夢とは何だろうか。
現実とは何だろうか。

そしてその違いはどこにあるのだろうか。

ひどく現実的な夢の中にいるとき、我々はそれを夢と認識できるだろうか?
ひどく霞んだ現実の中にいるとき、我々はそれを現実だと断定できるだろうか?

例えばこうやって今現在感じている外界…それが現実かどうかなど誰も認識できない。
永遠に「醒めなければ」それこそが唯一の現実であると(あくまでも)仮定できるのだが、もし…もしこれが「醒めて」しまえばそれは夢だったということになる。もっとも、そうして醒めた先が本当に現実なのかどうかも解らないのだが。
逆に夢を見るために眠ったとしてもその行為は元々の世界を抜け出すことであり、その先に待っているものこそ現実かもしれない。

我々はそんなあやふやな境界線をユラリユラリと漂いながらこの世界を「生きて」いるのだ。
常に体は右へ左へと動くが、足はいつも線上にあるためその体全てを一方に預けることは無い。

自分がどちらの領域にいるか。
それがはっきりする瞬間があるとすれば…



そう、それこそ命がそこで終わったときくらいのものであろうか。










DREAM IN REAL, or REAL IN DREAM    

前編











何にせよ、万人にとってすべからく睡眠とは重要かつ甘美なものであることはおそらく間違いないと思われる。
故に我ら人類は、それを如何に快適に過ごすかということには多大な労力と思考力を費やしてきたといっても過言ではない。

例えば寝具。
眠りに落ちるまで、意識が無い間、覚醒してからのまどろみの中、と睡眠の間に自らの体をゆだね横たえるといった意味では最も重要なものの内として挙げられることであろう。

藁や葉っぱなどから羽毛や最新の化学繊維まで、人の歴史と欲求と共に進化してきたともいえる。
ソファーなどの適度な手応えとは違いどこまでも軽く、柔らかく体を包み込むように………

その中で人は、その感触以外の外部との接触を完全に断ち、己の内へ篭って夢を見る。
「肉体」から抜け出し「精神」を深い海のそこへと沈め現世から大きく飛翔した世界に己を見出すのだ。そう、まるで世界を抱くように。

…ひょっとしたらこれは、人に限らず生物全てが持つ願望そのものなのかもしれない。


「ん…んぅ…ん…………」


――――そんな訳で、己の欲求に身を任せてベッドの上で「大きな」布団に全身を「すっぽり」包み込んで惰眠をむさぼっており――――

「む〜ぅ…」

丁度今しがたそこから目を覚まそうとしている、この話の主人公である沢渡真琴嬢が己に起こった変化に気が付かなかったのも当然と言えるだろう。
















(ええっと…なんの夢だったっけ?)

なんだか楽しかったような…それでいて恐ろしいものを見た気がする。

頭の先から足の先までベッドの布団に包まれながら、起きぬけの寝惚けた頭で沢渡真琴は考えた。
だが多くの人間がそうであるように、ほんのちょっと前(あくまでも意識的にだが)に見たものが思い出せず、考えれば考えるほど頭の中から霞のように薄れて消えていく。

(…ま、いいかぁ)

布団を通してうっすらと目に入る光に目を細める。
夢とはそういうものだ。あれは現実から切り離された『私』が楽しむものであって、『こっちに戻ってきた』自分にはどうでもいい話だ。
元来そう深く物事を考える性質ではない真琴は、その様に結論付け、布団にくるまれたまま一つ大きく伸びをした。

(う〜〜〜〜〜〜〜〜んしょ…)

眠っていた間に収縮していた筋肉をキリキリと音を立てそうなほど四肢を伸ばす。それに伴い心拍数も増大し、思考も徐々に明朗さを取り戻す。

そこで真琴は違和感に気付いた。

「…?」

『出ない』のだ。

どれだけ体を伸ばしても布団の端から手や足の先が出ない。
いくら北国とはいえ、冬の最中でもない今の時期に使用する布団のサイズならば到底ありえない話だ――――――――事実、何日か前にはベッドの木の部分に伸ばした指をぶつけて一気に目が覚めてしまったこともあった。

…そう言えば枕はどこにいったのだろう?

