盟約暦590年:ヨーク船内

(……見つけた)

 暗がりの中、リネットは半年以上の苦労が実った事に安堵のため息をついていた。

「……発見しました。」
「そう……。」

 隣にいるであろう姉に一言だけ声をかけ、さらに集中を強く、繋がりを深くする。
隣に立っている姉も、恐らくは安堵の表情であろう。

 エディフェルがヨークを去ってから、リネットはヨークの修復と整備の速度を落としてまで、エディフェルの捜索に時間を割いていた。
 恐らく全方位方の探知機構の射程外にまで離れたであろう事を考慮し、精度は劣る物の十倍近い探知範囲を持つ指向型に切り替えての捜索。それを半年以上満遍無く周囲に放った結果、遂に僅かな魔力探知に成功する事が出来た。
 この波長は……間違いなく姉の物だ。

「……方位捕捉、距離確定。予想範囲を出します。」

 同時に正面に暗闇に映し出される地図。
山がちな地形の中に蛇行しつつ伸びる街道、そして一定の距離を置いて点在する集落。光点はそのうち一つを指していた。
 同時に接続を解き、肉体に意識が戻ったリネットも、自分の目の前に描かれた地図を凝視する。

「……では私が行って来ましょう。」
「リズエル姉様!?」
「……なにか?」
「い、いえ……。」

 驚きの表情と共に顔を上げるものの、目が合った瞬間に慌てて俯く末の妹に、見えないように嘆息するリズエル。リネットの言いたい事も判らなくは無い。エディフェルと最も親しかったのは誰であろうリネットだ。彼女が一刻も早く会いたいと思うのは当然だろう。
 だがエディフェルは今や裏切り者である。ダリエリを筆頭として、男達は皆エディフェルを敵と見ているし、アズエルもエディフェルの行動に怒りを覚えている。

「ではあなたはヨークに残りなさい。」
「あ、あの……。」
「どうしました?」
「……し、失礼しました……。」
「……。」

 今リネットにヨークを出られては困る。ヨークを操る事が出来るのは彼女一人だけである上に、リネットの肉体的能力は人間と大差が無い。鬼の住む地として人気が無くなり始めているこの地を一人で旅するには危険だ。ましてや逆にエディフェルの説得に屈した場合、一族はヨークを離れなくてはならなくなる。
 アズエルは大雑把な性格が災いして交渉事には向いてないし、男達は闘争心を抑える事が出来ないだろう。となれば出向くのは自分しかいない。

「直に出立いたします。その間、アズエルを長の代表としなさい。」
「はい……。」

 踵を素早く返し、コツコツと靴音を立てて去っていくリズエル。

(どうすれば……。姉様……)

 説得に失敗した場合、恐らくリズエルはエディフェルを殺す。
 その予想は恐らく当り、そしてエディフェルの答えは「否」だろう。リズエルの前には位置座標しか示さなかったものの、ヨークの超遠距離対応探知機構は遥か上空に静止している子機を中継、リネットに現地の画像を見せていた。

「人間として生きているなんて……。」

 リズエルは許さないだろう。そして傍らにいた男の存在はエディフェルが一族に戻るつもりは無い事を証明していた。

「エディフェル姉さま、笑っていた……。」

 それはリネットの前ですら見せなかった笑顔。心の奥底から、本心の笑顔。
心を透かし見る事の出来る姉が、他人との区別をつけるために施した壁の向こう側からの笑顔。

「このままじゃ……。知らせないと。でも……。」

 エディフェルに知らせる事。それもリズエルより早く、そしてリズエルにばれないようにしなくてはならない。知らせ、そして他の地へ身を隠してもらわなくてはならない。
 幸いな事かヨークを動かす事が出来るのは自分だけだし、ヨークの機構を隅々まで知り尽くしているのも自分だけだ。自分が嘘をつけばヨークは動かずにすむし、ヨークの長遠距離対応探知機構にも限界距離が有る。狙った一個人を探すとなれば、有効範囲はこの大陸の半分も満たせないだろう。

