―――― シアトル・シティ 


「はぁはぁはぁはぁ」

 普段は無に近いまでに消せる足音が今はシンバルのようにかき鳴らされている。もはや、足音に傾けるほどの余裕も無かった。
 何故だ?
 雑然とした路地裏を駆け抜けながら、トーマ・リューベックは今となっては無意味でしかない疑問にその思考の大半を傾けていた。
 何故、こんな事に。

「トーマ! そっちは行き止まり!」
「くっ、東は?」
「展開状況から鑑みて、一番に封鎖されてるはず。ファッキンッ、なんでこんな!」
「取り乱すな、ミア。こっちだ!」

 相棒であるミアン・R・バックマスターの手を引き、トーマはヒト一人がようやく通れそうなビルの隙間へと身を躍らせた。

「どうするの、トーマ。このまま逃げてもアタシたち――」
「言うな、今は逃げる事だけ考えていろ!」

 云われずとも理解はしている。この場を逃れたとして、いったいどうすればいいのだ。見知らぬ土地で、金もなく頼るべきヒトもなく、あの巨大な組織からどうやって身を隠せばいい。
 いや、そんな将来の心配をしている暇など今の自分達には欠片もないのだ。今この瞬間を生き抜かなければ―――

 通路とも呼べぬビルの隙間を抜け、僅かな照明だけが闇を照らす裏路地へと飛び出したトーマは、次の瞬間、後ろを走っていたミアンを渾身の力を込めて突き飛ばした。
 身体を捻り、既に撃鉄を起こしていたシングルアクションの自動拳銃FNハイパワーを、非常階段の踊り場目掛けて撃ち放った。
 短機関銃のバースト音と自動拳銃の乾いた射撃音が冷たい静寂を掻き乱し、そして物悲しい余韻を残し、消えていく。

「トーマァ!!」

 トーマ・リューベックはぼんやりと、悲痛な叫びをあげながら走り寄ってくる相棒の歪んだ顔を見つめた。
 ああ、ミア。そんな喉を傷めるような声は出さないでくれ。君の綺麗な声が聞けなくなるのは辛いじゃないか。

「弾切れだ」

 眉間を撃ち抜かれ、非常階段から落下してきたグレイの戦闘服の男を見届けたトーマはユラリと地面に膝をついた。その手から、弾の無くなったFNハイパワーが力無く零れ落ちる。
 体中が燃えさかっているかのように熱い。目が眩む。喉がひりつき乾いていく。
 命が抜け落ちていく。

「トーマッ、トーマ!」
「行け、ミアン」

 9mmが自己診断で少なくとも3発、恐らくはその倍以上、全身にめり込んでいる。もう、一歩も動けない。
 だが、行けと促せど、彼女はもう動こうとはしなかった。身体同士が溶け合い混ざり合うのを望むかのように、トーマの血塗れた身体を抱き寄せる。
 アッシュブロンドの美人というより可愛いと賞するべき容貌を持つトーマの相棒は、泣き顔に笑みを浮かべ、小さく首を振った。

「ごめん。もう無理だ」

 機能を停止しかけている聴覚にも、ぞろぞろと四方から足音が集まってくるのが分かった。
 囲まれた。もう逃げ場は無い。チェックメイト、自分達の運命は此処までだ。
 彼女だけでも逃がせない事だけが、心苦しい。

「一緒に逝くよ。相棒だろ、あたしたち」
「嬉しい事を、云ってくれる」

 彼女が手に銃を握らせてきた。
 そして、愛を語るように穏やかに囁く。

「死は二人を別たず。死してなお、煉獄まで手を取り合って腕を組み、共に歩まんってね。
 お願い、トーマ。アタシはトーマ以外の奴になんか殺されたくない」
「……わかった」
「ありがと、トーマ」
「君とサファイアのデュエットをもう一度聞きたかったよ」
「サフィはしぶといからそう簡単には来ないと思う。アタシだけで良かったら幾らでもあっちで聞かせてあげるよ」
「ふふっ、それは楽しみだ」
「サービスだからね」
「………すぐ追いつく」
「うん、待ってるから、トーマ」

 唇を重ね、抱き締めながら、トーマは銃口を彼女の心臓に押し付けた。

 ――――ドンッ

 くぐもった銃声とともにミアンの身体が痙攣し、重ね合わせた唇から、血が溢れ出す。やがてぐったりと弛緩した彼女の身体を横たえ、トーマは顔をあげた。
 霞み征く視界には、追いついてきた敵たちが、一斉に短機関銃の銃口を此方目掛けて掲げる様が映った。