真琴はおぼつかない手つきでパタパタと頭の周囲を探が、一向に目標のものに触れることが出来ない。

…ベッドの下にでも落ちているのだろう。自分は決して寝相のよいほうではないからだ。

そう自分を納得させ、真琴はベッドから出ることにした。とにかく、こうすっぽりと頭から布団に包まっていると暑苦しくてしょうがない。

ゆっくりと上半身を起こす。それに伴い頭に乗っかっている重みも形を変え、雪山のようにベッドにそびえ立ち、やがていつしか隆起に表面がついていけなくなり、ついにはその麓かの隙間から外界の光が差し込んでくる――――――――





――――――――筈であったのだが。

真琴の目に映るものはぼんやりとした光――――布団の繊維を通してくる薄い白光だけであった。

(……………………………………あれ?)

なんだかおかしいなぁそう言えば何でこんなに今日の真琴のベッドは柔らかいんだろぉかまぁいいか上が駄目なら横から出ればいいんだからと起きぬけのまともな判断力の無い頭でそう結論付けた真琴は、四つん這いになりもぞもぞと芋虫のようにベッドから這いずり出ようとした。

だが『暫く』妙にふかふかなベッドに苦労しながらもそれを『続ける』うちに、どうしようもないある違和感に思考が突き動かされ覚醒していく。



どう考えてもオカしい。
こんなに――――――――そう、『いつからこんなに大きなベッドで真琴は寝るようになったのだろう?』

布団をかき分けかき分け、もうかれこれ『一分近く』の匍匐全身になるはずだが一向に端にたどり着かないのだ。
まるでどこまでも終わりの無い霧の中を泳いでいるように先が見えない白い闇に包まれている。

ここに至ってようやく真琴のいまだ半分は眠った脳細胞にも事の異常さを認識しだしてきた。

オカシイ
オカシイ
オカシイ

ゆっくりながらも精神に注意シグナルを鳴らす

ナニカオカシイ
オカシイ
オカシイ
先が
見えない
どこまで
ヘンだ
いったい
何で
分からない




その瞬間


ガクッ

「――――――――ありゃ?」

それまで寝惚けていながらも右・左・右・左と順序良く前進するための両手の、何回目かの右手にいきなり感覚が無くなった。

「あ、あ、あ、うっわぁっ!!」

とっさに重心が前に移行し、そのまま上半身がそこへ吸い込まれる。
ことで踏ん張ろうとするが目が覚めたばかりで力も入らない。
世界の法則への必死の抵抗も空しく、真琴の体は重力の法則に従い『遥か下へと』落下していった。





「きゃんっ!」

接地の衝撃に体を丸める。だが落下中に予想したほどの衝撃とそれに伴う痛みはなかった。

「………ん―――もぉ〜〜〜 何なのよぅ…」

私まだ夢を見てるんだろうか?
そんな考えが頭をよぎる。なぜなら、どう考えても自分はこれほど『落下』するような場所で寝た覚えはないし、また寝るわけもないからだ。事実この―――昼寝に入るために横になったのは使い慣れたベットだったし。
こんな思いも寄らないなことが起こるのは夢の中でしかありえない。

まだどこか霞がかかった頭でそう考え、もぞりもぞりと体をよじりって頭を上げる。
何とははっきりと特定できないが確かに嗅ぎ慣れた香りに包まれているの不審に思いながらも、すぐに真琴はそのまま辺りを見回すことができた。

(………………………………)

―――――――――『驚いたこと』に目に入る景色は真琴の部屋そのものだった。ただ、何処か何かがおかしい気がする。
確かに壁や絨毯の色も、扉の形も、そしてそこかしこに散らばっている漫画や、お菓子などの包み紙―――祐一や秋子さん、名雪まで片付けろとうるさいけど面倒くさい―――までも寝る前そのまま。何の異常もない…ように見える。けど――――――

(まぁ、いいや)

基本的にそう考え込む方でもないこの娘は、ぽりぽりと頭を掻いてそれを片隅へ追いやった。

「なんだ…私もう起きてるんだ…」

そう自分に言い聞かせて頭を振る。

でも…どうして自分はあんなふうに感じたのだろうか?

