DREAM IN REAL, or REAL IN DREAM    

後編











許容量、というものは多くの物に存在する。
それこそペットボトルに入るコーラの量からこの宇宙が保持できる物質量まで。
限界がある以上、それを超えてしまえば後の運命は決まってくる。

そしてそれは、人間の脳に入力される情報という形の無いものにおいても適用される。それは処理能力を超える大量の情報であったり、また量こそ多くなけれども人の認識力を平気で踏み超えるような事象に直面すれば同じ結論に達するだろう。


もっともこの場合(分類すれば後者であろう)、一見その少女の脳が焼き切れるほどのインパクトは無かったと見える。
一しきり叫んだ後、僅かな時間でそのままの姿で立ち尽くしていた己の体を重力に従い再び腰を落ち着けさせ、脳内ランプを赤から青に全て復してその機能を正常化させてからこの現状に対する方策に巡らせられる真琴の精神力は第三者的視点から見れば中々のものであったと評価できる。
そう、初めてこの家に来た頃に比べると格段の進歩とも言えるだろう。

…単に図太くなっただけなのかもしれないが。

まぁともかく、真琴は自分が落下した白い布(後に昨日着ていた下着と判明)の上で某とんち小僧のように頭に指を当てて思案している真っ最中だった。
なにやらモゴモゴと口を動かしている。
どうやらすっかり冴えてしまった頭で今の状況がどういうことなのかを自問自答しているようだったが…

「――――――う―――ん?」

そこで少し離れた所にキラリと光る銀色の板を目の端に捕らえる。

なんだろう、と思う。自分の部屋にあるものなのだからそれほど奇怪なものではないはずなのだが…何しろこの体だ。
目に映る全てが今まで目にしていたものとは全く違って見えるゆえさっぱり見当がつかない。

ますます光を強くするかのようなその銀板に興味を駆られ、真琴は一時思索を中断して立ち上がり近づいていった。



程なくその銀板の上に見えてきた、大きく書かれている数字がその正体を教えてくれた。

「…1円玉、かぁ」

恐らく何かの拍子に財布からこぼれ落ちたのだろう。
面白くも無い正体が解ってしまうと、肩と心にどっと先ほどの精神的重荷がのしかかってくるのを感じる。
真琴はそれに逆らわずに硬貨の縁に腰を下ろした。

「あ――――――ぁ」

長い大きな嘆息。それが宙に吸い込まれる前にそのまま背を倒し銀板に体重を預けた。
視界にはやけに遠い天井。
そして背に硬い金属の感触。その鋭利な冷たさが大の字になった体に凍みこんでくる。その刺すような感覚は、よもすれば再び不条理さに暴走しかねない真琴の頭を冷ますのに役立った。

そう言えば今着ている服は、胸の辺りになにやら文字らしきもの(英語なので真琴には判別不可)が書かれてあるTシャツにジーンズ地のボトム。これはベッドに入る前と全く変わらないものだ。

―――これはどう判断すればよいのだろう。
これは寝る前、現実に着ていた物だからやはり今のこの瞬間もまた現実なのか―――――――――
それとも私はおろか服まで小さくなるなんてやっぱり有り得ない事なんだからこれは夢の続きなのか―――――――――

そこまで至ってもう一つ弱々しく吐息を洩らす。

もとより結論の出ることではないだろう。
漫画やなんかでは主人公が小さくなってしまうことなど良くあることだが、『実際に小さくなることを体験した』人間など――――少なくとも真琴は今まで一度も聞いたことが無い。
だから原因解明はおろか現状把握すら真琴一人では無理な相談なのだ。

「………しょっと」

取りあえずの決断。
十二分に考えた末、一時の意識の落ち着き先を見つけた真琴は腕を振り反動をつけて一気に上半身、そして腰をも上げる。

「ここでこうしてたって仕方ない――――わよね」

とにかくこのことを誰かに――――そう、名雪は多分家にいるだろうから早く伝えよう。それでなんとか――――できるかどうかは解らないけど――――とりあえずこのままボォッとしてる気にもならない。
この家の主である名雪の母の秋子さんが家にいるなら最高だ。
あの人なら何とかしてくれそうな気がするし。

