盟約暦589年:ヨーク船内

 闇に閉ざされた一室。
瞳を開ける必要があるかどうかも怪しい虚無が包み込む部屋の中で一人の少女が跪き、頭を垂れていた。

「……。」

 その夜、エディフェルの願いは果たされ、ヨークの外部口は閉じられた。
外部の存在を感知、自動攻撃システムも正常に作動している。
最も、皇族であるエディフェルがその対象となることはありえない事だった。
 だからこそ、彼女は平然と外へ赴く事が出来たとも言える。

(姉さまは何処に行かれたのだろう?)

 リネットの無邪気な好奇心はヨークに伝わり、彼女が気付く時には既に外にいる姉の姿を捉えていた。

(見つけた。あそこは……明日攻める人間の集落!?)

 何故? 何故姉が人間の集落に?
 ダリエリの手を煩わせない為? まさか姉に限って偵察と言う事は無いだろう。冷静な反面好戦的な性格の姉がそのような事をする筈も無い。
 それに姉の様子はどうだ? まるで途方にくれた様に河原に立ち尽くしている。

(一体何を……あ!!)

 人間。人間の男だ。表情を変える事無く姉が振り向き、男と目を合わせる。

(あの人間……死んでしまう……。)

 だが姉は一歩も動かない。
 たが男を見つめ、男の言う事に耳を傾けるだけだ。

(何故? 姉さまはあの人間に会う為に?)

 それこそ有り得ない話だった。まさか姉に限って何の為に?

(……あんな顔をする姉さま、始めて見た……)

 物心ついた時から姉を見続けているリネットだが、そのリネットでさえ赤面し、狼狽する姉を見るのは初めてだった。そして微かに怒ったような表情で涙する姿も。

(姉さまが……泣いてる?)

 だが男が何か言うと、合わせるように涙を流したまま笑顔に変わる。その笑顔はリネットにも終ぞ向けられた事のない、甘く優しい笑顔だった。

(姉さまは……あの男に会いに?)

 姉は用が済んだのか、一瞬にして跳躍すると一気にヨークの方に戻ってくる。

(……)

 空高く跳躍する姉に月の光が差し込み、姉の顔を照らす。
 それを見た瞬間、リネットの胸がずきりと痛んだ。
それはリネットが始めてみる表情だったから。
それはまだ彼女の知らない笑顔だったから。





魔法戦国群星伝

外伝:鬼の一族




  翌日早朝:隆山

 その朝は盆地に位置する隆山には珍しく、霧を伴わない物だった。
空に雲は殆ど無いものの、冷たく、かすかに湿った風が雨の到来を予報する。

「いやな天気だ……こりゃ一雨来るな。」

 同時に雨にまぎれての攻撃も有り得る事をそれとなく危惧する事もある。
未だ覚醒しきらない頭を振って現実に戻ると、皆に団長と慕われるその男はゆっくりと歩き出した。

 隆山は傭兵達の到着と同時に急造の砦と化していた。
破壊された塀は新たに修復され、今まであった空掘を挟むようにして第二の塀が完成した。
内部では倒壊した家屋の廃材を利用した物見櫓がいくつも築かれ、即席の大型投石器も作られた。
さらには数名が外に出ていくつもの落とし穴を作り、奇襲対策の縄を仕掛けた。
例え相手が鬼であろうと山賊であろうと容赦はせずに全力を持って相手をする。
そういった意味で彼等は生粋の戦争屋であった。

 そして太陽が中天に昇る頃。




  同日昼:隆山

 カララン……

「ん?……!!」

 紐に備え付けられた複数の木の棒が揺れ、微かな音を立てる。
この紐の先は……雨月山からか!?
瞬時に彼は物見櫓を見上げた。

 見上げた空は灰色の雲。

「物見! 雨月山の方角に反応!!」

 今にも雨が降りそうな湿った空気の中、物見櫓に動きが来る。

「来たぞ! 数は十数体!!」

 物見櫓から降り注ぐ声。同時に鳴り響く笛の音。

「来たぞ! 方角は雨月山! 魔法及び弓を使える奴は東側だ!!」

 一瞬にして砦が殺気立つ。


 ダリエリは己の内にある確信に歓喜していた。

(あの集落にいる奴らは今までの奴らとは違う!)