(多分―――)

錯覚だろう。この違和感も、あの長い落下時間も。
漫画だったかテレビだったかで見たことがあるだけであまりよくは解らないのだけど、何でも一秒くらいの短い時間が物凄く長く感じられることってあるらしいから。
………まぁ…間抜けにもベットから落ちたのは確かだろうけど。ああ、なんだか腹が立つなあ。
見渡したところ、ぴろもいないか…いればこのムシャクシャした気持ちをぶつけてやるのに。



そうして振り向いた真琴の目に映ったものは――――――

…なんとも奇怪なものだった。

目の前に深いそしてやたらと横幅が広く天井がすっきりとした直線の洞窟のようなものが口をあけている。
その奥まではとても見渡せない。
…自分はどうやら、その中からはみ出した、何か大きな白い布のようなものの上にいるようだということに気が付く。

…それが何を意味するのかも理解せずにそのまま顔を動かし、洞窟がある黒い壁に沿って視線を垂直に上げる。

遥か上に白い、まるで山の頂上に積もる雪のようなものが見える。

(ああ…やっぱり夢なんだ)

真琴は思った。
だって多分、私はあそこから『落ちてきたんだもの』。夢なんだからあんな所から落ちても痛くないのは当たり前なんだろう。
夢っていうのは本当に都合よく出来てるものだ…。
この変な壁と自分の部屋っていうのはかなりマッチしないけど、その不整合さも夢ならではの―――――――――

そこで一気に意識が覚醒した。

待ってよ。
ちょっと待ちなさいよ。
マッチしない? 本当に?

先ほど頭から締め出した違和感がファンファーレを鳴らして再び舞い戻る。帰ってきたそれは、まるで武者修行でもしたかのようにはっきりくっきりと明確さを増していた。
それを踏まえて、下ろしていた腰を膝立ちになって上げながらズザバッという凄まじい擬声音を発するかのように真琴はさっきの位置へと頭を戻した。
先ほどと目に入る物に何の違いもない。だけど――――――

真琴は違和感の正体を確認すると、もう一度首を180度回転させた。
やはり目に映るものは、口を開ける洞窟と遥か頭上に続く壁。そしてその頂にある白いもの。だけどこれは――――――私の部屋にあるものだ。
そう、いつも私が寝ているベットに間違いない。その証拠にほら―――あそこにぴろが爪を研ぐために引っかいた傷がはっきりと見える。

そして真上へと顔を向ける。
天井。白い天井と蛍光電灯の光が目に入る。

―――――――――やはりそうだ。
真琴は確信する。
違和感の正体。それは、『何もかもが見慣れたものであるはずなのに妙に視線が低く、そして何より遠く見える』ということだ。

それは、つまり。
この状況が意味することというのはつまり。

(お、おち、お、おちつ、おちて、おちよ、落ち着き〜〜
 って何言ってるのよ!
 す〜〜〜〜は〜〜〜〜す〜〜〜〜は〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 …よし)

意味不明の言葉が頭の中で乱舞する中、真琴は大きく深呼吸をしてそれを無理やり押さえた。
そしてゆっくり目を閉じる。

いち―――
にぃ――――――
さぁ―――――――――ん

秒数のそれよりは幾分長い間隔で3つ数えてから、閉じたときを逆戻しするようにゆっくりと瞼を開ける…………………

「――――――あぅ〜〜〜」

願い空しく、それで周りの景色が変わるわけもなかった。
真琴は脱力したかのようにその場にぺたりと座り込む。

「……………………………」

次の手段、だ。
頬に手をやり、軽くつまんでクイと捻る。

痛い――――――という程には感じられない感覚。

一縷の望みをかけて、更に力を入れて捻る。

「痛い…」

つまりそれは。
俗説が正しいとすればそれはすなわち『これ』が現実であることを明示することになるのだ。



真琴は自分がたどり着いた結論にぷるぷると体を震わせる。
馬鹿馬鹿しい。それこそ夢のような話だ。だけども現状を判断する限り自分にはこうだとしか思えない。
真琴は大きく息を吸い込んだ。
何のために? 
覚めない眠気を覚ます欠伸? もう一度深呼吸? はたまた部屋の空気を味わうため?  