――――他のはどうでもいいけどね、と呟きながら、真琴は戸がある方へと体を向けた。



――――さっき転がったときにも感じたことだが、改めて見ると――――――――

「あぅ…遠い…」

それこそ普通ならほんの2、3秒でたどり着けるはずの入り口との間にかなり陰鬱となるな距離が横たわっていた。
今の真琴の体の大きさが1円玉から比較して約2cm。これは通常時の70〜80分の1と言ったところであるから、体感距離も同じ尺度で考えて200m近くの隔たりがあることになる。
絶望的というほどの距離ではないが、いちいち歩くのもなんだか嫌になる微妙な距離だ。
やってみれば解るだろうが、例えば街中を同じ距離歩くのとこの場合は全く違う。

――――何よりこんなサイテーな気分じゃ、ね。

だが進まなければ何も事態は動かない事は真琴にも解っている。

重い足取りながらも、何度目かの溜息をつきながら真琴は最初の一歩を踏み出した。





歩き始めてから解ったのだが、どうやら『足が重い』のは精神的なものから来るだけではないようだ。
それはこの、膝近くまで絡みつく絨毯。
普段はそのまま転がっても心地よい感触が、今回ばかりはまるで草むらの中を歩いているかのように足に負担をかけていた。否――――1本1本の毛が草よりもずっと重いのだからより始末が悪い。
それに加えて隙間に落ちているこまごまとした障害物―――ただの紙切れ、ビニール、何かの破片、お菓子の欠片―――そして異様な匂いを放つどうにも判別のつかない奇妙な物体まで、所謂『ゴミ』と判断されるもの達―――がよりいっそうの不快感を募らせてくれる。

「な、ん、で、こう―――散らかってるのよぅっ!」

と、それが誰の責任であるか(少なくとも3日に一度は掃除してくれる秋子のせいではない―――つまりこの部屋は『2日』で『こういうこと』になるのだ)を完全に棚上げした不満を口にしながら乱暴にそれらをかき退け、押しのけ、蹴り飛ばし―――時には大きく迂回して前進する。そんなわけだから、実際歩くよりも多くの時間と労力が必要になり、その分が更に真琴の体力と精神力を磨耗させていった。

そんなこんなで途中で何かが絨毯の中でガサガサと動く音を恐々として耳にしながらも行程の半分ほどを消化したところでトウトウその足が止まる。これは決して体力的な疲れから来るものではなかった。
どうしようもなくついて回る不安感――――――それが予想以上に肩に圧し掛かるためだ。
そのとき、いい加減ここらで小休止しようかと弱音を吐きかけていた真琴の耳に、目指す扉の向こうから聞き慣れた声が聞こえてきた。

「真琴〜〜〜いるか〜〜〜?」

「祐一!?」

真琴と同じ、この家の同居人である相沢祐一の声だ。
とっさに手を膝について前かがみになり立ち止まっていた体を、勢いよく跳ね上げる。
その声に嬉しさを隠せない。

「いるな〜。入るぞ〜。いいか〜いいぞ〜〜」

と勝手なことを言い終わるや否やノックもせずに扉のノブを回す音がする。
ここら辺、彼の従兄弟である名雪とはえらい違いである。

だが今の真琴にとってそんなことは些細なことだ。
自分ひとりで辛さを抱えることがどれだけ心身に黒い影を落とすか…
それを思い知った今、この不可解な現象を伝え、相談できる相手が来てくれたこと。それだけでイライラした気持ちも一気に―――いや、おおよそだけども―――淡雪のように溶けていく。

祐一ってのが不満だけれど、この際贅沢を言うのは無しにしよう。

破顔した真琴が駆け寄ろうとした瞬間――――――扉が開く。
そこから希望と共に―――――――――

「っう―――わわわわっっ!!」

真琴を襲う一陣の突風。
トレードマークであるツインテールが宙を激しく泳ぐ。

「とわっ………たっ」

危うく体ごと飛ばされかけたが幸い風は一瞬でやみ、反射的に顔を腕で覆って堪えることができた。

(扉を開けたときの…「風………あつ」ってやつなの?)

そう、ただそれだけのことである。
だが今の真琴の体には普段誰しもが何気なく行っている行為によって引き起こされる現象が、何十倍の衝撃となって降りかかるのだ。
例えば――――

「って…うわぁぁぁぁあっっ!!」

真琴が顔を覆っていたその手を退けた瞬間、彼女を突然包み込んだ黒い影もそのひとつだ。

反射的に体を前方へ走らせる。

(このままじゃ間に合わないっ!)