 だがヨークを動かす訳には行かない。ヨークを動かせば当然目立つ上、他の一族にも気付かれてしまう。妨害は必死であろうし、リズエルにも気付かれるだろう。
 誰かに頼むと言うのは論外であった。エディフェル以外に親しい者などいないのだ。アズエルはリズエルにつくであろうし、男達は皆問題外と言える。

「なら……。私が行くしか……。」

 自分の存在がどのような物なのか知らない訳ではない。だが人間と殆ど変わらない外見と、高い魔力がリネットには有る。人間に気づかれる事は無いだろうし、一族からだって隠れやすい。

「その為には……。」

 リネットの中で、何かが目まぐるしく動き始めた。







魔法戦国群星伝

外伝:鬼の一族




  同日夜:雨月山

 日の元で豊穣の大地として恵みを齎していた山々も、新月の夜には圧倒的な恐怖を伴う漆黒の衣を纏い、何者も受け付けぬ静寂の空間と化す。

キン……

イイィィィィィィィィン……

 耳鳴りのような甲高い音と共に、中空に突然魔方陣が描かれる。

 一つだけではない。幾つもの魔方陣が先を争うように描かれ、線を交わらせていく。
それはある一つの法則性に従い、膨大な魔力を内に秘めたものへと変化していったのだが、生憎とその光景を目にする者はいなかった。

 すでにこの近辺に人はいないのだ。それどころか周囲の村落にすら人はいない。
この半年間雨月山を本拠地として殺戮を繰り返した結果、辺りに人が息吹く事は無くなっている。それどころか山を二つ以上越えなければ人と出会う事は無いだろう。
 皮肉にも、一族の存在は自然にとっては好都合だったと言えよう。森を切り開く事も無く、生態系を破壊する事も無い一族の存在は、自然という巨大な循環生態と見事なまでに調和していた。


リイイイイィィィィィィィィィィン!!

バシュッ!!

 魔方陣を中心として突如閃光。
闇夜にそれは余りにも眩しい存在だが、それもまた一瞬にして消える。

「はぁ……はぁ……はぁ……。」

 かつて魔方陣が生まれた場所に人影。
膝に手を置いて上半身を支え、小さな体全体で息を整えているのが遠目でも判る。

 闇夜にその姿を捉えた者は果たして彼女を何者と思うだろうか?
天の使いだろうか? それとも妖の一族?

 だがその姿を捉えた者は誰一人としていなかったし、先の予想はどれも外れていた。

「な、なんとか……成功した……。」

 全身から吹き出す汗を震える手で拭う小柄な少女。
その姿は闇夜にあって輝いていた。
 細身の体を包む地味な旅装束。だがいくら旅装束でもその顔までは隠せない作りになっており、その人とは一線を画した美貌が露になっている。

 人では有り得ない容貌の少女だった。
いや、人の顔はしている。目の位置も、口の数も同じだ。妖族によくある特徴である尖った耳では無く、丸い人間の耳。余分な部位は無く、欠損した部位も無かった。純然たる人間の顔である。

 だが余りにも少女の顔は完成されすぎていた。グエンディーナ大陸には珍しい金色の髪を背中に流し、幼いながらもその人を惹きつける美貌に、赤い輝きが二つ灯っている。

 少女の瞳は赤い。
 赤い瞳自体は有り得ないものではない。白子(アルビノ)であれば金髪にも説明がつこう。希にだがグエンディーナ大陸にも金髪の子供が生まれる事がある。だが白子特有の青白い肌を少女は持っていなかった。顔の部分しか見る事は出来ないが、それでも彼女が白子でない事はその肌を見れば一目瞭然と言えよう。多少色白では有るものの、白子独特の青白い寒気を覚える肌ではない。