「なぁ、キィ。どうしてなんだ?」

 自分と彼女の交じり合った血の味を噛締め、ゆっくりと手にした銃を持ち上げながら、トーマは夢うつつに口ずさんだ。

「どうして、家族(ファミリー)を裏切った」

 ヴォルフ・D・アドルファスの急死。
 そして、ノクターン幹部大会合『円卓会議』がフェスタ・ロシュフェダルの独壇場に終わり、その躍進にアドルファスの後継としてファミリーの実権を握った北川姫里が一枚噛んでいた。
 その情報を入手した時には全てが遅かった。
 気が付いた時には、アドルファス子飼のエージェントである自分たちは、組織から敵性分子として追われる身分と成り果てていた。ろくな武器も備えもなく、勝手の分からないこの土地でフェスタの手勢とやり合うはめとなり、この様だ。
 何故だ? その疑問を晴らす事は叶わない。もうあと数秒を待たずして、自分はここでミアと共に潰える。
 トーマは、恐らく自分と同じ状況へと追い込まれているであろう仲間を思った。そう、この血と硝煙に塗れた世界の中で、仲間などという生ぬるい言葉で繋がる事が出来た者たちの事を。
 この地獄のような世界で、唯一安らぎと言うものを与えてくれた者達の事を。

「死ぬなよ、みんな。サラーム、おまえは妹を――」

 八つを数える銃口から一斉に火線が解き放たれ、アドルファスの牙の一人、トーマ・リューベックはこの苦痛に満ちた世界から永遠に旅立ち、相棒の後を追った。










「【伯爵(カウント)】トーマ・リューベック。
 【シェイク・ハンド】ミアン・R・バックマスター」

 感情の消え失せた声音が、刹那だけ揺らぎ、そして吐き出される。

「死亡を確認。『ロンドベル』は死傷者九名を出して撤収した」
「徒手空拳に等しい上に、目隠しされたも同然の相手にその被害。フェスタの手勢がだらしないのか、それともトーマさんとミアさんを称賛するべきか。どちらにせよ、この調子だと、フェスタも今ごろ渋面だろうね」
「だが、奴は屈しないぞ」
不屈の(ドーントレス)大蠍。フェスタ・ロシュフェダル。分かってる、彼の一番怖いところはそのへこたれないところなんだから」

 かつてヴォルフが腰掛けていたマホガニー製のテーブルに頬杖をつき、漆黒のドレスを身に纏った可憐なる少女は、その大きな眼を薄っすらと細めて、真向かいに立つ腹心を見据えた。

「なにか云いたい事でもあるの? リック」
「……いや」
「……エルマ・ブラウン。ナジャフ・イレスタリ。コーネリア・ランジュバン。ジュゼッペ・ガルヴァルディ。ゲオルギー・ワレンコフ」
「…………」

 列挙されたかつての仲間の名前に、だがフレデリック・アーロンは身動ぎもしない。
 姫里はまどろむように瞼を閉じると、静かに訪ねた。

「辛い? 仲間が死んでいくのは?」
「オレにはもう彼らを悼む資格は無い」
「……リック。あなたが悼まなければ、あの人たちを弔う人がいなくなっちゃうよ」
「…………」
「資格がないのはあたしだけ」
「おまえこそ、辛くは無いのか?」
「辛いよ。みんないい人だったもの。でも、それがどうかした?」

 事も無げに言い切り、姫里はうめくように笑い声を奏でた。

「パーティーはまだ始まったばかりなんだ。今から飽いてたらやってられないよ」

 アーロンは沈痛な面持ちでしばし眼差しを閉じ、黙すると、閂の掛かった扉を開くように重々しく口を開けた。

「『メリクリウス』が日本に発った」

 栗色の髪の少女のくぐもった笑い声が途絶える。
 やがて、和やかとすら表現できる口調で彼女は口ずさんだ。

「……そう。そりゃそうか。フェスタもあたしにやりたい放題させるつもりはないみたいだね」
「どうする?」
「どうも、しないよ」

 アーロンは胸に走った寂寥と戦慄に、悲しみを覚えた。姫里よ、それが果たして兄のことを語る妹の表情なのか。

「メルクリウス程度の介入で、何かが変るとでも? ふふっ、あはははは、そんなもの、何の関係も無い。邪魔者は邪魔者でしかない。選択は既に突きつけたんだ。後はお兄ちゃんがどちらを選ぶか、ただそれだけ」

 酷薄としか表現できない微笑を以って、北川姫里は陶然と囁いた。

「そして、あの人の……美坂香里の生死は決定される」

 もう、決めた? おにいちゃん。
 誰を求め――誰を見捨てるかを。


 貴方の唯一無二たる(ヒト)は誰?









