盟約暦790年:藤田領

 大気が鳴動している。
まるで地上に神が降臨したかの如く、その身を震わせている。

「……この気は――!?」
「……はい。そうでしょう……でも誰が……?」

 大気の鳴動に怯えたかの如く風が舞い、湿った空気を裂いて砂埃が舞う。
正しく常識の範疇外の存在が目指す先にいることを告げている。

「とにかく急いだほうがいいわね。」
「……はい。」

 合わせる様に始まった地鳴りと雷鳴の中、二つの人影は足早に歩き出した。







魔法戦国群星伝

外伝:鬼の一族




  盟約暦790年:藤田領柏木家

「オオオオオオオオオオォォォォォォォォッッッッッッッッ!!」

「……っ!! なんて殺気!!」

 咆哮をきっかけに、目の前の男の姿は目に見えて変貌を始めた。
 乾いた音を立てて服が裂け、中から膨張した肉体が姿を表す。それは日に焼けた赤銅から禍々しい漆黒に変色し、二の腕の太さだけでも以前の三倍以上になっているだろう。
 合わせる様に上背そのものも上がり、鋼線を結い合わせたような野太い筋肉が全身を被う。
 その握り締められた拳は正に破壊槌を連想させた。いや、おそらくそれ以上の破壊力をこの拳は秘めている。
 そして人の面影を殆ど失った顔からは漆黒の髪が腰まで伸び、その額からは一本の角が生える。犬歯が異常に伸び、瞳孔が縦に裂け、黒い瞳が真紅に染まる。

 そして――

「オオオオオオオオオオォォォォォォォォッッッッッッッッ!!」

 その巨体を震わせ再度天に向かって咆哮し、盟約の地に降り立った破壊者が身の内に秘められし力を解放する。それは明確な殺意となって吹き荒れ、リズエルの身をちりちりと焦がした。

「……くっ、まさかエディフェルが本当に肉を分け与えていたと言うの……。」

 身を屈め、いつでも飛び出せる体勢を取りつつ、明確な恐怖を否定できないリズエル。
その呟きは目の前の鬼に確かに聞こえたのだろう。明確な意思を持った瞳がリズエルを捉える。

 それは殺意。

(来る!!)

ドゴオォッッ!!

「ぐうぅっ!!」

 来ると解っていたし、攻撃の軌道も読めた。
単純に拳を突き出しただけの直線的な一撃をいなしつつ回避に移ろうとした瞬間、リズエルの防御を力が押し砕いた。それは確かにリズエルの胸板を捕らえ、彼女の体が一気に庭先まで吹き飛ばされる。

(そんな……防御が意味をなさないというの!?)

 力だけならアズエルよりも上かもしれない――それは更なる恐怖となってリズエルを襲う。だとしたら、この目の前のエルクゥは私に匹敵すると言うの?

「グオオオオォォッッッ!!」

ドウッ!!

「くっ!」

 床板を踏み砕き、次の瞬間には砲弾の如く飛び出してきた一撃を真横に避けるリズエル。
行き場を失った破壊エネルギーが遠くの山肌に激突、大穴を山麓に作り出す。

(受け流せない……ならば避けるしかない!)

「ガアアァァッッ!!」

ゴウゥッッ!!

「くうっ!!」

 そのまま左腕を真横に振るう一撃を後退して回避する。
だが予想以上の衝撃波に体勢が揺らぐ。

(しまった!!)

 引き戻されている右腕。その拳は開かれ、大蛇の牙を思わせる形に開いている。

「オオオオオォォォォォォォッッッ!!」

ゴウゥッッ!! ドスッッ!!

「ぐ……ああっ!!」

 空気の壁を突き破り、爆音を伴った一撃はリズエルを捕らえる。
だが今度は吹き飛ばされない。開かれた拳は命中の瞬間に閉じ、そのままリズエルの腹に食い込む。

グシュッ……ビチィッ!!

「あああああ!!」

「グウウウゥゥゥゥ!!」

 爪を立てられたまま中に持ち上げられ、ますます爪が深くまで食い込む。
何かが切れる音と共に生まれた激痛に身を捩るリズエル。

(ま、まずい……このままでは……)

「くうっ……な、なめるなぁ!!」

バシュッ! バシュッ! バシュッ! バシュッ!

