冷たい潮風が背後から吹き寄せ、骨組みだけとなった壁際にスラリと佇む女の背中を叩くように押す。
 女の肢体は微動だにせず、ただ一つに纏められた黒髪だけが闇の中、風に流され踊り狂っている。
 夜の闇は深く冷ややかだ。果たして、このような真夜中という世界にほんの幽かな眠気すらも感じず生きていけるようになったのは何時からだっただろう。
 水瀬名雪は、薄く朧掛かったまま空に浮かぶ月を見上げたまま、ふとそんな思いを抱いた。
 かつては夢の世界が自分にとってのもう一つの世界であったと言うのに、今はこうして夜の世界に生きている。それは不思議で、少し可笑しい。
 思えば、自分のあの深い眠りは庇護の中にあった事の証明であったのかもしれない。かつては母の、そして祐一の。
 自ら祐一の隣を歩むと決意したその日から、彼の腕の中ではなく彼の隣を守り、彼の意思を助け、彼と同じ望みを取り戻すために銃を取ったあの日から、水瀬名雪は闇に眠る者ではなく闇を走る者となった。
 昔と同じ夢の住人となれるのは、ただ一刻、愛する祐一の腕に抱き締められてまどろむ時だけなのかもしれない。
 それは違う事無き至福の時。
 だが、今この時は闇を走る彼の背中を、自らの腕で守り通す夜の住人としての時間。
 それもまた、水瀬名雪にとっては至福の時だ。対等の相棒として彼の隣に立てることが誇らしく、またかけがえなく嬉しい。
 例えそれが血と硝煙に塗れた世界の事だとしても。水瀬名雪はその道を選んだのだから。
 彼の後に続いたのではなく、彼と共に決めた道なのだから、かつてを懐かしもうとも、放棄した事に後悔は無い。
 何よりこの道は、失われたかつてを取り戻すために進んだ道なのだ。
 親友のためでも、彼女の想う男のためでもなく、誰のためでもない、あの騒がしくも穏やかな日に焦がれる自分たちのために。

 眦を決する瞳の向こうに映るは闇。
 だが、その先にあるはずの光を、水瀬名雪はじっと見つめる。例え今は見えずとも、揺らぐ事無く彼女は闇を見つめていた。


 その時、夜の帳を引き裂くような爆音が轟き、漆黒の闇に赤き輝きが瞬き、黒をさらに黒く塗り潰すような黒煙が立ち昇った。
 一瞬、闇に覆われた工場敷地内全体が光の中に浮き上がる。自分の姿が光に照らされぬよう、名雪は素早くシートを敷いた床に身を伏せた。
 耳を澄ますまでも無く、先ほどまで満ちていた静寂の代わりに銃弾が飛び交う音が響き始めている。爆炎は火勢を弱めたものの、恐らく風下の方では鼻の奥を突き刺すような潮の香りに、煤と火薬の匂いが混じり始めている事だろう。

 割れたガラスが散乱する床の上に敷いたシート、その上に腹ばいに寝そべりながら水瀬名雪は暗視スコープを覗き込んだ。

「……ふん、拙いね」

 祐一が向かっている工場跡と廃ビル。そこから海側に200M弱ほど離れた場所にある、解体されかけたまま放置されている7階建てのビルの6階。壁という壁が破壊され、一繋がりになっているフロアの片隅に彼女はいた。
 此処からは高見沢工場跡地内が一望とはいかないものの、重要なポイントを隈なく抑えることができる。図面を元に作成された工場跡地のジオラマを検証し、彼女が選んだのがこの場所。海を背にした此処は夜は追い風となり、狙撃地点としては最良とは云えない。だが、目標から向かい風となる方向は敵の戦力が集中しており、安心して狙撃できる所は見当たらなかった。好意的に考えるならば、風の吹く方向が変わり難くタイミングが取りやすい海際のスナイプ、追い風であろうとある一定以上の技量があれば誤差修正は可能。そして、名雪にはその自信があった。
 何より此処は、任務完了後の祐一の撤退を支援できる最高の場所である事は間違いのだ。選ぶべき場所として此処以上の所は無い。

 また同時に重要な地点を隈なく抑えることが出来るという事は、工場跡全体の刻々と移り変わる状況を俯瞰して把握できるという事に繋がる。
 見て取れた大まかな人の流れは二つ。戦闘が繰り広げられているであろう正門方面へと向かう流れと、今祐一が向かっている敵の頭目がいる場所へと向かう流れだ。

「完全に最警戒状態。守りが固められてしまう。強襲になっちゃう、か」

 どこの馬鹿だか知らないが、最悪のタイミングでとんでない事をやらかしてくれたものだ。上手くすれば、楊一人を片付けるだけで済む任務になるかもしれなかったのに。
 名雪はチラリと横目で、既に組み上げられ銃口を虚空に向けているスナイパーライフルを一瞥した。

