抜けるような青と言う言葉があるのは知っていた。
 今日のそれがそう感じるのはきっと雲一つなく日差しを遮るものが何もないとか真夏の太陽が天頂にあるとか、それだけが原因ではないのだろう。
 半ば放心気味に熱く焼けた石畳の道をハンス・クラウバーは歩いていた。

「暑い、と言いたいところだけどこれはこれで気持ちいいのかもしれないなぁ」

 まぶしそうに目を細めながらポツリとつぶやく。
 汗を噴き出しながら買い物カゴを抱えているご婦人方にいくばくか同情をしつつも、その無限の光量はハンスの内に澱む瘧をきれいに洗いさってくれた。それにとって代わるように活力が滲み出てくる。外に出て太陽を見るのは久しかっただけに光合成でもしているような気分だった。もちろんハンスは後にも先にも光合成なんてすることはないが。

「やっぱりいくら締め切り間近だって言ってもカンヅメは良くないな」

 ずっとホテルの一室に篭もってルポを書き続けていたので体の節々が凝っている。こうしてわざわざ外で食事をしようとしているのも料理に飽きたからといった外因的なものではなく、運動がてらというのが正確なところだった。ホテルで済ましたほうが手早いのだが頑張ったかいもあってルポのほうはスケジュール通りにいけそうだ。

「しかし大仕事だったな。一つの楽団について丸一年。その間のことを記事にしたんだから当たり前と言えば当たり前だけど」





 ハンスは音楽家としての道を断念した後出版社に勤めだした。音楽の才能は見出されなかったものの、その勤勉さを高く評価していた所属オーケストラのオーナーが職を口利きしてくれたのだ。そこそこ大手でありながら音楽誌が主だった出版だったため早くしてハンスは仕事を任されるようになった。
 音楽家として酸いも甘いも経験してきたハンスの書く記事は読者、演奏家など内外問わず高い評価を受けている。今では一、二位を争うルポライターだ。

 そのハンスがとあるオーケストラの海外公演に同行して記事にし始めたのが春の終わり頃。ほぼ一年近く楽団に付いて回りこのほど催された記念コンサートが最後となった。
 今は一年間の音楽活動を詳しく書いているところだ。寝食を共にして同行したかいあって外側からは見ることのできない楽団の素顔に密着したいい記事になりそうだ。





「さてっと。昼はどこでとろうかな」

 一応目的がある以上ぶらつくのにも限度はある。腹の空き具合と手元の小銭とを相談させながら食事処を探す。何時の間にか着いていたショッピングモールはいくつかのわき道のあるメインストリートでもある。両脇には様々な店が並んでいて昼時特有のいい匂いが漂ってくる。
 キョロキョロと辺りを見回していたハンスは、ゆえに傍の横道から飛び出てきた少年に気付かなかった。

「おっと」

 危ういところで直撃を避ける。ぶつかりそうになった少年はハンスに気付きもせず目の前を走り去ろうとする。
 と、不意に振り返ったかと思うと、

「フランクのばーか。そうやっていつまでも泣いてろ」

 罵声を投げかけて再び走り出していった。身につけていた濃緑色の制服はこの街にある音楽学校のものだ。片手に持っていたバイオリンケースからも分かるとおり生徒らしいが、しかしあんなに走ってバイオリンが傷つかないのだろうか。元が演奏者だっただけに余計な気を回してしまう。
 ぶつかりそうになったことはあえて気にしないことにしたハンスは少年が来た方を振り返る。見ると道の真ん中でへたり込んでいる少年がいる。辺りに楽譜を散乱させ呆然自失の体といったところだ。なんとなく放っておくこともできずハンスは少年に歩み寄り落ちている楽譜を一枚一枚丁寧に拾い上げていく。
 楽譜を拾いながらさりげなく横目で少年を窺う。ハンスがいることにも気付いてないように罵声を浴びせた少年が走り去っていった方を見つめている。着ている制服は先ほどの少年と同じ濃緑色で学友なのだろうと察した。「泣いてろ」と言われていたが実際涙を流しているわけではないようだ。
 全ての楽譜を集めて順番通りに並べる。目立った汚れはなかったから簡単に埃だけ落として未だに座り込んでいる少年に差し出した。