「グオオオオオォォォォォォッッッッッ!!」

 捻り上げる右腕に渾身の一撃を連続で叩き込む。
それは確かに肉を切り裂き、鬼の腕(かいな)から力を奪う。
崩れ落ちるようにして地面に降り立ったリズエルは慌てて後退し、防御体勢を取る。

(た、助かった……でも傷が深い……)

 敵は悠長に再生を待ってくれる様な相手ではないのだ。
相手も右腕に無視できない深さの傷を負った事になるが、あの威力と速度では逆腕も利腕も大して関係ない。

(ならば……!!)

 案の定突撃してきた相手から必要以上に距離をとる。
相手はエディフェルの心を読む能力すらも受け継いでいると見ていいだろう。ならば下手な小細工は逆効果となる。そうなるとパワーで負けている自分がとる戦術は一つしかない。

(速度で押し切る!)

ゴウッ

「グウウウゥゥゥゥゥ……。」

 地面に、木々に、壁に幾つもの衝撃痕がつき、爆音と衝撃波が鬼を包む。
鬼も超高速で周囲を飛び回る敵を追いきれないのか足を止め、警戒態勢にはいる。

(一撃離脱戦術を連続的に行使するしかない!)

ゴウッ ダンッ

「はああぁぁぁっ!!」
「グウウゥゥゥッッ!!」

ゴウッ バシュゥッ!!

「グウウゥゥッ!!」

 完全に翻弄されている鬼の死角へ一瞬で移動、次の一歩で一気に踏み込み、横をすり抜けざまに鉤爪を振るう。だが咄嗟のガードが間に合い、首を狙った一撃は振り上げた腕に弾かた。

(まだまだ!!)

ダンッ! ダンッ! バシュッ!

「ガアアアァァァッッッッッッッッッ!!」

 壁を二度蹴る事で軌道をずらした第二撃。
顔を狙った斬撃を受けきれず、鬼の顔に赤い花が咲く。

(もらった!!)

 僅かに傾いだ鬼の体に続けざまに斬撃が閃き、次々に赤い花が咲く。
咄嗟に両腕で頭部を包み身を屈めて防御体勢を整えるが、見る見るうちにその全身は毒々しいまでに赤く染まっていく。

「グウウウウゥゥゥゥ……。」

(く……なんて耐久力!!)

 既に鬼の周りの地面は度重なる高速移動の代償として大きく抉れ、鬼の体重で陥没を始めている。
速度を殺される以上そこを足場にするわけにも行かず、次第に攻撃方向の限定から手数が減少していく事に焦りを感じ始めていた。

(くっ……再生速度が追いつき始めている……)

 攻撃頻度が低下すれば再生が追いつき始め、いつかは元に戻ってしまう。
後の疲労を考えない攻撃方法をとっている以上、それだけは避けなくてはいけない。
それにこれだけ肉体を酷使しているのだ。当然自分の受けている腹の傷は未だに塞がる気配を見せない。

 だが転機は鬼の方からやってきた。
僅かな攻撃の隙をとり、亀の様に丸くなっていた姿勢から直立不動の姿勢に戻る。その腕は僅かに持ち上げられ、拳は肩口に振れるぎりぎりの所で止まる。

「グウウウゥゥゥゥ……。」

(防御を解いた!?)

 突然の変化に驚きを隠せないリズエル。攻撃に移るというのか?
だがこの速度を見切る事は普通不可能だろう。あのエディフェルですら防戦一方だったのだから。

(ならばこのまま押し切る!!)

ダンッ!! ゴウッッ!! シュンッ!! ガスッ!!

「な……しまった!」

 一撃は確かに鬼の首を捕らえた。
新たな鮮血が飛び散り、虚空に新たな赤い花が咲く。
だが再び通り抜けようとしていたリズエルの動きが止まっていた。

 鬼の目の前で。
首を狩る一撃は予想以上の筋肉の鎧に阻まれ致命傷には至らず、逆に首を狩るその手首を掴まれていた。

(しまった……狙いを絞りすぎた!!)

 攻撃を全て急所に絞った事が逆に仇となった結果だろう。
リズエルの手首を掴んだその腕は、ぎりぎりと手首を砕きかねない勢いで締め上げる。

「くうっ……は、離せぇ!!」

ドシュッッ!!

 咄嗟に自由に動くほうの手を振るうが、片腕ではいかんせん攻撃速度が鈍り、致命傷には至らない。

「ガアアアアアァァァァァァァァッッッッッ!!」

ヴン!! ドゴォッ!!

「かはっ……。」

 腕を掴んだまま片腕で振り回され、地面に叩きつけられる。
リズエルの体重は力を全開にしている現在で、軍馬一頭分近くにまで上昇している。それを片腕で振り回しているのだ。

ヴン! ドゴォッ!! ヴン! ドゴォッ!!

