既に日付が変わってから数刻が経とうというにも関わらず、街からは喧騒も消えず猥雑なざわめきが立ち込めている。
むしろ夜の闇こそが、都市という名の生臭い生気を活性化させている。夜の街は、闇を恐れず闇に踊る。
それは何処の国の街だとて変わりはしない。せめぎ合う人間と硬質の建物に覆い尽くされた場所は何処も同じようなものだ。

この数年という月日を世界の街を流離う事で過ごしてきた北川潤にはそう思える。
かつてはそういう雰囲気が苦手だったというのに。青年は小さく自嘲する。今となっては、その猥雑さの方が心が安らぐというのは如何なるものか。

その姦しい都会の片隅にせせこましく佇む雑居ビルの一室、窓の外から聞こえてくる街の喧騒が聞こえてくる中、レオポルド製スコープを磨きながら青年はかつての自分に思いを馳せた。
小奇麗に片付けられた部屋の電灯は消されたまま、ただステンレス製のデスクの上の蛍光だけが散らばったスプリングなどの銃器の部品と、拙い鼻歌を歌っている独りの青年の横顔を照らしていた。

「随分と上機嫌ね。何か良い事でもあったのかしら?」

不意に薄暗い部屋に響いたのはソプラノの音色。北川は自分が無意識に鼻歌を歌っていたことに今更気付き、フンと小さく鼻を鳴らすと、手にしていたM3スコープを置き、部屋の隅に置かれているベッドに顔を向けた。

「なぜお前が此処に居るんだ、サファイア・アシェランジェ」

一人の女が、いつの間にかベッドの端に足を組んで腰掛けている。東洋人ではない。しっとりとした小麦色の肌に、濡れたような焦げ茶の髪を纏わせている。南欧系の人種に良く見られる容姿であった。 碧玉の通り名を持つその女は、大きく開いた胸を反らし、その長くしなやかな足を見せつけるように組みかえる。北川はスッと視線を逸らした。 青年は何処かしらある女性に似た面影を持つ彼女が苦手だった。
顔を顰める北川に、サファイアは目尻を細めて微笑をたたえる。のたうつ蛇のような髪を妖艶な仕草で掻きあげ、女は流し目を向けた。

「つれない言葉ね、せっかく遥々こんな世界の果てにまで会いに来たっていうのに」
「ふざけるなよ」

仮にも自分と同じ組織有数の暗殺者である彼女が、そんな理由でわざわざ顔を見せるわけがない。
だが、サファイアはその名通りの碧玉の瞳に薄らと笑みを宿すと、からかうように口ずさんだ。

「あらあら。あながちふざけているつもりもないのよ、サラーム」
「……サフィ」

青年の憮然とした声を聞きながら、サファイアは咄嗟に喉元に掲げた枕に突き刺さる二本のナイフを見て、真っ赤なルージュが塗られた唇を尖らせた。

「サラーム、今本気で投げたでしょ」
「二度は言わない」
「ホント、つれないぼーや」

褐色の美女は白けたようにナイフをあしらった枕を放り投げ、腰を上げた。
窓から差し込む夜光に、サファイアの肢体は仄かに浮き上がる。縊れた腰に手を当てて、美女は開いた戸口にもたれかかる。

「こんなイイ女が手の届く所にいるっていうのに手を出さないなんてね。前から疑ってたんだけどさ、あなたって男の方が好き?」

無言で今度はベレッタを向けられて、サファイアは首を竦めて肢体を翻し戸口を潜ると姿を消した。ベレッタを降ろした青年の耳に開け放たれた扉の向こうから、楽しげなソプラノが残滓となって漂ってくる。

「しばらくこっちにいるから、その気になったら呼びなさい。相手をしてあげても良くってよ、ボーヤ」
「チッ、だから何をしにきたんだ」

結局女は人をからかうだけからかって立ち去ってしまった。
北川は苛立たしげに舌打ちし、再び手元に意識を戻そうとして、ようやくもう一人の気配に気がつく。今日はどうやら気も漫ろらしい。隙だらけだ。

「爺さん」

サファイアと入れ替わりに扉を開けて入ってきた老紳士に、北川は大きく目を見開いて立ち上がった。
半世紀ほど昔の英国紳士のような格好をしたその長身の老人は、手にしたステッキを肩に担ぎ、渋みのある微笑を湛える。

