盟約暦790年
こつ、こつ、こつ
古びた社の階段に身を預け、意識を天空に預けていた佐奈子の耳に、それは確かに届いた。
こつ、こつ、こつ
誰かがこの社への階段を上っている。それも――
こつ、こつ、こつ
「軽い足音…… そっか。」
こつ、こつ、こつ
こっ
「……佐奈子さん。」
「リネットちゃん、おかえり。」
盟約暦795年:隆山
陽光を浴び、大地が歓喜の叫びを人知れず上げている。
陽光を浴び、水面がきらきらと協奏曲を奏でる。
隆山。そこにリネットは立っていた。
ヨークの大魔力をもって、隆山の地は再び緑溢れる街道へと其の姿を取り戻した。
そのヨークも今は隆山上空を基点に座標転移を行い、リネットが独自に編み出した条件発動トリガーでいつでも隆山上空に座標転移できる状態を維持している。
「ふぅ…… 今日はこれくらいにしておきますか……。」
かつて鬼の住まう地として唄われた隆山も、来栖川家の魔導術師一団が大規模な魔力捜索を行った結果、魔力の残滓を幾つか発見するだけに終わり、鬼の姿を確認せずに終わった為、復興作業が本格的に始まっていた。
あれから五年。
リネットの幼き体もかつてのエディフェルやアズエルを追い越し、かつてのリズエルを髣髴とさせる姿に成長していた。
「さて…… 今日も勉強会ですね……。」
あれから佐奈子がどう言う手腕を振るったのか、あれよあれよと言う間にリネットは来栖川家と言う巨大な後見人を得る事になり、隆山の地の殆どを任される事になっていた。
とりあえず、家に戻れば「柏木リネット」と言う名の大地主としての仕事が山と待っている。
今は屋敷をこっそりと抜け出してそれとなく畑仕事を手伝っていた所だった。
本当は自分の土地である畑なのだが、リネットは格安でこの町に移り住んできた新たな住人達に貸し与えていた。契約書を書く時もその殆どを来栖川家から出向してきた代理人に任せたため、何処からともなく現れて「畑仕事を手伝ってくれた妙齢の女性」が「隆山一の大地主様」である事に気づいた者はいないだろう。
少し嬉しくも、なにか物悲しい瞬間でもある。
気付けば既に宿場町の中心部にまでその歩を進めていた。
五年の歳月は廃墟を復興させるのに充分な時間と言えたらしく、もうかつての痕は何処にもない。慎ましやかな中にも住人達の喧騒が町中に響き満ちている。
雑草が伸びるに任せていた河原も既に元の姿を取り戻し、ここ数日の陽気に当てられたのか、幾人かが水を掛け合いながら戯れる姿を眩しそうに眺める自分に軽い失笑を漏らす。
「まあ、確かにもう遊びまわる歳ではありませんからね……。」
町の中心部。小さな宿場街の中心付近にリネットの家がある。今ごろは抜け出したリネットの穴を埋めようと状業員達一同が必死になっている頃だろう。
昼下がりになろうかと言うこの時間、リネットはその高い魔導知識を後世に伝える為に来栖川家の魔導術師達を交えての勉強会に時間を振り当てている。最近のテーマは「圧縮言語による詠唱の超高速化」だ。
「ただいま戻りました〜。」
「あ、リネット様、お帰りなさいませ。」
入り口に掛かった暖簾を潜り正面から堂々と帰還を告げる豪胆な当主を、苦笑と共に受付の女中達が出迎える。
「リネット様、奥で総務担当の方がとてもご立腹されていましたよ?」
「あらら、どうして?」
「なんでも「仕事サボって抜け出すのは明日止めると言ったではないですか〜!!」とか?」
「だって、「明日」って昨日言ったとしても、「明日」なんて絶対に来ないんだから止めるに止められないじゃない?」
「?」
「だって、今は「今日」でしょう?」
「ああ、なるほど。」
昨日町の子供達に教えてもらったなぞなぞの応用である。