 遮蔽物となる森を出た時点で俄かに動きを見せ始めた砦を見やり、その口からは無意識の内に笑みが漏れていた。

「行くぞ!!」

 手加減など必要無い。全力で叩き潰す!!
初速から力を全開、一瞬にして最高速まで加速する。
 今回の手駒である二十人の男達も同様に加速する。
皆も同じ考えらしく、その口にはまぎれも無い笑みが漏れている。

 その時、目の前の砦から飛来する物が有った。


「投石準備! 長弓を持つものは順次打て!」

 団長の指示により、ぎりぎりと大型の投石器が巻かれる。その受け皿には一抱えもある巨大な岩。

「……くそっ、なんだあの速さは!? 馬でもあんな速度は出ねえぞ!?」
「恐れるな! まだ距離がある! 投石器!!」

「準備完了、方角良し!」
「撃てぇ!」

 ギリ……ブンッ!!

 大きく弓なりに反った柄が一瞬にして戻り、巨大な岩が打ち出される。
同時に十数本の矢が弧を描いた。


「……フン!!」

 ゴッ!!

 空気を切り裂いて突撃してくる岩を左腕の一閃で破壊、同時に飛来する矢も返す刀で弾き飛ばす。

「くくくっっ、小賢しい真似をする!」

 それは仲間も同様だった。彼らの優れた瞳は飛来する矢を捕らえ、音速を超えかねない速度で振るわれた腕は鋼鉄の強度で矢を弾く。勢いの失われた長弓の矢など、これで充分だった。

「速度を緩める必要は無い!……ん!?」

 瞬間、足元から地面が消えた。


 ズッ……

「掛かったぞ! 魔法及び符術! 弩も撃て!!」

 幾つも掘られた落とし穴に次々とかかる鬼達。そしてその距離はちょうど魔法や符術の射程距離内だった。

「閻魔の炎纏いて舞い踊らん……。」

「吹き上がりしは鼬の牙!」

「雷牙備えしは鵺の瞳……。」

「破魔の光、宿りて貫かん……。」

 動きを止めた鬼達に次々と魔導術や符法術が放たれる。
それは爆炎を伴う雷であり、疾風を従えし鎌であり、閃光と灼熱を齎す光の矢であった。

「ほーら、食らいなさい! 南斗の十字、東(トウ)の光よ! わが符宿りて舞踊りし竜と成れ!」

 弩を構えた次郎衛門の隣で大仰な動作と共に符を翳す桂子。袖に一瞬手が隠れたかと思うと、次の瞬間には符を伴って現れる。

「……毎回思うんだがな!」

「……四方司るは猛る水! 砕け! 爆ぜよ! 青竜の息吹!!……なに!?」

 魔術や符術による爆音に負けじと発した次郎衛門の叫びに合わせる様に、桂子が手にした符より濁流が現れ、一匹の竜となって太矢を追う。

「その大仰な動作は無くても良いんじゃないのか!?」

「……大地に隠れは小さき指! 集え! 群よ! 蟲群!!……いいじゃない、気合よ気合!!」

 再び引き出された符より放たれる光。
光は細かく収束、次の瞬間には無数の羽虫となり、空気すら食い荒らす悪食の権化と化した。

 魔導術も符法術も見た目通りに音が大きい。
敵への威嚇も含まれるのだろうが、慣れない人間には例え味方の呪文であったとしても恐怖を誘う。
 だからこそも有るのだろう。
恐怖を振り払うかのごとく発せられた次郎衛門の声は必要以上に大きく、広く響き渡った。