「く……。くあっ……。」

 いくら柔らかい地面だとは言え、充分な速度で激突すれば充分な強度をもった壁に変化する。
加えて腹部の再生が追いついていない事も災いして体勢を整えられない。

ヴン! ドゴォッ!!

ヴン! ゴスゥッッ!!

「かはっ……。」

 振り回す軌道を無理矢理変化させ、庭先にある木の幹に叩き付けられる。
圧倒的な質量と運動エネルギーの餌食となった椚(くぬぎ)の木は倒れる事すら許されず、衝突面を境に両断された。

ヴン! ドグゥッ!!

ヴン! ドグゥッ!!

 幹の部分を吹き飛ばされ、ささくれ立った表面を晒す切り株はそれだけで凶器足りえた。
充分な遠心力を伴ったリズエルの体は背中から叩きつけられ、広葉樹特有の固いささくれが背中に突き刺さる。乾いた音をたて、切り株は一撃で根本まで粉砕された。
 それだけでは飽き足らないのか、倒れた幹の方にも肩から叩きつけられ、ぐしゃりと嫌な音を伴って鎖骨が砕ける。

「うぅ……。」
「グウウウゥゥゥゥ……。」

 目線を合わせる様に再度持ち上げられ、鬼の瞳を真正面から見る。
なんて禍々しい瞳、としか朦朧とした意識の中では思えなかった。
最早再生で賄えるレベルの負傷ではない。全身あらゆる所の骨が砕け、幾つの臓腑が機能を失った事だろう。すでに呼吸すらままならない。

「ぅあ……ぁ……。」

 殺して。
そう思いたくもなってしまった。これ以上の痛みを負うぐらいであれば、いっそ死んで楽になればどんなに幸せだろう。

 だが死神は何処までも無慈悲だった。
開いた腕が無事なほうの掌に触れる。何を、と思った瞬間。

ぐしゃり

「ああああああああああっっっっっ!!」

 余りの痛みに目が見開かれ、体中に電気が走る。それは間違え様の無い痛み。
指の一本が砕かれ、握りつぶされ、そしてそのまま引き千切られた。

ぐしゃり

「――!!」

 余りの痛みに声が出ない。肺に空気が入らない。
だが強靭なエルクゥの体は例えどんな痛みであろうとも、失神する事を許さなかった。

ぐしゃり

「――!!」

 涙が流れ、目一杯開かれた口からは涎と鮮血が流れる。だがそれを止める術は既に無かった。

ぐしゃり

「――!!」

 痛みに慣れる事も許されず、続けざまに指が失われていく。
もう残るは一本。親指のみ。

「オオオオオオォォォォォォォォッッッー!!」

 感極まったのか、目の前の鬼が咆哮を天に上げる。それに答えるかの如く大気は鳴動し、空気が震える。

「――。」
「……。」

 リズエルが最早声にならない声を上げる。だがその声に気付いたのか、鬼は目線を合わせ、明確な表情を作り出した。

 それは笑い。この上無く残酷で、無慈悲な笑み。

(そんな……お願い……殺して……)

 もう涙が止まらない。
この生き地獄を作り出した原因を、目の前のエルクゥを作り出した原因を、理解できるからこそ、涙が止まらない。全ては自分のだした結論のせいなのだ――。

「グウウウゥゥゥゥ……。」

 鬼の顔から笑みが消える。そして次の瞬間には再び怒りの形相に変わっていた。

(ナラバシネ。えでぃふぇるニワビテコイ)

 鬼の口がそう動いたような気がした次の瞬間、鬼の腕が閃き、リズエルの体が宙を舞った。


 鬼の腕が霞んだ瞬間、リズエルの体は家屋に向かって投げ飛ばされていた。この速度ではいかな木造家屋とは言え、障害物となりうると言う理由だけで凶器足り得る。充分な速度をもった大重量を秘める其の体は家屋を貫通し、裏手の林に乱立する木々をなぎ倒し、山肌に激突してやっと動きを止めるだろう。その過程の中で彼女の器が砕けない可能性は――

 無い。

(ああ…… やっと死ねる……)

 だがリズエルの表情はむしろ安らかだった。今の苦痛から開放され、全ての責任を放棄し、妹を手にかけた罪から逃れられるその選択肢は、多くのものを失った彼女にとって余りにも甘美な選択肢といえた。

 だが――

「姉様!」
「……せいっ!!」

シュッ!! 

