FARGO総本山



淡く白く灯る光がすべてを暖かい空気で満たしている。
ただ、穏やかで、揺るぎの無い空間。確信に満ちた空間とでも云うべきか。

別の言い方をすれば、確信という名の狂信を満たす空間なのだろう。

足音も立てず、その中を歩く高槻はふとそんな事を考える。
相も変わらず、この満ち足りた空間は酷く居心地が悪い。あまりにも場違いな所にいるという印象。
それは、自分が狂人ではあっても、狂信者では無いという証明なのだろう。
尤も、そんな事は最初から分かっていた事なのだが。

遥か高見にある天井は、光が届かず薄闇に閉ざされ、威圧感をかもし出す。巨大な通路。巨大な柱。すべてが荘厳さをかもし出している。無駄に広く、無駄に大きい。
その豪奢な造りを高槻は嫌いではなかったが、静謐な気配は苦手極まりない。
曲がりなりにも聖地であり、神殿であるという事か。

「ったく、邪教なら邪教らしく、もっと禍禍しい雰囲気を漂わせろ」

高槻は足を止め、蝋燭の光に波打つように揺れる聖堂へ至る通路を振り返り、唇をひん曲げながら吐き捨てた。

「どうでした?」

正殿の出口の所で待ち構えていた高槻の部隊『ブラッディ・ムーン』の幹部が低く篭もった声で訊ねてくる。
高槻は屋外へと歩き出し、フンと馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「決まってるだろ? 聞く耳なんざ持ちやしねえ。教主様は最後まで神の奇跡を信じて戦えとのお達しだ。いずれ、外に出ていた採血部隊も呼び寄せて、この総本山で総力戦って考えだろうよ」

「…冗談でしょう?」

幹部は混乱する考えをまとめるようにしばし沈黙し、絞るようにそう言った。

「本気だな。あの教主様はろくに戦闘訓練もした事ねえような教団員たちで戦争をやらかすつもりなんだよ。ケッ、馬鹿か? 勝てる訳ねえだろうが。フンッ、まあ云ってみりゃ、それが信仰ってもんなんだろうよ。信じるもののためならば命すらも惜しまないって便法か」

幹部は顔を青ざめさせ、あたりを窺う。幸い、周囲には人影は無い。それを確認し、安堵の吐息を付きかけた彼はすぐさまその息を呑み込む。
自分達のボスは今、はっきりと教主やそれに連なる指導部を貶し倒した。そう、絶対にして確信の対象である神の預言者である教主を罵倒したのだ。
この高槻という男は粗暴ではあるが、それ以上に油断のならない才気と慎重さを兼ね備えている。例え、心中はともかく、上層部への非難を口に出して言う事など間違ってもありえない。
それをこの場で堂々と言葉にして出した…その意味を解する事が出来ず思わずマジマジと彼は高槻の背中を凝視した。
その高槻が突然、前触れも無く此方に振り向き、幹部は驚愕に声すら上げそうになる。
そんな部下をジロリと睨み、ポツリと高槻は告げた。

「よう…お前…信仰って持ってるか?」

一瞬、何を言われたかを理解できずポカンと口を開いた幹部は、次の瞬間、この高槻という男の真意を理解した。そして、それは彼にとっても納得の出来る意だ。故に彼はこう答える。

「さて、その信仰ってヤツは金になるんですかね?」

ニヤリと笑って高槻は返した。

「ついこの間までは金になったな。だが、これからは逆になる」

自分の言葉が自分の内に反響し、木霊する。
そうだ。もはやメリットなど欠片も無い。なら、これ以上信仰とやらに付き合うのは馬鹿でしかない。誰が沈むと分かっている船になど残るものか。

「潮時だな」

高槻は雲を貫くように高々と聳える神の山を振り仰ぎ、嘲るように口端を吊り上げた。

採血部隊の半数以上は、自分達と同じように血と快楽を好む無頼どもでしかない。FARGO教団としての教義を信じて殺戮を行ってきたものの方が少ないとすら言える。
あと数ヶ月も経たずに三華の連合軍が結成され、この総本山へと攻め寄せてくるだろう。そうなった場合、真に信仰を持つ者以外はどうするか……。

