盟約暦589年:隆山北部の洞窟
……
ぽちゃん……
「……。」
洞窟内に響く水音。
微かな音だったが、それは痛いほどに私の耳に響く。
それは定期的に、私を現実に引き戻す。
外はまるで霧のような雨。
雨音を持たぬその息吹は、生き物の奏でる僅かな呼吸音すら奪う。
まるで自身に音を求めるかのごとく。
入り口から漏れる僅かな光が唯一の灯。
集落を出る時に、共に持ち出した一枚の薄汚れた茣蓙の上に寝そべり、ひたすらに待つ。
手を翳し、目の前にいる男から目を離さずに。
目の前に眠る男。
まだ出会って一週間と経っていないが、既に私の心の半分以上を占めてる人間。
……
いや、既に人間ではない。
先の戦いで負った数々の傷口は跡形も無く塞がり、砕けていた骨も既に元の形に安定している。
皇族のみが持てる力。
それを使い、私はこの男の中にある魂の器を守った。
結果、今、この男の中では凄まじいまでの変化が起こっている。
傷口に埋め込んだ私の肉が、傷口より入り込んだ私の血を糧に動き始め、男の肉を食らっていく。
餓鬼の如く悪食を続ける肉は、同時に新たな肉を作り出す。
魔族と言う名の肉を。
それは違える事無く食らわれた隙間に入り込み、新たな肉としての生を得る。
それは私がこの洞窟に入り込んでから二日続き、三日目の今日、やっと終わりを迎えた。
その間私は自ら傷つけた掌が再生するのを許さなかった。
爪を食い込ませ、爪を押し戻そうとする肉を何度も引き裂き、滴る血を全て目の前の男の唇に流し込んだ。血は糧となり、新たな血となり、そして渇きを潤している。
いい加減にこんな事を三日も続けていると朦朧としてくる。
魔界に居た時に一週間以上休み無しで戦い続けた事があったが、あの時は肉体の再生を止めるような事はしなかったし、飢えは目の前の敵を屠る事で満たす事が出来た。
だが今は違う。
流れる血を止める訳にはいかないし、目の前の男の「輝き」を糧にする等とは本末転倒も甚だしい。
ひたすらに、ただ耐え続けて三日。よく持った方だと言えよう。
だがそろそろ限界も近い。再生能力も減速を始めている。あと一日。それが限界だろう。
限界……
限界か……
それを超えたら、一体どうなってしまうのだろう?
死ぬのだろうか? 一族としての力を失うのだろうか?
でも……
それでも……
この男を……
生かせれば……
私は……
構わない……
……
……
…
「……。」
……どうやらまた意識を飛ばしていたらしい。
一体幾刻の時間を費やしたのだろう……
同じ場所に同じ姿勢でいるものだから、時間感覚などとっくに無くなってしまった。
肌が悴み、まるで極寒の地に寝転んでいるかの様な感覚を覚える。
そろそろ限界か……。いい加減に血を失いすぎたようだ。再生能力も目に見えて遅くなっている。
これ以上は流石に命に関わるだろう……。
止めるか?
それもいいかもしれない。
何時起きるか判らぬ男の事など忘れ、今すぐにでもヨークへ帰り、力を取り戻したい。
出来るのか?
止めるのか?