(……ああ、これで私も……?)

 叩き付けられる痛みがこない。もう私は死んだのだろうか?
恐る恐る瞳を開くと、宙に浮かんでいる自分に気付く。まだ生きている事がわかった瞬間に蘇る痛み。だが自分の体に力が戻る感覚に襲われる。どうやら何者かに抱きかかえられて宙に浮いているらしい。

「……間に合ったようね。」
「リズエル姉様!!」

 殆ど動かない首を巡らし、やっとの事で下を見ると、自分を見上げる末の妹――リネットと目が合った。傍らには剣を携えた見慣れぬ女の姿もある。

「佐奈子さん、もう大丈夫です。リズエル姉様を下ろして下さい。」
「うーん、それはちょっと待ってね……とにかくまずは目の前のこいつを何とかしないと……。」

 全然困った様子も無く、両刃の剣を構える佐奈子と呼ばれた女。目の前の鬼は右腕を切り飛ばされた事で警戒態勢に入ったのか、距離を取ってうなり声を上げている。
 どうやら投げ飛ばされる瞬間にあの女が鬼の右腕を切り飛ばしたらしい。リズエルですら傷つけるのがやっとだったと言う代物をだ。
 だがお陰で投げ飛ばされる方向に狂いが生じ、倒壊直前まで傷ついた家屋を見下ろす位置でリズエルの体は静止していた。

「なんて殺気……。」
「グウウウゥゥゥゥ……。」

 自然体に剣を携えただけの無位の構えなのだが、敵の圧倒的な強さが解るのか自分から攻めに入ろうとしない鬼に内心舌を巻く。

(ぎりぎり剣の間合いの外……しかも迂闊に動けば動く僅かな隙に懐に入られる……)

 単に狂っている訳ではなさそうだった。正確に戦況を把握し、最も良いと思われる手段を講じている。相手は相当戦馴れしているならば、此方もある程度戦術を組み直さなくてはならない。

「リネットちゃん、お姉さんは暫く放っておいても大丈夫。自浄作用を強制的に高めているから……って何やってるの?」

 僅かも視線を動かさず、後ろにいるリネットに声を掛けようとして唖然とした。
リネットが前に出ている!!

「ちょっと! それ以上近づくと危ないわよ!!」
「……大丈夫です。この人は……。」

 そう言うと、最早一年前の廃屋と変わらないまでに崩壊した家にゆっくりとした足取りで近づく。

「……この子がいる限り、私を攻撃しません。」
「子供…… なんでこんな状況で無事なの……?」

 幼子と一人の横たわる女のいた縁側の周辺だけは、まるで何事も無かったの様に何処も破損していない。抱き上げられた事に気付いた子供は、小さな手を振り回していやいやと抵抗する。

「ああ、ちょっと、ね? ほら、大丈夫だから……。」
「あー……。」
「……これは、……魔力!? ……リネット、魔術が使えるの!?」
「……はい。でも少し静かにしていただけますか? またぐずり出してしまいます。」
「え、ええ……。」

 まるで毒気が抜かれたかのように呆けてしまう。それは目の前の鬼も同じようで、警戒の色を残しつつも、視線はリネットの方に向けられている。

「Sol Mister…… Som……。」
「偽りの旋律、隠された舌、虚偽の福音……。」
「Det……speile……。」

(魔力が収束していく…… でもこれは……?)

 異質。
 それは魔導の知識をある程度とは言え収めている佐奈子の知識からは余りにも異質な旋律だった。
いくつか魔導術の詠唱に近い単語や韻律はあるものの、大部分は佐奈子にとって初めて聞く単語や律で奏でられている。

(まるで歌っているみたいね……)

 まるで複数の人間が歌うかのごとく、リネットの口から紡がれる旋律は二つ以上の旋律を一度に紡ぎ上げていた。

 佐奈子とてただ傍観している訳ではない。鬼が動けば即座に反応出来るように構えているし、旋律から魔法の質を見極めんと魔導知識をフル稼働させている。そして其の半眼となっている瞳はリネットと鬼の間に魔力の壁が出来るのを確かに捕らえていた。そして同時にリネットの中にも魔力が収束していく。

 充分な魔力の収束を確保したのか、ゆっくりとした動作でリネットが歩き出す。横たわる女を鬼の視界から隠すように立ち、その腕に抱えた幼子を見せ付けるようにゆっくりと抱き上げる。
 そしてリネットの口から放たれた言葉は佐奈子の聞いた事が無い声だった。

