それは記憶。

 春が過ぎた頃、不安そうに見上げる妻に苦笑を浮かべながら、朽ちた梁を取り外すべく屋根に登る。


それは記憶。

 長雨が家を包む中、初めて自力で作り上げた歪(いびつ)な夕食を、凄い勢いで平らげる自分に微笑む妻につられ、自然と笑みがこぼれる。


それは記憶。

 夏の日差しが大地を焦がす中、膝枕と共にゆっくりと動く団扇に身を任せ、妻が口ずさむ異国の歌に想いを寄せる。


それは記憶。

 閃く稲光に慌てて家を飛び出し、嵐が舞い降りる前に畑を守るべく奮闘する。


それは記憶。

 金色の絨毯を舞台に、豊作を讃え、感謝の舞を舞い狂う妻に見とれ、心奪われる。


それは記憶。

 まさに閃光の如く輝く命の叫びと共に姿を見せた我が子。それを劣らずの微笑で受け止める妻。


それは記憶。

 様々な木の実が豊穣を告げる中、構ってもらえず拗ねる自分を苦笑と共にからかう妻。


それは記憶。

 降り積もる純白の衣を纏い、少女の如くはしゃぐ妻に苦笑し、息子と共にくしゃみをして逆に笑われる自分。


それは記憶。

 なけなしの貯えを崩して買い揃えた晴れ着に袖を通し、村人総出で新年を祝う。


それは記憶。

 命を運ぶ風が通り過ぎる中、永い眠りについていた畑に鍬を入れる。


それは記憶。

 桃色の光に包まれながら、妻と子と共に儚き花を愛でる。


それは記憶。

 麗らかな日差しの中、妻と、愛しき子に起こされ、畑仕事に向かう。


それは記憶。

 妻が微笑む。瞳の色と同じ色の衣を纏い、その瞳を濁らせ、それでも微笑む。


それは記憶。

 輝き、舞い散る光。美しく、儚い光。


それは記憶。

 微笑みながら差し出す息子。なにも判らず首を傾げる息子。儚い笑みを浮かべ――


それは記憶。

 妻の衣が真紅に染まり、姿が歪み、掻き消え、そして――



現れたのは女。漆黒の髪を長く後ろに流した、赤い瞳の女。

その右腕を赤く染め、虚ろな表情を浮かべ、脆い殻に身を潜める女。

――私は悪くない――

女が叫ぶ。べっとりと濡れた手で頭を抱え、いやいやと首を振る。

――私は悪くない――

再び女が叫ぶ。

だが、無慈悲な声が響く。

――お前は答えを得ていた筈だ――

女が身を縮め、幼子の如く拒絶する。

――道を変える事が出来た筈だ――

どこかで聞いた事のある声。

――お前は出すべき答えを捨て――

氷よりも冷たく、烈火よりも熱い、無慈悲な声。

――妹を――

気付いた。

――エディフェルを――

これは

――殺したんだ――

自分の声なのだ。






魔法戦国群星伝

外伝:鬼の一族



  盟約暦790年:藤田領

「……!!!!」

 声にならない叫び。
それは激しい吐息となって虚空に放たれる。

「……あ、起きたね。」
「……ここは……?」

 ぱちぱちと爆ぜる焚き火の音。
見渡せば周りは闇の衣に身を包んだ木々。

 ゆっくりと体を起こす瞬間、違和感に気付く。
切り飛ばされたはずの右腕が元に戻っていた。動かしても痛みは走らず、僅かにその痕を残すだけになっている。

「村から死角になっている森の中だよ。」
「村……。」
「しかし驚いたね。切り飛ばされた腕をくっつけておくだけで、本当に勝手に再生していくなんて。」
「……。」

 初めて気付いたかのように声の主に目を向ける。
 年の頃は二十後半だろうか、黒髪を後ろで束ね、強固な意志を秘めた瞳で此方の視線を真正面から受け止めている。
 すぐ側には一振りの剣。女が一瞬の動作で手に取れる位置にその存在を示している。