……
……
…
……いや、出来ない。止める事なんて出来ない。
やっと、男が身動ぎをしたのだから。
「う……。」
「目が覚めた……?」
驚くほど優しい声。とても私の声とは思えない。
だが、今はそれすらも心地よい。
やっと
やっと
私から声をかけることが出来たのだから。
「……君は……?」
「……よかった……死ななかった……。」
男はまだ自分が生きているのが信じられないようだ。
……だが私の正体や何故この様な事になったのかは思い出したらしい。
「……鬼の娘が何故俺を助ける?」
「……。」
「……また黙り込むのか?」
「……あなたの命の器は砕けかけていた。」
男の咎める様な目に負け、慎重に言葉を選んで口に出す。
男の理解を超えるようなことを言っても困るだろうし、私が嫌われてはもっと困る。
「器は砕け、命の「輝き」が散りかけていた。」
「……それをお前が助けたのか?」
「……。」
「……。」
「……。」
沈黙。
これ以上無い肯定の意思だろう。私はお前を助け、そしてここにいる。
それが真実。
「……何故。」
「……。」
「何故助けたっ!?」
「……。」
男の心より沸き出でる激情。
仲間を失った悲しみ、友人を失った怒り、敵に助けられた劣等感、生き延びている現実に対する悔恨。その全てが等しく私に伝わる。
「何故だっ!?」
「……。」
「情けでもかけたつもりか!?」
「!!……違う!」
現実に逃避し、自棄になろうとする心。
制御を失い、慟哭と咆哮を繰り返す心。
それらに耐えられないほどに今の私は弱っていた。
「……あなたが!」
「……。」
「……あなたがいなくなるのが怖かった。あなたに消えて欲しくなかった。」
「……。」
消入りそうなほど弱弱しい声。既に意識が朦朧としている事もあったが、それ以前に今自分が男にどのような姿で接しているのかにやっと気付いた。
男は布一枚たりとも纏っていなかった。
そして私も服を纏っていなかった。
男の体温が低下するのを防ぐ為、胸板に顔を埋める様にして二日間を凌いだ。
そこから今、私は上半身だけを起こしている。
「……だから……。」
「ならなぜ俺だけを助けた! お前の力が有れば傭兵団全員だって、桂子だって助けられたはずだ!」
「!! そんなにあの桂子って女が大事なの!?」
瞬時に湧き上がる感情。それに違わず吐き出される言葉。
もう自分の心に嘘をつけそうに無い。……どうやらこの男を蘇らせる時、血と一緒に冷徹な私まで失ってしまったらしい。
「な……当たり前だ! 俺にとって皆は家族みたいなもんなんだ!!」
「……。」
「戦乱で家族を失い、拾われたあの傭兵団で、俺と桂子は姉弟のように育った! 桂子が符法院に入っても、俺は桂子の事を忘れなかった!」
「……!!」
心が痛い。
そうなのか。あの時、桂子と言う女が抱いた感情、それにこの男が抱いている感情。
私はただ勘違いをしていただけなのか。
「桂子だけじゃない。他の皆だって俺には家族同然だった! 荒れた連中ばっかだったけど、俺には大切な家族だった! それを…… それをお前が!!」
「……ごめんなさい……。」
今、男の中に渦巻く全ての感情を始めて理解できた。
絆と言う物が希薄な魔族にとっては理解し難いもの。だが心を読む力を持つ私には判る。
私は、この男の、半身を、奪ったのだ……。
「はっ、今更謝ったって皆は帰ってこない!」
「……。」
「それにお前が桂子にした仕打ちを俺は忘れない! お前が! お前が!!」
不意に涙がこぼれる。
この男の中には私に対する憎しみしかない。
私はこの男に愛されていない。
「お前が泣いた所で誰も帰ってこない! 俺だけ生き残った所で、俺にはもう何も無い!」
「……それでも!」
「……。」
不意に声を荒げた私に気圧され、言葉を失う男。
「それでも!」
「……。」
「それでも……。」
「……それでも、なんだよ。」
私の言葉はこの男に伝わるのだろうか?
家族を奪ったこの私を、男は受け入れてくれるのだろうか?
だがもう引き返せない。もう戻れない。
このままこの男に殺されたって、構わない。
「それでも、私はあなたを失いたくなかった!」
「……。」
涙を拭う事無く、感情に流されるまま言葉を紡ぐ私。
呆気に取られる男だが、次の瞬間には自棄になったように笑い出した。
「ははははははっっっ! そうか、そんなに俺が気に入ったか!!」
「……。」
荒れ狂う心。いつもであれば平然と受け流せたであろう手。
一気に上半身を起こす男。合わせる様に組み伏せられる私。
その瞳は狂気に満ち、怒りを湛えていた。
その心は悲しみに満ち、絶望に染まっていた。
「妖の女は多淫だと言う話だからなぁ!」
「……。」
「くれてやるよ! そんなに俺のが欲しいならくれてやる!!」
「!! いっ!! かはぁっ!!」
両手首を腕一本で押さえつけられ、残った腕で無理矢理に体勢を変えられる。
直後に訪れる激痛。体の中から壊されるような痛み。
視界が涙で霞み、狂ったように鼓動を早めた心臓が無神経に空気を求めるおかげで口を閉じる事も出来ない。
「……はっ、どうした、これが欲しいんじゃないのか!?」
「はぁ……はぁ……はぁ……。」
「動けよ! 動かないならこっちから動くぞ!?」
「いいっ!? あ、あぎひいいぃぃぃっ!!」
激痛に咽ぶ私を無視してその行為は始まる。
男の蹂躙の為すがままにされている内に、かっと燃える様に体が熱くなる。
「どうだ、満足したか!?」
「はぁ……はぁ……はぁ……。」
「これで終わりなんて事はないよなぁ!?」
「……。」
引き抜かれる痛み。
その瞬間、男の動きが止まった。
心に響くのは驚き。……そんなに意外なのだろうか?