「ふん、小賢しい真似を!」

 膝までの落とし穴に仕掛けられていた槍を引き抜くと、ダリエリは傷をものともせずに走り出した。
落とし穴は確かに足止めの効果を発揮したと言えるだろう。だがわが一族の再生能力を持ってすれば落とし穴に仕込まれた槍も、この飛来する魔法も大した威力にはならぬ。

「……だが数が多い。」

 僅かな威力でも数が多すぎる。一発で足止めが出来ずとも、纏めて飛来すればその衝撃は莫迦に出来ない。
 周りを見渡せば部下達も同様のようだ。落とし穴にかかり、僅かにバランスを崩した瞬間に十発単位の魔法と矢が打ち込まれ、僅かな斜陽は倒壊へと変貌する。もっとも、一族の卓越した肉体が傷を負う事は殆ど無かったが。

 後退する事は無かったが、その速度は目に見えて減少を始めた。


「なんて言うかなぁ……おいおい。」

「……牙(アギト)振るいて……って冗談でしょう?」

 煙に包まれる中、絶望的な数の矢と魔術をものともせずに半数以上の鬼が罠地帯を突破した。

「くそったれ!!」

「まさか本当に鬼だって言うの!? ……四行導くは央なる麟! その怒れる心宿りし殲滅の双角をここに! 食らえ! 滅せよ! 破魔の聖角!!」

 充分な殺傷距離内での太矢を追うように放たれる二条の光条。
それは太矢に一瞬ひるんだ鬼の頭を確かに吹き飛ばした。

「やりぃ!! ってあら?」

「くそっ、こいつら半端じゃなく硬えぞ!!」

 爆煙に包まれる鬼にガッツポーズの作る桂子。だがそれも一瞬にして崩れる。
 確かに効きはしたようだ。だがそこに有るのは頭部を吹き飛ばした鬼の亡骸ではなく、僅かに顔を焼け爛らせた怒りの形相であった。

「ちっ、とっとと死ねよ!」

 バシュッ……ズシャッ!!

「オオオオオオオオオォォォォォォッ!!」

 狙い過たず、罵倒と共に打ち出された太矢は鬼の瞳に突き刺さる。
流石の鬼もこれには絶えられずに地面に倒れた。
体中を震わし、地面を転げ回るものの、これでもまだ死には至らないらしい。

「あぶねえあぶねえ……。」

「ちょっと、これって本当に化け物なの!?」

「知るかよっ!」

 吐き捨てるように叫ぶ声に合わせる様に、素早く再装填した弩から再び太矢が打ち出される。

「おい、死にたくなかったらとっとと敵を抑えやがれ!!」

「え、ええ……そうよね、うん。……吉兆司りは運命の腕(かいな)、凶告げしは黒翼の凶鳥、告げよ! 齎せ! 死の運び手!!」

 例え相手が不死身の鬼であろうとも、やる事に変わりは無い。
死なないのなら、動けなくなるまで攻撃するだけだ。
 黒髪を一振り、現実に帰った意識は素早く次の詠唱式を紡ぎ出す。
手より放たれた三本足の鴉が敵を貫く様を見やりつつ、相手は決して不死身等ではないと自分に言い聞かせる。

「そう、やっぱそうやってる方がお前らしいぜ……ん?」

「ちょっと、それどういう意味!? って何処行くの!?」

 突然弩を持ったまま走り出す次郎衛門。まだ塀を突破されてはいないとは言え、目の前の鬼達はまだまだ残っているこの状況で背を向けるのは敵前逃亡に等しい。
 少なくとも桂子の知っている次郎衛門は敵前逃亡をするような臆病者である筈は無かったのだが……。

「くそっ、第二波か!? お前は団長に知らせてくれ!!」

「ちょ、ちょっと!?」

 塀に備え付けられた足場から飛び降り、一気に町の反対側に駆け出す次郎衛門。
桂子が振り向くと、確かに町の北側から煙が上がっていた。




  同刻:隆山北側

「……皆殺しにしなさい。」

 結果としてダリエリは陽動を行った事になるのだろう。敵に発見される事無く町に侵入したエディフェルは手早く配下の二十人を散らせた。一族の性を考えると、適当に散れしておいて好き勝手に暴れさせる方が戦術的には効率が良い。

