チャイナ服とでもいうのだろうか。生憎と衣裳に関しては浅薄な知識しか無い北川には、観音開きの扉の前に腕を組み立ち塞がっている男の服装の正式な名称を何と云うか知らなかった。
 これまで蹴散らしてきた兵士たちは普通の暗色の戦闘服であっただけに、北川は初めて自分が中華マフィアを相手にしているのだという実感を得る事ができた。服装程度でそう思うのもくだらないかもしれないが、そもそも彼は標的の素性に興味を抱かないタイプの殺し屋なので、この程度でいいのだろう。少なくとも本人はそう考えている。
 男は腕組みをしたまま、階段を駆け上がってきた北川をねめつけるように睨んだ。虎の意匠を施した全体的にゆったりとした彩り鮮やかな貫頭衣。オールバックに黒髪が背中までたゆたい、鋭く細められた眼光が静かに此方を射抜いている。

「名を名乗れ、栗色の髪の殺し屋。礼を失する者を通すわけにはいかない」

 北川は思わず嘲笑しかけ、止めた。
 この男からは戯れ言を吐くだけの実力と矜持を感じ取れる。
 そう、これは儀式だ。命を獲り合う者たちに許された最後の遊戯。
 付き合うに吝かではない。

「【サラーム】」

 虎の意匠を着る男はおもむろに首肯した。

「犯罪結社『ノクターン』幹部ヴォルフ・D・アドルファスの殺牙が一人だな。やはりそういう事か」

 何やら此方には解からぬ理由で納得している虎の男に北川は訝しげに眉を潜めた。
 だが、北川の疑問に気付きながらも彼はそれに触れず、改めて真正面から殺し屋を見据え、告げる。

「ランディ・ホアン。それがオレの名だ」

 北川の片眉がビクリと跳ね上がる。
 名前に聞き覚えがある。【暗虎黄(アン・フー・ホアン)】の名で知られる凶手。
 香港黒社会きっての凄腕じゃないか。楊め、そんなヤツを抱えてたとは。
 舌打ちとともに警戒を深める北川を前にして、ホアンは仮面のような無貌に初めて表情を浮かべた。微笑とも悲嘆とも取れる曖昧な歪みを。
 凶手は詠うように口ずさんだ。

「殺しあう相手には餞別として名を送る。平和を名乗る殺人者よ、冥府羅惇都に携えていくがいい」

 その動きは余りに滑らかでまやかしめいていた。スッとホアンは右腕をあげ、掌を遠当てでもするみたく此方に向けて見せる。 どれほど微細な殺気にすら反射的に対応できるまでに暗殺者として練磨されたはずの北川が、何故かそれを呆然と魅入ってしまった。

「――――ッ!?」

 ハッと北川が正気に返るのと、ホアンの細面が微笑するのと一体どちらが速かったのか。
 少なくとも、北川がコートの裾を翻した瞬間と、ホアンの右掌の下――ゆったりと垂れ下がった袖の奥が爆音とともに発光した瞬間に差がなかったのに間違いは無い。

 フッと微風が通り過ぎる刹那のように、一時訪れる静寂。それを破ったのは苦痛を堪える小さな呻き声。
 グラリと北川の体躯はよろけ、彼は二、三歩後ろに後退った。
 それを見て、ホアンはほくそ笑んだ。

「ケプラー……いや、スペクトラか? ぬかったわ」

 吊り上がったホアンの口端からツツと流れ落ちる一筋の鮮血。それはすぐさま大河と化して、咽たホアンの口蓋から奔流となって吐き出される。
 北川は硝煙をたなびかせているベレッタを降ろしながら、背筋を伸ばして斜めに傾いだ身体を立て直し、大きな溜息を落とした。
 鈍痛の走る脇腹を抑える。丁度心臓を撃ちぬくコース。完璧な弾道を描いた弾丸は、だが漆黒のコートを撃ちぬくことが叶わなかった。