「ほら……あなた……この子も、私も無事だから……ね?」
「!!」

 優しげに赤子を差し出すリネット。その姿はどう見てもリネットだが、魔力の壁を隔てた鬼には別の者に見えるのだろうか、目に見えて鬼の様子が変貌していく。
 変貌を始める鬼に合わせるようにリネットが真っ直ぐゆっくりと歩き出す。その一歩は決して大きく無いものの、確実に鬼へと近づき、間合いの中へと入って行く。

「私は大丈夫……ほら……。」
「グ……エディ……フェル……。」

 その光景に佐奈子は目を奪われていた。
鬼の体が煙を出しながら脈動し、その巨体が枯れていくように収縮していく。同時に筋肉の鎧はばらばらと崩れ、真紅の瞳は黒くなり、角が頭皮に隠れる。

 そこに立っていた筈の鬼の姿は無くなり、変わりに右腕を切り飛ばされた一人の男が立っていた。

「エディ……フェル…………よ……か……った……。」

どさり

 リネットに向け安堵の表情を浮かべると、男は糸が切れたかのようにどさりと崩れ落ちる。

「……よかった……。」
「リネットちゃん……一体どんな魔法を使ったの?」
「三つの魔術を同時併用しました。心を読む魔術と、声を変える魔術と、光を操る魔術。」
「……。」

 事も無げに言ってのけるリネットに改めて戦慄を覚える。一部には人間を遥かに凌駕する魔力を持つ魔族の一員とは言え、三つの魔法を同時に詠唱、行使出来る存在など聞いた事が無い。それこそマーリンやグエンディーナ一族でもなければ不可能だろう。それを目の前の娘は何事も無かったかのように使った……。

「エディフェル姉様の声色に変え、あの人からは私がエディフェル姉様に見えるように……。佐奈子さん?」
「ん? ああ、いや、なんでもない。……そろそろお姉さんも動けるほどに回復したと思うけど……。」
「そう言えば……。」

 僅かな詠唱の後、リズエルを抱えたまま空中に静止していた不可視の魔物が静かに降り立つ。
その腕に抱えられたリズエルの瞳は驚愕に見開かれたままだった。

「さて……もう動けるはずね?」
「……え、ええ。」

 女の力なのか、それとも後ろにいる不可視の存在の力なのか、再生能力が一時的に加速したらしく致死傷レベルの傷が既に癒されている。どうやら死は免れたようだ。
 未だ足元は覚束無いものの、それでもなんとか立ち上がる。それを確認すると、音も無く背後から気配が消えた。

「話は大体リネットから聞いたから大丈夫よ……リズエルさん。」
「……貴女は……人間の女が何用です?」
「まあそう警戒するのも無理は無いわね。私は川澄家次期党首、川澄佐奈子。」
「……聞きたいのはそのような事ではありません。」
「リネットちゃんが野盗に襲われている所を助けたんだけど……迷惑だったかしら?」
「いえ……その事には感謝の言葉もありません。」

 現状における圧倒的なまでの戦力差を理解出来ぬ訳ではないのに、リズエルの瞳はあくまで疑心に満ち溢れたものになっている。
 その瞳にあわせる様に佐奈子の瞳も好戦的な輝きを帯び始める。

(いい目ね……覇気も、敵意も失われていない)

 すっ、と改めて佐奈子の瞳が細められる。
 「神薙」を持つ一族の後継者として、自分の存在の重要さもこの年になれば痛いほどよく判る。迂闊な言動が相手をどれだけ刺激するか、自分の行動がどれだけ相手に影響を及ぼすか。長い武者修行の旅でそれを痛いほど思い知らされてきた。

「たまたま立ち寄ったら偶然お会い出来た藤田家御当主様にね、鬼退治を頼まれたの。」
「鬼……私達を滅ぼせと?」
「別に。」
「……。」

 随分と適当な言い方だったが、その中にある真意を見逃すほどリズエルは甘くなかった。
 この目の前の女――確か名前は佐奈子と言ったか――は自分を試しているのだ。自分の力のみで殲滅させる事が出来る相手なのか、相手の内包している戦力の質は、そして量は如何程なのかを探りに掛かっている。

「あ、エルクゥに関してならリネットちゃんからある程度は聞いたから大丈夫。説明は要らないわ。」
「リネット……!」
「……。」

 改めて視界に末の妹を収め、怒り半分、驚き半分の口調でリズエルが声を絞り出す。
 ヨークに残るように言っておいた筈だが現に此処まで来てしまった。無事である事に安堵の感情は隠せないが、それ以上に自分の命令を無視した事に対しての怒りのほうが多きい事も隠せない。