そう判断した真琴は右足に力を入れ、まるで本塁上のクロスプレイのように体を更に前へと躍らせた。

痛みは――――無い。背後でドンっという音と共に柱が踏み下ろされるが、間一髪のところでその下敷きになるのは免れることができた。
そしてさっきまであれほど邪魔だった深い茂みが上手い具合にクッションの代わりになって体を受け止めてくれたからか、摩擦で体が擦れるということも無かった。

真琴はそのまま体を一回転させて仰向けになりながら、突然眼前にそびえ立った柱、そして遥か上空にあるそれを睨み付けて一言。

「危ないじゃないっ――――もっと足元見なさいよっ!」

本当に――――危ないところだった。
もし扉が開いたときの風圧で尻餅をついていたならば…ひょっとすれば間に合わなかったのかもしれない。

だが真琴が見上げるそれ――――危うく真琴を「のしイカ」にする所だった祐一はその怒号にも全く反応しない。

「ちょっとぉ! 聞・い・て・る・のぉ!!?」

ボリュームを上げても全くの無反応だ。
どうやら全く聞こえてないらしい…無理もない、祐一の耳の辺りまでの距離を真琴縮尺に換算すると150m弱、その上真琴の声自体が小さくもなっているのだ。

「なんだ…いないのか。せっかく新しい漫画買ったから貸してやろうと思ったのに」 

「いるわよここにっ! あ、きったないさいってー! 人の頭の上でお尻なんか掻くなぁ!」」

「…にしても汚い部屋だないつもながら。本当に女の部屋かここは?」

「勝手な事言わないで!余計なお世話よ! その口が言う?その口が!!」

「あーあ。ったく、お菓子の袋撒き散らして…口寂しいにも程があるだろうが」

「真琴のお金で買って真琴が食べてるんだから放っといてよっ!」

成立してるのかしてないのかはともかく、焦点がズれているような気もするが一方通行なだけは間違いない会話だけが弾む。
…当の真琴は気付かずにただそのもどかしさにイライラとするだけだが、まるでさっきの本人とぴろ氏の会話を見ているかのようだ。
これこそ正に因果応報というべきか…。



「ま、留守ならしょうがないよな…まぁ、腹が減ったら帰ってくるだろうし」

と言って祐一は踵を返すと部屋を出ていこうと足を運ぼうとする。

――――冗談じゃ、ない。

「――――ま、待ちなさいよぅ! 話はまだ…ってそうじゃないっ! えっと…もぉ!!」

取りも直さず、言葉にならない言葉を宙に放ちながら真琴はその後を追いかける。

だが、それこそ『圧倒的に』まで歩幅が違う。
真琴が必至に追いすがるも見る見るうちに差が開いていき、ついには祐一は体を殆ど部屋の外に出して、後ろ手にノブに手をかけるところまで行ってしまう。

――――駄目だ、追いつけない。

そう悟った真琴は――――

(行かないで)

大きく――――

(気付いて)

息を吸って――――

(お願い)

叫――――

「祐――――――――きゃっ!」

――――ぼうとしたその時、ガツンと足を何かに捕られて頭から転倒した。
痛みを感じる暇もない次瞬、ごう、という音を立てて先ほどと同じ風圧とそれに僅かに遅れて真琴の体を掠めるように何かが『通過』する。

――――髪の毛がそれに当たって弾かれる感触を捉えた瞬間、真琴の背中に冷たいものが迅った。

そして耳朶に強く、響く、バタンという、おと。





――――――――全てが収まってから、真琴はゆっくりとその頭を上げた。
目の前には、『絶望』とでも言うべき絶対的な壁がそびえ立っている――――いや、床との間に僅かに隙間が開いてはいるが、それくらいでは祐一が入ってきてからその労力が全て徒労に終わってしまい呆然としている真琴の心を揺り動かすには不十分だった。
…そこから流れてくる空気を体に受けて虚ろな目で閉じられた扉を見ながら、ゆっくりとしたペースを保ったまま体を起こす。

かつん、と足に何かが当たる。
振り返ってそれが何かを確認する気にも、ならない。これのせいで最後のチャンスが費えたのだから。

(―――ううん、そうとも言えない、かな)

あの時もし躓いて倒れなければ、勢いよく閉まる扉に巻き込まれどうなっていたのか判らない。
…なんだか滑稽だ。開くときは『こけなくて』閉じるときは『こけて』よかった、なんて。

真琴は乾いた笑みを浮かべた。
それと同時に――――――――無力感から来る諦観ゆえか、さっき考えても仕方にと思ったこと…あえて目を逸らしていたことに思いをはせる。

どうしてこんなことになったのだろう。
あんなどうでもいい事を言いたかったんじゃない。そんな暇があれば、目の前の祐一の足を突付くなり殴るなり――――かなり嫌だけど、噛み付くなりすれば良かったのだ…。

