は、完全に間違っていた。

『マルス2了解。ドアロック解除まで5カウント』

 耳朶を、イヤホン越しの冷たい女の声が打つ。そして、言葉通りきっかり五秒後にドアから開錠の甲高い音が響いた。
 D−1は無言で手を振る。突入のサイン。同時にドアを挟んだ向かいに佇んでいたD−3がドアを引き開け、D−2が内部へと押し入る。淀みのない、慣れた動作。
 だが、油断があった事は否めない。
 懐の拳銃も抜かず、無手で――当然だ。人間を必要以上に傷つけずに捕えるのに、銃は有効な武器ではない――ドアを潜ったD−2が見た者は、突然の侵入者に硬直する『クイーン』ではなく、木偶人形でも見るかのような目で此方を見据え、メタリックシルバーの拳銃をウェーバーに構えた見知らぬ女の姿だった。

「―――ッ!!?」

 銃を抜く暇どころか、声をあげる刹那すら彼には与えられなかった。

 消音器越しのくぐもった銃声が聴こえてから、D−1が懐のガバメントを抜き放つまで1秒フラット。予期しない事態に出くわした中での反応速度としては賞賛に値するだろう。だが、予期しなかった時点で、彼に生存の可能性は存在しなかった。
 フワリ、と視界を蒼くすら見える漆黒の髪の毛が過ぎる。同時に、向けようとしたガバメントを上から掴まれる。恐怖も戦慄も、何も感じる暇すらなかった。ただ、冷たい息吹が胸中を走る。
 その髪の奥から、透き通った黒の眸が此方を視たのを最後として、D−1――パトリック・コスグレーブという名の男は右目を撃ち抜かれて絶命した。



 見事な反応を示した二人目と違って、間抜けにも呆然と立ち尽くしている三人目を即座に始末する。そして、水瀬名雪は動作を止めぬままスライドが引かれる音に身を翻した。凡そ12メートル先のT字路で、黒光りする銃を構える男。名雪は躊躇いもせず、残った9mm弾13発を連射した。動揺しきった相手の銃弾は僅かに名雪の右頬と右肩を掠っただけで全て外れ、名雪の放った銃弾は四が男の上半身にめり込み、二発が頭部を抉って、男はもんどりうって倒れ伏した。
 名雪はそのまま銃を放り出すと、前転しながら足元に転がったガバメントを拾い上げ、カーペットに膝を付き、反対側の廊下奥へと銃口を構える。

「……いない」

 銃声の余韻が薄れゆく中、光量の抑えられた灯りに浮かぶ廊下の奥に、銃を持つ敵の姿は見当たらなかった。
 セオリーからすれば、そこに人員を配置していないはずがない。だが、影どころか気配すら窺えず、名雪は大きく息を付きながらガバメントを降ろした。恐らく、引いたのだろう、と名雪はあまり面白くない想像に一拍、目を閉じた。
 突入といい、躊躇いのない引き際といい、敵は想像以上に組織化されており、また練度も高い。今だとて、不意を打てなければかなり危なかった。

「保険、掛けておいて正解だったね」

 ガバメントのマガジンを集め、ベルトに捻じ込みながら独りごちる。
 美坂香里の名義で宿泊している718号室。だが、香里本人が泊まっていたのは今朝までだ。名義はそのままに、香里は既に今晩から名雪名義でとった別の部屋に宿泊している。香里を取り巻く妙な雰囲気に、念のために本人には知らす事無く、ホテルの都合を装って移動させておいたのだが、どうやら正解だったようだ。連中が香里の居場所を探り当てることは、少なくとも短時間には難しいはず。

 それにしても、何者が相手なのか。電話の向こうで母が告げた事実とは些か食い違う様相を呈している現状に、名雪は困惑を隠せない。だが、五里霧中の状況下でも変わらないものもある。敵の狙い、そして水瀬名雪が為すべき事。美坂香里を守るというその一点だけは、何があっても変わらない。

 と、不意に、廊下を照らしていた電灯が消え失せた。一瞬視界が漆黒に塗りつぶされる。すぐさま非常灯へと明りが切り替わる中で、廊下の数箇所から鍵の閉まる音が次々と響き渡った。
 心なしか、名雪の顔色が蒼ざめる。