「火器袖前か。こいつが防弾コートじゃなけりゃ死んでたな」
「フフ、22口径では撃ち抜けぬか。その程度も見抜けないとは」

 クククと楽しげに笑い声を漏らし、ホアンは膝を折り額を地面に付けて、蹲るように地に倒れ伏した。
 脇腹と肩、そして胸郭から漏れ出た鮮血が地面を濡らしていく。ホアンの袖口から放たれた銃弾を喰らったその半瞬後にばら撒かれた9mm弾は中国人に致命傷を与えていた。
 スライドが下がった状態――弾切れの右手の銃をそのままに、まだ弾の詰まっている左のベレッタM92FSをもたげる。近づきはしない。最後の言葉も訊ねない。暗器使いに猶予を与える事ほど愚かな事は無い。ただ速やかに死を与える。
 幽かに痙攣しているその後頭部に銃口を向けながら、北川潤は囁くように祈りを紡ぐ。

「汝の逝く先に平穏があらん事を」

 自分でも微塵も信じていない欺瞞と偽善の言葉を送り、殺し屋は死にかけの暗器使いの頭部を破壊した。
 そしてもはや死体を一顧だにせず、もうこれが最後となった弾倉を入れ替え、扉の前に立つ。事前に得た情報ではここが最奥。
 中を窺う素振りすら見せず、北川は扉を蹴破った。踏み込むと同時に銃口を横に並べ、正面に突きつける。
 ターゲットは其処にいた。


「暗虎は死んだかね?」

 資料の写真で見せられた通りの怜悧な容貌。執務室といった風情の部屋の奥に据えられたデスクに楊誡元は悠然と着いていた。
 組んだ手に顎を乗せたまま、楊誡元は既知の事実を確かめるようにそう問う。答えない北川に、だが彼は納得したように口元を隠し、続いて組んだ手を解いた。
 グレイのスーツ姿の男の剃刀のような眼光が丸眼鏡越しに青年を観察する。感情の色のない光、硬質で無機質な視線が全身を撫で切るような感覚に北川は不快感を感じた。
 同時に悟る。こいつは壊れている。
 今こうして銃を突きつけられているというのに。配下の兵士たちを薙ぎ倒され、最後の壁であろう凶手を排除され、自身を殺そうという男が目の前に立っているというのに。その男の醒めた眼光の奥底には確かに恍惚とした光が宿っている。
 まるで死を恐れず、歓迎しているかのように。いや、死する事そのものを喜ぶのではなく、死に晒されている感覚に喜悦を感じているのか。

「私も殺すのかね?」
「…………」
「まあそうだろう。そうでなければ茶番だからな。ところで殺し屋。外での会話は聞いていたが、もう一度確認しよう。君と下で暴れている者たちはヴォルフ・D・アドルファスの配下なのだな?」

 北川は無言のまま、だが眉を潜めた。
 先ほどの凶手もそうだったが、何故こいつらは誰が命令したかに拘る? いや、それ以前に、何故楊はノクターンではなくヴォルフの部下だと訊ねた? 組織の外から見て、ノクターンはノクターンだ。誰の子飼かなど拘る必要が何処にある。
 楊は返答などそもそも最初から聞こうとすら思っていなかったようだ。勝手に話を先に進めていく。

「ククククッ、なるほどなあ。サラームとか言ったか、若き凶手。貴様等の組織はよほど大きな饗宴を控えているらしいな」
「饗宴?」
「そうだ、あらゆる負の感情と醜い欲望が錯綜する古来より絶えない鮮血に彩られた騒乱という名の饗宴だ。いい事を教えてやろう、殺し屋。私にこの国への足がかりを斡旋してくれたのは《ノクターン》だよ。少なくとも向こうはそう名乗り、それを信用させるだけの証明をしてみせた」
「な――にッ?」
「そうだ。貴様たちが私をこの国に導き、そして殺そうとしている。矛盾だな。貴様たちには何の利益もない。金と情報と手間だけが無駄に消費されている。そして危険と信頼もな。麻薬や武器の密売ルートも幾つか潰しているはずだ。何しろケミカルウェポンの入手ルートを提供してくれたのも彼らだ。さて、実に不思議だ。自分で云うのも何だが、私の組織はわざわざ大陸から誘き出して殲滅するほどノクターンにとって目障りだったとは思えない。
 何故なのだろうな、何を考えてノクターンはこのような真似をしているのか」