 では彼女は何者なのだろうか?
 この答えを得ようにも、少女の姿を見る者はおらず、そして少女も答えるつもりは無かった。

「座標交換……理論では可能だったけど……。」

 少女はゆったりと立ち上がる。
旅装束にしては不自然なまでに軽装備だ。なにも背負う事無く、荷物といえばその小さな腕に収まっている小さな肩掛け式の袋のみ。いろいろな物が入っているのか、その中身はいろいろな形に膨らんでいた。

「ヨーク程の規模では無く、一人分の座標交換でもこんなに消耗するなんて……。」

 少女の小さな口から漏れる呟きを聞き取る者もまた、皆無。
虫の音と木々の隙間を通り抜ける風だけが少女の声を掻き消す。
 少女は立ち尽くしたまま再度瞳を閉じ、動きを止める。

「……。」

 少女の金髪が風に靡き、さらさらと音を立てる。
髪の乱れにも気を止めず少女は目を瞑り、僅かに顎を上げる。
まるで何かを聞いているかの様にも見えるが、聞こえるのは只、風と虫の音のみ。

「座標確認完了、地形確認完了、目的地まで最短ルート確定。」

 瞳をうっすらと開ける。どうやら再び意識が戻ってきたようだ。
再び小さな唇が動く。だが今度は明確な意思を伴い、不思議な抑揚と旋律で奏でられる物だった。

「齎すは陽の腕、導きは闇夜の正道、輝くは蛍の旋律……。」

 少女の奏でる旋律と共に、軽く翳された掌に小さな魔方陣が生まれ、次の瞬間には光が生まれた。

「ふう……。山をみっつも越えるのですね……急がないと。リズエル姉様はもう随分先に行ってるでしょうし……。」

 自分に言い聞かせ、少女――リネット――は慣れない山道を歩き出した。



ピシッ

「痛っ……。」

 幾ら闇に強い一族とは言え、例え明りがあろうとも深夜の森は充分に危険領域と言えた。
それにリネットは一族の中でも目立って肉体能力が低い。再生能力すら並の一族の半分ほどの速度でしか行われない。

 軽く、それでいて十分な耐久性を持っている旅装束に身を包んでいるとは言え、やはり顔や手は剥き出しである。死角から張り出した木の枝に引っかかれる事など既に数え切れない。幸いな事に髪の毛はまだ引っ掛かっていない。一人旅である以上、枝に髪の毛が絡まったら大きなタイムロスとなるのは必死だろう。

 だが生憎とリネットに森林移動の経験は皆無であったし、夜の脅威など知識でしか知らなかった。
 普段、いかに姉達に頼りきっていたかが自分でも判る。外を出歩くなど滅多になかったし、貴重な魔法技術理解者として、最もヨークに近い者として、リズエルが外を出歩く事を許さなかったと言う事もあろう。

 だが最も大きな原因は自分から動かなかった事だとリネットは今更のように痛感していた。
上の三人の姉達は皆強く、高い能力を保持していた。
 リズエルは一族を束ねるに相応しい強さとカリスマを保持していたし、
 アズエルの戦闘能力は姉に次ぎ、その気さくな性格から名実共に一族の補佐役としての地位を確立していた。
 エディフェルに至っては一族で唯一と言っても過言ではない特殊能力者である。その戦闘能力もそうだが、彼女の前ではあらゆる虚偽が意味をなさない事から、皆が素直に彼女を認めていた。

 だが自分はどうだろう。
自分より魔法的能力の高い者など、魔界を探せば幾らでもいる。恐らくこの大盟約世界でも彼女を上回る能力者は何人もいるだろう。魔界に伝わる多くの魔術――この大陸で最も普及していると言える魔導術を含めてだ――を彼女は高いレベルで心得ている物の、代償とも取れるかのごとくその身は脆弱だった。
 彼女が唯一と言って良い自慢できる点と言えば、一族の箱舟たるヨークを操る事が出来る事だが、これだってたまたま自分が魔法能力に秀でた一族の皇族であったと言う偶然に過ぎない。

