盟約暦589年:ヨーク船内
「……。」
「ヨークを中心として半径10km内に存在する集落はこれであらかた片付いたようですね。」
「まったく、歯ごたえの無い連中ばかりだよ。武器を持って戦う奴なんていったら一桁もいないし。」
「……。」
「まあ仕方の無い事でしょう。人間と言うのは私達に比べれば儚き命の輝きしか宿していませんから。」
「ダリエリだってもっと強い奴と戦いたいだろう?」
「は……。」
「……。」
「……エディフェル姉さま?」
「……。」
「エディフェル?」
「……?」
声も無く我に帰るエディフェル。どうやらまた考え込んでいたようだ。
「エディフェル、どうしたの?」
「い、いえ……すこし考え事をしていたもので。」
「……大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。」
心配そうに覗き込むリネットに対して多少ぎこちない笑みを返す。
他の姉妹から見ればそれは不自然な笑みに見えただろう。
彼女が――冷酷無比で知られるエディフェルが――殺戮の歓喜以外で笑みを浮かべる事など、滅多に無いのだから。
だがリズエルやアズエルはそんな妹の変わり様を然程気にしない性質だし、リネットはリネットで姉の笑顔を見れた事による安堵感で気にも止めなかった。ましてや同席している唯一の男――ダリエリ――は跪き、彼女に視線を向ける事など無かった。
仮にもここは公式な場である。臣下であるダリエリにしてみれば、従うべき者の顔を見つめるなど無礼に値する他にならないのだ。
「そう、では本題に入ります。」
「……はい。」
ともすれば再び思考の奥底に潜り込みそうな自分を叱咤し、リズエルの瞳を受け止めるエディフェル。だが彼女にとってこれから語られる事は、既に知っている事だ。
「西の川沿いにある大規模集落に、約二千からなる武装集団が進入しました。」
「……へぇ。」
「……。」
やっぱり、と口には出さずに嘆息するエディフェル。そしてここから語られる事も予想済みだ。
因みにリネットは殆ど口を開いていない。大人しい彼女の性格もそうだが、肉体的能力を重視する一族において彼女の序列は最下位にも等しいのだ。皇族でなければ悲惨な運命が待っている事は確実である。
「二千とは言え人間の集団。問題は無いでしょう。」
「別にその十倍の戦力が来たって平気だね。」
「……。」
淡々と確認事項を読み上げるリズエルに答えるアズエルの台詞はいっそ傲慢とも取れるが、彼女の実力を持ってすれば当然とも言えた。
この地にたどり着いてから、彼女を含め、皇族の四姉妹は一度も全力を出していない。そもそも外に出て殺戮を行わないリネットはともかく、アズエルやエディフェルは普段の三割程、リズエルに至っては恐らく二割以下だろう。無抵抗の住民に対して無駄に力を振るうほど彼女達は血に飢えてはいなかった。
「ではダリエリ。」
「はっ。」
「あなたであれば何人で全滅させられるかしら?」
「……二十人程かと。」
「……そう。では二十人。あなたの自由にお使いなさい。」
「……はっ。では失礼いたします。」
二十人。二千の兵力に対して百分の一の戦力で勝てると言い切るダリエリ。
確かに一族の力を持ってすればその程度で勝てるだろう。
「でも今までとは違う明確な戦闘集団だよ?」
「……そうね。」
「……。」
「ダリエリの事だから絶対に正面突撃だろうな。」
「……なら負けは確実ね。」
「……そうですね。」
冷酷に言い放つリズエル。
