人間誰しも『潮時』というのがある。
オレが今まさにそれ。
「あー……」
オレの他誰もいない、一人でいるにはやや広い部屋の中。
オレはとりあえず一人で座って、何をするでもなくボーッと天井を眺めていた。
比較的新しい建物だからだろう、壁も天井も汚れがほとんど目立たない純白で、蛍光灯の明りを眩しいくらいに反射させている。
……いや、実際眩しすぎる。
「うー……」
眩しすぎて光に目が眩んだ。
――――不意に、視界が霞む。
「……あー……」
一度強くまばたき。
目の奥がかっと熱くなり、涙が溢れ出す。
熱い……熱すぎる涙。
まばたきも忘れるほど、ぼーっとしていたのだろうか……。
……って、普通は無意識にするもんだけどな、まばたきは。
「……うー……」
今の状況は……確かに泣けるものかもしれない。
なんというか、『潮時』なのだ。
っていうか、友人たちは口を揃えてそう言っていた。
オレもそう思っている。
ただ、欠けているのは現実感だけ。
……。
「なんでこんなことに」
「……っていうか、このごに及んでそのセリフは失礼だと思うぞ」
オレの魂からのセリフに反応したのは、ちょうど部屋のドアを開けて入ってきたオレの友人――――相沢祐一であった。
手には、どこかの自販機から買ってきたと思しき小さな缶コーヒー。
「ほらよ」
とそれを投げてよこす。
オレはそれを受け取る。
「百五十円な」
「金取るんか」
「……冗談だ」
………一応好意と考えておこう。
混乱している頭を落ちつけるために、コーヒーを飲む。
……冷たいが、丁度いい。その感触で、オレは初めて自分の身体が緊張で火照っていたのを知った。
「フフフ……」
「……なんだよ?」
オレの方を向いて、不気味な笑いを浮かべる相沢。
こいつがこういう風に笑う時は――――大体、人を意図的にからかう時と決まっている。
「しかし、ついに北川先生も年貢の納め時っすねぇ」
「うっさい……」
予想通り、やつはオレをからかう気だ。
冷たくあしらおうとするが……引いてくれそうにない。
……よくよく思い返してみれば、相沢の時のオレも同じようにしていたしな。
他人の不幸は密の味――――とはよく聞く言葉だが、はたしてこれは不幸と呼べるのだろうか?
「だけど、お前らもようやくって感じだけどな。俺らから言わせてもらえば」
「お前らが早かったんだよ。なんだよ、大学在学中に学生結婚て」
そう……相沢祐一という男は、ふざけたことに大学生の時に付き合っていた恋人と、既に結婚していたのだった。
まぁその相手との交際期間を考えれば……普通と言えなくもないが、なんといっても地盤のしっかりしていない学生だ。当時は色々あったもんだ。
「んー? まぁそうかもなぁ。でもそれで栞を不幸にさせたわけでなし……結果オーライってとこだろ」
……オレは、たまにこいつのこの気楽さがたまらなく羨ましくなってくる。
昔は『ちょっと変なやつ』という感じだったが、今の奥さん――――旧姓美坂栞――――と付き合い始めた辺りから、なんというか落ちついてきた。
……で、落ちついたはいいんだが、そこからさらに妙に捻じ曲がっていって、今では楽天的と言いたくなるくらい気楽なやつになった。
不思議なことに、その気楽さがツキを呼び込むのか、上手いこといってるみたいだが。
と、相沢がさらににやぁっと笑う。
邪悪な……限りなく邪悪な、悪魔の笑いにオレには見えた。
「それにしても、アレかぁ……今日からは、正式におまえが俺の『義兄』になるってわけだな」
「うっ……!」
言って欲しくないことを言いやがった……。
『義兄』……そうだ。そうなのだ……。
今のオレの置かれている状況――――もはや言うまでもないだろう。
「結婚、おめでとう。兄貴よ!!」
「うっさい馬鹿野郎! 兄貴なんて呼ぶな、気色悪い!!」
オレの衣装は、まっさらな染み一つ無い白いタキシード……髪は綺麗に整えられ、アンテナすら立っていない。
今、オレと時を同じくして別室では、彼女が純白のウェディングドレスを着ているところだろう……。
「フッ……大人しくすることだな、事実は変えられんぞ」
「……わかってる……」
オレを『義兄』と呼ぶ相沢――――つまり、だ。その妻である相沢栞はオレの『義妹』ということになるわけであって……。