「しまった」

 オートロックの鍵が苦もなく開けられたその意味するところを、理解していなかった事を悔やんだ。どうやら既に、このホテルのコントロールは敵によって掌握されているらしい。ただ単に銃を手に押し入っていただけではなかったのだ。組織化されているどころではない。相手は、ハウンド並に訓練されたSOF紛いの戦闘部隊だ。
 たった今、完全にこのホテルは外部から孤立化させられたはず。名雪は急いでその場を離れながら、自身の携帯を取り出した。案の定通話不能を示している画面。やはり逃げるどころか、外部と連絡を取る事すら叶わないらしい。これでは、銃声を聞いた宿泊客や従業員が警察に通報するのも期待できない。敵は、邪魔者は部屋に押し込め、じっくりと此方を狩るつもりなのだろう。この調子だと、明け方近くまで敵は何の妨害もなくホテルを支配下におけるはず。
 鍵の開閉が向こうの思い通りな以上、空いた部屋に逃げ込む事すら不可能。監視カメラも向こうの手にあるはず。オマケにこっちにはマガジンが残り一つしか無いザウエルと、ガバメントだけだ。まさかこんなことになるのなら、アサルトライフルの一つでも持ってくるんだった、と出来もしない事が脳裏を過ぎった。弱気になっている自分に、名雪は気付く。

 空調の聞いた廊下の空気は、今はどこか異物を排除するかのように冷え切っている。馴れ親しんだ静謐さ。いつのまにか書き換えられた世界。疾駆しながら、名雪は薄らと目を細めた。
 住み慣れた夜。血の迸る夜。涙の乾く夜が来た。
 さあ、此処からは硝煙をドレスに纏い、銃弾とダンスを踊る舞踏会の時間だ。
 だが、ともに踊るべきパートナーは、今ここには存在しない。

「……祐一」

 ルージュの引かれた唇が、その人の名を口ずさむ。
 それだけで、絶望を乗り越える力が湧く。生きる意思が生まれる。生き残りたいという渇望が宿る。

「香里を……守るんだ」

 火照りにも似た決意を抱き、水瀬名雪は銃把を強く握り締めた。
 そして、祈るように思う。

 北川くん。これはあなたの差し金なの? あなたは、ずっとあなたを待ち続けている人を、その手に掛けようというの?
 もし、そうなのだとしたら――

「わたしは、貴方を許さない」










『こちらD−4! イレギュラー発生』

 突如響き渡った感情の爆発した声に、腕を組んで報告を待っていたメリクリウス隊長ギュゼッペ・フォザッティの薄い瞼がピクリと震えた。
 決して広いとはいえない密室を圧するかのように敷き詰められた機械類。その隙間には、佇むギュゼッペのほかに三人の男女が座を構え、眼前のコンピューターの画面へと向かっている。
 すなわち此処が、メリクリウスの司令部だった。
 ギュゼッペはレシーバーを手に取り、問い掛ける。

「マルス1だ。なにがあった」
『女だ。クイーンじゃない。女が部屋の中からいきなり撃ってきた。Dチームは自分以外全滅だ!』
「女だと? 【アプサラス】か?」
『いや、相手は東洋人だった。年齢は二十前後。髪は黒。長さは背中まで。茶色のジャケットにボトムジーンズ。武器はハンドガン。くそっ、ありゃなにものだ!?』

 ギュゼッペは思わず舌打ちをしかけ、だが感情を発露したいという誘惑を捻じ伏せる。
 指揮官がいちいち不測の事態に反応していては、部下の信頼など得られない。
 それにしても、女だと? 待ち伏せされていたのか。いや、それにしては独りだけというのが解せない。武器も貧弱だ。チームが全滅させられたとはいえ、此方の襲撃を予測していたにしては対処がお粗末すぎる。
 もしかしたら、また別に人員を配置しているのかもしれないと考え、ギュゼッペはすぐさま否定した。武装した人間が多数紛れ込んでいるのに気付かないほど自分たちは間抜けではない。そもそも、人数を揃えているのなら、此方が動き出すのを待つ必要はないはず。ならば一体……
 不確定要素の出現に、ギュゼッペは言い知れぬ苛立ちを感じた。

「少佐」

 指揮官補佐を務める女性から呼びかけられ、ギュゼッペは小さく頷いた。
 そうだ、相手が何者であるかを此処で考えても仕方がない。確かに、予想していなかった不確定要素ではあるが、元々【サラーム】たちの襲撃を想定した配置を行っている。待ち伏せされていたのではない以上、それを、振り向ければいいだけの話だ。今後、奴らの襲撃がある可能性も排除できないが、既にホテルは掌握済み。外部からの侵入を許すほど間抜けではない。対処の方法も時間も有り余るほどある。主導権は此方のまま揺らいではいない。問題は何もなかった。

