それは醒めるような蒼空が広がる、街路に陽炎が立ち昇る、そんな暑い夏の日だった。
 そんな、暑い日のことだった。



「オレと、付き合って欲しい、んだ」

 冷房の効いた喫茶店の中、窓際の席で語尾を酷くどもらせながら彼が言った言葉を、美坂香里は後々に至るまでありありと思い出すことができた。
 彼の必死な眼差しも、緊張で強張っている表情も、からっぽになったグラスの中で、氷がカタリと崩れた音も、何もかも覚えていた。
 地元の大学に通い出してから初めての夏のある日の午後。北川潤は、美坂香里に告白した。

 
 それは、美坂香里にとって、大地震のようなものだったといえる。いつ来るかまるで見当もつかないもの。それでいて、いつか必ず来るもの。  そして、忘れた頃にやってくるもの。
 
「あ……えっと、その」

 もしかしたら顔は真っ赤になってるんじゃないだろうか。凄く、変な顔に見えるんじゃないだろうか。俯きながら、そんなことばかり考えていた。
 焦って、もう氷だけになったアイスコーヒーのグラスをストローで掻き回していた。

「ご、ごめん……あ、そうじゃなくて」

 ごめんの一言に彼の表情が虚脱しかけるのを見て、慌てて首を振る。

「その……今はいきなりで驚いてて」
「あ、ああ」
「だからその、ね?」
「えっと、なに?」

 目線を逸らした先、窓から見える街並み、行き交う人の流れ。すべてが陽炎に揺れて不鮮明。
 まるで幻影のよう。幻燈に映し出された偽りの世界。今、この瞬間そのものが陽炎のようで。

 そんな連想を封じ込めるように視線を引き戻し、香里は朱に染まった顔を隠すように俯かせながら、言った。

「少し、考えさせて欲しいの。その、うん、今度」
「今度?」
「そう、今度会った時にちゃんと答えるわ。だから、今日は……」
「……ん、分かった」

 多分、今まで溜め込んでいた想いを吐き出してしまったからだろう。彼はとてもすっきりとした顔をして、ニカッと笑った。

「んじゃ、待ってるからな」

 待ってるからな。
 そう言い残して颯爽と店を出て行った彼の背中を、美坂香里はぼんやりと見つめていた。
 いつまでもいつまでも。見えなくなっても見つめていた。



 答えを保留したのは、ほんの気まぐれに過ぎない。
 何時まで経ってもなかなか好きだと云ってくれなかった彼に対しての、ほんのささいな意地悪に過ぎなかったのだ。
 待たせられた分、ちょっとだけ焦れてもらおう。はにかみそうになりながら、込み上げる嬉しさを押し殺しながら、ちょっとだけ拗ねた心地でそう、少しだけ思っただけだったのに。


 
 待ってるからな。
 そんな嘘を一つ残して、北川潤は美坂香里の世界から姿を消した。





 翌日、北川家邸宅から警察により搬出された遺体の中に、彼の姿は見当たらなかった。







 『第2A66号状況』

 【ガーディアン・ビースト】内に措ける199×年の夏に発生した事件の分類コードは、斯くの如く無機質な番号でしかない。
 北国の閑静な住宅街で発生した一家惨殺事件。何故か地方紙の端にしか載らなかったその事件は、当時かなりの衝撃をGB関係者に与えている。
 GBにより保護されていた世界的規模の非合法犯罪結社【ノクターン】の元工作員夫婦。Aランク機密である内部情報提供者の身元と居場所を暴かれた挙句、白昼堂々惨殺されたのだ。【GB】の威信と信頼は失墜し、その後数年に渡ってGB内部に情報流出、内通者疑惑と人事の嵐が吹き荒れたのも無理からぬことであろう。

 元工作員夫婦が与えられた戸籍の苗字は北川。
 発見された死体は二つ。北川武巳とその妻北川遙。死因は9o拳銃弾の被弾、ナイフの刺突による多数の外傷。他に家屋内部ではこの二名以外の血液痕も確認されており、その出血量から少なくともあと一名の死亡が予想されている。ただ、北川夫妻以外の残された血痕の血液型はA型であり、消息不明である北川夫妻の子供の血液型はともにB型。
 ただ、その一点のみに縋りつき、北川潤の友人たちは彼の生存を信じた。