「さぁて、そろそろ花嫁さんのところへ行くとすっか、北川」
「うっ……も、もうちょっと待たない……?」
コーヒーの空き缶をクズ籠に投げ捨て、相沢が立ちあがってオレの背中をばしっと叩く。
尻ごみするオレだが、相沢はくわっと目を見開くと、無理矢理オレの腕を取って歩き出す。
そして……。
「やかましい! 今までさんざん待たせて来たんだろうが。今日くらいはあいつを――――香里を待たせるなよ」
そう言った。
オレの花嫁の名――――相沢栞の血の繋がった姉である、美坂香里……いや、今日からは北川香里……だ。
確かに、相沢の言う通り待たせすぎた……という気もする。
いや、実際そうだったんだろう。
恋人として付き合って、大体6年くらいか……友人としての付き合いを含めれば、実に10年以上の付き合いになる。
決して短い年月ではない。その間に、色々なことがあった。
……これは、全てが終わった後――――相沢と栞ちゃんが付き合い始めた後に聞いた話だが、美坂の妹の栞ちゃんは、長生きの出来ない身体だったそうだ。
そんな彼女が、無事に健康を取り戻し普通に暮らせるようになった。
オレと美坂が恋人付き合いを始めたのは、それからしばらくがたった頃だったろうか。
だから……期間的にはオレたちと相沢たちは、同じくらいから付き合い始めたと言ってもいいだろう。
……。
…。
えーっと、つまり……。
「妹が先に結婚しちまって、焦っていたとでも言いたいのか、おまえは?」
「い、いや! そんなことはないぞ、決して!!」
ジト目でオレを睨む相沢。
そんなことは……思ってないぞ、オレは……多分。
……いや、まぁ確かに栞ちゃんが結婚してからというもの、美坂の無言のプレッシャーが常にオレを苛んでいたような気がしないでもなかったけど。
……大学を卒業してから、無事に就職して比較的安定した生活をしはじめてから、言葉の端々にそのよーなニュアンスが含まれていたのも、気のせいではないだろう。
……。
……ある意味、そのプレッシャーに押し負けてしまって、結婚に踏み切ったというのも、間違いではない。
「――――不安なんだよ」
オレは、正直に言った。
今はオレと相沢二人だけだ。
相沢ともずいぶん長い付き合いだし――――これからも付き合っていくことになるだろう。
そんなやつだからこそ、オレは全て吐き出しておきたかった。
「不安……」
「ああ、だってよ……結婚するってことは、すなわちアレだ……家族になるってわけだ。オレは、オレ一人だけじゃなくて、美坂の人生においても責任を持たなけりゃならないってことになる。
オレは……正直、オレ一人の面倒みるだけで精一杯だった。そんなオレが、美坂と一緒にこれからやっていけるのか、というか……えーっと、なんだ……つまり」
「要するに……香里を幸せにする自信がない、と?」
相沢が一言で言い切った。
別に、怒っても、呆れてもいない……淡々とした表情で。
「……そう、だ」
あまりにもあっさりと言われたので面食らったが、オレは相沢の言葉に頷いた。
そうだ……相沢の言う通り、オレは美坂を幸せにするっていう自信がない。
彼女のことは、はっきり言って好きだ。この世で一番愛している者は誰かと聞かれれば、オレは彼女の名を挙げる。
もしも、彼女の命と引き換えにこの世が救われる……という無茶苦茶な状況になったとしても、オレは間違いなく彼女を選ぶだろう。
美坂には、幸せになってもらいたい……それが、オレの望むことだ。
だから……オレといて不幸になるぐらいだったら、いっそ………と考えないわけでもない。
「――――阿呆が」
今度は、相沢は呆れた、と言わんばかりに溜息をついた。
心底呆れた……といった感じだ。
「う、なんだよ、それ……」
「おまえ、マジでそんなこと考えてんのかよ……? かぁっ、こりゃ、結婚してからも香里が大変そうだな……。
いいか、よおぉぉっく考えろよ。香里が幸せになるためには、『誰と一緒にいる』のが一番なのか。おまえ以外に、いないだろーがよ」
「けどさぁ……」
「……えーい、女々しいやつめ! おまえ以外にいないからこそ、香里はずっと待っていたんじゃねぇか!!