「君にはだいぶ活躍してもらう事になりそうだよ」

 愚痴めいた独り言を零し、名雪は符号を脳裏に思い浮かべながら無線を繋いだ。















 §  §  §  §  














 狐とは、紛れもなく、そしてこの上なく優秀な狩人である




 命令は簡潔にして迅速だった。
 曰く、正門近くに待機、巡回している6個小隊は強襲してきた敵の迎撃。残る者たちは楊大人が詰める工場・ビル内部及び周辺の防護に回るべし。
 兵士たちが一箇所に集まることは首魁である楊の居場所を暴露してしまう事になるが、この工場跡を隠れ家としていることが露見している以上楊がどこにいるかも掴まれていると考えるべきであった。
 突然の襲撃にも関わらず、このような命令が迅速に発せられそれが素早く行動に移された事は、彼ら『黄雷』の練度が非常に高い事実を表していた。
 彼らの誤算であり不幸であったのは、既に一匹の狐が守るべき懐に潜り込んでしまっていた事であろう。


 高見沢工場本部ビル。都心の只中に佇んでいそうな十階建てのそのビルは、周囲の朽ちはじめている建造物と違い、その威容を未だ虚しく固辞し続けている。
 工場内だけではなく外部に対する指揮管理機能を保持するために立てられた目的ゆえか場違いなほど内部は広々としており、幾多のオフィスや会議室が設けられている。
 だが、この本部ビルは街の中にあるようなオフィスビルではない。それを示す特徴が、ビル東側と7階部まで連結された工場棟だろう。ビルとその工場棟は外部を周回する面倒を経ず、直接行き来できるようになっていた。
 自然、防衛にはビル内部、周辺の他に工場部を抑えなければならない。
 事前に規定された配置に付くべく、巡回中であった朱高銀、白世淳、陶帥嘉の三名はセイフティを解除した短機関銃を抱え、工場の北三番出入り口を潜り専用通路を駆け抜けると広大な作業フロアとビルへの通路を繋ぐエントランスへと扉を蹴り飛ばす勢いで飛び込んだ。
 彼らが丁度、十から十二番目の被害者となった。
 エントランスに飛び込んだ途端、ネットリと全身を這いずり回るかの如き濃い血臭と無造作に床に転がる無数のナニカ。思わず絶句し立ち尽くした彼らの背後に音も無く気配も無く逆立ちに降りてくる影。
 唐突に小さな異音が聞こえた。裂け目から液体が吹き出るような音、そして空気が抜けていく音。咄嗟に朱は左手を、陶が右手を、音が聞こえた方角に首を向ける。
 彼ら三人の中央に立っていた白世淳。その喉から噴水のように黒々とした鮮血が吹き出ていた。それが何を意味しているのかを、朱と陶は永遠に理解することが叶わない。ただ彼らが感じたのは、喉に突き刺さる焼け付くような灼熱だけだった。そして意識は薄れ墜ちてゆく。永遠に覚める事無き安寧へと。

 左右の二人が反応する暇すら与えず彼らの背後に降り立ち、左右に握ったコンバットナイフをそれぞれの喉に突き立てた相沢祐一は崩れ落ちる三人を両手と足の爪先で受け止め、静かに床に降ろした。
 悲鳴どころか物音すら殆んど立てる事も敵わず三人は、いや此処に横たわる十二人もの兵士はただ一人の青年に絶命させられている。

 無音殺人術(サイレント・キリング)

 二本のナイフを自在に操り、存在すらも気取られず標的に死を残して闇から闇に消え失せる一人の少年。
 かつて【双尾の夜狐(ツインテイル・ナイトフォックス)】と畏怖された少年は青年となり、その技量は劣るどころかさらにその冴えを増しているかのようだった。

 本部ビルに集まってくる敵が五月雨式に現れたのも祐一に幸いした。どうやら敵を迎え撃つ所存で既に内部に潜入しているとは微塵も考えていなかったらしい。隙だらけの敵を各個撃破する程度の事は祐一にとっては造作も無い。
 だがそれもそろそろ限界だろう。出来るだけ後背の安全を確保するためこうやって敵数を減らしていたが、何時までも異常に気付かれない訳が無い。
 祐一は今殺したばかりの男の一人を引き摺って通路に放り出すとエントランスに戻り、素早く途中だった仕掛けを完成させた。
 注意深く錯誤が無いかを確認すべく仕掛けを調べ、周囲を見渡す。冴え渡った意識が不意に明滅した。
 濃密な血の気配、死の気配。それが呪のようにねっとりと全身に絡み付いてくる。
 相沢祐一はそれを振り払うでもなく、皮肉げに口端を歪め、血臭を肺に満たした。
 昔は何らの感情も動かなかった情景、匂い、気配。今とてそれは対して変わらぬ。苦痛は無い、辛くも無い、苦悩もしない。行為に対する後悔も無いし罪悪感など湧くわけが無い。
 ただ少し、何もかもが苛立たしくなった。