「ま、それまでに逃げ出す準備は整えとかねえとな」

「高槻隊長」

「なんだよ」

高槻は険の篭もった声で問い返した。部下の声音にどこか不安じみた響きがあったからだ。自分の考えに不信を抱かれるほど不快な事はない。 もし、この男が教団から離脱する事を嫌がるのなら、情報などを漏らして事態がややこしくなる前に始末してしまわねばならない。その煩雑さを思い、声音が厳しくなったのだ。
だが、部下は少し高槻の想像とは違った答えを返してきた。

「スレイヤーって知ってます?」

「あ? ああ、あのFARGO教団員を殺して回ってるっていうイカレたヤツか?」

「ええ、軍の連中も面倒ですけど、そのスレイヤー…かなりヤバいヤツみたいですよ? 『クリムゾン・エアー』や『ノイエ・クリーク』の連中まで殺られたそうですし…」

「おい、オレ様はよ……回りくどいのは殺意が沸くんだがなあ」

ギロリ、と何が云いたいのか、という趣旨の言葉を吐きかけた高槻に、幹部はヒュっと息を呑み込み、慌てて捲くし立てた。

「あ、その、つまりここから逃げ出しても、そんなのに付け狙われたらヤバいんじゃないかと…」

「ほう…お前はオレの『ブラッディ・ムーン』がそんな訳のわからねえ殺戮者とやらにやられるとでも言うのか? 引いてはこの高槻がそんなイカレやろうにやられるとでも?」

幹部の男は声も無く、震え上がった。この男の残虐性は間近で延々と見続けた。傍らから見ている分には爽快極まりないが、それが一旦自分に向けられた時の恐怖たるや…
実際、幾人もの味方が、気の短い高槻という男の逆鱗に触れ、言語に絶する最後を遂げている。理不尽な言い掛かりを掛けられ、始末された者も多い。
この男だけは敵に回してはならない。この男に睨まれてはならない。それがFARGOの中での鉄則であり、狂犬と忌み嫌われる高槻という男であったのだ。

「ふん、まあいい。お前の懸念は尤もだ。ここから離脱する前に、FARGOの情報網を使って、そのスレイヤーとかいうヤツの経歴を根こそぎ洗い出しとけ。上手くすりゃ、弱みも見つかるだろうさ」

「わ、分かりました」

逃げるように駆け去っていく部下の姿を薄めで追いながら、高槻は心底馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
何もかもが馬鹿らしい。自分以外の何もかもが、だ。
世界は愚かで満ちている。

高槻は両手を広げ、肺へと息を吸い込む。
吸い込めるだけ吸い込むと、後は吐き出すだけだ。そう、何もかもさらけ出し、暴露し、ぶちまける。

「まだだ」

こみ上げるそれは誰もが一応に邪悪と見なす、歪んだ狂笑。

「まだ、オレは遊び足りねえ! 喰い足りねえ! 殺し足りねえ! 犯し足りねえ! まだだ! まだだ! まだだぁ! ククッ! クハハハハハハ! もっともっともっと、オレはこの世界を好き放題犯しまくってやるっ! もっとだぁぁ!」

笑う、笑う。悪魔の狂笑。歪み、壊れ、狂い、それでいて誰よりも正気。
それはどこから見ても、人の形をしている邪悪…そのものだった。
















§ § §
















世間に広く知られる事の無い話を、異聞という。

なれば、ここよりしばし記す記述は、異聞とは云い難きものなのかもしれない。

今より記すは歴史の記述。表に記された時代の流れである。



この物語の主人公である少年。
彼が<殺戮者(スレイヤー)>の名称で、歴史の表舞台へと現れるのは盟約暦985年の夏。
このグエンディーナ大陸の住人には見ることの出来ぬ、金色の髪と金月の瞳を持つ少年は、ただ独りでFARGOの戦闘教団員を血祭りに挙げていく。

人とは思えぬ強さと、全く容赦のない殺戮振りから、FARGOに属する者たちは少年を<サウザントスレイヤー>と呼び怖れ、その容赦の無い残虐さは教団員以外の一般人からも恐怖とともに語られる。

この時期、<殺戮者(スレイヤー)>の名は恐怖の代名詞だった。



盟約暦985年の晩秋。
それまで、むざむざとFARGOの跳梁を許していた御音王国・カノン皇国・東鳩帝国の三華三国は、漸く利害調整を整え、FARGOに対する連合討伐軍を編成した。
それはFARGOが浄化と称する破壊を開始してから一年後。あまりにも遅すぎる全面討伐ではあったが、三華はその猶予期間に見合うだけの最大の兵力を準備し、送り出した。

