大陸の闇は海溝の底の如く深く深く、光を知らない。
 自然、その闇で生まれ育った者の中に異形は産まれる。
 闇に生き、闇に溶け、闇をも飲み込む暗黒と生る者が。

 生を厭い、生を疎み、生を渇望する。
 そんな歪な生き物を、大陸の闇は時として産み落とす。

 楊誡元とは、そんな異形の極端子であった。



 その一室には幽かな擦過音が流れていた。
 ポマードで撫で付けられた髪の毛。一部の隙も無く着こなされたイタリア製スーツ。鼻の上に置かれた丸眼鏡。
 決して目立つ風貌ではないが、落ち着き払った雰囲気からはどこぞの実業家めいたものを感じさせる。
 楊誡元とはそのような印象を醸し出す男であった。
 その見た目からは彼が中国闇社会最狂の男と呼ばれたに相応しい要素は何一つ見当たらない。佇まいがその者の人品を現すという話が迷信でしかないという一つの実例が此処にあった。

 彼は今、爪を磨いていた。
 廃ビルというよりはベイエリアに立ち並ぶホテルの一室と例える方が正しいように整えられた内装。
 灯りを絞ったその一室で、楊は何をするでもなく熱心に、もしくは詰まらなそうに爪を磨いていた。
 月明りに手を翳し、仕上がり具合を確かめる。
 窓の外からは盛大な爆音が聞こえてくるが、楊は気にも止めず今度は中指の爪を磨き始めた。

「まだ一仕事も終えない内に襲撃か。何者だと思う?」

 手を止めず、訊ねる。応えは傍らよりすぐさま返って来た。

「官憲ではないでしょう。やり方が乱暴すぎる。数も少ない」

 部屋を一望し、果たしてどれだけの人間が彼に気がつくであろうか。
 革張りの椅子に腰掛けている楊の傍らに、確かに佇んでいるというのに。
 陽炎のように、その痩身の男はそこに居る。異貌である。頬はこけ、顎は尖り、青ざめて見える顔色は薄闇や月明りの所為ではあるまい。何より特徴的なのが閉ざされた眼。大きく盛り上がり、瞬きをすれば爬虫類の如く瞼は下に向かって開かれるのではないかとすら思わせる。
 楊はふむ、と中指に息を吹きつけると、異貌の男に問い掛けた。

「では暴力団の方かね。先日の報復というわけだ。もしそうなら賞賛に値するよ。昨日の今日だ。動きは迅速にして果断、情報も速く正確だ。彼らを少々侮っていたことになる」
「賞賛は無用。この国のヤクザでもありますまい。彼らを無能とは言いませんが、やり方が洗練されすぎ、数も少なすぎる。恐らく違うでしょう」

 楊は面白そうに口端だけを歪めた。

「さて、君の発言には多少の矛盾点が見受けられるが」
「矛盾はありません。襲撃者は官憲のような縄に繋がれた犬ではなく、ヤクザのように粗暴なハイエナでもない。それだけのことです」
「なるほど。私は日本に来て早々、狼の尻尾を踏みつけていたということか」
「【ノクターン】、欧米を股にかける犯罪結社。日本もまた彼らのテリトリーです。先日の麻薬取引とC兵器で目をつけられたのかもしれません」
「芽は見つけ次第摘んでおけ、か?」
「…………」
「ならば襲撃者はノクターンの暗殺者。噂に名高き【夜想曲の奏者達】か。それにしては……」

 爆炎が夜空を舐める光景が窓に映るのを見て、楊は今度ははっきりと微笑を浮かべた。

「少々騒がしすぎる気がするがね」

 楊は爪を磨く事を中断すると、テーブルに置かれた紹興酒のグラスを手に取った。

「ふふっ、まあいいさ。光栄じゃないか、彼らの奏でる夜想曲を直接聴かせてもらえる者はそう多くは無い。幸いにして今宵は殺すにも殺されるにもいい夜だ。見たまえ、勳明。月光が殺意のようだよ」