「……。」

 この感覚はなんなのだろう?
昨日再び会う事が出来たあの男を捜しているとでも言うのか?
馬鹿馬鹿しい。

 自分が無意識の内に気配を消して駆け出している事に自嘲しつつ、エディフェルは周囲を見渡した。
もう周囲に彼女の配下は誰もいない。恐らく皆前線に向かったのだろう。この位置からであれば容易く背後を取れる。私がつく頃にはあの男も死んで――

「!!――ッッ!」

 瞬間、ズキンと胸が痛んだ。
 この地に降り立ってから二度目の感覚。

(くっ……やはりあの男は私を惑わす! あの男だけは私自身が手を下す!!)

 その瞬間、彼女は明確に自分の獲物を定めた。


  同刻:隆山

「……くそっ。側面から撹乱なんて手の込んだ事しやがって!!」

 次郎衛門の発見が功を奏したのか、弓や魔導に頼らない生粋の戦士達がいち早く奇襲部隊の対応に当る。

「グオオオオォォォッッ!!」

 ヴンッ!!

「おおっ!?」

 ザッ

 ドスゥッ!!

「あ、あぶね〜。」

 突如路地裏から建物をブチ破って現れた一体の鬼。叫び声と共に振るわれたその右腕の一撃を、次郎衛門は横方向に飛び退り、危うい所で回避した。

「ちっ、それにしてもこう間近で見ると本当に鬼だな!!」

 バシュッ!! ドスゥッ!!

 咄嗟に右手に収まっていた弩から太矢が放たれ、寸分違わずに鬼の胸板に命中する。

「グオオオオ……。」

 ズズズズズ……

「おいおい……冗談だろ?」

 体全体を震わすような声と共に、半ばまで突き刺さった太矢が抜けていく。
筋肉が押し出しているのだ。数秒後には乾いた音と共に地面に落下する。

「オォォォォォォォォォォッッッッッ!!」

「クッ……。」

 まるで意識まで吹き飛ばされそうになる鬼の咆哮。だが辛うじて次郎衛門は耐え、その場に留まる。

「やる気満々って感じだなぁ、あぁ!?」

「グゥゥゥゥ……。」

 素早く抜き放った愛刀を構え、次の瞬間真上に跳躍した。

「危ねっ!」

 ドゴッッ!!!

 跳び箱の要領で突撃してきた鬼を飛び越し、着地の瞬間音を頼りに半回転、逆平に切り付ける。

「おらぁっ!」

 ギイイイイィィィン……

「グゥゥゥゥ……。」

 それは鬼が翳した手の甲で止まっていた。やや力の入りにくい逆平の斬撃とは言え当然全力である。だが鬼の手の甲で止まった刀はそれ以上動く気配を見せなかった。

「まじかよ……。」

 冷や汗が全身を満たす。
次郎衛門の本能が、改めて目の前の化け物に恐怖を覚えている。

「グオゥ!!」

 ヴンッッ!!

「くっ!」

 手の甲の一振りで危うく刀を飛ばされそうに成る所を辛うじて耐える。と、同時に再び大きく踏み出した鬼が今度は大上段に振りかぶった。

(兜割り!?)

 右腕を振り上げただけなのだが、そこから起こり得る軌道は間違い様も無く兜割りであろう。

「うおっっ!?」

 だっ

 ドゴンッ!!

 慌てて飛びのく一瞬後を凄まじい勢いで塞ぐ巨大な腕。
それは街路を直撃し、土を踏み固められた地面に大穴を作り出した。

「……あ、あぶねー。」

(直撃を食らったら死ぬな。それに刀で受け流す事も不可能か……)

 なにせ腕力の桁が違いすぎる。それに速度も。
 目標が避けた事に気付いた鬼が左腕をなぎ払うようにして再び踏み込む。
体勢を崩した次郎衛門に残された回避方法は地面を転がることだけだった。

「くそっ!」

 巨体にありがちな鈍重さを微塵も感じさせず、素早く右腕を突き出す一撃をハンドスプリングの要領で避し、同時に起き上がる。

(刀の常識が通用しない相手なんて聞いてねえぞ!?)