―――いやいやもちろん―――――――――
















「なんで真琴小さくなっちゃったのよぅ!!!?」


―――叫ぶために決まってる。




















追え。追え。
あれを捕らえろ。
爪で引き裂き掻き回し弾き飛ばせ。

彼は狩猟生物としての本能を全開にし、揺れる目標を眼で捕らえてその爪を伸ばす――――――

がどうしても一歩足りない。その毛玉はまるでこちらを嘲笑うかのように爪のほんの先で尻を振っている。
忌々しい。癇に触る。
ますます躍起になって体を伸ばし、その距離を縮めたかと思うと―――

また、ひゅっと身を引き爪をかわす。

畜生! いま少し体が動かせたなら!
彼はまるでそう言うかのように身を揺するが、願い空しく爪は空を切るのみで。

「ほ〜らほらどうしたのよ。もっと頑張りなさい、ぴろ」

そんな彼―――猫―――ぴろ氏を揶揄するよう、沢渡真琴は彼の目の前で猫じゃらしをふりふり揺らしていた。
そんな彼女にぴろは弱々しい声をあげ返した。

ここまでは良くある風景と言えるだろう。多くの人が『猫と遊ぶ』という言葉から連想する姿はこれとそれほど差は無いだろう。

ただ一つ違うとすれば―――
真琴が猫じゃらしを持っていないほうの手で、ぴろがその場から動けないように絨毯に押し付けてがっしりと固定している事だろう。

はっきり言ってイジメである。
それこそ―――ペットの目の前に餌を置きながらどれだけ『おあずけ』できるかを競うという趣味の悪いTVの企画とそう大差ない。
それを嬉々とやれる人間というものはなんとも業の深い生き物であるだろう。
ぴろ氏にとっては、まぁ無視するのが一番なのだろうがそこは猫の本能、目の前をヒラヒラ動く物体には手を伸ばさずにはいられない悲しい習性には逆らえない。

―――――――――ある意味これまた業が深いとも言えるかもしれない。



そんな沢渡真琴は暇を持て余していた。
―――偶にあるのだ。いくら外がいい天気でも、なぜか外出する気分になれない日が。
だからと言って特に部屋の中でしたいことなども無く、手持ちの娯楽品にも飽きが来ている以上、たまたま真琴の部屋に戻っていた『自分の』飼い猫であるぴろを何も考えずに手慰みにいたぶるくらいしかこの『何も無い』時間を埋める方法を思いつかなかったのだ。

もちろん、ぴろ氏がそういう風に使われている己を許容しているはずもないのだが、何とも運が悪かったとしか言いようが無い。

そうしてしばらく真琴がぴろをいじくっていると、トントンと軽いノックの音が聞こえた。

「真琴? 私だけど入ってもいいかな?」

この、真琴が居候している水瀬の家の一人娘である名雪だ。

「どうぞぉー」

真琴は顔も向けずに気だるく返事する。

一拍呼吸を置き、軽い金属音を立てて扉を開け、名雪が手に服類を抱えて部屋に入ってきた。

「はい、これ。真琴の洗濯物も持ってきてあげ―――――――――」

だが入ってきた瞬間目に入ったものに目を丸くして絶句する。
そしてまたも一拍置いてから軽い吐息と共に、

「―――――――――わ」

と実に『この娘らしい』驚きの声を上げた。
部屋の中、それはやや誇張した表現を用いるとすれば―――――――――

『惨状』の二文字が適当だろう。

ゴミ箱一杯のお菓子や食べ物の包装。
そこかしこに積まれてある漫画のカタマリ。
丸められて落ちている、脱ぎ散らかされた服。
床に散らばる小銭やキーホルダー、果ては意味不明の小石やその他諸々の、名雪にはとても判別のつかない小物の数々…
年頃の女の子の部屋というイメージからは軽く数光年ほど隔絶しているそれはお世辞にも美しく整理されているとは言えない。いや、個性的なという言葉すら当てはまらないだろう。
誰に聞いても、1000人に聞けば999人がそう答えるほど明確。
ただ単純な一言のみが体現する

『散らかっている』のだ、と。

「―――また一段と凄くなってるね…」

本人の資質もあるだろうが元々母子家庭であり、自分のことは自分でするようにと躾けた母の教育の賜物で、整理整頓は同年代の子供以上にきっちりと身に付けている名雪にとってはどこの世界かと思い疑う情景である。

「…何が?」

そんな「ゴ×溜め」の中にだらしなく足を放り出して転がっている真琴が顔を動かさずに答える。
注意されたのに加えて、そしてこのボーっと漂っているような心持ちが邪魔されたのに対してという気持ちがあるのだろうか、その短い言葉の端に少し不機嫌さが漂っている。
名雪もそれを感じたのか、多少ゆっくりと口調を整える。