これは、その場に居た者しか知らぬ、事件の全容である。
北川潤の最も長い日は、以下のようにして幕を下ろした。









 §  §  §  §  








 自然と零れ出る含み笑いと鼻歌。それらを必死に堪えながら、北川潤は帰途を急いでいた。
 一世一代の決心をもっての告白。正直に云えば、断られることも半ば覚悟していたのだ。端から見れば青信号以外の何ものでもなかった二人であったが、鈍感な北川にとってはそれこそ清水の舞台から飛び降りる心境だったのだから。
 答えは保留。だが、鈍感な彼にも分かるほど、手ごたえはあったわけで……。
 8割の期待と2割の不安を抱きつつ、北川潤は足取りも軽やかに自宅への道を歩いていた。



 そして、彼にとっての日常と幸福が終る。



 喫茶店のある商店街から徒歩で十五分。閑静な住宅街の隅に、北川潤の自宅はある。特に目立った特徴もない街中に埋没する普通の一軒家。
 もし、敢えて普段との差異を導き出すならば、玄関の斜め前に見慣れぬ白いバンが停められていた。ただ、それだけに過ぎない。
 無論、北川はそんなクルマには何の注意も払わず、いつもの通り玄関の扉を開け、平和な世界から永遠に別れを告げた。


「ただいまー、なあおふく―――」

 いつもどおりスニーカーを脱ぎ捨て、乾いた喉を潤そうと奥のキッチンに向かいかけた北川は、視界の端に何か意味の分からぬものを見た気がして、足を止めた。

「……え」

 玄関を入ってすぐの左手には座敷がある。それが北川家の間取りだった。
 先月張り替えたばかりの畳はまだ青さを残しており、漆塗りのテーブルと和ダンスのコントラストはなかなかの風靡を醸し出している。北川は畳の上で横になって昼寝をするのが好きだった。
 だから、見慣れた場所に撒き散らされた赤色は、あまりにも異質で、不可解で。タンスに背をもたれ、脱力して座り込んでいる母親の姿は出来の悪い人形のように見えた。

「おふく…ろ?」

 応えは無い。荒事とはこれまで無縁だった北川にも一目で理解できていた。それはもはや母親ではなく、ただの死体でしか無いのだと。
 もたれたタンスと一畳。鮮血に染まったそれらがすべてを現していた。

「んーーッ!!」

 背中越しに聞こえたくぐもった悲鳴。彼が死なずに済んだのは、その声のお陰だ。振り返った彼が見たものは、大型のナイフを閃かせ音もなく飛び掛ってくる痩身の男。
 痩せぎすで、鞭のように撓る細い腕。ニット帽から零れる髪の毛は白く、肌はさらに病気のように白い。その容貌は東洋人ですらなかった。

 悲鳴をあげる間すらなかった。それでも何故かナイフの切っ先が喉を狙っているのだと脳髄が認識し運動神経に向かって絶叫する。咄嗟に足元にあったスリッパ立てを面前に掲げる。ナイフは木目へと突き刺さり、男は勢いのまま北川へとぶち当たった。
 二人は縺れ合いながら、座敷へと転がり込んだ。組みあい、間近に向き合う顔と顔。そして、北川は圧し掛かってくる男の瞳に震え上がった。その灰色の瞳には彼が初めて目の当たりにするナイフよりも鋭い殺意と、狂気じみた暴力への欲望が渦巻いていた。
 知らなかった。本物の殺意とは、狂気とは、抗う気力すら奪い取るものだったのだ。心が萎え、体が恐怖に屈していく。

 恐怖と怯えに涙を滲ませる北川に、男は薄らと笑い何かを囁く。どこの言葉かは分からない。それでも、北川にはそれが死を告げるものだと知れた。

「や、やめ――」

 剣と見違うほどの巨大なナイフが、白々とした閃きを嘲るように輝かせた。
 閉じる事も出来ない双眸に、自分の喉を切り裂くであろうその切っ先が映りこむ。
 涙に滲む景色の向こう、銀光はユルリと弄ぶように揺れた。