§  §  §  §  §









 ―――― 東京






 帰ってきた。東京は見知った街ではなかったが、当たり前のように空港ロビーの喧騒から漏れ聞こえてくる言語が日本語である事で、美坂香里は帰郷という言葉を意識する。 日頃は鬱陶しい人ごみのざわめきが、今この瞬間だけは心地良く。香里はトランクを足元に置き、まどろむようにロビーにごったかえす人波を眺めていた。

「遅いわね」

 人の波を眺めることは、思った以上に暇潰しにはなっていたものの、さすがに飽きを抱き出し、香里は手元の時計を覗き込む。
 午後三時。多少飛行機が遅れたとはいえ、午後一時には到着すると伝えておいたはずだから、もう来ていておかしくないのだが。

「……むっ」

 香里は片目を見開き、ロビーのある一方向を注視した。無秩序に見えて流れのある人の動き。それをかき混ぜるようにウロウロと彷徨っている女性がいた。誰か人を探しているらしいのだが、それほど慌てた様子もなくノホホンと8の字を描いて歩いている。

「まったく、ちょっとは焦りなさいよ」

 苦笑気味に呟いたその声が聞こえたわけではないだろうが、その女性は不意に香里の方へと顔を向けた。破顔する。

「香里ッ!」

 香里は片手をあげて応える。その顔に微笑をたたえて。久々に顔を見る親友は、昔と同じ暢気そうで、でも目の覚めるような美人へと変貌していた。

「お久しぶり、名雪」










「まったく、あんたの運転する車に乗るようになるとは思わなかったわ」
「うー、それどう言う意味?」
「ほぼ百パーセントの確率で居眠り運転する娘が免許なんか取れるわけないと思ってたって事」
「ひどいなあ。教習所で乗る時間くらいは眠気我慢できるよ」
「……免許返上しなさい。あんた、公道走るの危なすぎるわ」
「なんで?」

 自覚の欠片もない名雪。香里は不安げにシートベルトに手をやり、締まり具合を確かめる。
 今のところ、彼女の運転に危険なものは感じられない。だが、ふと気がつけばいつの間にか眠ってそうな運転者だ。助手席に座っていても、気の休まる時間もなかった。
 空港から街へと伸びる幹線道路。名雪の駆るフェアレディZは軽快に景色を背後へと吹き飛ばしながら疾駆する。

「相沢君は元気?」
「うん、元気元気。相変わらずだよ」
「そう、何も変ってないんだ」

 頬杖をついて窓の外を眺めながら、香里は懐かしむように口ずさんだ。

「今日もお仕事が入ってなかったら一緒に来れたんだけど」
「明後日には秋子さんと一緒に顔出してくれるんでしょ。それまで楽しみに待ってるわ」
「うん、そうだね。香里、シンポジウムは明日だっけ」

 香里の所属する研究室で、実質完成にまで漕ぎつけようとしているある内臓疾患の特効薬。その経過報告が今回この都市で開催されるシンポジウムで発表される。

「ええ。明日、それから明後日の懇談会に参加したら、一旦実家に顔を出す予定」
「栞ちゃんとも久しぶりなんでしょ?」
「……そうね」

 妹とは、彼女がアメリカまで訪ねてきた時以来になる。合衆国の大学に入学した後、一度も家に帰っていないのだから、それも当たり前だろう。幾度も帰ろうと思った事はある。だが、どうしても足を向ける意思が固まらなかった。行けば、思い出してしまうから。がむしゃらに生きることで意識の外へと押しやっていたあの別れを、あの街は思い出させてしまうだろうから。
 だが、今こうして再びあの街に戻ろうとしている自分が居る。