「何がって…お部屋のことに決まってるじゃない。 お母さんにもちゃんとお片づけしなさいってこの前からずっと言われてたのにまだ手を付けてないん………………ああっ!」

そこでようやく、またワンテンポ遅れて真琴の行為に気が付く。
同時にその手からバサッという音を立て、洗いたてで綺麗に折りたたまれた洗濯物が形を乱しながらこぼれ落ちながら、直前までの余裕もかなぐり捨てていつもの彼女からは想像もつかない勢いで一気にまくし立てる。

「またぴろイジめてるのぉ!?  駄目だよっ!可哀想じゃない! 何でそういうことするのぉ!?」

と己が落とした物を踏みそうになるのも構わずに、真琴の手から猫を奪い取ろうとするかのごとく駆け寄り―――――――――

―――そのまま手前で停止した。
目標との距離はほんの僅か
だがそれは彼我の絶対的な境界でもある。

名雪はわかっている――――――
これ以上自分が進めないと。

真琴もわかっている――――――
これ以上彼女は近づいてこれないと。

「うぅ〜〜〜〜〜〜」

もしダチョウが空を飛べる鳥を羨ましがり悔しがるとしたらこんな顔だろうという表情で名雪は真琴を睨み付けた。
そんな名雪の猫アレルギー体質をもちろん熟知している真琴は底意地悪く二マリと笑い、そのまま押さえている手を離そうともしない。

「可哀想じゃないも〜ん。これはいわゆる一つの、あ〜いじょーひょーげ〜んなんだから」

勝手なことをノタマイ、『ねー』と軽く首を傾けてぴろに同意を求める。

恐らくこの時の、ぴろと名雪の心に去来した思いは同一のものであっただろう。
事実2人は即座に同時に抗議の声を上げた。

「み゛〜〜〜〜ぃ」

「ほら嫌がってるよっ!」

だがそんな、客観的に至極まっとうな意見具申にも真琴は一向に耳を貸さない。
それどころか逆により大きな声で何かが爆発したかのように恐ろしく無茶な、屁理屈にもならない暴言を考え無しに吐き出した。
もちろんぴろは押さえたままにだ。

「あ〜〜〜もう、うるさいうるさいうるさいっ! いい? 真琴とぴろの間には名雪なんかには計り知れない深い絆があるのっ! だからこんなことしても真琴ならぴろもいいの―――ってこらっ! 爪立てちゃだめだったら!」

違う。絶対に違う。なんかもー100歩譲って絆とやらがあるとしても、それはもっとその――――――――なんだ、とにかくどう見ても決してこんなものは『親愛なる』絆ではない。それだけは間違いない。

ぴろが言葉でも何でも使えたならば己の尊厳を賭けて間違いなくこう強調したであろうが所詮は畜生、己の口上を邪魔された『お仕置き』に空しく頭を揺らすだけだった。

(ここは同じ(?)人間になんとか…)

そう彼が思ったのかどうかなどわかる由も無いが、酷く情けない目―――要するに他力本願の目でこの場にいるもう一人を見上げる―――――――――



が。


当の少女は。
さっきの剣幕はどこへやら、口元に手を当てて雷にでも打たれたように目を見開いている。
暫しの静寂。

「にぃ…」

雲行きが怪しくなってきたのを察知したのか、恐る恐ると介入するような声があがった。

「ほ〜らっ♪ ぴろもやっぱりそう言っているじゃない」

だがそれに対して飛び出すのは、あくまでも自分に都合のいい解釈。
根拠が無いのは当然としても、説得性すら皆無である。


だがそれは場の雰囲気と名雪に止めを刺すには十分だった。



名雪はふうっと体をかすかに流し、体に入っていた力を抜く。
そして若干伏目がちになりながら噛み締めるように、搾り出すように、そして何より自分に言い聞かせるように声を洩らした。

「そう―――だよ、ね。ごめんね、いらないおせっかいだよね…。私、お邪魔虫さん…だね」

そうして自分が落とした服を拾い、器用に手に持ったまま綺麗に折りたたみなおしながら真琴の机の方に向かい、そのまま空いている場所に置く。
そう、当初の目的を果たしながら名雪は思った。