 表向きは疑問系だが、楊の声音にはそれを本心から不思議がっているような響きは微塵も感じられない。

「ふふっ視点を変えれば答えは簡単だ。私は触媒に過ぎないのだ。何らかの大きな流れに何らかの作用を起こさせる触媒の一つに過ぎない。あくまで私は脇だ。主流はノクターンにあるのだろう。 尤も、恐らくは私をこの国に導いた者たちの行動はノクターンの主なる意思とは別だろうな。C兵器に手を出した途端、日本を担当するヴォルフ・D・アドルファスがすぐさま貴様等を送り込んできたことからも解かる」

 まるで最初から答えを知っているかのように、楊誡元は淡々と、だが滑らかとも言える口調で喋り続ける。
 だからなのか、北川は思わず訊ねた。

「お前、もしかして最初からこうなる事を予測していたのか?」
「こうなる事というのが何を差すのかは知らんが、きな臭さは感じていたよ、サラーム。いや、それも違うな。うん、そうだ。この日本進出の話に乗る事で、自分が来るべき饗宴のために用意された捨て駒という地位を与えられる……そんな気配は感じていたさ」

 北川は言うべき言葉を失った。目の前の人物が理解できない。なんだ、こいつは?

「どうして、と聞いてもいいか?」
「簡単だ。より高度でリスクの高いDead or Alive。私の求めるそれが得られる。そして今、現に貴様が其処に立っている」
「死に場所でも捜しているのか?」
「とんでもない。死ぬつもりなんてサラサラないな。私に場を与えた者たちがどう考えていようとどうでもいい事だ。むしろ、向こうの思惑を撃ち破り、喰らい付く事もできるかも知れない。ノクターンの喉笛にな。まあ、それで死ぬのならしかたがない」
「わからねえな。何故、一番危険なルートを選ぶ」
「それこそ簡単だ。私は綱渡りの綱の上しか歩けない、歩きたくない。死に一番近しい場所が私の褥だ」

 今この瞬間こそが最上の時なのだと、彼はそう云いたげに微笑んだ。
 北川はゆっくりと頭を振った。

「理解できないし、しようとも思わない。だがいずれにしてもお前は綱から落ちる。褥は境界を越える。何故ならオレが殺すからだ」
「若輩の癖に大した自信だ。やってみせるといい。どちらにせよ、誰かが死ぬ。さあ、断末魔を歌うのは誰だ?」

 喜色に満ちた死を好む男の問いが満ち満ちた。
 その瞬間、フッと鋭い呼気を吐き、若き殺し屋は楊に突きつけたベレッタを稲妻の如き迅さで左右にクロスさせ、銃爪を引いた。それぞれ三射。大気を平手で引っ叩くような銃声がこだまし、衝立の後ろに隠れていた伏兵の胸部に赤斑が穿たれた。
 彼らが膝から崩れ落ちるより速く北川はコートを円状に翻し、独楽のように身体を高速に回転させつつその場を横っ飛びに蹴る。半瞬前まで立っていた場所を正面から飛来した銃弾が空間を薙ぎ払った。

 その余韻が消え去る間を与えず、さらなる銃声が室内にこだました。
 ビシャリ、と楊の背後に掲げられたタペストリーにぬめった液体がぶちまけられる。

「クククッ、お見事」

 ポロリと握ったスチェッキンを取り落としながら、楊誡元は嗤う。

「まあ所詮私はこの程度の器という事だろう。主舞台にも上がれぬ雑魚として退場するのは不本意だがな」

 濁った液体があふれてくる腹腔を押えながら、椅子にもたれかかるように身を沈めた楊は、眼前に突きつけられた無明の黒洞とも形容できる銃口越しに、自分を殺す青年を仰ぎ見た。

「訊ねないのかね? 私を日本に導いた者が誰なのかを。何かを謀りつつある者が誰なのかを」

 トリガーにかけた指にゆっくりと力を込めながら、北川潤は楊の言葉を反芻した。
 興味は無い。知りたくもない。組織内の抗争など、勝手にやっていればいい。自分は命令を受けて殺すだけの存在。それ以上の意味を、この世界に求めようとも思わない。
 だが、この男の云う通り、ノクターンの内部で血で血を洗う抗争が開始されれば、彼女にも危険が及ぶ可能性がある。ヴォルフは信義に賭けて彼女を守ってくれるはずだ。だが、危険は減らしておくに越したことは無い。事前に防げるのであれば、その材料を手に入れておくべきだろう。事態が既に取り返しのつかない状態になっているのだとしても、可能性がある限り。