 冴え冴えとした冷たい月にグラスを掲げ、楊は美味そうに酒をあおる。
 楊は上機嫌だった。死が近づくほど、死を突きつけられるほど彼の心は上気する。さながら、憧れの女性に口づけを受けた少年のように。
 死するは本望。されど他者もまた我と同じ甘美を味わう権利を得るべきだ。その人間として狂った性質と心情が、彼を大陸で最も凶暴な男という地位に押し上げ、同時に大陸で最も忌み嫌われた男の立場に立たせた。
 彼もまた、狼であると言えよう。
 群れから外れ、安寧のうちに生を終えるを拒んだ孤高なる狼の一人だ。

「さあ、早く。早く私を殺しに来たまえ、演奏者たち(プレイヤーズ)。私は君たちを待っている」









 §  §  §  §  














 その老人が現れたところを、3人いたビル正面の見張り達は誰一人として見た者はいなかった。
 夜の闇から滲み出るように、そんな表現を使いたくなるほど唐突に、老人は道の真ん中に佇んでいた。
 一目で上質と見て取れるグレイのスーツに帽子。それらを見事に着こなした姿は上品さに満ち溢れている。

 それ故に、余りにも場違い。

 彼の如き様相の人物はベーカー街でも闊歩しているべきであり、このような薄汚れたベイエリアの廃墟では異世界に紛れ込んだ異邦人にしか見えない。
 私兵達は咄嗟にサブマシンガンを構えたものの、余りの異様さにその引き金を引くのを躊躇ってしまった。
 銃口を向けられて尚老人の落ち着き払った物腰は何も変わらず、ただ人の良さそうな面差しを緩め典雅に笑む。

「な、何者だ!?」

 幾ら戦闘訓練を積んだとはいえ、所詮は小規模な犯罪組織の私兵集団に過ぎなかったという事か。それとも襲撃ばかりを繰り返し、防衛戦闘に関しては全くの素人でしかなかったのか。
 どちらにせよ正規の軍隊ならば敵が侵入している状況で、見知らぬ人物に誰何など悠長に行なうほど愚かな行為は許されない。すぐさま銃撃を開始するべきであった。
 だが、彼らは場面の異様さに一瞬呑まれ、愚行を為してしまった。
 誰何の声が響いた時には既に老人の姿は彼らの眼前から掻き消えていた。

「疾ッ」

 予備動作もなく老人は一〇mの距離を無に変えた。私兵達は銃爪を引く余裕すら無く、ただ驚愕に目を見開く。
 震脚にコンクリートが割れ、繰り出された掌が一人の胸部にめり込んだ。
 掌を喰らった男が背後の壁に叩きつけられたその時には、既に弧を描いた老人の右脚が鎌の如くもう一人の首を刈り取っていた。
 壁に叩きつけられた男は血反吐を吐きながら絶命し、もう一人も頚骨を折られて絶息する。

「う、うわぁぁぁ!!」

 残った一人が悲鳴をあげ、狙いもつけずにトリガーを引く。
 銃声が響いた時間は一秒にも満たなかった。



 闇色のコートを靡かせながら悠然と姿を現した北川潤は、相変わらずの鮮やかな手並みに呆れた眼差しを老人に向ける。

「銃も使わずに短機関銃を持った相手を真正面から瞬殺できるのはあんたぐらいだな、まったく化け物だよ」
「そうでもない」

 さながら触診の如く優しく胸部に触れた手を、崔尚成(チェ・ソーシュン)はそっと畳む。撫でるが如き一撃で心臓を止められた最後の男を横たえ、老人はずれた帽子の位置を直しながら云った。

「私の知る限り、後三人は存在する」

 北川はやれやれとばかりに髪の毛をかきあげた。
 素手や各種の武器での殺傷術を習得する者はこの世界、決して珍しいものではない。少なくとも、ある程度名の知れた暗殺者やエージェントならば使えぬ者の方が珍しいだろう。
 北川自身、その手の技は目の前の老人から叩き込まれているし、同僚であるアーロンやサファイアも武器一つなくても人間一人簡単に縊り殺せる。【双尾の夜狐(ツインテイル・ナイトフォックス)】の字名を持つ相沢祐一もまた、名の由来となったナイフ術と共に全身殺人武器と言っても過言ではない。
 だが、それでも。各種銃器を持つ相手と真正面から立ち向かって生き残れるものではない。
 それが常識であり、生き残るどころか全員を倒してしまう者など人間の範疇から外れているのでは無いか、と北川は思う。