「そんなに実の妹さんを睨まなくても良いんじゃない? 彼女だって心配したからこそ此処に来たんだしさ。」
「……人間である貴女には関係の無い事です。」
「ま、それを言われると仕方ないけどね。でも自分の友人を守ろうと言う感情もまた、人間って言うのは持ち合わせている者なのよ。」
「……。」

 食えない。リズエルの感想を一言で言い表せばそうなる。この佐奈子という女、相当に手だれている上に隙が無い。それは戦闘においても、そして交渉に関しても。
 だがそれは佐奈子も同様だった。相手は私から情報を聞き出そうとしているばかりで、先ほどから殆ど自分の意見を口に出していない。相手の手札、切り札が見えない以上迂闊に動けない。

「今は帰りなさい。あの男には私が興味あるし、リネットちゃんもそう。」
「……いいでしょう。今貴女に歯向かっても勝ち目は無いでしょうし。……ですがリネットは連れて帰ります。」
「だって。どうするの?」
「……私はここに残ります。」
「リネット……貴女!」

 リズエルの瞳が驚愕の色に染まる。

 初めて。
初めて妹が目を逸らさずに答えた。確固たる意思で私を見返してきた。そしてその瞳に気圧されている私がいる。

「貴女は、貴女は自分の立場がわかっているの!?」
「判っています。ヨークを操る事が出来るのは私だけだと言う事も。」
「!!」
「私が今の一族にとってどれだけ重要な存在であるかと言う事も理解しています。」
「……。」
「それに…… 私だけは「代え」が効かないと言う事も。」
「……ならば戻りなさい。」

 的確な一言だった。
ヨークを操る事が出来る唯一のエルクゥ。それだけでリネットを特別視し、それだけの存在としてリネットを蔑視していた事も暴いていた。それは皇族たる、そして一族の指導者たるリズエルの傲慢。

「嫌です。私は帰りません。」
「何故……。」
「エディフェル姉様がここで何を見たのか、それを全て知るまでは帰りません。」
「駄目です。貴女は今すぐ私と帰らなくてはなりません。」

 圧倒的に不利。
 それをリズエルは認めざるを得ない。リネットがエディフェルを慕っていたのは知っていたし、それを止めなかった。皇族とは言え立場の弱いリネットを守る為、あえてエディフェルとの関係に目を瞑っていた。それがこんな形で裏目に出るなんて――!!

「リズエルさん、リネットちゃんが自分の意思でそう言っているのだから、それを尊重してあげないと。」
「佐奈子さん、これはエルクゥの問題です。人間が口を挟まないでいただきたい。」
「そりゃそうだけどね? その傷ついた体じゃあリネットちゃんにも勝てないよ?」
「……。」

 嘘だ。例えリズエルの体が万全であったとしても、佐奈子は確実にリネットに加勢するだろう。それを此方が理解しているのを知った上での台詞。

「それに妹って言うのは何時かは離れて行くものなんだから、お姉さんはそれを喜ばなくっちゃ。」
「……くっ。」
「姉様……今は帰ってください。後で帰りますから……。」
「……。」
「……。」
「……判りました。」

 手札が少なすぎる。このままでは逆に完全敗北を喫しかねない状況である以上、素直に引き下がるしかない。それは皇族としてのプライドを捨てた掃き捨てるべき結論であった。

「では先に帰っています。……必ず帰ってくるのですよ?」
「……はい。」

 敗北だ。
 これ以上無い完全な敗北。エディフェルは死に、一族を滅ぼしかねない力を目覚めさせた。そして止めはリネットの出奔。
 ああは言ったものの、恐らくリネットは帰ってこないだろう。もうヨークの力に頼る事は出来ない。少なくとも新たな皇族が、しかも高い魔導操作能力を持っていると言う極めて低い確率で起こる変異に頼らない限りは。

「……くっ。」

 だが今はそれを悔やむ時ではない。今為すべき事、一族に伝えるべき事、これから起こりえる事情を考察し、より良き選択肢を選ばなくてはならない。
 それが一族を率いる者の勤めなのだから。

(エディフェル……私は……貴女のようにはなれない)

 心を偽り、凍らせ、長として一族を導く事を決めた時から変わらぬ。それは余りにも頑なな一人の女の決意だった。




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