「さて、艶事が始まるのかと遠慮していたのだが。余計な勘繰りだったか。残念だな」

被っていた帽子を脱ぐと、銀色にも見える白髪が顔を覗かせる。その深みと年輪を刻んだ人好きする面差しからは人種は窺い知れない。香港出身の中国人でイギリス人とのハーフだとの話も聞くが、傍目にはその何れにも見える。
崔尚成(チェ・ソーシュン)――その名を知る者は少ないであろう。だが【シルヴァー・ミーティア】の名を知らぬ者はこの世界には存在しない。

―――アサッシン・オブ・アサッシン。

文字通り、世界最高の冠を有する老人であり、またサラームに人殺しのイロハを教えた師ともいうべき人物。
戸口際の壁にある部屋の電灯のスイッチを入れる老人に、北川は目を細めて訊ねた。

「なんであんたまでこんな所に来るんだよ。確かNYに居たんじゃなかったのか?」
「少し向こうがごたついていてな」

光の元に晒される、生活臭のしない部屋に柳眉を傾けながら老人は素っ気無く答えた。
大したことでもないという口調であったが、北川は露骨に顔を顰める。

「それならなおの事、分からないな。あんたもサフィもアドルファスの重要なカードだろう」
「だからこそ、だな。ヴォルフ・D・アドルファスは現状では組織内の掌握に武力を使うつもりはないという意思表示だろう。現に私たちだけではなくアドルファスの手駒はすべてNYを離れている。お前もしばらくは此処で燻っておけとはアドルファスの言だ」
「……ふん」

北川は詰まらなそうに鼻を鳴らした。そもそも組織内の権力争いなどに興味は無い。自分の飼い主であるアドルファスに義理はあれど、わざわざ心を砕くほど好意は抱いてなどいない。勝手にやっていればいい。
言われたままに人を殺す。それ以外のすべてはどうでもいい事だ。生きることも、死ぬことも。

「ところでジュン。サファイアも言っていたが、随分と機嫌がいいな。何かあったか」

仕事の後は貝のように無口になる。それが普段の彼。この後に及んでまだ人を殺すという事に忌避感を抱いているこの青年の性情を老人は好んでいた。
それだけに妙に上機嫌さの窺える態度は気になった。
北川は興味なさげに銃の手入れを再開しながら、答える。

「昔の友人を見かけた。それだけだ」


そう、それだけだ。
北川はその友人に向けたベレッタM92FSの銃口を一瞥し、瞑目の如く瞼を下ろした。








 §  §  §  §  









水瀬名雪は、小さな物音にふと目を覚ました。彼女なりの趣向で色合いや家具をあしらった小奇麗な寝室は闇に閉ざされ、辺りはまだ暗く、夜が明けていないのだと知れる。一度眠りにつけば、朝まで目が覚めない彼女としては珍しく、名雪はそのまままどろみに落ちる事無く覚醒した。
傍らを見れば、そこに寝ているはずの人の姿がない。まだ疲労と火照りの残る身体を起こし、首を巡らす。ぼんやりとベッドの縁に腰掛けて、手にした何かを見つめている彼がいた。
名雪は裸の胸をシーツで抑えながら、擦り寄ると彼の肩越しに手元を覗く。彼が手にしたそれは一丁の拳銃。
チェコ製の9o自動拳銃『CZE Cz75』初期モデル。暗殺・粛清任務を主とするイレイザー・エージェントとして活躍した頃からの彼の愛銃であり、相棒。
言わば、相沢祐一という人間の生き様を見続けてきた存在。自分の知らぬ彼を知る者。

心の中に尖りを感じ、名雪は胸を押し当てるように、祐一の背中に抱きついた。

「起きてたのか」
「うん」

頬を肩に当てて目を閉じながら応える。
身動ぎもしないその大きな背中に温もりを伝えるかのように、そのまま名雪は動かなかった。
ただ交差する鼓動の音色が心地よい。

「今日は、どうしたの?」
「なにが?」

問われて、名雪は口篭もった。明確な何かがあったわけでもない。それはささやかな違和感に過ぎない。
どこか歪な祐一の態度。傍目には誰も気がついていなかっただろう。【サラーム】追跡失敗後も彼は普段と変わらぬ冷静さで事後処理をこなし、上司である自分の母に報告を済ませる。何も変わった様子はそこには無かった。それは恋人であり半身とすら言い切れる彼女にしか分からない幽かな歪み。名雪には歪みが任務の失敗からきたものではないと信じていた。その程度で心を揺らがせるほど彼も自分も初心ではない。哀しい話ではあったが。
それだけに、彼の態度が気に掛かっていた。何より、いつもと違い貪るように荒々しく自分を抱く彼の姿に、名雪はひどく辛いものを感じていた。