自覚しろ。この世界に、香里を幸せにしてやれる男は、おまえしかいないんだ」
……オレだけが、香里を幸せにできる……。
……。
……いや、多分オレは相沢に言われるまでもなく、そのことを知っていた。
知っていながら……自信がない、と言って逃げていたに過ぎない。
美坂も……オレと同じ気持ちなんだ……そう信じたい。
「うー……ほんとにオレなんかでいいのか……?」
「それは、オレに言うセリフじゃなかろう。プロポーズする時に済ませとけ」
確かに。
「北川。友人として――――いや、既婚者として忠告しておく。おまえ一人で幸せを掴もうと思うな。おまえたちは、これから二人で生きていくんだ……だから幸せは、二人で手にいれるもんなんだぜ。
だからさ、そんなに緊張するなって。おまえが至らない分は、香里がフォローしてくれるさ」
「……そうか……そういうもんか」
「ああ、そうだ。結婚四年目。『離婚の危機期間』を乗り切った男が言うんだ。間違いない」
そう言って相沢は笑う。
多分、こうしたところがこの男の強さなんだろう。
それが羨ましくもあり、今は何よりもありがたかった。
――――ちなみに、『離婚の危機期間』とは結婚四年目に離婚するケースが多いため、そう呼ばれているということだ。
「もう、迷ってても仕方ないだろ? 男らしく、ずばっと決めてこい!」
「……そうだな。オレにどこまでできるかわからないが……美坂には幸せになってもらいたい。やれるだけやってみるか」
決意も新たに、オレは言った。
と、相沢が不思議そうな顔をして、オレを見ている。
「北川………おまえさ、まだ香里のこと名字で呼んでるのか? 今日からは夫婦だろ? いいかげん、『香里』って呼んだらどうだ?」
「あー……そうだな……」
言われるまでもなく気がついてはいたが……オレは、未だに自分の嫁になる人の事を、名字で呼んでいた。
昔からの惰性、ということもあるが……何より、照れくさいという感情が強かった。
けど、いつまでも『美坂』って呼ぶわけにはいかないしな……。
……。
……そういえば、美坂って、オレのこといつの間にか『潤』って下の名前で呼ぶようになってたよなぁ。
うーむ……こんなところでも、オレは美坂のことを待たせていたのだろうか……?
「さぁて、いよいよ花嫁さんとのご対面だな」
そうこうしているうちに、オレたち二人は美坂のいるであろう控え室の前へと辿り着いてしまった。
この扉の向こうに、美坂がいる……そう思うと、再び緊張してきてしまった。
「う、マジで会わなきゃだめなのか……?」
「当たり前だろーが。式の前に、花嫁とちゃんと顔合わせとけよ」
そう言って相沢がドアのノブを握る。
しかし、それよりも早く扉が開かれ、向こう側から人が出てくる。
「あ、祐一さん? ……それに、北川さんも」
中から出てきたのは、相沢の妻であり、今日からはオレの義理の妹となる相沢栞だった。
彼女は、直前まで姉の側についているはずだったのだが……。
中を見られないように、素早く後ろ手にドアを締める。
「祐一さん、ちゃんと北川さんを連れて来てくれたんですね」
「ああ、やっぱり、俺が行かないとこいつ、いつまでたっても来なかったぜ、きっと」
……そうか、相沢がオレをここにつれて来たのは、全て栞ちゃんの仕業だったのか。
悔しいことに、確かに相沢がオレを連れに来なければ、オレは部屋から出なかったであろう。
「やっぱり……祐一さんに頼んで正解でしたね。
さ、北川さん。お姉ちゃんが中で待ってますから、がちっと決めてきちゃってください」
何をだ。
言うだけ言うと、栞ちゃんは相沢の腕を取ってその場から離れようとする。
……オレと美坂を二人きりにしようというのか……? そんな酷なことはないだろう……。
「……」
だが、いつまでもそうしているわけにもいくまい。
さっき決断したじゃないか……。
「おい、北川」
と、連れ去られたはずの相沢が、一人で引き返して来てオレに囁いた。
「いいか、既婚者としての最後のアドバイスだ」
「うむ……」
「裸エプロンは、新婚三ヶ月までが限度だ。それ以降は鮮度が落ちる。肝に銘じておけ」
「うっさい、一辺死んでこい!」
その後、フハハハハッ、となぜか高笑いしながら相沢は行った。
……一応、あいつなりの気遣いだと受けとっておこう。
サンキュー、ブラザー。
「さて……」
気合を入れ直し、タキシードの襟を整え、大きく深呼吸。
……。
覚悟は、固まった……多分。
例えこの先どうなろうと……大丈夫だ。
もしかしたら、オレがギャンブルに溺れて借金漬けの生活になるということもあるかもしれないし、逆に彼女がとんでもない浪費妻になってしまうかもしれないし、あるいは息子がぐれて家庭内暴力がはびこるかもしれないし……と、悩みは尽きない。
……うう、ほんとにこれでいいのだろうか……?