彼女は人間を決して甘く見てはいない。魔術や武器、飛び道具を駆使した人間の戦術能力はある意味で一族のスタンスとは正反対とも言える。肉体能力は高くとも、魔術による遠距離攻撃手段をもたない一族を相手にするなど、人間たちのとっては腕の見せ所とも言えるだろう。
「……ではエディフェルかアズエル、側面からの撹乱をしなさい。」
「エディフェル、やるかい?」
「……アズエル姉さまはよろしいのですか?」
「ああ、二千程度の戦力を相手にしても詰まらないだろうしね。」
「……判りました。では私も兵力として二十程使わせていただきます。」
「ええ。」
彼女の戦力もまた、二十。
だが今度の戦力はただの二十ではない。的確な作戦の元に優れた指揮官が存在する二十。
エディフェル個人としては一人でも充分なのだが、万に一つの可能性を憂慮しての事だった。
「……それでは準備がありますので、失礼いたします。」
「……ええ。」
「わ、私も失礼いたします。」
「……。」
ここにいる必要は無いとばかりに去っていくエディフェルを慌てて追いかけるリネット。彼女にしてみれば、恐怖の対象ともなりえる上の姉二人といるよりも、多少の無礼を働いてもエディフェルと共にいたかった。この姉だけが自分を理解してくれているのは紛れも無い確信なのだ。
同刻:ヨーク船内/通路
「……あれ? エディフェル姉さま?」
しかし部屋を出た所で、彼女は早くも目的を見失ってしまった。姉の行動の速さは知っているつもりだが、自分は決して出遅れたつもりは無い。
(何か走らねばならぬような事態でも起こったのでしょうか?)
彼女の中に不安の色が広がる。
この広いヨークにおいて、彼女はヨークの構造全てを知っている。ヨークを操る事の出来る皇族なら当たり前の事だ。彼女の記憶は瞬時に詳細なヨークの地図を描き出した。
(この通路にいないという事は…)
今いる所は、ヨークの基竜骨に沿って作られている主要通路だ。ここを使わずに移動するとなると、下部通路か上部通路を使うしかない。
(ヨークの形状は一般的な船というよりもむしろ宇宙船に近い形状をしており、竜骨は直線状である。因みに一般的な船の竜骨は船底に添っており、曲線状である)
(どちらでしょうか……あれ? あの声は……?)
どうやら彼女の思考は必要無かったらしい。
主要通路の影、上部通路に移行する連絡通路から微かに聞こえる姉の声。
「姉さ……!?」
「では出撃を遅らせろ、と言う事ですか?」
「ええ。」
共に聞こえてきた声の主はダリエリだった。一族の男を率いる獰猛な男。この男が自分をどう見ているのか知らぬほどリネットも子供ではなかった。
自然と歩みから音が消え、物陰に隠れる。……ここであれば見つかる心配も無いだろう。
「……明日の明朝まで遅らせる……構いませんが……。」
「しばらく後にヨークの外部口がメンテナンスの為に閉じられます。それは明日の早朝まで開く事はありません。」
「……その前に外に出た我々は……。」
「一瞬とは言え航行システムも動く為、迂闊に近づけば敵とみなされ、攻撃対象に認知されます。」
「……承知いたしました。」
姉は何を言っているのだろう?
ヨークの事は自分が一番良く知っている。今夜ヨークがそのようなシステム稼動をする予定は無い。何時もの自動修復機構が損傷した座標交換誘導機構の修復を行うだけだ。
何故……?
「では出立は明日にいたします。」
「……。」
「それでは失礼いたします。」
どうやらダリエリは去ったようだ。それにしても姉は何故あのような嘘を? 何故……?