「本当に……私は何も手に入れてないのですね……。」

 姉たちのように数々の戦場を駆け抜け、長い修練によって得た能力がある訳でもない。ある物といえば普通よりやや高めの魔力と知識のみ。こんなもの、上を見れば幾らでもいる。

「でも……私は今、自分の意思でここにいる……。」

 エディフェルに呼ばれたのではなく、リズエルに命令された訳でもなく、自分の意思でここにいる。
それだけでもリネットにとっては誇るべき事であった。

それが他人から見れば当たり前の事であっても、
今まで、飼い犬のように姉たちの後ろを歩いてきた彼女にとっては――。




「……? 空が青い……夜が明けるのですね……。」

 見上げれば星々は身を潜め、空がうっすらと青味を帯びている。首を巡らせれば、稜線にはうっすらと紅が走っていた。

「なら明りはもういりませんね……。」

 目の前を力無く浮いていた光の塊を吹き消し、改めて道に目をやる。
もう歩き始めてから四時間近くが経過していた。

「疲れました……。少し休みますか……。」

 山道は終わり、山間を走る川の辺に街道はその身を横たえている。
一体幾年の時を見守り続けてきたのだろうか、苔蒸した道祖神の古びた祠を軽く押し、それなりに強度がある事を確かめる。

「ではお隣、お借りします……。」

 地面が濡れていない事を確認して腰を降ろす。

「……一体今日でどれほどの距離を歩いたのでしょうか……?」

 身を祠に預けると、隠れていた物が一気にリネットの中で姿を表す。
それは疲れ。そして充実感。

「ふふ……明日も歩かなきゃ……。」

 僅かな微笑みを残し、リネットの意識は瞬く間に闇に落ちていった。




  同日朝:隆山付近街道

 彼女は困っていた。
 彼女が普段困らない生活をしているかというと嘘になるが、それでもここまで自分の判断が躊躇われる選択肢も珍しかった。

 彼女に取ってみれば人間悩んでナンボのものであり、悩みの無い極楽な生活など、刺激の無い退廃的なものに違いないと思っているし、困り事に首を突っ込んでしまう自分がかなりの御人好しである事も自覚していた。

「でもねー、鬼退治なんて……。」

 手際よく纏められた荷物を背負い、街道を一人で歩いている一人の女性――少女と言うには年をとり過ぎている――は自分の艶やかな黒髪を弄びながら溜息――おばさんくさい等と言ったらきっと怒るだろう――をついた。
 これでもまだ二十前半なのだが、常人とは桁が違う社会経験の密度が老成した雰囲気を彼女に纏わせている。未だ一人身から脱却していない彼女の密かな悩みである。

「そりゃ確かに昔から魑魅魍魎の退治と言えば川澄の名は知られているけどねぇ……。」

 愚痴りながらも女性――名を川澄佐奈子と言う――の足はしっかりと目的地へと歩みを刻んでいた。

「それにあの御党首様、随分と嬉しそうだったし……自分の領地が危険だって言うのに、呑気なもんだねぇ……。」

 そう言いながらも佐奈子の瞳には剣呑な光があった。その光は他人事で済まそうとする者では決して持ち得られない物と言えよう。



 事は一週間程遡る。
 川澄家のしきたりに従い一年の放浪の旅の途中、やや辺境とも言えるこの藤田領にたどり着いた佐奈子だが、藤田領本家元にたどり着いた途端に当主から呼び出しを受けた。
 ただの旅人とは言え、これでも川澄家の次代頭首候補筆頭である。その動きに敏感な者は決して少なくない。
 不穏な空気が漂う藤田領である。大方傭兵として短期契約の申し出でも出してくるのだろうと当主の館に赴くと、そこで意外な依頼を受けた。

「鬼退治……。」
「はい。川澄家とあれば妖退治の専門家。」

 否定はしない。佐奈子とて既に幾回も妖を退治――と言う名の説得――をしてきたし、川澄家は幾度と無く強大な力を持つ妖達を屠った名門だ。川澄家のしきたりよりその名が表沙汰になる事はないものの、歴史の裏で人知れず力を振るう破魔の一族としてその歴史は既に四桁の年を刻んでいる。