「でも、現に倒しちまってるしな」
「私だとて、好き好んで素手で立ち向かおうとは思わんよ。心臓に悪い。そもそも、どれほどクンフーを積もうが当たる時は当たる。死ぬときは死ぬ。ならば、用心は飽きるほど重ねる事だ」
「フン」

 詰まらなそうに鼻を鳴らした北川は、月夜の下、目の前に聳える廃ビルを見上げた。

「心臓に負担をかけた割には無駄だったんじゃないか? 銃声は中まで響いちまっただろ」
「仕方あるまい。二人ならば兎も角三人が相手ではな」
「まっ、最初から上手くいけばめっけもの程度のつもりだったしな」

 素っ気無くそういい捨てると、北川は翼を広げるようにコートの裾を羽ばたかせた。
 夜にはためく暗色のコートから出でしは、洗練されたフォルムを宿す黒い銃身――ベレッタ92FS。

「さて、あまりゆっくりもしていられない。そろそろ行こうか」

 言い捨て、踵を返す。向かう先は廃墟ビル。
 優雅とすら云える歩調でビルの入り口へと進みながら、青年はダラリと垂らした右腕を幽かに揺らす。
 動作に合わせてコトリとコートの奥から転がり落ちてきた卵形のそれを、北川は歩みを止める事無く無造作に蹴飛ばした。
 球体は放物線を描き、割れたガラスドアを潜り抜けてビル内部へと転がっていった。
 数秒の沈黙と静寂を経て、恐慌にも似たざわめきがビル内部から外にまで届き、次の瞬間爆音が轟いた。
 窓やドアに残っていたガラスが内部からの衝撃波に吹き飛び、正面入り口から炎と爆風が自らの威力から悶え逃れるように表へと噴出した。

 金色めいた薄茶色の髪と闇色のコートが狂喜したかのように踊り狂う最中を、北川は悠然と進む。
 若き殺し屋はガラスの破片と血が散らばる床を踏みしめながら、ビルへの境界を潜り抜けた。内部はやや広めのエントランス。煙と埃が立ち込め視界が利かない中、歩調を緩めず素早く視線を駆け巡らせていた彼の右足がガラス片を踏み割り停止する。同時にしなるように両腕が左右に跳ね上がった。十字架にかけられた聖人の如く広げられたその手に握り締められているのは二挺のベレッタ。
 銃口から放たれた弾丸はそれぞれ三発。無情なほど正確に、傷を負いながらも短機関銃の引き金を引こうとしていた兵士たちの眉間と胸部を打ち抜く。

 絶命した兵士たちが地面に倒れ伏すより前に、北川はフワリと身体を沈めると一気に前傾姿勢で加速する。直後を弾丸斉射の鞭が薙ぎ払い、駆ける青年の後を咆哮とともに追い縋ってきた。
 北川は銃弾に追われながら、くの字型になった階段を半ばまで一足飛びに駆け上がる。エントランスに相応しい吹き抜けの階段。自分を狙い撃ってきた敵は階下、そして今階上から大型拳銃を此方に向けている人影を視界に映す。北川は壁に肩をぶつけて機動を無理やり停止させ、迷わず二挺の拳銃を左右に並べ、階上へと突き向けた。

 瞳孔が冴え冴えと窄まり、冷ややかな殺意が敵を貫く。
 銃眼越しに視線が交差。北川は敵の眼差しに恐怖を見た。くだらない。
 トリガーを引いたのは体勢の整っていた向こう側。だが、青年は何らの脅威も感じない。案の定、心に宿った恐怖に犯されまともな狙いもつけていない銃弾は青年を大きく外れる。二発目も同様、掠りもしない。三発目まで許容してやるほど彼は優しくはなかった。
 二挺の拳銃が間断をおかず破裂音の連奏を迸らせる。悲鳴も断末魔も銃声で捻じ伏せて、僅か3秒で弾倉を空にした。
 立ち昇る二筋の白煙の向こうで、敵兵士が10発以上の銃弾をめり込ませた上半身から、血飛沫をぶち撒けながら崩れ落ちる。詰まらなそうに瞼を降ろして半眼としながら両手を垂らし、北川は階下を一瞥した。
 自分を狙い撃っていた兵士は、眉間を撃ちぬかれてエントランスの隅に転がっている。その脇で、崔尚成(チェ・ソーシュン)がモーゼルを仕舞い、死体の手から短機関銃を拾い上げていた。