「あたしは……」
「ん? なにか言った?」
「ううん、なんでもない」

 笑って名雪の視線をいなし、香里は流れて行く景色に意識を投げかける。
 あたしは、もう彼を諦めてしまったのだろうか。厳然と香里という女に刻まれているはずの彼への思いを、過去のものとしてしまおうとしているのだろうか。
 もしかしたら、そうなのかもしれない。だが、そうなのだと言い切る事も出来ない。
 忘れろと理性が叫び、忘れたくないと心がすすり泣く。そう、今なお美坂香里の中の葛藤は途切れてはいない。存在の底辺にこびりついた後悔と切望は未だ色褪せてはいなかった。
 香里の時間は止まったままだ。どれだけ周りの時間が流れ、彼女自身が変り続けたとしても、香里の心の時は、あの日地面に額を擦りつけて泣いた瞬間から、凍りついたままなのだ。

「あたしは、どうしたらいいのかしらね、北川くん」


 ぼんやりと、物思いに耽る親友の横顔。彼女が今、何を考えているのか、水瀬名雪には手にとるように分かる。それが、北川潤が自分達の前からいなくなった頃から香里が時折見せるようになった面差しと、何一つ変っていなかったが故に。
 その横顔は、水瀬名雪を哀しみに浸す。前にも後ろにも進む事の出来なくなった香里。彼女を支える希望さえあれば、彼女は前に進めただろう。すべての光を閉ざす絶望さえ与えられたなら、例え一時心折れ、膝を屈しようとも、やがて新たな道をやり直す事が出来たかもしれない。
 だが、絶望も無く希望も無く、生きているのか死んでいるのかも分からない中途半端な現実は、美坂香里を檻へと閉じ込めたまま彼女を何処にも行かせようとしない。檻を開く鍵の名は北川潤。鍵を差し込む穴は二つ。希望と絶望、生と死だ。たとえ生きていようと死んでいようと、北川潤という存在を香里の前に差し出す事で、彼女の檻は開かれる。
 そして……

 私たちは絶望の鍵穴に鍵を差し込むのだと決めた。

 水瀬名雪は暢気な面差しを崩さぬまま、強く奥歯を噛締めた。
 平然と、香里の隣にいる事が酷く辛い。当たり前だ。親友の想い人を殺すと決めながら、何も感じずにいられるほど、名雪は人としての在り方を損なってはいない。
 だが、その冷酷な決意に微塵も動揺せず、また後悔もしない哀しい強さを、水瀬名雪はこの数年で身に付けてしまっていた。否、それは最初からあった要素なのかもしれない。名雪という女の基盤に生来から組み込まれていたものが、冷たい現実を過ごすうちに顕在化してきただけなのだろう。
 自分はそういう女なのだと、水瀬名雪は自嘲する。

「………?」

 刹那、緩んでいた名雪の双眸が鋭く尖りを帯びた。視線が素早くサイドミラーとバックミラーを往復する。助手席に座る香里に違和感を抱かせないように、すぐさま眼光を抑えながら、名雪は自分の感じたものを分析する。

 監視されてる?

 習慣から、怪しい車に尾けられていないかどうかは常に確認している。空港からの道のりで、今のところ同じ車が背後についている様子はない。だが……どうやら複数台の車が交代でこの車の様子を窺っている節が見受けられた。

 空港でも、妙な感覚がしてたんだけど……気のせいじゃなかった、か。

 実は、空港には時間通りとはいかずとも、多少遅れた程度で到着はしていた。だが、正面ゲートのすぐそばのベンチに腰掛けている香里を見つけ、声をかけようとした際に名雪は不自然な視線を感じたような気がして、しばらく様子を窺っていたのだ。
 あの雑然とした人ごみの中での、妙に焦点がずれた視線。それは熟練した尾行者特有の、視覚の端で対象者を捉え続けるというスキルから感じられるタイプの視線の感触。無作為にフロア内を歩き回る事で、感じた視線が本物か、また視線の元を確かめようとしたのだが、あまりにも人が多く、また自分に向けられたものでないためか、はっきりした見解を導き出す事は出来なかった。
 だが、車上でも監視者の存在を気取ってしまった以上、空港での違和感も錯覚ではなかったと考えるべきだろう。

「ねえ、香里。久しぶりだしさ、ホテルの部屋、一緒に泊まってもいいかな?」
「え? そうねえ。積もる話もある事だし、構わないかな。あ、でも、あたし、明日は早いわよ」
「……どういう意味?」
「あんたを起こしてる暇ないって事」
「あー、ひどい。わたし、もうそんなにねぼすけじゃないよ」
「さて、どうだか」

