夜の海は黒色としてすべてを飲み込むかのように底が見えない。
 陸の民が光届かぬ深き森を恐れたように、海の民は夜の海を恐れ、呪い、そして崇めた。
 夜の海は、神の領域だ。時代が進み、夜が克服された今日でさえ、海は絶対の闇を未だ有している。

 汽笛が聞こえる。GPSとレーダー全盛のこの時世でも尚、遥か遠方の岬では、灯台が海に光を投げかけ、波間を漂う船たちに道を示していた。
 だが、人気の無い堤防を照らす光は存在せず、海と陸の境目は闇に閉ざされていた。
 ただ、月だけが在るべきものたちを浮かび上がらせている。

 不意に、月明りの下に二つの人影が生まれた。
 丁度海の方角以外からは死角になるような波止場の一角に、音も無く漆黒の海の中から姿を現した二つの人影は素早く足ヒレを外すと物陰へと移動する。

 相沢祐一は手早くダイヴァースーツを脱ぎ去った。やや細身ながら鍛え上げられた肉体が露わとなる。
 ゴム製特有の甲高い衣擦れの音に、祐一は手を止め傍らの女を冷たくも熱い眼差しで眺めた。
 スーツの下に仕舞われた黒髪が扇のように広がり、銀の飛沫を飛ばす。皮を脱ぎ捨てるようにスーツを脱ぎ去った水瀬名雪は、水の滴る肢体を惜しげも無く月明りの下に晒していた。
 輝くように白く水を弾いている肌。スレンダーな肢体。形の崩れない豊かな乳房が踊り、股間に生える茂みは濡れそぼり、綺麗な三角形を描いている。
 闇に仄かに浮かび上がる彼女の裸体は、美しかった。

 普段は母に似た穏やかな光を宿す瞳、今は猫科の猛獣のような鋭い光を宿す双眸が祐一に注がれる。鮮やかな朱唇が妖しく歪む。

「祐一、見惚れてくれるのは嬉しいけど」
「ああ、悪い」

 檻の中で吠え盛っている獣欲に苦笑を閃かせ、タオルで身体を拭い、特殊防水袋から取り出した暗色の戦闘服を着込む。
 名雪も長い髪を適当に拭き、簡単に纏め上げ、肢体に戦闘服を纏わせた。
 足ヒレとスーツ、そしてアクアラングを打ち捨ててあるゴミ箱の中に放り込み、目印を残して蓋を閉める。

 そして、防水袋から装備品を引きずり出す。
 アーミーナイフ二挺、そして自動拳銃『H&K P8』を二挺。相棒である『Cz75』は今回は持ち込んでいない。あの銃は些か繊細すぎるのだ。潜水中にこの銃が入った防水袋を少しでも乱暴に扱ってしまった場合、スライド部分が歪みかねない。そもそも今回はなるべく拳銃は使わないつもりだった。
 他に秋子から支給された物資に同じH&K社の『ソーコム・ピストル』――特殊任務用の大型拳銃もあったもの、装備からは排除した。此方は耐久性こそデタラメに優れているものの、少々銃は重すぎて自分の手には馴染まない。
 他には『CZE Vz61“スコーピオン”』短機関銃。サブマシンガンの中では『イングラム』と並ぶ最軽量のものだ。操作性の観点から此方を選択した。
 そしてヘッドギア式特殊無線に弾帯、弾倉、フィンガーカット・グローブ、スタングレネード。

「…………」

 手早くそれらの装備を身につけた祐一は、名雪の背嚢から引き出された獲物を見て目を細める。
 『Cz75』が祐一の相棒というならば、今彼女の足元で開かれたボックスの中で横たわるそれが水瀬名雪の相棒といえよう。
 『SAKO TRG−22』狙撃ライフル。フィンランドはSAKO社のボルトアクション式軍用ライフルだ。
 GBの最上級特戦技能保持者の称号である『(ビースト)』のコードネームこそ持たないものの、水瀬名雪のスナイパースキルは【フォックス】相沢祐一をも上回る。
 【エピタフ】――墓標に名を刻むように標的を正確に撃ち抜くその技術と冷たい意思を敬し、与えられたのではなくもぎ取ったその二つ名は、この世界での彼女自身の力と名を示す証だ。実際、彼女の能力は既にビーストナンバーに匹敵していると云えるだろう。