 踵を返す。死体が転がり恐らくは数刻も経たずにさらに死体で溢れるであろうエントランスに祐一は背を向けた。拭えぬ澱が心に沈む。
 不意に名雪の微笑みと肌の温もりが、灯火のように思考の中で瞬いた。つい十数分前に見た彼女の裸身が脳裏に浮かぶ。
 祐一の目尻に苦笑めいた緩みが滲んだ。

「畜生、あそこで襲い掛かっておけば良かった」

 無論、そんな事が出来るわけなど無いことは判っている。ただ血を嗅ぐと無性に彼女の温もりが恋しくなるのだ。
 血塗れの自分を優しく包み込んでくる彼女の腕が、胸が、身体の中が、そして心が、どうしようもなく欲しくなる。
 だが、すべては今宵の仕事を終らせてからだ。
 終れば、存分に溺れればいい。存分に愉しませてやればいい。慌てずとも良いのだ。名雪は、あの最高の女は何時だって、自分の隣に居てくれるのだから。

 ナイフを後ろ腰の鞘に収め、『スコーピオン』を手に取ると祐一は慎重にビルに向かって通路を走り始めた。
 心からは既に僅かな波も消え失せている。熱い氷を思考に満たし、狐は本命に対する狩りを再開した。
























 §  §  §  §  












 先頭を駆けていた部隊長 劉芳治は左手を横に伸ばし、8人からなる後続を押し留めた。扉の前に人が一人倒れている。
 仰向けに倒れ光のない瞳を天井に向けているその男を勿論劉は知っていた。直属の部下である朱高銀。遠目にも絶息しているのは明らか。同時に敵が既に内部へと侵入している事を示している。

「くっ、出遅れたのか?」

 信じ難いが、既に敵は先回りをしていたという事になる。もしかしたら、正面から入り込んだ者たちは囮で既に侵入していた別働隊がいたのかもしれない。だが、あんな派手に暴れれば警戒は最高になり結局別働隊も襲撃は困難になる。訳が分からない。
 だが、既に敵が入り込んでいる事実だけは揺るがない。ならばそれに対処しなければならないのが部隊長である劉の務めだ。
 巡回や外で待機していた部隊とは別に、ビル内部にも相当数の兵士が詰めている。敵がどれほどのツワモノでも暫くは持つだろう。劉はビルの周囲を固めている者たちから人数を引き抜く事にした。数分と立たず、無線で呼び寄せた者たちが集まってくる。

 劉たち40名は警戒しながら扉まで近づくと、短機関銃の引き金を引きながらエントランスへと突入した。反撃は無い。
 満ち満ちた血臭に僅かに柳眉を傾けながら気配を探った劉は、半ば敵が既にビルの方に侵入している事を確信しながらも慎重に部下たちに展開するように命じる。
 不意打ちを警戒しながら目まぐるしく視線を動かし、部下たちが統制された動きを見せるのを捉えていた劉の視覚、そこに映った何かに不意に思考が違和感を訴えた。
 転がった死体の一つ、その腹の上に何かが突き刺さっていた。大人の掌よりも僅かに一回りほど大きい長方形の物体。それが劉の記憶にあるソレと照合され、合致する。ざっと顔面の血が雪崩れを打って落下した。

「た、退避ぃぃ! クレイモアだぁッ!」

 悲鳴そのものの命令はあまりにも遅すぎた。出入り口を囲むように扇形に配された4つの指向性対人地雷クレイモア、そのモーションセンサーがほぼ同時に動体反応を感知、内部のC4爆薬が起爆する。
 兵士たちは逃げる間も伏せる間も与えられず、それどころか断末魔の悲鳴すらも上げることも叶わなかった。
 1.2mmの鉄球2800個の暴風が兵士たち目掛けて襲い掛かり、まさに一瞬にしてそこに居た者たちをかつて人間であったとは信じ難いモノへと調理する。

 爆音の余韻が消え去った時、そこに残されたものはさらに濃度を増した血煙と、肉片と小さな穴だけという地獄であった。









  to be next bullet.





目次



【M18 指向性散弾型対人地雷 クレイモア】
 ベトナム戦争時、アメリカにより開発された指向性の対人地雷。
 内部に直径1.2mmの鉄球が700個入っており、内臓のモーションセンサーで動体反応を感知すると内部のC4火薬が爆発、その爆発力で扇状に左右60度角の範囲に鉄球を拡散させ、50m以内の生物を確実に殺傷、100m以内の敵に何らかのダメージを与え、250mまで鉄球を飛翔させる。
 地雷とはいえ地面に埋設するものではなく、4本の足で地面に突き刺し爆発させたい方向に面を向ける。小型軽量のため個人で携帯でき、拠点防御や待ち伏せ、野営時の防衛用に絶大な威力を発揮し、時に大規模な部隊の進行すらも食い止める。
 ちなみにこのクレイモアは埋設型ではないために、「対人地雷禁止条約」には抵触しないという。リモコン操作などの起爆も可能。

 大きさ 216x30x137mm /重量 1.58Kg /総弾数 700発


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