―――誰にも他人に触れられない『もの』がある。それに…私は無遠慮に触れてしまったのではないか―――

冷静に見れば的違いな後悔である。だが、勢いに押されたのもあるがもともと内向・内省的気味なところがある名雪には一旦そう考えてしまっただけでそう思い至るに足るものであった。

傍目にもはっきり分かるくらい肩を落とし、力無い所作。それは見る者の同情を禁じえない…。

…が、逆を言えば『見ていなければ』別段どうというわけでもない、ということを証明するかのように、彼女が部屋に入ってきてから一度もその顔を見ていない当の原因は心の中で勝ち誇っていた。


―――――――――チョロい。

『通る理屈は正しい理屈』
それはこの家に来てから、ここのもう一人の同居人との『戦い』の間に培われた考えだ。
今まであいつに何度言い負かされたかは数え切れない。
それに比べて名雪は―――こんな言い方が正しいかどうかは分からないが―――『弱い』。
こうもあっさり陥落するなんて。
真琴は特別凄いことを言ったわけでもないと思うんだけど…いや、きっと気がつかない間に成長したに違いない。うんそうに決まった。

『ありがとう祐一』とこの場にいない好敵手に礼を言った。



「―――だけど―――」

はた、とその声で真琴は自分の頭の中から帰還した。

「だけどやっぱり、友達っていうのはそうやって何かを押し付けるものじゃないと思うよ」

それを聞き、ピクンと真琴の体が揺れる。
―――そしてようやく真琴は名雪の方位へ顔を巡らせようとした。

「それに、ね。いつかぴろに仕返しされても知らないよっ?」

だが真琴が目にしたのはその言葉を残して去っていく、名雪の流れる長い髪だけであった。



バタン、と扉が響く。


「―――なに―――よ」

たっぷり一分、真琴は姿勢を保ちながらやっと―――そう返事した。
何だったんだろう今のは。
思い出そうとするが…もともとはっきりとした感覚で捉えられなかったのだ、「思い出す」という行為自体矛盾している。
得体の知れないモヤモヤとしたものと己の頭を、音が出るくらいブンブンと振り払う。

―――何にしろ、興が削がれた―――

真琴は一つ溜息をつき、手に込めていた力を抜く。

「―――あ…」

だがそこにはもう彼はいない。
手を緩めた記憶は無い。だがいつのまにか手の中の温かみはその姿を消していた。

「―――――――――ァ」

聞きなれた鳴き声に何故か再びビクンと体が震える。
体を起こしサッと部屋を眺め渡してみると、果たして彼が窓際に立っていた。

――――目が合う。
離せない、視線が。

自分と同じ目の高さにいるぴろに

異様な
迫力を
感じられて。

「―――なに―――よ」

真琴は先ほどの言葉を再び繰り返した。
考えて出た言葉ではない。あくまでも反射的に―――だ。
まるで…『何かと向かい合っている』かのように。
…………『何かに負けないため』のように。

やがて、なぁ、と軽く鳴いて(家主の秋子さんお手製の)猫専用出入り口の扉をカツンと頭で押し開き、するりとその身を外へと躍らせた。

それが均衡のタガを外すきっかけとなったのか、真琴は堅く握っていた拳をまるでかじかんで自由に動きが取れないでいるかのようにぎこちなく開閉しながら、

「まぁ…今回は名雪に免じてその生意気ぶりも許してあげるわよ」

と、今はもう誰もいない窓に向かってポツリと呟いた。

(なんて格好悪いん…だろ)

これじゃまるで私が負け惜しみ言ってるみたいじゃない!

今更、言い知れない怒りがふつふつと真琴の心に沸いてきたが、彼女はそれを自分の中で消化できるほど大人ではなく、またそれをぶつけるべき相手もすでにいない。
故に真琴は、ずかずかとベッドに入り、頭の上から布団に包まることでそれの代償とした。

こんなときは寝るに限る。一度寝て頭をすっきりさせればこの憤りも収まるだろう。

こうと決めたら行動は速い真琴のことである。
まだ日も高いこともあり完全に寝てしまえるのには時間がかかるとも思っていたのだが、意外と早く真琴の意識は徐々に闇へと沈んでいった。

それには、何かこう…狂った調子をどうにかしたいと言う無意識の思いもあったのかもしれない。












そして最後に―――ひとつ。






完全に意識が消える直前に―――ひとつ。










なにか―――の鳴き声を聞いたような―――気―――が――――――し―――た――――――。










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