「君大丈夫かい?」
「え?え?あれ?」

 そこでようやく我に返ったらしく、少年はキョロキョロと視線を巡らせて状況の把握に努めだす。

「あ、すいませんどうもありが」

 楽譜を受け取り上げた視線がハンスに釘付けになる。

「あ、あなたハンス・クラウバーさんじゃありませんか?」

 声を張り上げる少年。ちなみにハンスは初対面である。
 うわーうわーとパニックに陥りかけていた少年は不思議そうなハンスに気付いたらしく興奮を押さえ込みながら捲くし立てる。

「す、すいません突然。僕、あなたのファンなんです」
「はぁ?」

 思わず素で怪訝そうな顔になるハンス。ハンスはただのルポライターだ。一線で活躍している――例えば今や海外に招かれるほどの演奏家となった友人のような――音楽家ではない。そんな自分に「ファンです」と言われてもピンとこないのは当然だろう。
 ますます目を白黒とさせるハンス。

「あなたの記事はいつも読ましてもらっています。トリア・エルディビッチ指揮者とのインタビューやボヴァリアコンクールの記事も。今はマンプロッシング交響楽団の密着レポを書いてらっしゃいますよね」

 早口で以前ハンスが手掛けた仕事の内容を列挙していく。いくつかは雑誌の中でも大きく取り上げられたものではあり写真の載っているものもあるにはある。
 それでもそれは相手と一緒に写っている写真であり、まさか自分の顔を覚えている者がいるとは思わなかった。

「ああ、うん。ありがとう」

 合点がいったが逆に気恥ずかしさにハンスは言葉を失いかける。覚えてくれるほど自分の記事を読んでいる読者がいることが純粋に嬉しかったのだ。

「ああ、すいません。いきなり色々と喋りたてて。えと、僕フランク・エドワードといいます。この街の、ああここから見えますね、ヴァンズレイ音楽院でヴァイオリンを学んでいます」

 ペコリと頭を下げる少年の顔は年相応のもので収まりつつある興奮と抑えきれない好奇心が等しく滲み出ている。
 ヴァンズレイ音楽院はマグノリア音楽院と比べても遜色のない由緒ある学院である。実際ハンスの学生時代に「どちらに入るか迷った」という学友が何人かいた。遠方出身者用の寮やこと細かに分かれ専門性の高い音楽の教授、音楽に集中できる環境作りに力をいれておりその人気は今も尚高い。仕事柄出会う相手もヴァンズレイ出身は珍しくない。

「ああやっぱりそうか。ヴァイオリン持っているしその制服は見知ってたからね。ということは今は音楽祭の準備の真っ最中ってことかな?」

 ヴァンズレイ音楽祭はマグノリア・カルテット・コンクールほどの規模を誇りながらしかし審査員もいない生徒の自由参加型の文化祭として知られている。もっとも自由参加とはいえ生徒のほとんどが参加する。そのため三日間に渡って催されるその賑わいは街全体に波及する。遠方からわざわざ演奏を聴きに来る人がいるくらいレベルも高い。音楽の企画などを勉強する生徒のカリキュラムの一環でもあるため学生主導で行われることでも有名である。

「はい。僕は…友達とカルテットを組んで参加するつもりです」

 と、一瞬フランクの顔に影が差すのにハンスは気付いた。そしてそれは気付いていたことと相まって、なんとなく放っておくことができなかった。
 あのお節介な三枚目の性格が移ったかなと苦笑しつつもきっとそれだけではないと思い直し提案してみる。

「実はさ今から昼食を摂ろうと思ってるんだけど。おいしくてテイクアウトのできる軽食ってないかな?」



 断続的に立ち昇る水柱が形を変えながら憩う人々の目を楽しませて、途切れた飛沫は空気に溶けて風に乗って涼やかに頬をなでる。
 あまり買い食いをしないというフランクが勧めてきた店でホットドックを購入し、落ち着いて座れる場所を探した結果とある公園に辿り着いた。中央に大きな噴水のあるその場所は陽気な昼下がりを過ごす家族連れやサラリーマン風な人たちで賑わっている。誰も座っていないベンチの一角にハンスとフランクは座っていた。脇には買ってきた焼き立てのホットドックに汗をかいたオレンジジュースがそれぞれ二つずつ。