「あんたは……?」
「私は川澄佐奈子。あそこで眠っている……。」
「リネットの付き添いか。」
「……。」

 全て心得たといった様子の男の声に僅かに眉を潜める。

「エディフェルから話は聞いていた。妹の存在、姉の存在、エルクゥ、皇族……。」
「……。」

 ゆっくりと立ち上がって音も無く、気配も無くリネットに近づく。
妻の妹である幼い娘はさらに小さな彼女の幼き甥を抱き抱えるようにして静かな寝息を立てていた。

「だがエディフェルの話だとこんな事をする娘では無い筈なんだがな。」
「その娘は……。」
「判っている。この娘の中でエディフェルの存在がどれだけ大きかったのか、どれだけ姉を慕っていたのかも。」

 まるで此方の言いたい事が全て判るような言い方だと佐奈子は口の中で毒づく。正直言ってやりにくい事この上ない。

「アンタが屋敷にたどり着いた時。」
「たどり着いた時?」
「……。」
「……。」
「……。」
「……なにが言いたいの?」
「……いや、今の一言で良い。全て判った。」

 まるで此方の心が読まれているようだ。口に出さなくても男は全てを理解しているように見える。

「アンタには礼を言わなくてはならんな。」
「礼?」
「息子の賢司を助けてくれた礼、リネットを守ってくれた礼、俺を止めてくれた礼。」
「……随分と多いわね。」

 あまり口数の多い性格ではないらしい。
 もっとも、あのような事があった直後で多弁に自分を示すような豪気な人間などそうはいないだろうが。

「あの日の事は全て思い出した。エディフェルがもういない事も、リズエルがエディフェルを殺した事も。」
「……そう。」

 妻の敵の名を口にしても、男の感情は微塵も動く様子が無かった。
淡々と、ただ事実のみが無機質に刻み付けられる。

「……これからどうするの?」
「……村には戻れないだろうな。」

 佐奈子の質問にも淡々と答える男。
だが佐奈子の期待した答えはそのような事ではない。

「敵討ちでもやるつもり?」
「……まず先に言っておく事がある。」

 視線を木々の隙間に満ちる闇に合わせながら、男はゆっくりと声を紡ぐ。
その硬質な声に含まれるのは僅かな殺気。

「俺の事をこれ以上嗅ぎ回らない方が良い。アンタの実力がどれほどの物か見当も予想も付いているし――。」
「……この剣の事も判っているって?」
「……ああ。」

 やっぱりか。
 佐奈子の中で確信が生まれる。

「心を読む、か…… エディフェルの力を貴方も持っているのね?」
「ああ。」
「……なら余り詮索はしないほうがよさそうね。」
「そうだ。俺のこれからの事などアンタが気にすることじゃない。」

 感情も何も無い返答。だが声に乗って僅かに漏れる怒気を佐奈子は見逃さなかった。

「……そうね。貴方の事は忘れたとして。」
「……ああ。」
「でもリネットちゃんはどうするの?」

 これからあの娘の身内は貴方しかいなくなるのに、と心で呟き、闇を見つめる男を射抜くような視線で睨む。

「アンタの考えている中でもっとも安全な選択肢が俺の答えだ。」
「……私に一児の母になれって言うの?」
「別にそこまでやらなくて良い。ただ、人間として普通の生活が出来るようになるまで守ればいい。」
「簡単に言うわね……。」

 だが既に答えは出ているようなものだろう。
佐奈子にそれを止める術は無く、グエンディーナの地に不慣れなリネットとエディフェルの息子を放って置く事など佐奈子には不可能な話だった。
 確かに自分が保護役を買って出れば二人の安全は確保できるだろう。この試験が終われば佐奈子は名実共に川澄家の当主たる地位を手に入れるのだ。

 だがそれだけで済む問題ではない。

「リネットちゃんはどうするの? 貴方がいなくなれば彼女に残された身内はあの子一人だけになってしまうのよ?」
「……そうだな。」
「だったら。」
「だが俺にはもう関係の無い話だ。」
「……。」
「俺はリネットを家族として見る事は出来ないだろう。」