 名雪は着脱式のマガジンボックスを背嚢に放り込み、腰に巻いたガンホルダーに『SIG P230』を差し込む。祐一と同じスコーピオン短機関銃に暗視双眼鏡を装備すると、彼女は祐一を振り返った。
 無意識に彼女の頤を持ち上げ、瞳を覗き込む。視線が糸のように絡まる。

「背中は任せた」
「うん、任されたよ」

 月明りの下、軽く口づけを交した二人は二手に分かれ、闇へと飛び出していった。
 海に面したこの人工島に聳えるは、今はもう稼動する事の無い工作機械が置き捨てられた廃工場。
 そして狙うは中華マフィア『雷公幇』の首領【闇血雨】楊誡元の首。










 §  §  §  §  










――――四日前


化学兵器(ケミカル・ウェポン)?」

 さすがに驚きを隠せず声を上ずらせた祐一に、秋子は眼を伏せ頷いた。

「『雷公幇』……というより楊誡元がシンガポールの武器商人と購入の契約を結んだのは間違いありません。手元にはまだ渡っていないようですが」
「そんなものを買い込んでどこを脅迫しようっていうんです」

 訳が分からない。C兵器など脅しの道具にしか使いようも無いが、敵対する犯罪組織にC兵器をちらつかせたとして、それで脅しに屈するものだろうか。

「ブラフの道具かどうか。実際に使用するつもりだ、という分析があがってきています」
「そいつ、正気ですか?」

 耳を疑う。

「楊という男は連帯の強い幇ですらやり過ぎる性質に持て余して、半ば追放同然となった男です。生来の残虐性、何より破壊を好み、欲望を信じ、彼のビジネスは草木すらも残さぬと云われています」

 秋子はスーツの懐から数枚の写真を取り出して、テーブルに広げた。

「先日、17号埠頭で行なわれた銃撃戦の跡です。これは銃撃戦ではありませんね、ほぼ一方的な殺戮です。暴力団鷹山会の構成員35人が死亡。どうやら麻薬取引の最中だったようですね。ヘロイン40キロが奪われたという情報が上がってきています」
「相手はサブマシンガン装備ですか。敵う訳もないな」

 現場の写真に色濃く残る銃痕に、祐一は顔を顰めた。

「ロケット砲が使用された形跡もあります。単なる武装集団ではなく本格的な訓練を施された戦闘部隊と考えた方がいいでしょうね。『黄雷』という楊直属の私兵集団が楊とともに大陸から姿を消しているらしいです。恐らくはこれでしょう」
「しかし、構成員がやられたんだ。鷹山会といえば、宮守組の直系でしょう。あそこは日本でも有数の武闘派だ。黙っちゃいないのでは?」

 それを聞き、秋子は小さく嘆息した。

「黙ってはいませんよ。全国に動員を掛けています。下手をすれば戦争でしょうね。ただ、それに先駆けて都内の真ん中にある本部ビルにそのC兵器が叩き込まれかねませんけど」

 今度こそ祐一も絶句した。再び同じ言葉を繰り返す。

「正気、ですか?」

 そんな場所で化学兵器など使えばいったいどれほどの惨状になるか分かったものではない。平和な都市に地獄絵図が描かれるはめになる。
 少なくとも、正常な思考の持ち主がやるような行為ではない。だが、GB日本支部長はそっけなく相手が正常とはかけ離れた人物であるのだと繰り返した。

「二年前の上海銀行爆破事件。四年前の九龍カリアパールホテル虐殺事件、双方とも楊が首謀者とされています。正直、無関係の人間への配慮を持ち合わせている方とは思えませんね」

 どちらの事件も百人以上の民間人が死傷した事件だ。後者の事件など、ホテルに宿泊していた一人を暗殺するために宿泊者のほぼ全員が乗り込んできた武装集団に射殺されている。