「あの、いいんですか。本当に頂いちゃって」
「遠慮することないよ。僕から誘ったんだしね。それに結構ボリュームあるから一人で二つ食べるのはちょっとつらいかな」

 遠慮がちに訊ねてくるフランクになるべく柔らかい笑顔を浮かべながらハンスは答える。確かに少し立ち話をしただけの相手を誘うのはおかしな話かもしれなかったが。
 食べ物を買ってここにくるまでに分かったことだが元々内気な性格のようだ。初対面の相手にあれだけ興奮するほうが珍しいのだろうと認識を改めるハンス。
 遠慮されっぱなしでは気まずいので自分から先に手をつけることにする。しかし陽炎も立ち昇ろうかという暖気のせいか未だにかすかな湯気を立てているホットドックは選択的に失敗だったのかもしれない。現に移動中にオレンジジュースの氷は半分近く溶けている。
 丁寧に一口分だけ包装紙から取り出し火傷しないように齧り付く。ソーセージの肉汁がじわりと滲み出てくる。マスタードとケチャップの配分も絶妙である。

「うん、おいしいね。さすがにお勧めなだけはあるよ」

 素直に感想を述べる。ちょっとわざとらしいかと思いつつもとりあえず会話をしていないと踏み込んだ話に持っていきにくい。話のしながらの誘導は仕事柄心得てはいるがあまり得意ではない。

「特にお勧めってほどでもなかったんですけどね。よくルーカスと行くお店だったので。他に候補がなかったんです」
「ふーんそのルーカスって子とカルテットを組むの?」
「あ、はい、一応。ルーカスが第一ヴァイオリンで僕が第二ヴァイオリンを」
「第一、ヴァイオリン?ということはさっき別れてたのが?」

 はっ、とした後バツの悪そうな顔になる。あまりに分かりやすすぎる反応に後ろめたさより先に苦笑が洩れそうになる。
 直球すぎたかもしれないと自戒しながらオレンジジュースに口をつける。氷で味が薄くなっていて酸味ばかりが舌をついた。

「ルーカスは友達です」

 沈黙を何かと勘違いしたのか訥々と語りだした。

「小さい頃からいつも一緒に遊んでました。音楽をする前からの親友です。遊びに行くと言えばそれはルーカスの家のことでしたし、聞いてみれば同じ病院の、同じ部屋の隣のベットに寝かされていたらしいですし。まあ、それだけ仲が良かったんですよ。
 親の言い付けでヴァイオリンを習い始めて、遊べなくなることを告げた日は滅茶苦茶に怒って初めて喧嘩をしました。けど次の日に僕が一人でヴァイオリンを弾いているところにやってきたんです、ヴァイオリンを持って。驚いてる僕を尻目に調整もせずに、姿勢も全然様になってないまま弾き出して。ひどい雑音を撒き散らしながら、弾き終わると『意外と難しいなぁ』なんて。喧嘩のこと、なかったようにあっさりと。
 本当に良い奴なんです」

 ハンスは黙ったまま遠くで飛び跳ねる噴水の軌跡を見続けていた。
 噴水のそばでは小さな子供が無邪気に駆け回っている。

「それから毎日二人でヴァイオリンの練習をしました。自分がうまくいかなくて僕がうまく弾けると悔しがって練習して、僕がレッスンについていけなくなると励ましてくれ。コンクールには二人で出て順番を競ったりもしました。」
「いいライバルでもあったんだね」

 どこで似た双子がいたような気がするが……。そんなことを思いながらふっと洩らしたハンスの一言にかすかな笑顔と共にうなずいた。

「ずっと励まし合いながら、競い合いながら、とうとうヴァンズレイまで一緒に通うようになって。でもそこまでだったんです。僕自身薄々気付いていたルーカスとの差がヴァンズレイで学ぶうちに広がっていって」

 しかしそれもすぐ痛みのそれへ取って代わった。

「もちろんこれまでだってそんなことはあったんです。僕自身頑張っていれば追いついていたんです。でも、それもできなくなって、焦って練習すればするほど差が開いていくようなもどかしい感覚で。弦が切れるくらい練習して、指が裂けるまで弾き続けて」

 どんどん苦しげな独白に変わっていく。ハンスの舌先に先ほど飲んだオレンジジュースの酸味と共に苦味も加わってきているような気がする。
 照りつける太陽が周りの景色を白く染め上げていてその中にかつての自分が見えたような気がする。

「それで今日ルーカスに言ったんです。『自分ではとてもルーカスとカルテットを組むことはできない。だからコンクールを辞退するって』。それで久しぶりの喧嘩になったわけで。その、ハンスさんが見られた事態に」