 不意に風を切り繰り出された蹴り足が、ナイフを弾き飛ばしたのはまさに切っ先が喉元に食い込む寸前。
 男が罵声をあげながら飛び退るなか、北川は呆然と仰向けのままその光景を目の当たりにしていた。

 また一つ、世界が壊れる。

 死体であったはずなのに。死んでいたはずなのに。

 彼女はそこに立っていた。腹部と左の太腿、そして右のこめかみから鮮血を滴らせながら。そんな傷など在りもしないように、北川遙は凛と揺らがず立っていた。

 北川潤にとっての母とは、有り触れたどこにでもいる普通の母親でしかなかった。安売りのチラシを捲り、昼メロにみっともなくものめり込み、近所の主婦と飽きもせず井戸端会議を繰り返す。勉強しろと捲くし立て、親父の稼ぎが少ないと愚痴り、掃除の邪魔だと追い立てる。そんなどこにでもいる普通の母親。
 友達の母親より美人なのが自慢だった。料理があまり上手くないのが不満だった。口うるさいのは溜まらなかったけど、親の権力を振り翳さない態度は内心凄いと思っていた。
 優しい母親だった。それだけは間違い無い。

「ガスコーニュッ!!」

 彼女が吠える。怒りと決意に彩られた、魂の、そして最後の咆哮。
 北川遙は、真紅に塗れた相貌に、見たこともない凄絶な覚悟を宿し、自分の息子を殺そうとした男に踊りかかった。
 後に聞けば、その時彼女は既に7発の9ミリパラ弾をその全身に撃ち込まれていたという。
 動けただけでも奇跡であった。

『ルカッ、この死にぞこないが!!』
「おふくろッ!!」

 悲鳴は届かない。飛び起きた北川は見る。母がイナヅマのようなナイフの軌跡を掻い潜り、男の右腕を取るや一瞬にしてへし折る場面を。
 そして、男の左手に魔法のように現れた小ぶりのナイフが、がら空きの脇から母の胸部に深々と、突き立てられる情景を。

「ガハッ!」
「おふくろぉぉぉ!!」

 無造作に蹴り飛ばされ転がった遙は、彼の前で力無く仰向けに倒れ、動かなくなった。最後に、首を傾け、泣き叫びながら這いずり寄ってくる息子に小さく笑いかける。そして、「ごめんね」とだけ言い残し、瞼を降ろした。

「おい、嘘だろ? なあ、目ぇ開けろよ。母さん、母さんッ!!」
「畜…生、その状態で腕折るかよ、化け物め。さっさと死んでろこの売女が。あぁあぁ、てめえもギャアギャアうるさいんだよ、ガキが。てめえも死ね」
「……の野郎ぉぉ!!」

 獲物を前に罵り、嘲り、死者を冒涜する。意味がない。害ですらある。その行為はプロとして、あまりに愚かであった。
 そして、北川を無力でひ弱な弱者だとしか認識していなかった男にとって、それは完全な不意打ちとなった。

 目の前に突き刺さっていたナイフは一振りの狂気。北川は躊躇いなくそれを手に取る。予備動作も何もない、それは電光の如き突貫。ただ、刺すという行為。刃を振るうに一つの躊躇いもなく、人に切っ先を埋め込むになんの戸惑いもない動きだった。
 ガスコーニュと呼ばれた男は、咄嗟に右手を振ろうとして激痛に硬直する。刹那の失策は致命傷。
 
――――ドッ。

 それは小さな感慨だった。
 人の体とは、随分と柔らかいものだ、初めて人を刺した感想はそんなものだった。その程度のものだった。


「ガッ、アア、ガ、ガキ…がぁぁ!!」
「よくもよくもよくもぉぉぉ! 殺してやるッ!!」

 腹に突き刺したナイフをさらに体重をかけて押し込み、相手の身体を壁に押し付ける。そして捻る。内臓を掻き回す。そして、ナイフを抜きザマ今度は自分に刃を突き立てようとしている男の左の掌に突き立てた。壁に磔るように突き刺した。