「香里は……」
「え?」

何時しか、祐一は銃をベッド脇の鏡台に置き、ぼんやりと天井を見上げていた。

「香里は元気でやってるんだよな」
「うん、先週にも電話で話したよ。向こう(アメリカ)はやっぱり大変みたいだけど」
「そうか」
「……うん」

名雪は首に絡めた腕を解くと、彼の傍らに座り、顔を覗き込む。

「祐一?」
「香里は、まだあいつの事を忘れてないんだろうか」

独り言のような囁きに、名雪はハッと息を呑む。泳ぐように視線を逸らし、カーペットの床を見つめた。
もうこのマンションの一室を二人で借り切ってから数年が経つ。だが、寝室のカーペットは一度も変えられていないのにも関わらずまるで新品さながらに輝いていた。
それもまた仕方のない話だ。二人してこの部屋に帰ることは、この数年で三桁の日にちに達しない。

「香里は何も言わないよ。でも」

名雪は失われた穏やかな日々を示すものから瞼を閉じることで逃れながら、今遥か遠国にいる親友に思いを向けた。
美坂香里は北川潤を忘れられない。そう、名雪は確信していた。彼女は未だ後悔し続けている。香里には何の責もなく、彼女が何をしようと北川を襲った悲劇は避けられるはずもなかっただろう。
それでも、美坂香里は後悔し続けているのだ。彼女の気持ちは、あの時から前に進む事が出来ていない。まだ彼に、答えを告げていないのだから。

だが、祐一はそのすべてを否定するように呟いた。

「香里は、もう忘れるべきなのかもしれない」
「そんなッ!」

名雪は睨むように祐一を振り返った。香里にそれが出来ないからこそ、そして自分たちもそれを認められないからこそ、今自分たちはこうして銃を手に取っている。
粉々に壊れてしまったあの得がたい日々を、少しでも取り戻そうと、こうやって銃を手に取った。
それなのに―――。

激昂しかけた名雪は、だが次の彼の一言に凍りついた。

「……北川と会ったよ」
「…………え?」

身体だけでなく心まで凍りついた。
いったい何時? 何処で?
答えはあからさまなほど目の前に転がっていた。馬鹿でも想像できた。

「まさ……か」

祐一が結局姿も見ることが出来ずに逃したと報告した暗殺者【サラーム】
まさかそれがあの陽気な友人のなれの果てとでも言うのか。 縋り問いかける視線に祐一は無情にもコクリと頷く。名雪は絶望に息を詰まらせた。

「あいつが生きていたとして、こういう事もあり得るとは考えていたけど、よりにもよってSSS級とはな」
「そんな、そんなのって」

祐一は闇に裸身を浮き上がらせたまま青ざめている恋人を振り返り、哀しげな微笑を浮かべた。

「俺は、どうするべきなんだろうな」


ただ彼を捜し求めるために、再びこの世界に身を置いた。
その血と硝煙の世界で、その親友と銃を向け合う日が来るとは。


運命とはよほど皮肉と嘲りに満ちているらしい。
祐一は酷く苦い味を噛み締めながら、恋人の裸の肩を抱き寄せた。










 §  §  §  §  










アメリカ合衆国のオレゴンにある医科大学。その中の一室にある美坂香里のデスクには二つの写真立てが置かれている。
一つは妹 美坂栞と高校三年の時クリスマスに映した写真。そしてもう一葉は……。

香里は完成間際の新薬に臨床に関するレポートを製作していた手を止め、キーボードの傍らに置かれたティーカップを手に取ると、いい加減温くなったその液体を飲み干した。
眠気覚ましには珈琲の方がいいのだろうが、どうにも此方には美味しいと思える珈琲が見当たらない。インスタントともなれば尚更だ。だから胃が荒れるのを嫌い、こうして紅茶を愛飲している。

先週から実験に追われての徹夜続き。一区切りも付いたので一度仮眠を取ろうかと、香里は凝り固まった身体を伸ばした。
周りを見渡しても、同じ研究生である他の学生たちの姿は無い。それも仕方のない話だ。これほど新薬の開発に深く関わっている学生は香里一人なのだから。
日本と比べればそれこそ天と地の差だが、所謂、天才や成功者に対しての他者のやっかみや排他的感情が此方の国にもまるでないという訳では無い。

