空に限りなく近い場所
空を……
空を仰いだ。
視界一杯に広がる青
手を伸ばせば掴めそうなほどに近い。
吹き荒ぶ風にコートの裾をはためかせながら、男は空を見上げる。
彼にとっての至福の時間。
束の間の自由。ただ、空と自分独りになれるこの瞬間が、彼には必要だった。
ここには街の喧騒も無く、猥雑な人ごみの気配もなく……
ただ、風の唸り声だけが静寂を奏でる。
まるで……生と死の狭間のような場所。
空に一番近い場所。男は眼差しを閉ざしていたミラーシェイドを外し、懐に仕舞った。
凪の海のような瞳が下界を見下ろす。世界を俯瞰する。
人も、車もここから見下ろせば、皆失笑してしまうほどに矮小だ。
彼にはその矮小さが愛しい。この空に一番近い場所に立つたびに沸き起こる郷愁。
その虚しい感情に自嘲を浮かべ、男は携えた荷物を開き始めた。至福の時間は終わりを告げ
暗殺の刻が訪れる。
聳え立つ白亜の城。
無機質なビルディングの森の只中に、場違いなほどの威光を巡らす優美なる建物がある。
ハーキュリーズ・ホテル。
この国でも最高級として位置付けられている伝統あるホテルの玄関口に、三台の車が滑り込んできた。
黒塗りの高級車…素人目にもその威容は目を見張る。
だが、見る者が見るならば、その高級感ではなく、堅牢さにこそ目を見張るだろう。黒のボディーには装甲車並みの装甲が張り巡らされ、ウィンドゥは7.7mmライフル弾をも通さぬ特殊強化防弾ガラス。タイヤですらも対銃弾加工を施したモノが使用されている。
車はエンジン音も軽やかに停止。
だが、止まるのを待たず車から黒服を纏った男女が飛び出してくる。
彼らは素早く周囲の安全を確かめると、中央の車の後部座席を囲んだ。
その挙動はどんな組織においても合格を与えられるだろう。その黒服たちの中に彼はいた。
先頭の車の助手席から降りた青年は、グルリとそのサングラスの奥に隠された鋭い視線を辺りに走らせる。
他の黒服たちから少し離れ、独自に周囲の気配を探った彼は、やがて危険がない事を最終確認し、中央の車に向かって頷く。後部座席から一人の女性が降りて来た。
彼女もまた黒い上下に身を包み、その視線をサングラスで隠している。
そのスラリとした脚もまたズボンに隠されてはいるが、そのカモシカのようなしなやかさは隠し切れていない。
また、彼女の艶やかなほど蒼みがかった黒髪もまた、彼女にどこか独特の雰囲気を与え、他の黒服から浮き立たせていた。
否、彼女を他の黒服と同一と見做せないのは、見てくれではない。纏う気配、存在感。それが他とはあまりに隔絶しているのだ。女性は、青年に頷き返すと、車内の人間に向かって一言二言言葉をかける。
そして、促されるように車内から、一人の中年の男が顔を覗かせた。高級スーツに包まれたその身体は恰幅が良いというより、歪に膨れた土饅頭としか云い様が無く、脂ぎった表情は醜く歪んでいる。
ただ、それだけなら良く見る趣味の悪い成金と云った風情なのだが、その様子が尋常ではない。
男は何やら異様に怯えきっており、辺りをキョロキョロと見回している。その額には冷汗とも脂汗ともつかないものが浮かんでいた。なかなか動こうとしない男に向かって先ほどの黒服の女性が何事か囁く。ホテルへ入るように促しているのだろう。
だが、男は何が癇に障ったのか、嫌味たらしく口元を歪めると、粘着の混じった口調で女性に向かって捲くし立てている。
それは恐怖の裏返しか、高慢なる性格故か。
どちらにしろ、現状では害悪にしかならない。その醜態を視界の端で見ていた青年が苛立たしげに眉を顰める。
口を開け、怒りの声を発しようとした、その瞬間。彼の全身に紫電が走った。
全身のバネが弾かれ、何かを感じた方角を振り返る。
同時に絶叫。「伏せろぉっ!!」
電光の速度で反応したのは男を宥めていた黒服の女性だった。
ほぼ同瞬、男と同じく殺気を察知した彼女は咄嗟に男に覆い被さり、身を伏せさせる。だが、駆け寄る青年は見た。
女性が覆い被さる寸前、男の胸部に小さく血飛沫が散るのを…
舌打ちをした青年は急制動をかけ、銃弾の来た方角に駆け出しながら叫んだ。
「名雪! そいつを看てろ!」
「祐一!?」
慌てて倒れた男性を抱き起こし、容態を看ようとしていた女性が驚いたように顔を上げ、青年の名を呼ぶ。
が、青年――相沢祐一はそれを無視してその場を後にした。
(狙撃…しかもかなりの遠距離からだ。だが、どこからだ? 周囲1キロメートルに狙撃ポイントが無いのは確認済みだったはずなのに!)