 リネットだけではないだろう。
この男の瞳に映る「家族」はきっと一人しかおらず、そしてその一人はもうこの世にいない。

「じゃあその子、ええと――。」
「賢司だ。」
「賢司君ね。賢司君の事は?」
「アンタに任せる。」
「もし断ったら?」
「賢司が生きるかどうかは天にでも任せるさ。」
「……上手い嘘ね。」
「……。」

 佐奈子が断らない事を確信した上での言葉。それは佐奈子にとって余りにも不利な戦いと言えた。
此方の切り札は悉く読まれ、封じられているのだ。

「……どうせアンタの地位は安泰で済むんだ。安い話だろう。」
「そんな事言ってると力ずくで止めるわよ?」
「……。」

 僅かに腰を上げ、傍らに横たわる「神薙」に手をかける。
素人目からは判断し辛いが、いつでも抜刀して攻撃に移れる構えだ。

「……。」
「……出来ると思うか?」
「さあ? よく言うじゃない。「やって見なくては判らない」って。」
「……嘘だな。」
「……。」
「殺気も怒気も無く、ただ構えているだけのアンタが俺を切る事など出来ない。」

 断定。
 しかも此方の手の内を明確に読んでの断定だ。否定する事など出来るはずも無い。

「今アンタほどの剣士が殺気を出してみろ。俺の中のエルクゥの本能がどう反応するか判ったものじゃない。」
「……。」
「……。」
「……。」
「……やれやれ、判ったわよ。」

 「神薙」から手を離し、再び腰を下ろす。
どう見てもこっちに勝ち目は無い。心が読める相手に心理戦を挑む事自体が間違っている。

 表情の見えない男が微笑んだような気がした。確信は持てないのに、つられて自然と佐奈子にも笑みが浮かぶ。どの道佐奈子とて二人の保護役を買って出るつもりだったのだ。

「あ、そう言えば。」
「……。」
「エディフェルさんの遺体は術で弔いの準備を終わらせてあるから。」

 そう言って焚き火の目の前にある小さな白木製の箱を見やる。そこには佐奈子が見た事も無い文字が三行ほど墨で書かれ、厳重に蓋をされていた。

 小さい、それは余りにも小さな白木の箱。

「……助かる。」
「何処に弔うかは貴方が決めていいけど、あとで何処に弔ったのか教えなさいよ。」
「……ああ。」

 再び焚き火の前に戻り、ゆっくりとした動作で木箱を抱える男。
それを身動ぎもせずに佐奈子は見送る。

「……エディフェルは。」
「……?」
「エディフェルは俺に「リズエルを許せ」と言った。」
「……。」

 ならばこの男は妻の遺言を無視する事になる。妻の願いを聞き遂げず、一人での孤独な戦いに身を投じようとしている。

 身勝手な男だ。
 妻の言葉を無視し、怒りの捌け口を最も短絡的かつ直接的な手段で昇華させようとしている。

「……敵討ちをするつもりはない。だが…… 連中にはどうしても言っておく事がある。」
「……。」
「人間とエルクゥは同じ。それがエディフェルが出した答え。それを連中に示さないといけない。」
「人間とエルクゥが…… 同じ?」

 男が微かに肯き、ゆっくりと一歩を踏み出す。
その先には闇。だが其の中にあって男の存在は輝くようにも見えた。

「リネットにも伝えておいてくれ。エルクゥと人間、そこに違いなど無いと。」
「どう言うこと? 人間とエルクゥが一緒って……?」
「『人の器』たるアンタにはわからないだろうな。だがリネットなら判るはずだ。」
「……。」
「俺はそれを証明できる。リネットも証明できる。だがアンタには無理だ。」
「……。」

 男が闇の中へと其の身を投じる。
だが佐奈子の瞳に映る男の背に修羅の影は見えない。

 答え。
それをあの男は得ていると言った。
そして自分にはそれが示せないとも。

ギリッ

 では自分はなんなのか。
人を守る一族として育ち、人を超える力を得ていながら、その力の本質を見極める事も出来ていなかったとでも言うのだろうか。

「……何が川澄よ。「神薙」を持っているからって何が人と違うって言うの……!!」

 示す事の出来ない佐奈子に後を追う事は出来ない。ここからは答えを得た者と答えを示される者以外に出る幕は無いのだから。



  盟約暦790年:藤田領(エディフェル死亡から二日後)