「誰だ。お前の云う饗宴の主催者は」

 北川は期待せずに訊ねた。
 その声音から此方の内心を窺ったのか、それともそう思うだろうと想像していたのか。楊は苦痛に浸りながら告げる。

「クックク、貴様の思っている通りだ【サラーム】。相手は正体を伏していた。正体を明かす間抜けではなかった。だが、もう想像はついているのではないかね?」

 嘲笑うように指され、北川は幽かに目を細めた。無論、浮かぶべき名前はある。組織内において最も力を信奉する男。ヴォルフ・D・アドルファスの敵対者。自分たちの両親を死に追いやった男。

「クライス・A・フェスタ」

 楊は正とも誤とも云わず、ただ血の混じった笑いを吐き、血走った目を炯々と光らせてこう言った。

「私は知っている、サラーム。血に飢えた獣を閉じ込めた檻は鍵によって開かれたのだ。それを覚えておくといい。
 ……ああ、それにしても残念だ。これから素晴らしいショーが始まるというのに、舞台から降りねばならないとは。本当に、残念……だ」

 コトリ、と首が落ちる。最期まで嗤ったままで、楊誡元は事切れた。俯き、影に覆われた中国黒社会最悪の男の表情は末期の言葉と違いひどく満足そうで、北川潤はこの男のことを最後の最期まで理解できなかった。

「そんな顔をして死ぬなよ。まるでオレがお前を救ってやったみたいじゃないか」

 自分はただ、命じられたまま人の命を奪う人殺しに過ぎないと言うのに。

 シクシクと心を甚振るように沁みる痛覚を俯いてやり過ごし、北川潤はゆっくり後ろを振り返った。
 ひっそりと影のように彼は扉の向こうに佇んでいた。
 学生の頃にはついぞ見たことの無い感情を消した無表情。彼のもう一つの顔。多分、本人は誰にも見せたくなかったであろう裏の顔。

「殺ったか」

 相沢祐一は平坦な声で訪ねた。
 改めて思い知る。今の祐一が、人を殺すという行為に何の忌避も抱いていないという事を。
 そして、それは自分もまったく同様なのだ。笑ってしまう。随分と、二人とも遠い処に来てしまった。いや、祐一については自分の責任だ。オレにさえ構わなければ、ヤツは一度抜け出したこんな世界に戻ってくる事もなかった。

「弾はまだ残ってるぜ。やるか?」

 祐一は一瞬、右手にぶら下げた拳銃の銃杷を握り締め、力を緩めた。

「いや、此処は退く。まだ後援が来る。標的が死んだ以上、多人数を相手にするつもりもない。それに――」

 祐一は不意に表情に屈託無い感情を浮かべ、肩を竦めた。

「二人を一度に相手にするほど自惚れちゃいないからな」

 祐一の言葉に、北川はチラリと視線をずらす。親友の背中越しの闇の中に、モーゼルを構える初老の男の姿が見えた。
 祐一は二人に挟まれながら、平然と銃をホルスターに収めた。と、同時にナイフの切っ先のような殺気もあっさりと霧散させた。
 それを受けて、崔尚成(チェ・ソーシュン)もまた銃を下ろす。

「だがな北川、忘れるなよ。香里の心はお前の影に雁字搦めにされたままだ。影を消す方法は二つだけ。それをお前は解かってるよな」

 解かっている。解かっているのだ。彼女の元に戻るか、それとも完全なる死をもって未練に決着をつけさせるか。そのどちらかだという事を。
 そしてそのどちらの方法も取れない以上、北川潤は美坂香里を苦しませ続けなければならない。
 なんて酷い男だろう。もう、忘れていて欲しかった。想うのは此方からだけで良かったのに。自分の事など綺麗さっぱり忘れてくれていれば、どれほど楽だったか。
 北川は血が滲むほど強く唇を噛んだ。心が締め付けられるように苦しくて、悲鳴をあげている。