 確かに川澄家の一族、特に直系の力は絶大だ。先祖に妖の一族でもいるのか、高い魔力と魔法では説明がつかない不可視の力を代々保持し、肉体的にの高い素質を持つ。
 加えて川澄家には切り札ともいえる一振りの剣がある。神すら断ち切らんその破壊力から、「神薙」と銘打たれた一振りの劒。古い造りだが、鍛え上げられてから一度も研ぎ直された事が無いと言われ、事実その刃が傷んだことも、その身が血で曇った事も無い。そしてその威力は正に折り紙つきであり、魔法障壁であろうと対斬撃障壁で強化された鋼の鎧であろうと紙の様に易々と切り裂く。

 だが佐奈子は滅多にこの劒を抜いた事が無い。
一口に妖と言ってもその種類は多岐に渡り、その大半は只悪戯心で人間にちょっかいを出す程度の無邪気なものである。それらの大半は事情を説明し、解決案を出せば納得して元の里に帰ってくれるし、人間に伝えたい事がある妖であればその手助けをしてきた。人間側に非が有る様であれば人間側との交渉の場を仲介した事もある。
 純粋に悪意で人間に危害を加える妖もいたが、佐奈子の実力であれば劒など抜かなくても片がついた。攻撃を受け流すだけであれば鞘から抜く必要など無い。

 だが佐奈子はいちいちその事を口に出すほど几帳面ではないし、悪い方向に曲解されてはいないので直す必要性も感じなかった。そういう意味ではかなり大雑把な性格である。

「……私の以前には静観を決め込んでいたのでしょうか?」
「いえ、前線兵力を割いて二千ほど送り込んだのですがね。」

 好々爺然とした当主の笑みの奥に見える戦略。
二千もの兵力を前線から削ると言う事は絶対成功を前提とし、確信していたのだろう。そしてそれは見事に覆され、かなりの兵力を無駄に失った計算となる。

 これ以上の兵力を割く事は出来ない。
当主の言外に出された答えにこっそり溜息をつきつつ、ある意味ではほっとしていた。

「本来であれば傭兵として雇い入れたい所でありますが……。」
「私はまだ半人前、そして今は皆伝の成果を試されている身です。妖の類による依頼や雇用の類を受け付ける事は許されていません。」
「はい、存じ上げております。ですので無報酬、いわゆる「お願い」の形を取らせて戴きました。」

 なかなかに心得ている。
 川澄家がどの勢力にもつかず、中立不干渉の立場を崩すつもりが無い事を知っている上でわざわざ言ってのけている。それに断れば隆山の地に巣食う鬼達を野放しにする結果となる。それは川澄家の存在意義に関わる失敗だ。断る訳には行かない。
 なにより佐奈子の川澄家における立場を理解している。自分はそれなりに人々の目を引く存在だと言う自覚はあるが、自分が皆伝の試験期間中である事すらも知られている事実はそれなりに動揺を誘う。

 因みに本来であれば修行中に「川澄」の名を明かす事は禁止されている。そして川澄家も組織だっての補助は行わない事が原則であり、一介の剣士としての行動を求められる。
 だが今回のような例外は幾度となく存在し、その際には無報酬で動く事が求められている。理不尽なようだが、試験期間中に川澄家としての仕事をこなす事を禁じているのだ。例外として傭兵や私兵としての短期契約は許可されている。

 侮れない。老いても名将はなお名将と言う事か。佐奈子は目の前の老人をそう結論付けた。

「判りました。隆山に向かわせて頂きます。せっかくですので周辺の詳しい地図等をいただけますでしょうか?」
「ええ、それはもう喜んで。あと隆山までの諸経費も当方で負担いたしますが?」
「いえ、そこまではご遠慮させていただきます。それなりに持ち合わせも有りますので。」