「先に行け。私は此処で外からの敵を留めておく。隣の工場からも出入りが出来るようだ。数は覚悟しておくのだな」
了解(ヤー)

 気だるげに返答し、北川は空になった弾倉を入れ替えると、階段を上り始めた。
 無造作とも見える歩に足音はまったく追随しない。

 階下で響き始めた銃声を無関心に聞きながら、青年は声にはせぬまま歌を口ずさみ始めた。
 曲名は知らない。歌詞もまたいい加減だ。だが、彼は殺戮の時間を歩む時には無意識に声無き歌を紡ぎ続ける。
 この歌は、かつて彼女が口ずさんだ音色。もう現実だったと信じられないあの頃に聞いた歌。
 声には出さない。音色にはしない。
 銃の叫びと夜闇の沈黙、心に吹き抜く寂寥たる微風。声にならない歌声は、そうした虚ろに良く似合う。

 哀しい程に、良く似合う。




  to be next bullet.





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【モーゼルC96ミリタリー】
 1896年にドイツで開発されたセミ・オートマチック・ピストル。
 開発された時期が自動拳銃を設計が始められた初期の頃だったために、独特な作動方法となっている。
 スライド部分は可動せず、ボルトが動く事で薬莢が排され、ハンマーが起こされて次弾が装填される。また給弾は弾倉をグリップに入れる形ではなく、トリガー前部にある固定弾倉にクリップを使用して装填する。  これは自動小銃の装填方法に近い。
 また、独特のグリップ形状は『Bloom Handle』――『箒の柄』という愛称で呼ばれている。
 弾薬には当時最高の初速を誇った7.63モーゼル弾(モーゼル・ミリタリー)を使用。このため、装填方法と相まって威力もライフル並みと評された事もある。
 当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム二世が自らテストし、非常にお気に召したという逸話もあるが、結局ドイツ軍では制式採用はされていない。  だが、第一次大戦中制式拳銃『ルガーP−08』が不足し、ドイツはこのC96を非制式扱いで多数導入。ロシア、イタリア、トルコ、英国などではC96は制式採用されていたため、戦場では敵味方入り乱れて使用されている。
 また、弾薬の統一を図るため9mmパラベラム弾を使用できるように改造したタイプもあり、そのタイプは区別できるようにグリップに「9」が彫られている。
 第一次大戦終了後は余剰兵器が世界中に流出。内戦に突入していたロシアやスペイン、中国などに大量もモーゼルが流れる結果となる。満州で馬賊や大陸浪人たちが好んで使用したのがこのC96である。
 C96には他にも多様なバリエーションを有している。ロシアでは『ナガンリボルバー』の後継として銃身4インチの軽量モデルを発注、『ボロ・モーゼル』の俗称を持つタイプを生み出した。
 他、中国やスペインでもコピー製造が行なわれ、45ACPを使用するタイプや、スペイン・アストラ社やアスール社ではフルオートマチックモデルも誕生している。
 これら多彩なモデルの中で特に有名であろうものが1932年に開発された『M712 シュネルホイヤー』である。
 31年に開発したセミ・フル選択可能の『ライエンホイヤー(連射)』は毎分850発と驚異的な発射速度を誇ったが、如何せん信頼性が低く、モーゼル社はさらにそれを改良し、モーゼルミリタリーの完成形ともいえる『シュネルホイヤー(速射)』を産み出した。
 かの銃弾消費量において本人の作品以外他の追随を許さないであろう伊藤明弘氏の漫画『ジオブリーダーズ』にて、最大の銃弾消費量を誇るであろう銃がこの『シュネルホイヤー』である、と思われる。
 なんせ、あの梅崎真紀さんが二挺拳銃でこれでもか、ってくらい撃ちまくってるもんですから(笑)

 本作の崔老師が愛用してるのもこのM712です。
 やっぱり謎の凄腕チャイニーズはこれでないと(w

   全長:647mm /重量:1.24Kg /口径:7.62mm×25 /総弾数:10/20


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