「血……お前……まさか……。」
「……。」
男の想像する一単語に涙を止めぬまま肯く。
その仕草に一瞬罪悪感が浮かんだ様子だったが、次の瞬間には再び荒れ狂う心にかき消された。
「はっ、よかったなぁ、お前にとって今日は記念日なんだな!!」
「……。」
ぐい、と頭を掴まれ、無理矢理に持ち上げさせられると口を無理矢理開かせられ、今度は顎に激痛が走る。
「間違っても噛むんじゃないぜ!?」
「むぐっ……。」
男としては涙は流すものの、手を自由にした割には反抗しない私が不思議であると同時に苛つくのだろう。この後の行為はますます私を痛めつける物になっていった。
「……くぅっ!」
「はあぁっ! ……はぁ……はぁ……はぁ……。」
一体何度目の行為が過ぎた辺りだろうか、何時からか、男と私はただ正直に体を重ね合わせるだけになっていた。男は私に罵詈雑言を浴びせる事も無くなったし、私は変わらずに受け入れ続けた。
「……なあ。」
「……はい。」
「……名前……エディフェルで……合ってるよな?」
「……。」
この男、私が誰か確信も持てずに私を抱いていたらしい。
思わず苦笑が漏れる。
「……笑うなよ。」
「……ごめんなさい。でも合ってます。私はエルクゥの皇家第三皇女エディフェル。」
「そうか。エルクゥ……。」
「はい。古い言葉で「人」と言う意味です。」
一つになったまま男の胸に頭を置く私の髪を、男の無骨な手が梳く。
「……俺の名、以前言っても無いのに知ってたよな?」
「……はい。」
「……なんでだ?」
「……。」
「……そうか。」
「はい。次郎衛門。」
男――次郎衛門――は私が考えた事を正確に読み取ったようだ。
次郎衛門の心に私の想いが流れ込み、私の心に次郎衛門の想いが流れ込む。
それは共に同じ。
同じ想い。
そう、同じだったのだ。
私の杞憂は無駄な物であり、次郎衛門の願いは果たされた。
「……そんなに俺が気になったのか?」
「……はい。でも……。」
「……。」
あなただって私が誰なのか、もっと知りたかったのでしょう?
「……うっ。」
「ふふっ。」
「ああそうだよ。……エディフェルがどんな所から来て、どんな事が好きで、どんな物を見てきたのか、すごく知りたかった。」
次郎衛門の言葉に一つ一つ答え、その喜びを受け取る。
そして喜びを受けた心は再び次郎衛門に戻り、次郎衛門の心に更なる喜びが満ちる。
……なあエディフェル。
……なんですか?
……ヨークに戻るつもりなのか?
……はい。
……どうしてもか?
……私はエルクゥ。殺戮の一族です。
……もう俺もそうだよ。
……そうですね。でもあなたがヨークに来る必要はありませんよ。
……そうはいかない。
……?
……俺はもうエディフェルと離れたくない。
……私もです。
……じゃあ決まりだな。
……でも……
……皇族の重荷ってやつか?
……はい。
……そんなもん、捨てちまえよ。
……私に人として生きろ、と?
……ああ。そうすればずっとエディフェルと一緒にいれる。
……はい。
……夫婦になれる。
……はい。
……だから……
……ふふっ
……?
……愛してます、次郎衛門。
……ああ、俺もだ。エディフェル。
同日夜:雨月山
「……この反応は……。」
ヨークと接続していたリネットは、微かな魔力がヨークの隠蔽されている洞窟の入り口に存在している事に気付いた。
現在その場所に同族がいる可能性は少ない。それにこの反応は……
「姉様!?」
一週間前に行方知れずになった姉の反応ではないか。
それに寄り添うようにしてもう一つ、姉によく似た反応があるが……。
(ヨーク、洞窟入り口の映像を出して!)
程なくしてその映像はリネットの心に送られてくる。
しかし先ほど魔力反応の有った位置に人影は無く、ひとつの白い塊があるだけだった。
(あの白いのはなに?)
リネットの心のままに画面は拡大され、次の瞬間。
(そんな……姉様!!)
リネットは希望が絶望に変わった事を確信した。
白い塊。
それは
紛れも無い
エディフェルの衣だった。
そして衣に描かれた赤黒い文字。
「申し訳有りません」
その日から、エディフェルがヨークに戻る事は無かった。