 雨。
 死者を弔う鎮魂歌の如く響く雨音に紛れ、一つの足音が響く。

山肌に身を隠すようにして続く石段。

霞んだ視界に映える、朱の鳥居。


 次郎衛門とエディフェルの記憶に残る小さな村を見下ろす、それは小さな神社。
何処の者とも知れぬ名も無き神を祀り、永劫に村を見守り続ける宿命を背負った社。

「……おや、貴方は……。」

 雨音が全てを隠す中、僅かに響く足音に気付いた者がいた。

「……お久しぶりです。」
「あのような事が有りましたからな、村の皆が心配しておりますぞ?」

 次郎衛門やエディフェルにとっても目の前の男性は恩深き存在だった。
エディフェルとの結婚式のみならず、我が子の名前を決める時にも助言を与え、精神的に揺らぎやすいエディフェルを幾度となく諭し、不器用な夫婦を何度も支えた存在。
 細かい事に頓着しない大らかな性格と深い知識を備えた村の相談役に、年若き夫婦は全幅の信頼で答えていた。

「……エディフェル様はどうされました?」
「妻は……。」

 表情を動かす事無く人形のように答える夫の手に納まった小さな白木の箱に気付き、男は己の観察眼の無さに小さく毒づく。

「……気になさらないで下さい。」
「いえ、不注意が過ぎました。……お悔やみ申し上げます。」
「……有難う御座います。妻も…… そう言われれば……。」

 感情を無理矢理に抑えているのだろうか、夫の声は幾度も途切れ、それでいて淀みが無い。

「ここに来たと言う事は……。」
「はい。後は弔うだけですが……。」
「……なにか?」
「無礼を承知で頼みます。……妻をこの地に弔わず、しばらく預かっていただけないでしょうか?」
「……。」

 ふむ、と口の中で呟き、幾多もの生死を見届けてきた男は改めて目の前の男を見やる。
頬は扱け、ざんばらになった髪の奥からは尋常ではない輝きが覗く。

 修羅と言う形容は相応しくないだろう。其の輝きはむしろ決意に満ちた英雄が持ちえる物と言える。

「……理由を聞いても宜しいですかな?」
「……。」
「……。」

 その瞳に揺らぎは無い。良くも悪しくも一点の曇りも無く、迷いの濁りも無い。

「今の貴方様の目の輝き、奥方様が望む物とは思えませんが?」
「……。」
「貴方は奥方の想いを無駄にしようとしているのかも知れないのですぞ?」

 例え目の前の男が修羅道に走らずとも、その決意が命を賭けたものである事に変わりは無い。
それを知ってしまった以上、止める事はほぼ不可能と見ていいだろう。

 だがそれでも止めなくてはいけない。それが自分の役目なのだから。

「……。」
「……。」
「……つくづく。」
「……。」
「つくづく自分でも不器用な人間だと思います。ですが……。」

 ふっ、と男が自嘲的な笑みを浮かべたような気がした。

「例えあの世で妻に見限られようとも、私にはこの道しか考え付かないのです。」
「……賢司君はどうされるのです?」
「息子は…… 親戚に預けました。」
「……あまり良い選択とは思えませんな。」
「……はい。」

 人々に神の御心を伝える。
四十を越える年月を遡りし過去に俗世を捨て、人との交わりを絶つ道に踏み込んだ自分だからこそ初めて判る。

 それは心の脆さ。そしてその細やかさ。
この男の壊れた心は他の全てを拒絶している。そして砕けた破片をかき集め、再び形作る事の出来る存在はすでにこの世にいない。

「……承知しました。暫く、エディフェル様をお預かりいたしましょう。」
「……感謝します。……これから妻の故郷に出向きますので、それが終わったら引き取りにまいります。」
「故郷ですか…… 随分と遠いようですね?」
「いえ…… 隆山ですよ。」

 隆山。
 その単語に目を見開く男に白木の箱を渡し、雨の中に心を失った男が消えた。






 そして、



 最後の、



 一日の、



 幕が、



 静かに、



 静かに、



 隆山の地で、



 一人の男によって、



 その幕を開ける。





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