「楊にとっては銃弾も爆薬もC兵器も武器という以外に何の意味もなく、何の違いもなく、使用するに躊躇う理由もない。複数の心理分析官が同様の分析結果を出しています」
「つまり、手にしたなら使う可能性が高い、と?」
「ええ。それにC兵器は無くとも、彼の攻撃性は危険過ぎます。このまま放置すれば、遠からず国内の何処かが別の犯罪組織との戦場になりかねません」
「現に宮守組とは既に準戦時状態ですか。この国の治安組織はどういう対処を?」
「公安は既に楊とその貴下部隊の潜伏先を特定しています。楊も宮守組との敵対状況からその隠れ家に身を置いてる模様だとか。ただ、強制捜査は兎も角、いきなりSATを投入する事に、警察の上層部が難色を示しているそうなのです」
「どうしてですか?」
「武器の不法所持、先日の銃撃戦、C兵器の入手。これに楊とその部下たちが関わっているという情報は正規ルートの入手ではなく、またそれが正しいと示す証拠が状況証拠でしかなく、法的な根拠、効力が乏しいとか。強制捜査を仕掛けるなら何とか出来るが、虎の子であるSATをこんな曖昧な状況で投入は出来ないと。勿論、普通の警察官たちが楊の本拠に強制捜査などしても、下手をすれば攻撃を受けて全滅です」

 その言葉にようやく祐一は話の筋を見通す事が出来た。
 フンと鼻を鳴らし、失笑を口端に宿す。

「依頼者はこの国そのものですか。相変わらず面倒な国だ、此処は。C兵器まで関わってるとなれば、他の国なら既に軍の特殊部隊が出張ってる事態ですよ、これは」
「この国では手続きに時間と手間と理由が必要ですから」
「そして責任の押し付け合い、それに世間からの弾劾に腰が引けてるといったところですか。確かに公的機関の銃器使用には病的に反応しますからね、この国のマスコミは。無闇に特殊部隊を投入して盛大な銃撃戦になった挙句に死傷者でも出て、その上投入の法的根拠がなかったなんて話が出たら否応無く叩かれる。自衛隊なんて持っての他か。連中の腰が引けるのも無理はない。だが、そんな躊躇いが手遅れを呼ぶ」
「そのための【GB】です」

 凛と告げる上司に、祐一の失笑が苦笑に代わる。

「無国籍の非合法特務機関。確かに便利ですね」

 苦笑に微笑を返し、秋子は再び表情を消した。

「どうやら楊は潜伏先が掴まれた事を薄々察知している模様です。一週間以内に場所を返るでしょう。元々現在の場所は仮宿だったようですし。恐らくはそこでC兵器の受け渡しを行なうつもりだったのかもしれません。
 どちらにせよ、姿を隠される前に始末をつける必要があります」

 肩を竦めて手にしたグラスを置くと、祐一は目つきを鋭く落とした。

「『ハウンド』は?」

 GBの誇る特一級特殊部隊の名に、秋子は首を振った。

「生憎アルファからデルタまで全チームが任務に従事中です。少なくとも、アジア地区には現在ハウンドは存在していない。呼び寄せるとしても最低一週間」
「間に合いませんか」

 残念ながら、と呟き秋子は傍らの椅子に置かれた鞄から書類を引き出し、祐一の方に押しやりながら云う。

「楊の潜伏先は旧高見沢工場跡。同行している『黄雷』の人数は40から50名。楊、『黄雷』、高見沢工場等今回の件の情報についての詳細はそちらに」
「それで、任務の内容は」

 答えを知りつつも、まるでこれまでの話を何も聞いていなかったかのように訊ねる祐一に、秋子の抑揚の無い声が答えた。

「楊誡元の暗殺です」
















 §  §  §  §  














 打ち捨てられた廃工場。相沢祐一はその隙間を風のように駆け抜けていた。足取りに惑いは無い。
 さすがにリハーサルまでは行なわなかったが、工場敷地内の間取りについては任務が告げられてからの三日間で完全に頭に叩き込んでいる。およそ、楊誡元がいるであろう区域についても同様だ。
 人工島という場所柄、陸地からのルートは限られていた。勿論、厳重な警戒がなされ、地上から発見されず侵入する事は不可能に近い。
 だが、逆に海側の警戒は薄く、ここまでは比較的簡単に入り込む事が出来た。

 金網が破れかけたフェンスに背中を預け、周囲を警戒しながら首を捻り、道路の奥を窺う。
 聳え立つ工場の無機質な威容とコンクリートのビルが月夜に浮かび上がっていた。楊が本拠としているであろう場所があの工場と直接連結されたビルである。
 ここから先は多くの人員が詰めているはず。