ホテルの敷地を出れば、周りはオフィス街。高層ビルが立ち並んでいる。
祐一は、混雑とは云わないまでも、それなりに人通りの多いストリートに飛び出し、走りながら隙無く視線を巡らせる。
その目線が一点に止まった。
ハーキュリーズホテルの正面にそびえるエルクラフトツインビル。
この街きっての高層建築物であり、二本の塔が立ち並ぶその様はハーキュリーズと並びこの街の象徴とも云ってもいい。
二基のビルの間に置かれた空中庭園は財界の要人などがよく会食を開いているとも聞く。いや、彼が見ていたのはそのビルではない。
視線はツインビルを通り過ぎ、その向こう側。直線道路の伸びるその奥、二角の塔の隙間から覗く灰色のビル――ストリートが二股に分かれる行き止まりに建つ当麻ビルだ。だが、祐一はそのビルを望みながらも、内心で自問し始める。
(確かにあそこからホテルの玄関口までおよそ二〇〇メートル。充分に狙撃可能範囲だ。だが…)
ツインタワーを見上げるように、奥のビルを睨みながら祐一は歯軋りした。
(在り得ない! ツインタワーの間に吹き荒れるビル風をどうやって予測する? 標的が車から降りて、ホテルに入る僅か数秒――実際はあの男の馬鹿な行動で時間は延びたが――その僅かな時間に狙う自信があったとでも云うのか!?)
結論は否。だが、視線は張り付いたように動かない。
彼のプロとしての本能が、それが真実だと告げていた。
いや、何より自分自身がもしこのミッションを与えられた暗殺者ならば……
祐一は自分の勘を信じて駆け出した。
一直線に進めば、まだ狙撃者が消える前に、身柄を抑える事が出来るかもしれない。(そう、この正気を疑う難易度の仕事をやってのけた化け物みたいな殺し屋を…だ)
ただの二年で裏社会に名を轟かせた国際犯罪認定SSS級 暗殺者――
そのcordnameを【サラーム】と呼ぶ。
「…………」
特に言葉は無い。
感慨も無い。
ただ、いつものように、自分の放った銃弾で一人死んだ。
それだけだ。
速やかにライフルを解体し、ケースに仕舞う。
(風が…冷たいな)
黒のコートを羽織り、ケースを肩に背負いながら男は思った。
仕事を始める前にそうしたように、もう一度だけ空を見上げる。
(…それもいつもの事か。そしてこれからも風は冷たいに違いない)
「変わらぬ摂理…か」
男は懐から取り出したミラーシェイドで視線を隠すと、ビルの屋上を後にした。
駆ける。
祐一は通りを疾駆していた。
普通なら、全力疾走するならば乱れるはずの呼吸に何の揺らぎも無く、その動きに優雅さすら感じさせるのは彼の身のこなし故か。
ひらり、とガードレールを一跨ぎし、車道を一気に突っ切る。
クラクションの重奏をBGMに、黒のスーツに身を包んだ青年が一直線に雑踏を駆ける。
まるで、何かに引き寄せられるかのように……
のちに祐一は思う。
運命という代物は常に人間たちを翻弄すべく、地上を睥睨しているのだと……
今、二人の男の運命が近づきつつある。
今、二人の男女の運命が、再び動き始めようとしている。
引き裂かれた想いの糸は…未だ、途切れず。
カナリア達の紡ぐ歌が始まる。
to be next bullet.
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