「グオオオオオッッッ!!」

 ヴンッ!!

 再び右腕。今度は突き出した右腕を返す刀で平薙ぎに変える。

「くっ。」

 反射的に垂直に跳び、体を丸める次郎衛門。
 そのまま空中で前方に一回転し、遠心力と体重を乗せた上段を叩き込んだ。

「おらぁっ!!」

バシュッ!! ……ドサッ

 まるで大木でも切っているような手応えと共に、鬼の振り切った右腕が半ばから切り落とされる。
後先を考えない一撃は確かに効果が有った。だが態勢が崩れたまま着地、鬼の目の前で体をよろけさせる。

(やばい!)

「グオオオオオオオオオオオッッッッッッッ!!」

ヴンッ

(くそっ、これで俺も終わりか……)

 腕を切り落とされた痛みか、それとも怒りか、振り回された左腕が次郎衛門の体に吸い込み、次の瞬間、次郎衛門の体は廃屋に突っ込む。
 辛うじて家としての外見を保っていた外壁が崩れる音を聞きながら、次郎衛門の意識は闇へと落ちていった。



  同刻:隆山

「……他愛も無いな。」

 町の北側から突撃した二十人によって、二千人いた傭兵団はその殆どが壊滅した。
側面攻撃に対応すべく戦力を二分せざるを得なかった傭兵団に対し、射撃攻撃が散漫になった瞬間を見逃さなかったダリエリ達は素早く加速、塀に陣取っていた射撃/魔導部隊を一瞬で壊滅させた。
 遠距離攻撃が圧倒的優位を保てる状況は見る見るうちに崩れ、戦士も魔導士も関係なく戦う乱戦に戦局が移行する。こうなれば一族の前に敵は無かった。例え百の軍勢が目の前に有ろうとも、敵が屠れる位置にいさえすれば互角以上に戦える種族である。人間達に勝ち目など微塵も無かった。

「……。」
 
 喧騒を離れて足音も無く歩いていると、まるで自分が別世界にいるような感覚を得る。
だが視線は自然とひとりの男を捜している自分に気付き、誰にでもなく苦笑する。

(どうせ既に死んでいるであろうに……なにをそんなに気にする?)

 だが足は止まる気配を見せず、視線は探す事を止めず、そして心もそれを止めなかった。
心が望む訳でもなく、その足は三度河原に向かっている。

(流石にこんな所にはいまいよ。他の所を探したほうがよほど効率的だ)

 案の定、河原には誰もいなかった。微かな音共に流れる清流は赤く濁り、まるで一枚の紅い布を見ているような錯覚さえ覚える。

ポッ……ポッ……ポッ……

「雨……。」

ポッ……ポッ……サァァァ……

 刺すかな音と共に降り始める霧雨。耳を澄まさなくては雨音すら聞き取り難い。
聞こえるのは水音と、時折響く同属の咆哮。それは歓喜に満ち溢れた狂気の咆哮。

「……。」

 目を伏せ、頭を振ると、彼女はゆっくりと河原を後にした。


サァァァァ……

ゴト……

「……?」

 不意に隣の廃屋から響く微かな音に足を止める。

(……まだ生きている者がいたのか?)

 廃屋に隠れているのだから間違いなく人間だろう。同時にそれは彼女の魂を高ぶらせるには程遠い存在であろうとも確信する。廃屋に隠れるような人間が強いはずも無かろう?

「……。」

 再び足音を忍ばせ、音も無く廃屋に侵入する。
足元にはかなりの数の瓦礫が積もっているが、彼女の鋭敏な感覚はそれらをことごとく避けていた。

ゴト……

 再び物音。
 余程慎重なのか、意識して耳を澄まさなくては聞き取れないほどの微かな音。

 そして廃屋に深く入り込んだ彼女が見たものは、一人の女と横たわる一人の男だった。

(あの男は――!)