因みに町でリネットが宿の店主にして柏木家現当主である事を知っている人間は少ない。そしてなぜかその事実が広まらないのはきっとこの小さな宿の従業員皆の気遣いなのだろうと考える。
「じゃあちょっと怒られてきますね。」
「はい。あ、今日の勉強会は中止にして欲しいとの事です。」
「え? どうして?」
「なんでも昨日夜遅くに来られた剣士様にそう頼まれたとか……。」
「剣士様?」
「はい。こちらで宿泊されていますよ。ええと……この方です。」
そう言って差し出される宿帳に記された流麗な筆。なかなかの達筆と言えよう。
「!! 今もこの人は泊まってるの!?」
「は、はい。出立は明日との事でしたので…… リネット様!?」
既にリネットは駆け出していた。お忍び用の動き易い服装のお陰であっという間に客間が連なる二階に消える。人の目も多少は気になったが、そんなものはあっという間に次元の彼方に捨てられていた。
「姉様!!」
「賢司? 寺子屋はどうしたの!?」
「抜け出したよ。だってあの人が来てるんでしょ!?」
何時の間にやら隣を並走する幼き甥の姿に驚くも、予想通りの答えに頬が緩む。
怒る気にはなれなかった。
怒るつもりもなかった。
確か今日は夜に会食が有った様な気がするが、それまでに戻れば済むだろう。それまでにまだ数時間の余裕がある。その時間を思い出話と墓参りで費やすのも悪くないだろう。遅れたら謝ればいい。どうせ今回も本題は私の婿問題なのだ。
ここからお墓のある雨月山までは歩いて一時間も無い。二人分の墓だけど骨壷は一つしか入っていない墓だ。もう一つの骨壷は作れなかったので、消えた死体の代わりに残った刀――何故かそれだけ残った――を入れてある。
よし、今日はそこまで歩きながら思い出話と洒落込もう。
なにせ、後継ぎ問題で里に帰って以来、四年以上会っていないのだから。
宿帳に記載されている部屋の位置は覚えている。一人旅の客の為の小さな部屋だ。そしてその部屋の扉は既に目の前にある。
「じゃあ開けますよ?」
「うん!」
スッ
光、溢れ――
「「佐奈子さん、お久しぶりです!!」」
蘇る記憶。
赤い奔流。
光の渦。
格子の如く雁字搦めに広がった魔法陣。
それに包まれた一組の男女。
『ああ、そうだ……。』
既に声は聞こえない。幾重にも重なった魔方陣が空間を切断しているのだ。
『リネット、賢司を頼む。そして――。』
それでも声は聞こえた。確かに目の前で、姉の愛した男がそう言ったのが聞こえた。
『二人で、幸せに、幸せに暮らしてくれ――。』
遥かなりしは東の果て、大盟約世界に咲き散りし花びらの一つ、そが名をグエンディーナ。豊穣の名を冠されし陽光溢れん地。
堅牢な山々、打ち砕きし大河、翻弄せし緑。
それは同時に屋根たる山々であり、命を運びし清流であり、命の源である緑でもある。
かの地を訪れる者、皆口をそろえ、讃える。
おお、素晴らしきは豊穣の大陸と。
遥か――それはあまりにも過去。
人々の記憶より忘れ去られし悲劇。
我は語ろう。
人にあらざる者の流せし涙。
人々に恐怖をあたえし一族。
我は語ろう。
人としての生を誓いし魔。
人と魔の血を分けし希望。
我は語ろう。
悠久の時を経て、
悠久の時に身を委ね、
死を与えられず、忘却を許されず、存在し続ける我の記憶。
我は語ろう。
翼持ちし鋼鉄の船、
煉獄の炎と殺戮の光を秘めし地獄の船、
時を渡り、理を越える永遠の船。
ヨークと呼ばれし我が導き、仕える者達。
豊穣のグエンディーナに降り立ち時巻き起こる悲劇。
人と魔が混じりし時、舞い降りる奇跡。
それは哀しくも、光り輝く記憶――
エルクゥと呼ばれし魔の一族と、一人の男の記憶――
完