考え込んだリネットに、何時の間にやら接近したエディフェルを気づけというのは無理な話だった。
「……リネット?」
「!!」
一体何ヶ月ぶりだろう、この姉を恐ろしいと思ったのは。戦場より帰還した直後の紅く染まった姿を見て以来だろうか。あの時は何時もの白い衣装が紅く染まり、血のこびり付いた髪より覗く瞳は冷たかった。それなのに、その表情は喜びを隠せずにいたあの表情。自分まで殺されるのでは、とその夜はなかなか眠れなかった。
その姉が目の前にいる。
相変わらず表情に乏しいが、その瞳にはまぎれも無い驚きの表情がある。同時に僅かな怒りも。
「あ、ああ、あ……。」
「……。」
身長差を考えてなのか、リネットと話し掛ける時エディフェルはいつも前屈みになっていた。目線の高さを合わせる事で、リネットが安心するのを知っているからの行動であろうが、今はそれすらも無く、氷のような瞳で自分を見下している。
「……見ていたの?」
「……。」
声に出さなくてもこの姉には判るだろう。姉の生まれ持った不可視の力は的確に自分の意思を伝える筈だ。一番上の姉のように自分の心にまで嘘がつけない限りは。
「……そう。」
「……。」
事実、エディフェルには伝わっていた。盗み聞きしてしまった事に対する明確な恐怖と謝罪、悔恨が痛いほどに伝わってくる。最もこの妹が考えているように自分が怒る事はないし、むしろこっちが怒られるべきなのだ。
「リネット……。」
「……。」
「とりあえず部屋に戻りましょう。ここは目立ちます。」
「……。」
返事は無いものの、妹から承諾の返事が伝わってくる。
それを感じ取ればエディフェルは安心だった。この妹は決して嘘をつくような娘では無いと、彼女は誰よりも知っているのだから。
「……あの話を聞いているなら話は早いわ。」
「……。」
皇族のみが持つ事を許される私室。ここであれば耳を欹てる者はいないだろう。
必要最低限の物しか置かれていないエディフェルらしい質素な部屋。
「リネット。これはお願いなの。」
「お願い……ですか?」
この姉にしては珍しく切羽詰った様子。それでもよく知らない人間が見れば相変わらずの無表情だろう。長い間この物静かな姉を見続けてきたリネットのみが判る微かな機微。
「……そう。命令じゃない。この様な事を命令してもリズエル姉様に止められるだけ。」
「……。」
つまりは内密な事――それも二人だけの――と言う事だ。リズエルやアズエルにも知られてはならない秘密。
「……。」
「……。」
沈黙が場を支配する。
リネットにしてみれば不可解な事だらけだ。何故姉は今夜出撃する部隊を足止めしようとするのか、そしてそれを秘密にしたがるのか。姉の力と皇族としての立場を利用すれば簡単ではないか。
「……疑問に思うのは当然でしょう。でも……。」
「……。」
姉との会話はいつもこんな感じだ。喋るのは姉だけ。リネットは自分の考えを巡らせるだけでよい。エディフェルも立ち入ってほしくない事は聞かぬ振りをして話題には出さない。
「……自分でも判らないのです。困った事に。」
「判らない……のですか?」
ふふ、と自嘲するエディフェル。
その瞳は何時もの冷酷な輝きを失い、混乱する自分の心に怯える自分にそっくりだった。
「ええ。何故このような行動を取るのか。……昨日の満月のせいかもしれません。」
「そういえば……。」
昨日、姉は一人で外に出歩いていた。
故郷とは違い、澄み切った空はいつも満天の星を見せてくれる。きっと姉はそれが珍しく、嬉しいのだろう。天気の良い夜は決まって外に出ていた。
「……でも、そうでないのかもしれません。」
「……。」
姉の言う事はあまりにも大雑把過ぎる。何時もなら自分の聞きたい事を理解して、必要な事だけを教えてくれるのだが、今は逆に何を聞こうともまともな返事が返ってくる様子は無い。
「……そうでした。話が逸れましたね。」
「……。」
もし、この場で私がNOと言ったらどうするのだろう?
私を締め上げ、無理矢理にでも外部口を閉じさせるのだろうか?
「違いますよ。」
「……。」
困った事に、しっかりと姉は考えを読み取ったようだ。姉に対する本能的な恐怖を表に出してしまい、反射的に身を竦めてしまうリネット。
一族の一員である以上、弱みを見せた時点で負けは決まり、あとは勝者のなすがままにされてしまう。
「大丈夫です。私はあなたを傷つけるような事はしません。」
「……申し訳ありません。」
「……もし、あなたが「NO」と言ったら……。」
「……。」
姉の顔に再び浮かぶ自嘲的な笑い。
そんなに自分の取ろうとしている事が馬鹿げているのだろうか?