 間違いない。煤に汚れ、瞳を閉じているが、間違いなく昨日出会ったあの男だ。

 だが逆に女の方は始めて見る顔だった。
ゆったりとした白地の衣を纏い、手には持っているのは恐らく符法術に用いられる呪符だろう。

「貴女は……?」
「……。」

 当然彼女を見るのは初めてだろう。
彼女の顔を見た人間は、目の前の男を除けば皆死んでいるのだから。

「傭兵団の一員……じゃないわね。」
「……。」

 男のほうに目をやれば、あちこちに傷が出来ていた。未だ塞がっていない傷にはありあわせの布で作ったであろう包帯が巻かれている。
 やはり人間は脆い。彼女であれば多少の怪我は一瞬で治る。

「……貴女は何者?」
「……。」

 彼女の心が流れ込んでくる。なかなか面白い事を考える女だ。死神? 幽霊? 違うな。
目の前の女の中には彼女が鬼の一員だと言う事は微塵も無いらしい。

 どの道彼女にとって目の前の女は興味の対象ではなかった。
彼女にとっての興味の対象は目の前の男だけだ。

すっ

「動かないで!」

 素早く呪符を構え、女が叱責する。
同時に流れ込んでくる新たな感情――

(次郎衛門だけは、命に代えても「私が」守る、だと――!?)

 瞬間、彼女――エディフェルの中で何かが弾けた。


 一歩。目の前の女の足であれば数歩の距離を私は一歩で縮め、右腕を振るった。

シュッ……ズッ……

 あまりに早い一撃に何が起こったのか理解できていなかったのだろう。目を見開いたまま、女の肩口から服が切り裂かれ、赤い線が走る。

「……? ……あ、ああ、あああああっっ!!」

 ようやく痛みが走ったらしい女の喉を掴み、一気に持ち上げた。

「あ、かはっ……。」
「……。」

 涙混じりの赤い液体が私の顔に掛かる。ふん、やはり脆いな。

「……お前は次郎衛門の何なのだ?」
「かはっ、あ、あ、あ……。」

 かつて無いほど冷たく鋭い言葉に恐怖する女。
だが、私の問いに答えた女の心は、ますます私の心を狂わせた。

ギリ……

「あ、ああああああ!!」

 その気になればこの女の首など簡単に握りつぶせる。だがそれをさせない何かが私の中に有った。

(そんな簡単に死ねると思うなよ?)

「弱弱しい人間の分際で、次郎衛門を守れる訳が無かろう?」
「あ、ああ、あああ!!」

 喉を押し潰さんぎりぎりの力で締め上げる。女の目が私と合った瞬間、女の顔色が目に見えて変わる。
どうやら女の中で私の正体が正解にたどり着いたようだ。

「……そうだよ。気付くのが遅かったな。」
「あ、ああああ……。」

 女の体にがたがたと震えが走り、捻り上げる私の手を掴む手からも力が抜ける。

「ふふふ……なにを恐れている? 次郎衛門は命に代えても「私が」守るんだろう?」
「ああ……。」

 女の心より流れ出る恐怖が心地良く私の体を満たしていく。別段恐怖を与える事に興味は無いのだが、目の前の女だけは話が別だった。

「……お前では無理だよ。お前如きがいくら命を張ろうとも、次郎衛門を守る事なんて出来はしない!」
「あ、あぐっぅ!」

 なんだろう、まるで熱に浮かされているようだ。必要も無いのに、如何にこの女に恐怖を与える事が出来るか考えている自分がいる。さて、どうすれば……

「……う、うう……。」
「あ……!!」

 僅かなうめき声に反応して、女の瞳が足元に動く。
 あの男かが気付いたのか?