 大方今のうちに恩を売っておき、いざと言う時に備えておこうと言う魂胆だろうが、そこまでされると此方が動き難くなる。持ち合わせに困っていないと言うのは嘘ではないし、余分なものを迂闊に貰っておくと後でどんな事を言われるか判ったものではない。


 だが既に藤田家は外交上の切り札を得たに等しいのも事実である。
この後、数年の時を置かずして藤田家は戦力差から敗退を余儀なくされるものの、隆山の地を「妖族の住まう地」として魔導に造詣の深い人間を多く抱える来栖川家に管理を要請、川澄家が妖達を掃討はしたものの、いまだ可能性は捨てきれないとして来栖川家もこの要請を受諾する。
 結果として藤田家はその支配域の殆どを失いながらも家本来の財産を失う事無くその血を守り、三桁の年を数える後に一人の若き当主によって一つの国を作り上げる事になるのだが、それはまた別の話である。



 だがこの後の藤田家の外交手段に川澄家の名は殆ど登場する事は無いし、ましてや佐奈子がこの事を知るのはかなりの年月を刻んでからの事である。
 今佐奈子を悩ませているのはそんな政治的問題ではなく、「どうやって鬼に退散願うか」と言うことであり、いかに自分の力を振るわずに解決するかと言う極めて怠惰な欲求を満たす為の手段が見つからない事実に直面しているからである。

「まー、確かに言う通り「退治」すれば万事解決するかもしれないけどねぇ……。」

 佐奈子の実力を持ってすればそれは確実に可能な手段であろう。
だが幾ら一騎当千の兵である佐奈子であっても、所詮は一人の剣士である。魔導術や符術、そして川澄家直系の切り札とも言える不可視の力でカバーすればある程度は補えるであろうが、それでも一体多数を行うには実力が低すぎると言えよう。相手が妖ともなればどんな手段で攻撃されるか判ったものではない。

 最悪敵を逃がそうものならこの広いグエンディーナ大陸全体を駆けずり回り、一匹一匹を細かく駆逐しなくてはならない。そうなれば佐奈子の責任は重大である。川澄家の権威は失墜し、次期当主選びは再び振り出しに戻るだろう。

「ま、一番いいのは素直に隠れ里に御退散願うことなんだけどね。」

 だが今回の件はそれも叶わないように思われる。
宿場町一つを壊滅させる妖など聞いた事が無い。元来妖は人間に不干渉の姿勢であり、そこまで目立つような事はしないのが普通だ。今回の敵は余程血に飢えているか、或いは。

「山賊達の群、かね。」

 整った眉を軽く歪め、吐き捨てるように佐奈子は呟く。
相手が人間であれば手段は変わる。集落を幾つも滅ぼし、宿場町一つを廃墟に変え、二千人からなる傭兵団を全滅させる戦闘能力と戦術の持ち主と言う事になる。
 当然だがそれほどの実力がある者達を放って置く訳には行かない。速やかに無力化、或いは壊滅させる必要がある。それほどの実力を秘めながら、どこの勢力にも属さずに略奪行為を繰り返す連中を許すほどに佐奈子は甘くなかった。

 地図によれば隆山まではあと山を三つ程越える必要がある。
今は山間の清流にそった楽な道だが、それもあと少しで終わるだろう。舗装され、幾人もの旅人が足跡を付けたとしても、山道が難所である事に変わりは無い。それを思うと溜息が出る……。

 そんな彼女が気付かないのも無理は無かった。
内面に引っ込んだ意識で気配を察しろと言うのはかなり無理な話である。だがかすかな吐息を聞き逃すほどに佐奈子は未熟でもなかった。

「……ぅー。」
「……!!」

 反射的に半身になり、音源とは反対方向に一歩飛び退る。同時に左手は劒の鞘を掴み、右手は胸元に引き上げられる。
 正しく瞬時という言葉が相応しい程に一呼吸の間もおかず佐奈子は戦闘態勢を整えた。ここからならいつでも抜刀して迎撃体勢が取れるし、魔導術に移行することも出来る。最悪不可視の力を使う事も――。