「ギャッ――ゲフゥ」

 自然に体が動く。悲鳴をあげようとする男の喉を渾身の力で殴りつけ、白目を剥いた男の双眸に北川は無機質なほどの冷酷さで指を突っ込んだ。指はあっさりと根元まで眼孔にもぐりこむ。
 脳髄を掻き回されて生きていられる人間は存在しない。男は化け物のように舌を長々と垂らし、壁につき立てられた右手を残してズルズルと崩れ落ちた。
 狂乱が過ぎ、北川は唐突に我に返り、血とそれ以外の体液に濡れた自分の手を息を荒らげながら見つめる。
 生暖かい血が、掌を伝い、腕へと至り近づいてくる。それを―――冷ややかに―――眺める。

「あ? っ、ああっ、あああああああ!?」

 殴られるかのように我に返った北川は、慌てて手を振り回し、這い登ってくる鮮血を振り払った。それでも事実は揺らがず残る。北川は全身を痙攣させながら膝から崩れ落ちた。

「オレ……ころ、殺した? 人を、人殺し、オレオレ」

 両目を潰し、舌をダラリとはみ出した、自分が殺した惨殺死体が冷たく自分を見上げてくる。
 北川は恐怖に慄いた。
 自分はいったい何をした? 怒りに任せてナイフを突き刺し、その挙句に両目に指を突っ込んでそのまま頭をかき回す。
 なんだそれは? さっきまで普通の学生だったはずなのに、なんなんだ? さっきまで、ついさっきまで美坂と会ってたオレはどこにいったんだ?
 この冷たさはいったいなんだ?

「オレは――」
「何を恐れている、少年」

 笑うように誰かは言った。いや、正確には憐れむようにだったのかもしれない。
 北川は電撃を受けたように振り返る。
 和室と居間は引き戸を隔てて繋がっている。いつの間にかそれは開かれていた。もしかしたら、最初から開かれていたのかもしれない。一部始終を見ていたのかもしれない。
 ブロンドの髪のその男は、碧眼を細めながら戸口に背を預け、此方を見下ろしていた。

「人を…殺し、殺」
「人を殺してしまった事にびびってるってか? ああ、違うな少年。君はそう思う事で逃げようとしている。これでもオレは人殺しってヤツを自分を含めて飽きるくらい知っている。
 その経験がオレに訴えかけるわけだ。君が怯えているのは人を殺してしまった事実にじゃない。ヒト一人殺してしまったのに、まったく何とも思わなかった自分に恐怖してるんだ。恐怖も恐れも後悔も、なにも感じなかったな。禁忌を犯したという感慨を、何一つ抱かなかったのだな、君は。いや、抱けなかったのか」
「あ……ああ」

 まったく。ああ、まったく其の通りだった。自分でも錯覚していたというのに、錯覚しようとしていたのに。この男はあっさりと、真実を暴露してしまった。
 自分が何なのか解からなくなる。さっきまで普通の大学生だったのに。好きな人に告白して、その答えを待ち侘びるただの平凡な男に過ぎなかったのに。
 人を殺してしまった。殺して、なにも感じない。ああ、死んだ。それだけしか思わなかった。殺した瞬間、怒りすらも消えてしまった。こいつは、母を殺したというのに。

 愕然と、へたり込んでいる北川の横を通り過ぎ、男は眠る遙の脇に膝をつく。

『まったく、最後までイイ女だったな、あんたは』
 
 腕を取り、胸の上で組ませ、祈りを捧げる。

『じゃあな、ルクシアナ』

 知らぬ名前で北川の母に別れを告げた金色の男は、まだ腕を抱え蹲っている北川を一瞥し、疲れた眼差しで居間に顔を向けた。

『タジク、ルカは先に逝ったぞ』
『……そうか』

 その苦しげな声に、北川はハッと顔をあげた。

「親父!?」

 先刻の母と同じ惨状がそこにあった。ソファーに深々と身を埋めている父の腹は真っ赤に染まり、口と鼻からは未だ止め処なく鮮血が流れている。 
 苦しげに息を荒らげ、だがどこか穏やかに、北川武巳はそこにいた。