 背中を震わせて笑う香里に、ぷーっと頬を膨らませながら、名雪は冷静に思考を走らせ、今後の取るべき方針を採択していった。
 相手がどういうつもりで香里を監視しているのか分からないけど、万が一という事もあるからね。わたしの勘だけが根拠じゃ、応援を頼むわけにはいかないし……祐一がいてくれたらよかったんだけど。
 だが、プライベートでも協力してくれるであろう恋人兼相棒は、今出張でメルボルンだ。
 後で母親でもある日本支部長に、美坂香里を取り巻く状況を洗うよう頼んでおこう。もしかしたら、この監視者たちの背後関係がわかるかもしれない。

「杞憂ならいいんだけど」

 小さく独りごちながら、名雪はハンドルを切り、フェアレディZを幹線道路から降りるルートへと滑らせた。











§  §  §  §  §












 目論見は分かっている。
 ああ、今更断るわけにもいかないだろう。BM製薬は上客だからな。
 だからといって、あの女の思惑通りに事を運ばせるというわけにもいかないぞ。
 傀儡人形は人形らしく居てもらわなければな。
 侮ってはいないよ。彼女はあの二人の娘なのだから。
 だからこそ、彼女にこれ以上手駒を与えるわけにはいかないのだ。

 そうだ。もう送った。メリクリウスだ。













§  §  §  §  §













 ――― 美坂香里、東京到着の翌日


 ――― 家属公司東京本部ビル 17階





 ヴォルフ・D・アドルファス死すの報は、文字通り裏社会全体を震撼させた。
 世界有数の犯罪結社『ノクターン』の実権を握るであろうと黙されていた男の死は、それまで微妙なバランスを保持していた裏社会の秩序を崩壊させ、今は混沌の海へと呑み込もうとしている。
 世界各地では犯罪組織同士の小規模な争いが頻発しており、抗争は激化の一途を辿っている。中でも一番活発な動きを見せているのが、フェスタ・ロシュフェダルという男であった。
 アドルファスが退場した直後に開催されたノクターン幹部による大会合『円卓会議』で事実上組織の実権を握ったフェスタは、今のところ、対立姿勢を匂わせている幹部たちと正面きって争ってはいないものの、実に意欲的に自身の地盤固めを開始している。積極的に合法・非合法を問わず経済基盤を拡大し、戦力の増強を図りだしているのだ。
 早晩、自身の権勢を唯一にして確かなものとするために、実力を行使する―――すなわち、大規模な抗争が勃発するであろうという予想は、周知のものとなりつつある。
 既に、その動きは始まっているといってもいいかもしれない。世界の各都市で、GBはアドルファスの子飼いの部下たちが次々と抹殺されている事を確認している。
 何れ、敵に回りかねない危険分子を粛清に掛かっている、とGB上層部では判断していた。

「……………」

 緊迫感を増す裏社会の現状。自然、裏社会の一員でもあるGBもまた、この流れに対応するために慌しさを増していた。そして、極東支部長でもある水瀬秋子もまた当然の如くこの潮流に飲みこまれ、まともに自宅に帰れない日々を送っている。
 同時に胸にわだかまる虚しさを抑える事が出来ない。
 秋子は憂鬱な溜息を落すと、内線で十分ほど取次ぎを停めてくれと頼み、一時の休息を挟む事にした。

「受身でしかいられないというのは、もどかしいものですね」

 GBは今回の事態に対して、特に積極的な行動を予定していなかった。それも当然の事だ。GBは確かに法の側に位置する超法規的組織ではあるが、犯罪を取り締まり、また検挙する事を目的とした組織ではない。あくまで要人警護と社会的危険分子の排除を目的として、各国の協力と支援と黙認の元、設立された機関なのだ。確かにノクターンとは組織の存在目的上常に敵対関係にある が、だからといってこの機会に乗じてノクターンなどの犯罪組織に打撃を与えようと言う攻撃的意思をGBは持ち合わせていない。
 各国から完全に独立した意思決定機関を有し、独自の戦力を有するGBだからこそ、その戦力や諜報能力を独自の意思で積極的に使用する事が出来ないのだ。そんな事をすれば、すぐさま世界各国からその存在を危険視されてしまいかねない。
 各国の政財界に深く浸透しているノクターンが相手ならば尚更だった。