(――――違う)

真琴はまた頭を振った。

こうなってしまう理由がどう、というわけではない。
下らないことに聞こえるだろうが、真琴が知っている、例えばこの前ビデオで観た「不思議の国のアリス」なんかでは、は小さくなった主人公というのはもっと――――環境の変化に戸惑いながらも、もっとドキドキハラハラの冒険をしていたものだ。
だが実際、いざ自分が経験するとなると――――――――話が違う。
実のところ、内心そのような展開を期待していた、というのはある。思えばそのおかげで比較的自分は冷静でいられたのかもしれない。

そう、だ。それ程成長したわけでも、図太くなったわけでも、ない。
ただ少しでも気を抜くと爆発しそうな感情を無理やり別の方向に高揚させ、押さえ込んでいただけなのだ。
それが湧き上がってくるイライラとした思いであり、またいちいち口からこぼれる怒号であったのだ。

しかし、事ここまで来ると…仕方ないとは言え、ここまで存在に気付いて貰えないとすると――――



じわ、と涙腺が湿り気を帯び、一気にそのタガが外れそうになる。



――――これが現実だと言うのならば元に戻りたい
――――夢ならば――――早く醒めて欲しい



それはこの異常事態の中で、真琴の心の中においてその『意志』がはっきり形をとった瞬間だった。





そんな真琴の背に、カタン、と乾いたおと。
それと同期してするりと何かが部屋に入ってくる気配を感じた。

感情がはちきれる寸前で今にもこぼれ落ちそうだった涙を慌ててぬぐいながら、真琴はそれを確認するために振り向く。



ぴろ、だ。

彼専用の出入り口から上半身だけを覗かせながら、ふんふんと鼻を動かして――――どうやら部屋の中の様子を窺っているかのように見える。
真琴は、なんですぐに入ってこないんだろう、とおぼろげに思ったのだが…まぁ、あんな事があった後だ。真琴の存在の有無を確認するのは彼にとって当然の権利であろう。

やがて要・警戒対象の姿が見えないことをようやく確信したのか、するり、と残る下半身も部屋の中に入れた。
また、カタン、という音と共に柔らかく絨毯に着地する。

だが何を思ったのかまた鼻をヒクヒク。そしてキョロキョロと視線を泳がせる。
そしてそのまま部屋を徘徊しだした。
普通ならばそのまま彼の寝床に潜り込むなりするのだが――――どうやらまだ何か気になるらしい。恐らく、『真琴がいないにしては真琴の匂いが部屋に強く残っている』のを嗅ぎ取っているのだ。
流石は人よりも野生に近いと言うべきか。

そうして真琴の視線を受けながらのぴろの探索がベッド、タンス、机、本棚と移動しながらとうとう扉の前にいる真琴の近くまで及んだとき、呆然とそれを目で追うだけだった真琴は途端に我に返った。

「――――って、なにボーっとしてるのよ真琴はっ!」

呆けている場合ではない。せっかくの――――自分の精神的には恐らく最後の――――チャンスなのだ。
真琴は自分を気付かせるために、再び大きく息を吸い込む。

そこで脳裏に一抹の不安――――恐怖がよぎり、その行為を止めさせる。

――――果たして今度は気付いてくれるのだろうか? また…また絶望を味わさせられるだけではないのだろうか?

――――――――いや、と頭の中のもやを振り払い真琴は思う。

(絶対大丈夫! 真琴とぴろは――――深い絆で結ばれているんだからっ!)



「お――――――――――――――――いっ!!」

喉の奥から――――肺の底から――――心の深遠から――――搾り出されたような、こえ。
ただ呼びかけ、注意を促すために用いられるその単純な言葉が真琴の持てるMAXに乗り、部屋中に響きわたるかのような勢いで吐き出された。

果たして――――
ぴろの耳が、ぴくん、と動く。

それを見て、ぱっと真琴の顔が輝いた。

――――手応え! もう一度だっ!