『タジク、お前も見ただろう。お前の息子は何の躊躇いもなく人間の目に指を突き入れやがった。玄人だって咄嗟にそこまでするには躊躇ってやつがある。それが、コイツには無い。 分かってるな? コイツは天性の才能ってやつを持ってる。殺人者の才能だ。狂熱ではなく怜悧を以って敵を殺す殺人者の才能だ。このまま生かしておけば、オレはこいつを飛びっきりの殺し屋にしちまうぜ? それはコイツにとって地獄の始まりかもしれん。ここで死んでたほうが幸せかもしれん。それでもお前は、息子を殺さないでくれとオレに頼むのか?』
『…ああ、そうだ。頼む、ヴォルフ』

 武巳は顎を上げ、辛そうに目を細めた。

『死ねば…それですべては終る。生きていれば、掴める何かがあるかもしれん。ヴォルフよ、お前がオレの家族全員を殺せと言われているのは分かっている。立場が悪くなるのも分かる。それでも敢えて頼む。オレの子供を殺さないでくれ』
『お前、怨まれるかもしれんぞ』
『親はな、子供の死を望むことなど出来んのだ。それが自己満足に過ぎず、どれほど残酷だとしてもな』

 金髪の男は力無く首を振ると、粛然と告げた。

『分かった、頼まれよう、アドルファスの名にかけて、お前の子供たちはオレが引き受けた』

 そして、親しげに、哀しげに笑いかける。

『お前とルカには平穏なまま暮らしてほしかったよ。すまん、タジク』
『いいさ、お前を寄越したのは、フェスタにとっては嫌がらせのつもりだったんだろうがな。オレにはありがたかったよ、他ならぬお前で良かった』

 頭が真っ白で、彼らが何を言っているのか分からなかった。冷静に振り返れば、彼らが英語で会話していたのだと思い出せる。それでも、その時はまるで自分が馬鹿になってしまったから、何も分からないのだと、そう思った。
 それでも、辛うじて、それが自分についての事だということだけ察する。

「なにを…なに言ってんだよ、親父」
「すまん、潤。最低な父親だな、子供に地獄を歩かせようというんだから。だが、それでも、生きてくれ、頼む、あの子を守ってやってくれ」
「分からねえよ! 何言ってるのかわかんねえよ!!」
「すべてはこの男から聞け。その言葉を信じろ。それがお前の生き残れる道なんだ」

 言い切った武巳は、込み上げて来る何かを抑えるように腹を押さえた手を額に当てた。
 それでも溢れる激情が、悲痛となって声に滲む。

「ああ、本当に最低だ。最悪だ。オレは自分の子供に何を言ってる? 虫唾が走る、吐き気がする。我が子を助ける事も出来ない、逃がすことすら出来ない。ただ血塗られた道を往けと無責任に言い残して勝手にくたばるなんて」
「タジク」
「……神の慈愛すらもオレには勿体無い。地獄へ墜ちるな。決定的だ、ははっ。ヴォルフ、もういいだろう、苦しみぬいて死ぬのも一つの罰かもしれんが、オレは耐えられそうにない。そろそろやってくれ」
「ああ、先に行って待ってろ」

 黒色の冷たい輝きが武巳へと向けられる。

「潤、すまない。オレと母さんを許してくれ」
「親父ぃッ!!」

 消音器越しの銃声は、砂の城を蹴散らすようにあっさりと一人の命を終らせた。
 その後の記憶は北川潤には残されていない。
 ナイフを手に、父を殺した男に向かって飛び掛ったような残影だけがこびりついている。
 銃声、血の色、硝煙の匂い。その光景を最後に、彼の今日という日は終わりを告げた。