「美坂は、今何をしてるんだ?」

 耐え切れず訪ねてしまった。祐一は淡々と答える。

「アメリカのとある大学の研究室にいる。詳しくは知らないが、内臓疾患の治療法について研究してるらしい」
「それって……栞ちゃんの、あれか?」
「ああ、そうだろうな。奇跡を現実に引き摺り降ろす為の研究さ。同時にお前がつけた傷痕からの逃避だよ」
「…………」
「向こうじゃジーニアス呼ばわりされてるらしいが、痛々しいよ。文字通り一心不乱だ。他に何も考えずに済むぐらいにがむしゃらだ。あいつに穿たれた空隙は大きすぎる」

 祐一は吐き捨てるようにそう云うと、袖口に仕込んだワイヤーを引き出し、傍らの窓際に引っ掛け足を掛ける。

「お前は知ってるな。お前こそが知ってるな。香里は弱い。あいつは何も切り捨てられず、後ろを顧みずにはいられない女だ。自分に都合よく考えられない。良くも悪くも自分が中心だ。
 忘れるな、北川。あいつが苦しんでいるという事実を。悶え苦しんでるという事を。脳髄に刻みつけろ、絶対に忘れるな。お前が犯した、そして今なお犯し続けている大罪を!
 忘れるな北川、絶対にだ!」

 紛れもない怒りを宿した言葉を残し、相沢祐一は窓辺を蹴り、外の闇へと身を投げ姿を消した。




 悄然と肩を落とし、青年が消えた窓から視線を動かそうとしない弟子の姿に、老師は眉間に皺を寄せた。
 僅かな沈黙の後、老人は敢えて何も聞かずに事務的に告げた。

「地元の警察が近づいている。彼らが来る前に我々も此処を抜け出すぞ」
「……わかった」

 北川は老人の労わりに感謝しながら頷き、彼の後に続いた。
 今は何も考えたくない。考えれば、もう一歩も足を進めたくなくなってしまう。 だから、心を空白にする。悔悟を押し殺す。泣き喚きたくなる精神を凍らせる。
 そうしなければ、即座に心が死んでしまいそうだった。


 だが、北川潤は考えるべきだった。心を埋め尽くす彼女への後悔を押しのけ、考えるべきだった。
 楊誡元の最期の言葉を、もっと注意深く思い返し、考察するべきだったのだ。
 彼はすべてを語っていた。これから起こる、煉獄のすべてを。彼は語っていたのだ。

 考え、推察し、思考し、その内に秘められた真実に思い至るべきだったのだ。

 だが、この時の北川潤の心にあったのは美坂香里の事だけであり。
 最悪の結末を止める手段は――――――失われた。


 そして―――――


 ――――――すべての悲劇の幕はあがる。














§  §  §  §  §











 軽いノックの音色が部屋の中に響いた。
 香里はディスプレイから顔をあげると、データを保存し立ち上がる。扉を開けると、立っていたのはふっくらと樽のような体躯をした初老の白人男性。
 先月、画期的な新薬の精製法を発表し、現在の医学界で最も有名な医学博士であり、美坂香里の師事する教授―――ポール・マクモリスだ。

「先生、どうなされたんですか?」
「ああ、カオリ。来週の予定は空いているかね?」
「来週、ですか? 実験プランで一杯ですが」

 マクリモスは元から皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして笑った。

「実はだね、来週から急遽日本のシンポジウムに参加する事となってね」
「日本、ですか?」
「そうだ、日本だ。どうだね、是非君にも付いて来てもらいたいんだ。最近帰っていないんだろう? この際、里帰りついでに、どうだね?」

 香里は暫し頤を傾け、悩んだ。
 悪意ある見方をすれば、自分が付いていかなければマクリモスはシンポジウムでボロを出してしまうかもしれないと怖れているのだろう。そうなれば彼の名声はあっさりと地に落ちる。
 何故なら――今世界中の注目となっている新薬を開発したのは『ポール・マクリモス博士』ではなく『美坂香里研究員』だからだ。
 正直に言って、彼は新薬についての全貌をまだ理解しきっていない。
 だが、それはこの太った博士を悪く見すぎた考えだろう。彼は善人ではないが、多少名誉欲が強いだけで度し難い悪人という訳でもない。純粋に、偶には国に帰ってもいいのではないかと好意で言っていると思って間違いないだろう。
 香里は思わず内心で苦笑した。
 此方で色々と苦労したせいか、まず悪い方に考える癖がついてしまった。
 栞は鋭いから、またこういう面を見抜かれて叱られるかもしれない。まあ、久々にあの子に叱られるのもいいかも。最近、自分でもわかるほど根を詰め過ぎていたから。