香里は肉体的なものとは別の疲労感を感じて、深く溜息を落とした。そして、いつものようにもう一葉の写真を手にとる。
そこに映っているのは二組の男女。まるで悩みなどなさそうに笑っている自分を含めた四人。大学に入った時に映した写真だ。まだ幾年も過ぎてはいないというのに、想い出の所々に虫食い穴が出来ていることに、香里は毎度の如く苛立ちを感じる。
そして、その写真を見るたびにキリキリと痛む心。失われた過去。もう取り戻せない彼方。

「北川君」

彼にあたしはまだ答えを告げていないというのに。年月だけがこうして流れていく。
何もかもが時とともに先へ先へと進んでいくのに、この凍りついた気持ちだけはあの時から動いてはいない。

「……バカ」

いなくなってしまった彼と、この世で一番愚かな自分を罵って、美坂香里はキーボードの上に突っ伏した。
意識がまどろみながらあの日へと戻っていく。


それは喪失の日。
美坂香里が至福を得て、そして再び絶望を知った日だ。




  to be next bullet.






目次








【ベレッタM92FS】
 イタリアのピエトロベレッタ社製、中型自動拳銃。ジョン・ウー監督の二挺拳銃として有名(男たちの挽歌のチョウ・ユンファね)。他にもリーサル・ウェポンのリッグス刑事やダイハードなど幾多のアクション映画で使用されている。
 1975年、原型となる『M92』が発表され、77年にはスライドにセフティーを付けた『M92S』が完成。そして85年にアメリカ陸軍が『コルトM1911』に代わり当時最新モデル『M92SB−F』を採用する(後に『M92F』と改称。米軍内では『M9』と呼称)。 だがM92Fはスライドの耐久性に問題があり、後部に脱落する事故が発生し、これをハンマーピンを大きくして脱落を防ぐようにしたのが『M92FS』
 ダブルカーラム弾倉の採用で15発と比較的多めの装弾数を確保。重量軽減のためにフレーム部分はジェラルミン仕様。スライドについているセーフティの構造はアンビ(左右両方の手で操作できる構造)で、利き腕を選ばない。また、このセーフティは作動させると連動してハンマーが安全にデゴックされる。
 アメリカ陸軍や州軍、警察だけではなく、イタリア本国、またフランス陸軍もM92G(マニュアルセーフティ機能を排除し、デコッキング機能だけを残したモデル)をGIAT社がライセンス生産した物を『PA MAS G1』の名前で制式採用しているなど、世界中に支給されている名銃である。

 全長 217o /重量 0.975s /使用弾薬 9mm×19 /装弾数 15+1 



【CZE Cz75】
 1975年にチェコスロバキアの国営銃器工場が開発した9o自動拳銃。Czとは設計と製造を担当したセスカ・ゾブロジョブカの略。
 ベルギーのFN社『ハイパワー』をベースに開発されたという。
 鋳造ブロックより削り出された本体は、高い剛性を保ちつつ本体をスリム・軽量化させることに成功している。また人間工学を駆使したグリップフィーリングは同クラスの自動拳銃を遥かに上回り「手に吸い付くよう」と絶賛された。他にもクロームパーツ(腐食耐性が高い)を贅沢に使用し、さらにコック&ロックセフティは誰もがその実用性を高く評価し、命中精度も非常に高い。「最高のコンバットオート」の称号を与えられるに相応しい拳銃である。
 ただ、欠点もある。スライド前部が薄く、落としただけで歪むと云われるほど耐久性が低かったのだ。この点を修正するためチェコスロバキアはスライドを改良した後期モデルを開発するも、ちょうどその時期は国自体が民主化された時期であった。
 『Cz75』は社会主義国家として、人件費や生産コストを度外視し、軍事予算をふんだんにしようした結果誕生した拳銃であり、民営化された国営銃器工場(現在のCz社)では利益度外視の生産など出来るはずもなく、結果、後期モデルは鉄の材質を落とした物が使われる事となり、名銃の評価は斜め下となってしまった。
 そのため、スライドとフレームの先端が薄く切り取られた特徴的なモデルからショートレールとも呼ばれる初期型は人気が非常に高い。スライドとの一体感や極限まで皮膜の薄い美しいブルーイングや二万丁と言われる少ない生産数からプレミアがつき、世界中のマニアから垂涎の的となっている。
 日本ではかのガンアクションの名作『GUN SMITH CATS』で主人公のラリー・ヴィンセントが愛用し、ファンも多いとか。

 全長 206o /重量 0.97s /使用弾薬 9mm×19 /装弾数 15 


inserted by FC2 system