「消去しないのですか?」
「ああ、約束だからな」

 北川を気絶させた長いブルネットの髪を持つ女は、幽かに細眉を傾け、忠告するように唇を動かす。

「フェスタが騒ぎますよ。ヤツの犬……ガスコーニュが死んだ件はタジクたちに殺れたと言い通せばすむかもしれませんが、この子たちは抹消対象です。それを勝手に――」
「言うな、レイシア」

 その声に底知れぬ激怒を感じ、レイシアと呼ばれた女は口を噤む。

「フェスタはオレにあいつらを殺させやがった。オレの最も大事にしていた想い出を、オレの手で壊させやがった。その挙句、オレにあいつらの最後の願いを踏み躙れというのか、レイシア!! フェスタの、フェスタ如きの思惑に最後まで踊らされろというのか!? ふざけるな! ふざけるなッ!!」
「ボス」
「今回の件は裏切り者への粛清と、見せしめだ。子供たちは本来関係無い。このまま見逃すのは無理だろうが、オレの手の内に入れておくのであれば生かしておける。その程度はフェスタ如きに口出しさせないさ」
「ですが、何の口実もなくという訳には」

 ヴォルフは青年を担ぎ上げ、肩に背負う。

「こいつは【銀星(シルヴァー・ミーティア)】に預ける」
「老師に? では、本当にこの子をエージェントに?」
「素質は、お前も見ただろう」

 あの光景を思い出し、レイシアは胸の奥がヒヤリと冷えつくのを感じる。
 訓練された訳でもないというのに、ああも平然と人間を壊せる。技術に対しての恐れではない。ガスコーニュも右腕を直前に折られていなければ、もしくは油断していなければ簡単にあしらえたであろう。彼を殺したワザはその程度の稚拙なものだ。
 恐るべきは、あの躊躇いのなさ。誰しもが持つ殺人という行為に対する禁忌、それを全く持たない精神。理性と平和な環境が、彼の人として欠けた何かを露わとせずに覆い隠してきたのだろう。
 だが、殺意のトリガーはもはや引かれてしまった。人を殺す事で、青年は自らのウチにある破滅に気付いてしまった。一度気付けばもうそれを無視する事は出来ない。後はそれに押し潰されるか、制御するかの二つの道のみ。

「いつか、復讐に貴方を殺すかもしれませんよ」
「そうしたいんならそうすればいいさ。その権利はある」
「感傷は否定しません。ですがそれは下らない感傷です。フェスタの嫌がらせのために貴方が殺される必要はありませんわ」

 ヴォルフはふんと鼻を鳴らすと、奥の部屋に向かって声をあげる。

「アーロン、そちらは?」

 ヴォルフの呼びかけに、さらに一人の男が姿を現す。黒服に身を包み、帽子を深く被った長身の男。縁から覗く眼だけが鋭く鷹の目の如くてらついている。
 その脇には全身を縛られ、口をテープで塞がれた少女が抱えられていた。
 歳の頃は16,7。座敷で眠る遙に良く似た横顔、そして普段は強気に釣り上げた双眸を今は閉ざす彼女の名は北川姫里。

「最後の銃声で気を失った」

 アーロンは低く呟き、能面のような顔に備わる細目を疲れたように閉じた。その頬に残る掻き傷や、乱れた黒服から少女が相当暴れた事が推察される。同時に、彼が無用の暴力を振るうまいとした事も。

「レイシア、その娘を。アーロンは悪いがガスコーニュの死体をクルマに運べ。置いて行く訳にもいかんしな」

 アーロンから姫里を受け取ったレイシアは彼女を抱え、玄関へと向かう。アーロンもガスコーニュの死体を担ぎ上げ、後に続いた。
 一人、残ったヴォルフは無言のまま家の中を見渡し、横たわる夫婦を静かに見下ろした。