「わかりました。是非、同行させてください」
「うんうん、そうかね。それは良かった。じゃあ、準備をしておいてくれ。それじゃあね」

 何かこの後に用事を残しているのか、博士はドタドタと重々しい足音を残しさっさと立ち去ってしまった。
 そのコミカルな後姿を見送り、香里は自分のデスクへと戻り、端に置かれた黒塗りの電話の受話器を取る。

「ああ、栞? うん、あたし。久しぶり。ごめん、解かったわよ。ちゃんと電話欠かさないようにするから。それでね、実は来週―――――」















§  §  §  §  §













 本棚から一冊の書物を抜き出す。題名は『そして誰もいなくなった』
 稀代のミステリー作家アガサ・クリスティの最高傑作ともいうべき作品だ。だが、彼女は内容を読むでもなく、その76ページに挟んであった一枚の栞を抜き出して顔前にぶら下げる。
 米国では珍しいというよりまず存在しない和紙製の栞には、一綴りの文章が記されていた。

 綺麗な栗色の髪を持った少女は、その文章を声に出して囁いた。

「夜想曲を歌う憐れなカナリア。その最期の歌声を聞け」

 関わりなき者が偶然目にしたとしてもそこから何の意味も見出せない文章。だが、彼女にとっては此れ以上ないほど重要な意味が込められた符丁。
 ルビコンは既に遥か以前に渡河し終えている。これは一つの経過に過ぎない。ただそれでも得も知れぬ感慨を消す事は否めなかったが。
 しばし、少女は瞑目した。そして、押し殺した吐息のような呟きを漏らす。

「選んでもらうよ、お兄ちゃん。どちらかを。あの人か、それともあたしか。お兄ちゃんの心はあの人のものだから、あたしはそれが許せない。絶対に、許せない」

 あなたは、私に残された最後の過去だから。
 だから、選んでもらう。
 あたしが進む道を共に歩んでくれるか、それとも本当の過去になってしまうかを。

「ここに居たの、キィ」

 不意に扉が開き、触れるだけで切れてしまそうな鋭い美貌の主が姿を見せる。
 レイシア・クリフォード。
 ヴォルフ・D・アドルファスの右腕とも言うべき氷の女。
 北川姫里は他愛もない悪戯を見つけられた子供のようにはにかみ、舌を出した。

「うん、ちょっと忘れ物しちゃって。もう見つかったからすぐ戻るよ、シア」
「そう、早くしなさいね。人手が足りないんだから。まったく、アーロンがいないと何もかもが上手く回らないわ。ヴォルフもフラフラと腰が定まらないし。二週間も彼を遠ざけるなんて正気じゃないわよ。自分がどれほど危険な立場か解かってるのかしら、あの人はまったく。キィもそう思わない」
「あはは」
「まあ、来週には帰ってくるらしいから、それまで何とか私たちでやり繰りする他無いわね。それにしてもキィ。アーロンがいなくて寂しかったんじゃない?」
「……そうだね」

 怜悧な美貌を思いのほか意地悪げに笑ませ、レイシアは可愛い妹を眺めるような優しい眼差しで彼女を見やる。
 姫里は笑い返し、早く行こうとレイシアの背中を押して部屋を出た。
 パタンと後ろで扉が閉じる。姫里には、それが最後の後戻りできる道が閉ざされた音に聞こえた。

―――あたしはすべてを手に入れる。手に入れて、力を振るう者になる。
―――それがこの世界を知ったあたしの中から湧き出た欲望、本性。
―――これが、あたしだった。あたしだったんだよ。
―――お兄ちゃん。大好きだよ、お兄ちゃん。だからお願い、あの人でなくあたしを選んで。
―――さもないと、あたしはお兄ちゃんを……



 栗色の髪の少女は、その朱唇にうっすらとした笑みを浮かべた。
 誰にも見咎められず消え失せたその笑みは、酷く哀しげで悲痛で凄惨で―――

 ――――禍禍しいほどの喜色に満ちていた。







  to be next bullet.





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