 そろそろ名雪も配置についただろうか。
 神経を尖らせながら、ふと恋人であり相棒であるスナイパーを思い浮かべる。
 撤収の際の援護役、もしくは乱戦になった場合の霍乱、援護。どちらにせよ、彼女がいなければ自分の危険度は爆発的に跳ね上がり、生還率は崖から転げ落ちるように悪化する。
 だが、その点は楽観していた。彼女の腕は何よりも自分が知っている。同時に、これほど安心して背中を預けられる人物は他にはいない。
 ただ、こんな世界で自分の背中を預けているような状況が、彼女のためになるのかといえば祐一には何も言葉を思いつかない。

 今、考える事ではない。

 気持ちを切り替える。余計な事を考えて生き残れるほどこの世界は甘くは無い。
 僅か一桁の年齢からイレイザー・エージェントとして名を馳せた【フォックス】相沢祐一にとって、それは空が青いのと変わらない常識だ。

 幽かにこめかみに震動を感じた。名雪から連絡だ。
 祐一は速やかにヘッドギア式無線機をONした。

『Set Now』

 小さな、だが夜に透き通るような名雪の声が届く。
 準備完了のサイン。自然と不敵な笑みが浮かぶ。

 了解と呟き、祐一は音も無く動き出し、闇に溶け込むように姿を消した。













「いいから応援を寄越せ! 警察? 違う、やつらそんなんじゃ―――っ、うおおお!?」

 凄まじい爆音と共に中にいた人間ごと警備所が吹き飛び、火炎が立ち昇る。
 衝撃波にサブマシンガンを放っていた黄雷の隊員三名が思わず射撃を止めて、身を庇った。
 その隙に、一台の重厚な四輪車両が閉ざされたフェンスを突き破り、廃工場の敷地内へと突入した。

 特殊な改造がなされているのか、大きく開かれた車体天井部から上半身を乗り出していた大柄なその男は、警備所を吹き飛ばしたパンツァーファウストを放り捨て、代わりと云わんばかりに二挺の『FNミニミ』軽機関銃を車内から引き摺り出すと、在ろう事か片方だけで7.5キロもするそれらを軽々と両脇に抱え、その場にいた8名近い人間をゴミのように薙ぎ払った。

「相変わらず人間は地味なくせに、戦闘は派手だなアーロンは」

 今も無表情に頭上で弾丸をばら撒いている大男に、戦闘中にも関わらず助手席でサイドボードに両足を乗せて両手を後頭部に回しているという随分と寛いだ格好をした青年が呆れたように呟く。
 モスグリーンのロングコートに拘束具のようなブーツ。漆黒の上下。やや金色がかった茶色の髪の下には年齢の割に幼い面差しがある。彼の名は北川潤。【サラーム】の名を持つ世界有数の殺し屋の一人だ。
 銃声に掻き消されたであろう呟きを聞き取ったのか、後部座席で静かに腰掛ける崔尚成が苦笑気味に喉を鳴らした。

「さて、そろそろ頃合かしら、サラーム、せんせ。手はず通りアタシとアーロンはこのまま敵を陽動、撹乱するわ」

 運転席で巨大な車体を軽やかとも言える手並みで手足のように操っているサファイア・アシェランジェが、スリットから覗く褐色の太腿を躍らせながら告げる。

「分かった。怪我はするなよ」
「あら、心配してるの。嬉しいわ」

 からかうように光る碧玉の双眸に見つめられ、北川は気まずげに視線をそらせた。

「いや、全然してないし」
「まあ、照れちゃって。初々しいわねえ」
「いや、全然照れてないんだけど」
「遊んでないで、さっさと行け」

 不毛な口論ともじゃれあいともつかないやり取りを始めかけていた二人に、アーロンの低い声が嗜めるように降ってきた。

「了解。行くぞ、爺さん」
「うむ」

 両者が頷くと同時に、走行中の車体から二人の姿が掻き消える。
 バックミラーに飛び降りた二人の姿を確認すると、サファイアはハンドルを切りながらアクセルを踏み込んだ。

「何となく歌でも歌いたい気分ね。アーロン、BGMは必要?」
「銃声だけで結構だ」
「つれないお言葉だこと」

 肩を竦めた褐色の美女は、それでも構わず楽しげにルージュの塗られた唇を開き、旋律を歌い始めた。
 銃声と爆音をバックミュージックに、ソプラノの歌声が静かな月夜を泳ぎだす。


 二人の殺し屋が邂逅する、二度目の夜の到来だった。




  to be next bullet.




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