「D−4。貴様はそのまま退け。ゲートにて待機」
『りょ、了解』

 そのまま無線機の各回線を開く。

「此方マルス1。各リーダー、状況は把握してるな」
『『『ヤー』』』
「よろしい。プランをエクストラに変更する。ホテルの全通信網をカット。電波妨害の周波数を強化。出入り口、ゲートを封鎖。全個室のドアをロックしろ。AからCチームは装備アサルトで90セコンド後突入開始。不確定要素は以降『ノワール』と呼称。これを排除せよ。その後、クイーンを確保だ。オールウェポンズフリー。障害は排除。此方からは一切の制限を施さず」

 障害は排除。すなわち、運悪く部屋の外に締め出された民間人は、遭遇次第射殺せよとの命令だ。
 間髪入れず、応答が来る。

『A−1了解』
『B−1了解』
『C−1了解しました』

 ギュゼッペは満足げに頷いた。

「では、状況を開始する。貴公らの手で舞台を整え直してくれ」
『イエッサー、コマンダー!!』








「あれ?」

 ホテルミネルバの十五階にあるバーのカウンターで、いつものようにグラスを磨いていた高村繁和は、不意に非常灯に切り替わった照明に、驚いて落としそうになったグラスを慌てて両手で握りしめた。

「停電か?」
「はじまった」
「え?」

 凍土から溶け出したような冷たい声に、高村は思わず目の前でカクテルを飲んでいた本日最後の客の一人である女性の方へと顔を向ける。
 シックなオーバーコートに、踝まであるゆったりとした深紫のスカートを典雅に着こなした、軽くカールさせたショートカットが印象的な女性。その性別にしては背が高いように思えるが、どこかやわらかい雰囲気を纏っており、高村は密かに二時間ほど前からグラスを傾けている彼女の相手をするのをバーテンダーとしての立場以上に楽しんでいたのだ。
 その彼女が徐に、掛けていたパープルのファッショングラスを外した。眼鏡の奥に隠れていた瞳が露わとなる。
 高村は息を呑んだ。

「あ、あんた」
「バーテンさん、あんた此処でじっとしてた方がいいよ。このホテル、これからヤバい事になるからさ」
「お、男?」

 彼女――いや、彼はニヤリと高村に笑いかけると、足元に置いていたチェロケースを勢い良く踏みつけた。蓋が開き、跳ね上がるように飛び出す黒く長い鉄の塊。
 彼は空中でそれを掴むや、セーフティーを外し、振り回すように引き金を引いた。それまでバーの入り口付近でチビチビと酒を呷っていた男二人が、慌てて立ち上がりながらインカムに手を伸ばした所で、銃弾の雨に吹き飛ばされる。

「あわ、あわわわわ」
「カクテル、美味しかったよ。ごちそーさん」

 腰を抜かした高村に軽く手を上げ、眼鏡を掛けなおすと、彼――北川潤はチェロケースを左手に、サブマシンガンを右手に携え、何事もなかったかのように席を立った。
 高村に背を向けた彼の面差しに、もはや一片の笑みもない。
 酷薄とすら呼べる瞳の色に、噛締めた唇だけが似合わない。

「今度こそ、相沢に殺されるな」

 それも友情からではなく、憎悪を以って。それも仕方ない。何しろ彼の最愛の人――水瀬名雪を囮に使い、絶望的な状況へ放り込んだのだから。
 既に、メリクリウスは彼女を排除するために動き出しているだろう。はたして、どれだけ凌げるか。無論、出来れば見殺しにはしたくない。だが、それも状況次第だ。

「くそっ、後悔するくらいなら……」

 自分が真正面から突っ込めば良かったか?
 馬鹿げた考えに、北川のルージュが引かれた唇が歪んだ。
 それは出来ない。出来る訳がない。失敗は絶対に許されないのだから。そう、例え、親友を使い捨てるはめになったとしても失敗だけは許されない。

「…………」

 口の中に満ちた血の味に、北川潤は自分がつくづくこの世界のルールに適応できない人間なのだと思い知った。
 それでも、地獄のような道を耐えて進まねばならない。
 なぜならば、北川潤には決して違える事の出来ない決意があるのだから。
 屍を踏み越えたその先に、煉獄という名の悪夢しか在り得ないのだと分かっていても。北川潤にはもう迷う事すら赦されない。
 決断は、既に下したのだから。

「……往くぞ」

 呪いじみた静寂を蹴破るように、北川潤は血と硝煙の薫る戦場へと歩き出した。






  to be next bullet.





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