 最後にちょっとだけ痛みを隠すように弱々しい笑顔を浮かべるフランク。



 自分自身の限界と友人の態度。ハンスは納得する。これまた遠くて身近に置いてある記憶に似たような事があったような気がする。気がするのではなく実際そうなのだが。どことなく感じていた違和感というか親近感の正体が意外にあっさりと分かった気がした。『コンクールを辞退する』というセリフまで一緒というおまけ付き。
 今度こそ本当に苦笑が洩れた。自分は似たような境遇の人間が一目で分かるほど自分のことを知っていたのかと。自分があの学生時代、学友たちに悪し様に罵られ、教師からは冷たい目で見られていた頃の自分を、そこまで分かっていたのかと。
 でもこの少年はハンスが知っていたもう一つの事実に気付いていないようだ。なんとなくそんな気がする。今日初めて会って少しだけ話をした間柄で、まして彼の友人のことなんて微塵も知らなくてもこれだけはそう信じることが出来た。
 問題はそれをどうやって伝えるかということだけ。

「僕のことどれくらい知ってる?」
「え?」

 足元の黒々とした影に目を落としていたフランクは顔を上げてハンスを見た。

「例えば、僕がマグノリア音楽院の出だってことは」
「はい、勿論」

 インタビュアー紹介の欄までチェックしているフランク。マグノリアは数ある音楽院の中でも名門である。その知名の高さたる由来の一つ。

「じゃマグノリア・カルテット・コンクール本選を辞退したことは?」

 フランクにとって思いもよらないことを言われた。
 マグノリアカルテットコンクールと言えば若き音楽家たちの登竜門。それを自分から辞退する人がいるとは思わなかった。ましてやそれは本選。大きなチャンスのはずだ。

「実はねちょうどそのときに受けていたオーディションに受かったんだ。それでまあコンクールと天秤にかけて、ね」

 それはすごいと続けようとしてはたと思い至る。カルテットは四人で行うもの。ハンスが辞退するということは他の三人も参加資格を失うことになる。

「……迷いませんでした?」
「そりゃもちろん。結構な苦労を背負って生きてきたつもりだけど、一生のうちであれほど悩んだことはないよ」

 少し大仰とも言える身振りを交えてハンスは答えた。

「まあ、それでも最終的にはオーケストラのほうに行っちゃったんだけどね」
 ポツリと洩らした暗い響きが一瞬辺りを暗くした。ほんの一瞬、一筋の雲が太陽を遮っただけだったが。
「背中を押してくれた奴がいたんだ」

 どんなに取り繕っても内容が内容なだけに、気落ちしてしまうフランク。そのフランクを安心させるようにニコリと微笑む。

「そいつは僕と同じ苦学生として学院に通っていていつも励ましてもらっていた。かなり分かりにくい励ましだったけど、それにどれほど救われたことか。一緒に組んでいたカルテットの一人でもあったんだ。
 そいつにしてみても大きなチャンスだったはずなのにな。僕なんかよりよっぽど努力して。コンクールに出れば注目も浴びる。もしかしたらどこかの音楽家の目にとまっていたかもしれないのに」

 氷もほとんど微々たるものになり、コップ周りの結露が地面に黒い斑点をつけるがフライパンのようになった石畳によって空に還っていく。

「呼び出して、話をして、すごく怒られた。逃げていくように学院をやめていくことをさ。でも下手くそな僕が手に入れた、最後になるかもしれないチャンスだったから。分かってもらえた。それどころか他のカルテットのメンバーを説得までしてくれて」
「そうだったんですか。……けどそれがルーカスと」

 どう関係しているのか分からなかった。見ず知らずの自分になぜそんな話をするのかフランクには検討もつかなかった。

「んー、だからさ。多分そのルーカスって子はフランクのことを待ってるんだと思うよ」
「……」
「僕はその子のことを全然知らない。けどさ、今フランクと話をしていてそう悪い子だとも思えない。だから、待ってるんだと思う」
「けど、僕じゃ駄目なんです」

 少しだけ涙声を上げながらしかし涙を流すことを必死に堪える。

「ルーカスはきっと音楽で成功できると思うんです。それだけの才能もあるんです。だから」
「だから君を置いて先に行ってしまえばいいと思うのかい?それは違うよ」

 はっきりと否定を叩きつけてハンスは首を振る。

「ルーカスが音楽を始めたのは何のためだったのか。君が話してくれたじゃないか。君と一緒に演奏したかったからだ。コンクールで成功を収めるよりも君と音楽をすることのほうが大事だから。そうすることが楽しいから。音楽は楽しめなくなったらきっと行き詰る。
そう言う意味では確かに才能があるのかもしれないね。うまく弾けることばかりを目指して大切なことを見失わないルーカスには」
「……本当にそうなんでしょうか。僕はいてもいいのでしょうか」