「なあ、タジク、ルカ。お前達を殺してまで、オレはなにを手に入れようとしているんだろうな」

 死者は答えを返してはくれない。
 それでも尚、答えを求め、そしてやはり答えは得られず、ヴォルフ・D・アドルファスは寂しげに祈りを捧げると、その場を後にした。











 §  §  §  §  









 その日の姉の姿は、美坂栞がかつて見たことがないほどに不気味であった。
 顔の筋肉が伸びきってしまったかのように表情はヘラヘラと緩み締まりがなく、時折思い出したようにクスクスと笑みを漏らす。
 夕食の時、箸を咥えながら身悶えし始めた時には、家族一同無意識に後退りまでしてしまった。
 そして、時計が8時を回った今も、テレビのブラウン管を見つめながら、ポカーンと物思いに耽っている。そしてやはり時々ニヤニヤと笑い出す。
 多分、テレビ番組は目に入っていないのだろう。

 正直、話し掛けるのもはばかられたため、栞は自室に引篭もろうとリビングを後にした。
 廊下を歩き、階段を上りかけたとき、電話が鳴った。

「はい、美坂ですけれど……ああ、祐一さん? え、お姉ちゃん? いますけど。はい、代わりますね」

 受話器を置いて、リビングへ戻ると姉はクッションを抱えてゴロゴロと床を転がっていた。
 姉の精神状態を訝りながら、電話があった事を伝える。

「北川くん?」
「いえ、祐一さんからですよ」

 飛び起きるように言った姉の一言にだいたいの状況を把握した栞は、ははーんと薄ら笑いを浮かべた。そうと分かれば姉の怪しげな行動も理解できる。見かけによらず、可愛い人だと思わず微笑んでしまう。
 一気にやる気を無くし、面倒くさそうに電話へと向かう香里について、栞も自室へ戻るべく後に続いた。

「はい、香里です。なによ、こんな時間に……はい? ………………え?」

 階段を上りかけた栞の足が再び止まる。

「お姉ちゃん?」

 受話器がゆっくりと重力に引かれ、床にぶつかる。
 乾いた打音が、廊下に響いた。

「お姉ちゃん!?」

 慌てて駆け寄る栞の眼差しの先には、膝からへたり込み、顔を紙のように白くしながら凍りつく姉の姿。

「なによ、それ」

 栞は、生まれて初めて、人が『無』という感情を面に出せるのだと知った。

「どうしたの、お姉ちゃん!!」
「嘘、でしょ?」

 受話器からは祐一の声が響いている。だが、そんなもの聞こえない、聞きたくない。

「ちょっ、お姉ちゃん!?」

 香里は栞を突き飛ばすように押しのけ、裸足のまま外へと飛び出した。暖かな光が一瞬にして途絶え、夏とは思えぬ冷ややかな空気が容赦なく香里に襲い掛かった。
 空は昼間の快晴が嘘のように雲に覆われ、月も星もその姿を隠している。
 一切の闇。ただ、無機質な人工の光だけが闇を浮かび上がらせる中を、美坂香里は走りだした。何処へ? そう、彼の家へ。
 だが、尖った何かが足の裏を貫き、激痛に足が縺れ、彼女は叩きつけられるようにアスファルトの上に転がった。無様に、人形のように地面に横たわる。
 一度倒れれば、もう立ち上がる気力などどこにもなかった。起き上がり、どこへ行こうというのか。辿り着けば、そこに現実が待ち受けている。信じたくない悪夢が待ち受けている。もう、動けるはずもなかった。代わりに凍り付いていた感情が割れる。
 冷たい地べたに額を押しつけ、もう微動だにすることも叶わない。

「あたし、まだ何も言ってない。何も答えてない。なのに、なんでよ……なんで、なんでッ! いや、いや、いやぁぁぁぁ!!」

 夜の町に、流れるはただ一筋の慟哭なれば。
 無情なほどに闇は応えず。




















 こうして、永遠に続くまどろみのような日常は終わりを告げ、多くの者たちの運命は転換する。
 安寧は途絶え、カナリアたちは嘴を噤み、平穏の歌を忘れた。
 ただ、暗闇の中で泣き叫ぶようにカナリアは歌う。我が身を闇色に染め、喉張り裂けんばかりに命を込めて。


 そう、これは―――――――

 ―――哀しみのなかで魂を歌う、闇色のカナリアたちの物語だ。





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