「……行くか」
これ以上悩んでいても仕方ない。
とっとと扉を開けて、花嫁を安心させてやらなきゃ、な……。
意を決し、オレは思いきって扉を開け、そして……。
「――――っ」
――――言葉を失った。
「でも、ほんとさっきの北川さん、祐一さんの時と同じでしたね」
「全くだ。……まぁ、気持ちはわからんでもないけどなぁ」
「私たちの時は……色々ありましたからね。不安になるのも仕方ないですよ」
「それに較べれば、あいつらなんてまだましな方だとは思うけどな。
やっぱり、不安なものは不安なんだろ」
「……ちょっと、心配になってきたなぁ……北川さん、大丈夫かな」
「あー、まぁ大丈夫だろ。俺の時と一緒だよ、香里の花嫁姿見たら、一発でブッ飛ぶさ」
「ふふ……そうですね。あの時の祐一さん、もうおかしいくらいでしたもんね」
「ぐっ……! ま、まぁ、心配いらないだろ。あの二人なら、旨くいくさ」
「――――潤?」
オレの姿を見て、美坂――――いや、香里は言った。
そのオレはというと……何も言えず、ドアのところでバカみたいに突っ立っているだけだった。
「よく似合ってるわ。……ほんとに」
「……バカ。それはオレのセリフだろ」
先にオレが言うべきセリフを、先に取られてしまった。
……いや、まぁ一目彼女の花嫁姿を見ただけで、魂が地平の彼方までブッ飛んで呆然としてしまったオレが言える立場ではないんだが。
それぐらい――――オレの意識が、一瞬ブラックアウトしてしまうくらい、彼女の花嫁姿……というか、ウェディングドレス姿は綺麗だった。
『綺麗』……そう、それが一番ピッタリくる言葉だと思う。
他にも色々と、その『美』を称える言葉はあるだろうけども……今のオレの気持ちを、一番率直に伝える言葉は、これ以外になかった。
「――――とても、綺麗だぜ、『香里』」
自分でも意外なほど、すんなりとその言葉がでてきた。
そして、彼女の名を呼んだ瞬間――――いや、本当は彼女の姿を見た瞬間に――――今までオレの中をわだかまっていた不安のすべてが、すぅっと消えていく感じがした。
「潤……あたしは今、今までの人生の中で一番幸せよ……」
彼女が、そう言った。
満面の――――ではない、ほんの少し儚い感じの微笑みが、なによりも美しかった。
ほんの少し潤んだ瞳……それは、嬉し涙だろうか。
……それが、さっきの相沢の言葉を裏付ける。
『自覚しろ。この世界に、香里を幸せにしてやれる男は、おまえしかいないんだ』
……そうだ。彼女が待っていたのは……そしてこれからも共に歩んでいくことを選んだ男は、他でもないこのオレなんだ。
今までの不安を消し飛ばし、そんな自信がオレの中に湧き上がってくる。
「香里……」
不意に、衝動が沸き起こってくる。
彼女を壊れるくらい、きつく抱きしめたくなる……そんな衝動だ。
そして、オレはその衝動のままに、香里を抱きしめた。
「潤……」
オレに抱きしめられたまま、香里が言う。
「あたしたち――――今よりももっと、幸せになろうね……」
――――今よりももっと……。
これから先のことなんて、どうなるかわからんが……。
「ああ、努力する」
オレは、そう答えた。
これから先、オレたちの前に立ちはだかるのは、はたして望んだ通りの幸せか、あるいは望まれざる苦難か……?
先のことなんてわからない……ただ、オレたちの前に何があろうとも、それを乗り越えていくのは、オレたち二人……潤と香里の二人揃って、ということに違いはない。
全てのものを、二人で受け入れていこう……それこそ、死が二人を別つまで……。
……。
そんなオレの、最大の悲劇は……。
本当ならば一人で済むはずだった受難を……香里の分まで背負ってしまう羽目になったことだ。
人は、それを『責任』と呼ぶ。
……だが、それも香里との『愛』と引き換えだというのなら……悪くない。
何よりも尊い『愛』を得るためならば、岩よりも遥かに重いその悲劇……甘んじてオレは受ける。
「香里……愛してる」
今までにも、何度か言ったことのある言葉。
けれど、今までとは違った……心の底からの、オレの気持ちを込めてオレは言い、彼女をきつく抱きしめた。
Mr.Jの悲劇は岩より重い
……しかし、その幸せは甘く、優しく……。
《あとがき》
ども〜、ゆーいちです〜
甘々なSSを書こうとして……成果がこれです(汗)
ほんとはもうちょっと、結婚後の絶望的な風景を描こうかとも思いましたが、未婚者のため想像つきませんでした(滝汗)
えーっと、「裸エプロンは〜」と「離婚の危機期間」の件は一応自分の記憶を頼りに書いたので、もしかしたら間違っているかもしれません……というか、これの元ネタってなんでしたっけ?(ナイアガラ滝汗)
北川×香里のSSなのに、メインは祐一と北川の会話……っつーもの、あれですが(爆)
申し訳ないです
あと、香里のウェディング姿は、己の萌えにかけて必死に妄想してください(核爆)
……うむ、後書きはいつ書いても苦手だ……
あまり長々と書くのもあれなので、とりあえずこの辺で終わらせときます
こんな作品ですが、楽しんでいただければ幸いです