 反駁はしなかったがそれでもそこに納得の色は見えなかった。ただそこに迷いがあったから、きっと心のどこかで分かっているのだとハンスは思う。
 ちょっと熱く語りすぎたと太陽熱とは別のところで体温が上がり、それを冷ますようにぬるくなったオレンジジュースを啜る。ジュースと呼んでいいのか微妙な味になっていた。



「フランクー」

 と、遠くのほうから発せられた呼び声にはっとなってフランクが顔を上げた。
 少年はフランクと同じ濃緑色の制服を着ており息も絶え絶えといった体で二人の前まで駆けてきた。

「この馬鹿。あの後謝ろうと思って家に言ってもまだ帰ってないって言うし心配したんだぞ。心当たり探してもいないし。なんで」

 息を整えもせず一気にまくしたてられ、フランクはハンスの顔を見た。少しこわばった表情のフランクにどういう顔をすればいいのか分からなかったので、「ほらね」という気持ちを込めて首をすくめてみせる。
 その仕草を受けて、隣にぜえぜえと息を吐いているルーカスを見て。フランクが大笑いをし始めた。真夏の日差しに負けないくらいの気持ちのいい笑いだった。

「な、なんで?俺は怒ってるのになんで笑われるわけ?」

 それにキョトンとするルーカスの前に立ち上がり、

「ルーカス、僕コンクールに出るよ。今よりうまくやれるように、ルーカスの足を引っ張らないように」

 力強くそう宣言していた。

「え?いやそれはいいけど、なんで?お前妙に明るくなってない?」
「いいから。さあ早速練習しよう。
 ハンスさん、話を聞いていただいてありがとうございました」

 ペコリと頭を下げると訳が分からないと混乱するルーカスの背中を押していく。ルーカスも押されるがままだったが、二人の後姿が陽炎でぼやけるころ、腕を回して首を絞め始めている。勿論会話は聞こえないがとても楽しそうに感じる。



「うーんとりあえず役に立ったのかな。よく分からないけど」

 いまいち礼を言われたことに実感が湧かないままフランクが座っていた隣を見ると手をつけてないホットドックとオレンジジュース。
「……もったいないし食べるか。うわ、まだできたてみたいに熱いな。これじゃ夕飯も軽めにしないといけないかな」

 ホットになったオレンジジュースを啜りながら飲み下す。

「しかし、若いねぇ、なんて思ったりした僕はおじさん臭いのかな。しかし実際あんな学生時代が僕もあったんだよなぁ」

 ふとそこでハンスは思い至った。今手がけている仕事が終われば一山超えることになる。しかしその後のスケジュールには空きがあるのだ。ボチボチ何かネタを探していけばいいと思っていたのだが、
 マグノリア
 それはハンスが過ごした学生時代。あの二人に負けないくらいの青春時代が自分にはあるではないか。
 考え出したら急にあの頃のことが懐かしく感じられた。そしてそれはルポとして格好のネタであることにも。

「とは言っても僕のことじゃつまらないしもっと適当な人材は……いるな」

 浮かんだ微笑に擬音をつけるなら、「ニヤリ」がふさわしいだろう。独学だったから完全に基本がなってないまるで素人みたいな弾き方で、でも妙に人を惹きつける演奏をした友人。ほんの二月ほどでメンバーの中に溶け込んでカルテットコンクールに出場を果たした、今を時めく演奏家。おまけに三枚目の癖に曲者揃いのカルテットメンバーの心をさらっていった、タラシ。

「うん、最高だな。これほどのネタが身近に転がっていたなんて。こうしちゃいられない」

 今の仕事のスケジュールを繰り上げて終わらしてすぐに取り掛かろうと、落ち着かせていると言うには微妙な内容を自分に言い聞かせている。
 少し大きめなホットドックの塊を無理やり飲み込んで立ち上がる。少し足早になった先に向かっているのはホテル。
 抑えきれない心持ちでとりあえず最初の出だしだけは決めておく。

「今も思い出す―――、あの懐かしい面影。」







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