「ぴろぉぉぉぉ――――――――っっっっ!!」


叫び終わると同時に――――目が、合う。

刹那、ぴろは軽く50cmは飛びずさり、身構える。重心を低くし、後ろ足にその体重をかけ心持ち前傾姿勢。どんなことにも対応できるようにするために野生の猫科の動物が本能的にとる警戒態勢だ。

彼のトレードマークであるいつもの糸目が開かれ、瞳まで見せてる。よほど驚いている証左であろう。
何しろそこには――――自分より遥かに小さくなった『主人』がこっちを見上げている姿があるのだから。

「もぅ〜なに怖がってるのよ、ぴろったら。ほら、こっちこっちっ!」

反面、真琴の姿にはさっきまで影を落としていた恐怖は見当たらない。ようやく他の人(じゃないけど)に自分の存在を気付いてもらえた、そのことが精神的にも、肉体的にも活力を与えたのだ。
その証拠に、真琴の顔のなんと嬉しそうなことか………。

そんな真琴にぴろは、警戒しながらも恐る恐る、ゆっくりと時間をかけて近づいていく。

そしてその鼻先に真琴を捕らえる距離まで到達すると、改めて確かめるように真琴にその鼻を近づけた。

触れるか触れないかのギリギリの距離。流石にこれだけ近くで、これだけの大きさの猫の顔を見るのには恐怖を覚えたが、ぴすぴす、とコミカルに鳴る鼻の音に可笑しがりながら真琴はそのままにさせた。

――――やがてぴろ氏が得心したように顔を離して警戒の構えを解いて体を起こし、ちょこん、といつもどおりの表情に戻って絨毯に腰を下ろす。
どうやら、それが沢渡真琴であるということを認めたようだ。

「納得した? なら早速頼みがあるんだけど――――名雪か秋子さんをここまで連れてきて――――――――」

(――――――――そうだ!!)

「あ、それよりも私を背中に乗せて連れて行きなさい! そっちのほうが楽しそうだし♪」

諦めてたんだけど、ひょっとしたらアリスのような『冒険』ができるかもしれない!
知り尽くしていると思っていた部屋なのにこれだけ違った印象を受けるのだからそれが家全体となると、まるで違う世界のようにこの目に映るに違いない! 
ぴろがいればそれができそうな気がする。

「さぁ! いくわよぅっ!」

そう心を弾ませながら、真琴はぴろの笑顔を背にそのままクルリと振り返っ――――――――

(………!)

――――――――たところでピタリ、とその動きを凍りつかせた。

(…あれ?)

――――なにか、今なにかとてつもなく恐ろしいものを見なかったか?

(え…が、お?)

笑顔だ。確かにそれを視界の端に捉えた――――ような気がする。
でも、ぴろって…猫って…『笑う』ものなのか?
少なくとも、真琴は『彼』が笑ったところなど見たことが、ない。
そりゃぁ生き物なんだから『楽しいな』って感じることはあるだろうけど…

きっと見間違いだ――――――――

そう思う。思いたい。あんな表情――――――――なんて。
そう思い込もうとしても脳裏に忍び寄った強烈な違和感を打ち消せない。
逆にそれが真琴の感覚に何らかの強い警鐘を鳴らすばかりだ。

その正体、そして全てを確認するために有効な方法――――――――――――――――それは――――――――

真琴はゆっくり、と、振り向いた。

そこに


あった



ものは









しかい、いっぱいにひろがる、

なんて。
なんてなんて。

なんてなんてなんてなんてなんてなんてなんてなんてなんてなんてなんてなんてなんてなんてなんてなんてなんて――――――――


なんて、うれしそう、で





ぶきみ、な、えがお。





わざわざ真琴の体の高さまでその頭を下ろし、こちらから僅かも離れていない所に浮かばせているその顔には、頬肉がイヤラシい位まで皺を刻むほど歪んだ口が耳まで悪魔の様に裂けてる(ように見える)上、吊り上がった両まぶたの細い切れ込みの奥に『笑ってない』――――肉食動物特有の――――瞳が爛々と輝いている。

そう、まるで『アリス』のチャシャ猫の顔を現実的にして威圧感を足せば、正にこういうものになるのだといういい見本、に一番近いだろうか?

(声――――で、ない)

瞳に見入られた真琴は立ち尽くすのみ。端的に言えば、蛇ににらまれた何とやら、である。

狩られるモノと狩るモノ。
あたかもそこには古来よりの絶対的な法則が体現しているかのごとく、空気が緊張と同時に冷徹さをも湛えていた。





そして悠久にも思える時を経て静寂を破り、ぴろが『復讐』を開始する。



ざらりという感触。
べろりという感触。
それと同時に真琴の全身が頭から湿り気を帯びる。

真琴が我を取り戻したのは、『それ』がぴろの舌であることに気付いた瞬間だった。

「――――――――――――――――きゃぁっぁぁぁぁぁっぁぁっっっっっああぁぁっ――――――――!!」

全身の肌と肉の間を這いまわるかのような想像を絶する悪寒と、頭にキリキリと刺し込む警告に追われ、脱兎の如く真琴はぴろに背を向けて駆け出した。頭で思考、判断しての行動ではない。本能が感じたのだ。
もしそうしなければ――――――――