「私がヨークとの接続を試みるかもしれません。」
「!!」
今ヨークは座標交換誘導機構が接続され、極めて制御が難しくなっている。事実上操れるのはリネットのみと言えるだろう。そんな状態のヨークに魔法知識皆無の姉が接続しようものなら……。
「ヨークは暴走、私は魔力の奔流に耐え切れずに死ぬかもしれません。」
「……。」
正解。姉の出す答えと同じ答えを同時にリネットも出していた。
何故姉はここまで今晩にこだわるのだろう? 明日では駄目なのだろうか?
「恐らく駄目なのでしょう……。恐らく今晩で無くては……。」
「今晩でなくては……?」
「……答えが得られない。」
「……?」
まるで迷路に入ったかのようだ。リネットは無意識の内に苦笑していた。まるで出口の見えない迷路。迷うのは姉。そしてそれについて行く私。
「……判りました。リズエル姉さまとアズエル姉さまには私から言っておきます。……勿論本当の事は言いません。」
「リネット……ありがとう。」
小さな部屋の中で、不器用な姉妹が抱き合った。
同日夜:隆山郊外
太陽は稜線に姿を隠し、闇の帳が空を包む。
虫達の奏でる旋律をリズムに、星達が静かに瞬く。
雲ひとつ無い空には満天の星々と僅かに欠けた月。
金色の光に包まれ、私はゆったりと歩を進める。
どうやらあの集落を簡易の砦に変えるつもりの様だ。あちこちに土嚢が積まれ、新たに塀が作られている。
正面から入るのは不可能だろう。私が会いたいのは一人であって、他の人間に用は無い。
一族特有の鋭い視覚で急造の砦を眺め、入る隙間が無い事を確認する。
……この程度は予想できたが……
この集落に入り込んだ人間達は予想以上に戦上手なようだ。正面突撃しか考えていないダリエリだけでは負ける事だろう。移動を妨げる様々なトラップがあちこちに隠されている。
だが。
改めて物陰に隠れ、月の位置を確認する。
よし、月を背にする事は無い。目標の場所は……あそこだ。
幸いな事に風は殆ど無い。
僅かに力を解放、同時に辺りから虫の音が途絶える。
誇り高き殺戮の一族の皇族が、一体なにをこんなにこそこそと……
苦笑しつつ、身を屈め……
私は一気に跳躍した。
……
……
……
すたんっ
僅かに来る足の痺れと共に、私は河原に舞い降りた。
今履いている足音を隠す特性の靴や、毎日欠かさぬ修練が実を結び、殆ど音も無く着地する。
昨日星を眺めている内にたどり着いた河原。
そこで出会った一人の人間。
私はそこで一言も喋らなかった。
話す必要性はないと感じたし、男が構えた所で無駄と体勢を取らなかった。
だが……。
なぜ私はまたここにいるのだろう?
ここで私は男がまた来るのを待っているのだろうか?
莫迦らしい。
来るかどうかも判らない男を待つ為に、わざわざ敵陣深くに忍び込むとは、正しく愚の骨頂だ。
今すぐ力を全開にしてこの集落を塵と変えてやろうか。そんな短絡的な逃げ道すら浮かぶ。
……一体私はどうしたのだろう。
こんなに自分の内面に潜り込むなんて初めてだ。
まさかまた人の接近に気付かないなんて。
「……。」
「……よお、また会ったな。」
「……。」
「……。」
男。
昨日出会った男だ。
同じ夜、同じ場所、同じ雰囲気。
また男は帯刀していない。お前は剣士では無かったのか?
「相変わらず何も言わないんだな。」
「……。」
そうだ。返事をしないと。
いくら私が一族の皇族に位置しようとも、この男にはそれが理解できる訳が無い。
今だって私の正体を推理してなかなか楽しい予想をしている所だ。
返事を……。
返事……。
……?