「……すー。」
「……あら?」

 だがすっと細められた半眼の瞳が捉えたのは妖でもなければ山賊でも無く、当然鬼でもなかった。

「……すー。」
「女の……子?」 

 もう幾日もの間放ったらかしにされていたのであろう小さな祠に、寄りかかるようにして寝息を立てる一人の少女。

「……金髪……異国の者、か……?」

 輝くような金色の髪に目をやり、佐奈子は素早く少女の正体を推理し始めた。

「……藤田家の御当主様はこんな事言ってなかったから、恐らくは旅人。」
「……でも旅人にしては軽装備だし、一人だと言うのも謎。逃げてきたにしては服装が整いすぎている。」
「さらにはこんな目立つ容貌で有りながら、誰もその情報を持っていない。」
「そしてここは鬼の出る地……結論は出たわね。」
「結論、現時点で考えられるこの娘の正体は鬼の一員。」

 物騒な結論とは別に、佐奈子は構えを解いていた。
だが無論いつでも不可視の力を使う準備は出来ている。緊張感だって解いていない。だが腰に挿している「神薙」を抜く必要は無いだろう。話し合いにそんな無粋なものは必要無い。不意打ちや待ち伏せの可能性も捨てきれないが、逃げるだけであれば素手の方が圧倒的に素早く動ける。
 足音を立てる事無く近づき、息が掛かるほどの距離にまで顔を寄せる。

「……すー。」
「うーん、起こす方が良い様な、でもこのまま寝顔を見ていたい様な……。」

 平和な寝息を立てている少女の隣に腰掛け、改めて少女の寝顔を見やる。

見慣れない風貌でありながら、不思議と惹き付けられる顔立ちだった。
年の程は十四かそこらであろうか、外套のお陰で細かくは判らないものの、全体的に線が細い事は直にわかる。彫りが浅く、幼い印象を与える顔に、何より目立つのは金色の髪。多少癖がついているのか、肩甲骨を少し越えた辺りまで伸びているそれは先端部付近が軽く縮れている。

「ん……。」
「あ、起こしちゃった?」

 どうやらまじまじと眺めている内に、気配を隠すのを忘れていたらしい。微かに乱れた呼吸と共に、その瞳がゆっくりと開く。

 その瞳は、血のように赤かった。

「こんにちわ。」
「……?」
「本当はおはよう御座いますなんだけど、もう昼だからこんにちわ、だね。」
「……そんなに眠っていたのですか?」

 随分と間延びした、それでいて小さな声だ。
だがその声に含まれる響きには、誰もが惹きつけられる甘さが含まれている。

「もう太陽は中天だしね。」
「……中天……そんな、八時間も寝ていたなんて!」

 ぼやけていた瞳の焦点が一瞬にして定まり、焦りの色が浮かぶ。
よく見れば虹彩が縦に裂けている。まるで猫のような瞳だ。

「どなたかは存じ上げませんが、起こしてくださって本当に有難う御座いました! 本当はお礼の一つでも差し上げたいのですが、何分時間が……。」
「あー、あー、いいよ。そんなに畏まらなくても大丈夫だから落ち着いて。」
「あ、はい、失礼致しました。では私は急ぐ身ですので……。」
「まー、落ち着いてよ。鬼のお嬢さん。」

 街道に戻り、慌てて立ち去ろうとした少女の足が止まる。
対して佐奈子は相変わらず中腰の姿勢を崩さない。

「……。」
「慌てた振りをしていなくなろうとしたって言うのはよく判るけどね。」
「……。」
「ちょっと話を聞かせて欲しいんだけど、いいかな?」

 目に見えて動揺している少女との距離を詰め、半眼になった瞳とは裏腹に笑顔で接する。

 空を見上げれば、空を上り詰めた太陽が再び地へ伏せる帰路への道を歩み始めていた。


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