 しばらくじっと紅茶のカップにたゆたう波紋を見詰めていた秋子は、ふっと睫を震わせ、視線を伏せた。
 先日、甥であり娘の恋人でもある青年が自分に告げてくれた事実が、今更のように重く圧し掛かる。GBのみならず、あらゆる組織がその実態を追い求めている暗殺者。【サラーム】の正体を祐一から聞いた秋子は、その事実を組織には告げず、自身の胸の奥に締まったままにしていた。むろん、それは組織の利益に反する行為であり、事実が知れれば重大な罰則が与えられるであろう服務規程違反だ。

「でも、そんな事は知ったことではない」

 自身の地位と責任を疎かにするつもりはない。だが、自身の目的と信念を覆してまで服すべきものではないとも思っている。
 水瀬秋子が再びこの世界の最前線に戻ったのは、娘達と同じ目的なのだから。
 義務と責任は自分の力の及ぶ限り尽くしている。だから、この件だけは――――

 不意に、卓上の端末がアラームを鳴らした。
 手の伸ばし、端末を操作すると、昨日名雪から依頼されていた美坂香里の背後関係に関する報告書が画面に表示される。

「昨日の今日で?」

 秋子は訝しげに画面に眼を走らせる。
 GBの情報部は無能どころか極めて優秀と評価できる能力を有している。だが、たった一日で入手できる情報には幾らなんでも限りがあるはずだ。相手が裏の世界とは何の関わりも無い一般人である以上は…………。
 だが、逆に考えるならば、情報部がサーチしている範囲に引っ掛かりさえすれば、その人物の情報はすぐさま集まるという事――――

「―――――これは」

 画面に視線を走らせていた秋子の表情が強張った。
 幽かに焦燥を滲ませながら、秋子はすぐさま卓上に設置されている電話の受話器を手に取った。
 時刻は既に夕刻から夜へと差し掛かる時間帯。今日は確か、美坂香里の本来の帰国目的であるシンポジウムが開催されていたはず。この時間だと既にホテルへと帰っているはず。それともどこかに寄り道しているか。
 名雪の持つ携帯の番号をプッシュし、秋子は焦りを抱きながら相手が出るのを待った。

『はい、お母さん?』
「名雪? 今、どこ?」
『うん、ホテルの部屋だけど……どうしたの? なにかあった?』

 まだ大丈夫だった。ホッと安堵を感じながら、秋子は早口に告げる。

「時間が無いから手短に云うわ。香里ちゃんに対して暗殺依頼がノクターンに舞い込んでいる」
『え?』

 ある程度の危機は予想していたはず。だが、秋子の告げた事実は彼女の想定していた最悪を上回っていたのだろう。名雪が絶句したと思しき詰まった呼気が伝わってくる。
 秋子は舌で唇を濡らし、続きを口にした。

「依頼主は合衆国大手の製薬会社、BM製薬よ」

 原因は新薬の利権問題。利権問題で新薬の製造法を開示して安く世界中に流通させようというつもりの香里と、特許を独占して利益を得ようとしていたBM製薬の対立が基だった。
 新薬の開発の大半を香里の頭脳に頼っていたため、BM製薬側もこれまで強く出られなかったのだが、ここに来て、開発に目途が立ち、その開発データさえ入手すれば他の人間の手で完成できると踏んだ製薬側が強硬手段に訴えでたのだ。

「聞きなさい。既にノクターンは依頼を受諾しているわ。そして、暗殺執行者はサラ―――」

 一瞬、ふっと向こう側で名雪が受話器から離れたを感じ取り、秋子は口を噤んだ。

「名雪?」

 返ってきたものは、秋子が母として聞いた事のない、怖気を感じるほど冷め切った娘の声だった。

『ごめん、お母さん。どうやら後手にまわったみたい。切るね』
「なゆ――」

 ブチリと音を立てて通話は途切れた。
 無機質な不通音だけが後に残り、秋子は唇を噛締める。

「まさか……もう?」

 秋子は受話器を一旦置き、内線を繋いだ。

「水瀬ですけど、ホテル・ミネルバに電話回線を………繋がらない?」

 受話器の向こうから、事務的な口調で現在ホテル・ミネルバの電話回線がトラブルで途絶している旨を伝えられ、秋子の受話器を握る握力が強まった。

「なんてこと」

 間違いない。そう、今この瞬間に、事態は始まったのだ。
 素早く別の部署へと回線を繋ぎなおし、次はやに命令を下す。

「そうです。ホテル・ミネルバ周辺の電波状況を詳しく調査して。至急よ。恐らく電波妨害が行われているはず。出来るだけ早く、妨害の拠点を割り出して」

 続いて、極東支部の実働戦力である即応対応班への回線を繋ごうと、秋子は端末のボタンに手を伸ばした。

「おっと」
「―――!?」

 それはあまりのも唐突で、秋子はしばらく自分の手が掴まれているのだと認識できなかった。
 端末を操作しようとした手は、向かいから伸ばされてきた誰かの手によりガッシリと掴まれ、動きを封じられていた。