何故だろう。声が出ない。
声を出そうにも、まるで栓でもされているかのように喉を通らない。
まるで……
男が次に発せられる言葉を心待ちにしているようだ。
「あれからいろいろお前さんの正体を考えて見たんだが……。」
「……。」
言わなくても判っている。
お前なりの基準で一番突拍子も無く、一番しっくりとくる答えなのだろう?
言う必要は無い。無いのに……
なぜ言葉が発せられるのを楽しみにしているんだ?
「月から来たお姫様、って言うのはどうだ?」
「……。」
不意に体が熱くなる。
まるで電撃でも浴びせられたかのように衝撃が走り、頭の中を真っ白に染める。
まるで……強敵をこの手に仕留め、崩れ落ちた肉体から舞い散る「輝き」を自分の物にした瞬間のようだ。
「お、ちょっと笑ったな。」
「……。」
笑った? 私が? 何故?
……だがそれだけしか気付かなくて良かったのかもしれない。
明るければ、きっと全身を真っ赤に染めた私が見えた事だろう。
「……。」
「うーむ、でも予想より反応が芳しくないな。」
男の中ではてっきりここで私が大笑いをするものと思っていたらしい。
……残念だったな。……残念?
「……なあ、せめて名前だけでも教えてくれないか?」
「……。」
名前……。私の名前か? 私の名前はエディフェル。エディフェルだ。
だが……。
なぜ言葉に出来ない?
「教えてくれないのかよ。ちぇ……せっかくこんな美人とお近づきになれたって言うのにな。」
「……。」
美人? 美人……。
私が? 美しいのか?
それに……。
この衝撃はなんだろう? 暖かく、刺激的で、それでいて優しい……。
「残念だ……ってなんか俺変な事言ったか?」
「……。」
ああ、充分に変だ。
よく判らない言葉で私を惑わしている。驚かせている。
「そんな目を見開いても、見えるものは変わらないぜ?」
「……。」
それはそうだ。目を閉じない限り、目の前にお前がいる限り、私の目に入るのはお前に他ならない。
お前が目の前にいる限り、お前から目を離そうとは思わない。少しでも長く、少しでも……
少しでも……
なんなのだ?
「やれやれ、名前も言わない、どこから来たのかも教えない、それどころか正体すらも明かさない。……随分と身勝手なお姫様だねぇ。」
「……。」
違う!
違う違う!!
私は!
私は……。
……。
「お、おい、どうしたんだよ、急に泣き出して。」
「……。」
泣いている? 私がか?
どうして? 何故?
お前がそんな事を言うからだ。お前が私を惑わすからだ。お前が……
……駄目だ。これ以上一緒にいると心が乱れる。戻れなくなる。
「身勝手って言ったのは謝る。な? だからこのとーり!」
「……。」
慌てて手を合わせ、頭を下げる男。
違う。私が欲しいのはそんなのではない。もっと……
……やっぱり駄目だ。
お前のその言葉が私を惑わす。私を魅せる。私を乱す。
でも……
それでも……
それでも!!
「……ル。」
「……え?」
不意に響き渡る聞いたことの無い声。
驚いたように顔を上げる男。男が頭を下げた事で交じり合う瞳。
「……エディフェル。」
「……えでぃ……?」
私!? この声は私なのか!?
こんな声は一度として出した事が無い!
こんな甘い声は! こんな澄んだ声は! 本当の私の声はもっと冷たく淀んだ……!!
「……エディフェル……私の名前。」
「エディフェル……綺麗な名前だな。」
……!!
な、な、な、な、な……
駄目だ! これ以上ここにいては!!
頭の中で鳴り響く警報にやっと体が従ってくれたようだ。
少しずつ、それでも男には気付かれない程弱く、力が解放される。
「……さよなら、次郎衛門。」
「お、おい、俺の名前、なんで知って……。」
瞬間、恐らく男の目には私が消えたように見えただろう。
来る時に飛んだコースに添う様に跳躍しながら、やっと自由を取り戻せた手で頬に触れる。
そこは確かに濡れていた。