「う、ここは……そう言えば!!」
「……。」

 慌てて起き上がる次郎衛門を熱い瞳で見つめる私がいる。
……なぜだ? なぜこの男を見ると心が安らぐ?

「あ、ああ……。」
「あ、あんたは……てめえ! 桂子を!!」

 状況に気付き、素早く腰の刀を引き抜く男。
……よかった。この男にとって桂子と言うこの女はただの傭兵仲間らしい。

 どうやら迂闊に刀を振るえば女に当たりかねない事が判る程には冷静なようだ。

「てめえ……けい」
「断る。」

 男の言わんとしている事が瞬時に理解できたので素早く塞ぐ。この忌々しい女の名が男の口から出るだけでも許せない!

ドゴォッ!!

「グウウウゥゥゥゥ……。」
「……ダリエリか。」

 恐らく私の力を感じ取ったのだろう。廃屋の壁を突き破り、一族の男達を統率する男が目の前にいた。

「く、くそっ。」
「グウウウゥゥゥゥ……。」

 男は素早くダリエリに剣を向けなおす。片腕が塞がっている私よりもダリエリの方が危険と判断したようだ。

「ダリエリ。」
「……は。」

 戦闘状態から抜け出した長に声を掛ける。どうやらまだ不完全燃焼らしい。両腕を真紅に染めた割に、その表情は晴れ渡っていない。
……そうだ。これがいい。これならば女を殺す事無く絶望させられる。

ふっ

「桂子!!」

 腕一本で放り投げた女はダリエリの腕の中におさまった。

「……くれてやる。ただしすぐには殺すな。」
「……!!」
「殺すな……ですか?」
「女が死にたくなるまでは殺すな。死にたいと懇願すれば死ぬ気も失うまでいたぶれ。」
「……。」
「女が壊れたら……あとは好きにするがいい。」
「……!!」
「……は。」

「てめえ! 桂子を」

シュッ……

 一振り。
 一振りで男の両膝を砕く。まだ動くな。

 今動いたら間違いなく死ぬのだから。

「かはっ……。」
「この男は私がやる。……行け。」
「は……。」

 これで邪魔者は消えた。……あとはこの男を……

……

 どうするのだ?

「……ぐぅっ……お前も鬼の一味だったんだな。」
「……。」
「……。」
「……。」

 なぜか男の心は晴れ晴れとしていた。何故だ? これから死ぬ運命を知りながら、なぜ笑う?

「……はっ、まさか鬼の女だったとはなあ……。」
「……。」

 男の口に出さない言葉に打ちのめされる。
 そんな……

 何故?
 なぜそれを喜ぶ私がいる!? 私は一体……どうなってしまったのだ?

「……まあ鬼の女でも、可愛いから良いか……。」
「……。」

 可愛い……。私がか? 可愛い? 私が?
この心を満たす暖かい……これはなんなのだ?

「さあ殺れよ……鬼なんだから、訳ないだろう?」
「……。」

 放っておいてもこの男は死ぬ。傷口から化膿し、失血と疲労ですぐに意識を失い死ぬだろう。
……なのに何故この男は私に殺される事を望む?

「……。」
「……。」

 もう男から声が出る事は無い。意識を失ったのだ。
男の言う通り私の手で殺し、「輝き」を得ようか……?

(ダメ)

 それともこのまま壊れ行く器を眺めているのも良いかもしれない。

(ダメよ)

 それとも……

(そう)

 この男を生かす方法はある。

(そう!)

 だが……生かしてどうする?

(生かすの!)

 それは……私には判らない。

(それでも生かすのよ!)

 全く、何時もの私はどこに行ったのだろう……。

 苦笑を交えながら私は自分の掌を一噛み、次の瞬間には引きちぎり、出来た肉片を男に埋め込む。同時に流れ出る血を男の口にあて、掌には爪を立てて再生が始まらないようにする。

 日中に降り始めた雨が視界を隠す中、意気揚揚と帰還する一族から隠れるように、私は一人別方向に歩き出した。

 その手に一人の男を抱えて。



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