「どうするつもりですかぁ、支部長」

 いったいいつの間に。つい数瞬前までには誰も居なかったはず。
 まったく気配を感じ取れなかった事に薄ら寒いものを感じつつ、秋子はすぐ目の前でニコニコと笑っている軽佻な雰囲気を漂わせる女に向かって、落ち着き払った声で答えた。

「ノクターンが部隊を動かしている気配があります。至急、此方も手勢を動かして――」
「動かして? どうするんですか?」
「――――ッ!」

 秋子は虚を突かれ、言葉を失った。
 そうだ。此方も部隊を動かして……それからどうするつもりだったのだ、自分は。

 女は掴んでいた秋子の手を離すと、せせら笑うようににやけながら、後ろ腰に手を組み、ピョンと飛び退った。

「だめですよ、支部長。私事で戦闘部隊なんか動かしたら越権行為どころの話じゃなくなっちゃいます」
「私事…ですか」
「はい、私事です。依頼もなく、自衛でもなく、独自の判断で戦闘行為を命令する事は独断専行ではなく、反乱行為です。我がGBの規範に治安維持・犯罪摘発の項目は存在しません。これは、現地警察組織の領分ですよ。あなたはご自分の独断で、GBの存在意義を覆すお積りですか?」
「……スティングレイ」
「あなたのご息女とそのご友人を保護するために揮下の部隊を動かす。これ、私事以外のなんだっていうんです? 困っちゃうなあ、あなたがそんな事じゃあ」
「スティングレイッ!」
「はーい、なんですか、支部長」

 秋子の歯を食い縛るような悲痛な叫びに、能天気に応じ【赤エイ(スティングレイ)】のビースト・コードを持つ女性エージェントは無邪気としか言えない笑みを浮かべて見せる。
 秋子は搾り出すように告げた。

「わかり、ました。わかりましたから」
「ならば結構です。んじゃ、あたしはこれで。支部長、ご自分のお立場をお忘れなく」
「わかって、います」

 顔を右手で覆い俯く秋子を、笑顔で、そして感情の消え失せた眼差しで一瞥して、スティングレイは踵を返した。

「あ、それとこれ、もう一つ提言です、支部長」
「……なんですか?」
「あんた、もう足洗った方がいいよ、この商売。そんな甘さが通用しないのは、百も承知でしょ?」

 顔を上げた秋子が見たものは、蔑みではなく憐れみだった。
 スキップを踏むように去っていく彼女の姿を悄然と見送り、水瀬秋子は掠れた声で呟く。

「そんなこと、わかってますよ」

 自分がもはや取り返しの付かないほどの甘さを抱くようになってしまっている事。その程度の事、この職務に戻った時には気がついている。
 娘たちが危機に巻き込まれた程度で冷静さを失っているようでは、統率者として完全に失格だ。
 わかっている。能力は損なっていないつもりだ。だが、その能力を何時如何なる時でも如何なく発揮するための冷徹さを、もう自分は有してはいない。
 切れ者と謳われ、敵対組織に畏れられた水瀬秋子は、場合によっては猛毒となり、所属する組織に致命的なダメージを与えかねない存在になっている。
 そう、つい先ほど、愚か以外のなにものでもない判断を下そうとしたように。

「名雪、香里ちゃん」

 だが、何も出来ないとしても、愚かだとしても、ただ茫然としているわけには行かない。まだ、今の立場なりに動く余地はあるはず。
 この場は娘の力を信じるしかない。そうだ、信じろ。娘を信じられず、何が母親だ。あの子は死なない。ましてや香里ちゃんを死なせたりなどするものか。
 そして、彼女達がこの状況を切り抜けることを信じるなら、今自分がやらなければならないのは、状況を僅かなりとも好転させるためのサポート。そして、その先の事なのだ。

「諦めるな。動き続けろ。まだ何も、終ってはいないのよ」

 水瀬秋子は決然と眦を決すると、再び端末に手を伸ばした。




  to be next bullet.





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