だが、今のぴろがそれを見逃すはずもない。
真琴が射程距離から逃げ出す前(まぁ、サイズ的に考えてそう急がなくても充分だろうが)に前足を突き出し、真琴を背中から(あくまでも軽くだが)『吹っ飛ばし』た。



背後から伝わる胸への衝撃。
一瞬息が止まり、悲鳴を出す、その空気すら確保できずに再び前のめりに滑り込む体勢で絨毯に突っ伏した。

「あ――――ぅ…」

すぐさま起き上がろうとするがその前に背中から、

「ふぎゃっ!」

強い力が圧し掛かる。
背に感じるのは肺を潰すような圧力と、なんだか妙に柔らかくて憶えのある感触。
これは――――

(ぴ…ろの、肉きゅう?)

間違いない。このプニプニした感触は真琴が(半ば無理やり)毎日楽しんでいるそれの触感に相違ない。
つまり、今の真琴は足でぎゅっと絨毯に押さえつけられているのだ――――――――!

(や・め・なさい…よっ!)

確かにこの感触は気持ちいい――――だが今はそんな場合ではない。
むしろこの状況下でそんなことを考える自分に腹が立ち、その拘束から逃れようと真琴は必死に重力に対抗し体を浮かせようとする。


だが、無駄な努力だ。もはやこの体格差は、ハンデがありすぎるというレベルの問題ですらない。
むしろぴろは、真琴が完全に潰れてしまわないように力を抜いているくらいなのだ。それにしたって真琴がそこから抜け出せないという事実は変わらない。

――――駄目か。

真琴が諦めかけたその瞬間、ぴろは見計らったかのように前足にかけていた体重を抜いた。

突然の解放に驚きながらもそれを表現することもせずに、即座に真琴は軽くなった体を引きずるようにしてぴろから離れようとするが――――――――――――再び訪れる背中からの衝撃に再度の愁嘆とのキスを強制される。



後はもうただそれの繰り返しだった。
突き飛ばされ、押さえつけられ、脱出を妨げられ、突然の解放、そして再び――――――――終わりの無い連鎖。正に悪魔の所業だ。
そして回数を追うごとに真琴の抵抗はどんどん弱々しいものになってくる。





何度繰り返しただろうか――――?
ついに真琴は体の上から足をどけられても逃げ出す素振りさえ見せずにただ人形のように転がっているだけとなってしまった。

まだ動こうと思えば動ける。その自覚はある。だけど――――――――心はもう、限界だった。
それまでのことに加え、やっと意志が通じたと思ったぴろ相手にこうまで残酷にあしらわれる。その事実が真琴の心をぽっきりと折ってしまっていたからだ。

――――もう、疲れちゃった――――

と、奇妙な現実感と非現実感の交錯に包まれた中、ごろりとそのまま体を180°回転させ仰向けになる。



ぴろが、いた。

こちらが逃げようともしないので、もう足で押さえる気は無いらしい。
だがあの笑みを浮かべている以上、まだ真琴を赦す気は無さそうだった。

――――赦す? そうこれは復讐なのか。

かっ、と真琴の頭上でぴろがその口を開く。

――――今やっとわかった。自分がそうされてやっとわかった。

獣臭い口臭が真琴の鼻腔に突き刺さる。

――――名雪の言ったとおりだ。こんなのは、友達に対する仕打ちじゃない。

赤黒い咥内と対照的に、刃物のような犬歯が艶を帯びて白光る。

――――ぴろに対する怒りはない。あるのは自分の増上さに対する後悔だ。

ゆっくりと、ゆっくりと、

――――あぁ神さま、仏さま、その他の誰でもいいからなんかもーとりあえず雲の上の偉いヒトたち。

ぴろの顔が降りてくる。

――――最後にあの言葉を、言わせて下さい。

喉の奥が、はっきりと見える。

――――私が言わなければならないみんなに、言わせて下さい。

口の中の皺の数まで、数えられる。

――――私が悪かったです。

最後にぴろの口と絨毯の間から零れる光で見えたのは、奥歯の虫歯。














――――そして真琴の意識が――――ぱちん、と音を立てて――――――――弾けた。















「――――――――――――――――――――ごめんなさいぃぃぃぃぃっっっっ!!!」









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