東鳩帝国は、御堂鉦継侯爵率いる黒色重装強撃兵団三万五〇〇〇。
御音王国からは、岡田正栄戦統院首席率いるイブニング・グロウ選抜騎兵隊二万。
そしてカノン皇国から大河原茂美侯爵直卒の抜刀騎士団二万五〇〇〇。
総計にして八万からなる三華連合軍。
この時代が多少のイザコザがあったとはいえ、完全に戦乱とは無縁の安定期の最中であった事を考えるなら、三華三国は当時用意しうる限界の兵力を投入したと言えるだろう。
いや、それだけの戦力を投入せざるを得ないほど、FARGOによる社会不安は大陸中に広がっていたと云っても良い。
敗北は許されなかったのだ。下手に戦力を小出しにして万が一FARGOに敗れた場合、いや、敗れずとも戦闘が長引いた場合、自分たちを脅かす邪教を排除できない王権を、大陸の住民たちは信用しなくなるだろう。
そうなれば、最悪の場合、大陸中を巻き込む争乱が発生する可能性すらあったのだ。


彼ら三華連合討伐軍に課せられたのは勝利。
それも迅速なる勝利であった。


三華連合軍総計八万もの大軍が、FARGO総本山への急襲を敢行した。
それは一戦でのFARGOの殲滅が狙いである。


その作戦はまったくの常道で、この場合、これ以外に選択肢は無く、また選択肢を探す必要もなかった。


だが、結果はあまりに凄惨なものだった。





教団は連合討伐軍編成に対抗し、各地に散らばった教団員を総本山に召集。およそ五万を越える狂信者が連合討伐軍を迎え撃つ事になった。
だが、教団の実戦勢力であり、対討伐軍の中心となるべき採血部隊のおよそ四割が逃亡、もしくは召集に応じず、FARGOはほぼ素人集団の集まりという状態で討伐軍を迎え撃つ事になる。
だが死を恐れぬ盲信の徒は、執拗に抵抗を続け、楽勝と思われていた戦闘は意外と長引く結果となる。
しかし狂猛な性格で知られる御堂侯爵の強攻をきっかけに、連合討伐軍は教団軍の撃破に成功。一万を超える教団員が討ち取られ、残る教団軍四万は総本山の神殿内に押しこもり、連合討伐軍は本山の中腹に展開。体勢を整えなおし、最後の攻略へと取り掛かろうとする。

阿鼻叫喚の地獄が繰り広げられたのはそのすぐ後であった。

連合討伐軍は、この瞬間に至るまで、自分達が相手としている者たちが、正真正銘の狂信に犯された者たちだと云う事を明確に認識していなかったのだろう。

狂信者の頂点であるFARGO教主が、敗色濃い戦況の中で、独り討伐軍の軍勢の前に姿を現した時、軍の誰もが降伏を乞いに来たと考えた。
だが、八万対の瞳が見守る中で、教主が口にしたのは命乞いの言葉ではなく……朗々とした呪であった。

――絶対魔術(アブソルート・マジック)

それを彼らが悟った時は、あまりにも遅すぎた。

彼らが立つ、本山の裾野の大地は一瞬にして煮えたぎる溶岩の海へと姿を変えた。そして三華連合討伐軍八万の兵士の悉くが足元から吹き出る灼熱によって燃え盛る松明へと強制的に変化させられた。
その八万の人々が放った断末魔の絶叫は、その全員が命を失う瞬間まで、当たり一帯にこびりつくように響き続けたという。それはこの世のものとは思えぬほどのおぞましい代物だった。

生存者は僅か千名にも満たず。御堂侯爵をはじめとした各国の指揮官もまた溶岩の海へと沈み、当時の三華が限界まで振り絞り、捻り出した実戦戦力と戦闘指揮官は一瞬にして消滅した。


無論、FARGO教団もただでは済まなかった。
済むはずが無い。これほどの惨劇を招いておきながら、ただで済むはずがない。

ここに、大盟約世界の歴史上で最も新しいとされる≪大盟約≫…すなわち≪永遠の盟約≫の発動が確認された。

連合討伐軍八万が焼殺された僅か二分後、教主をはじめとした教団員四万は跡形も無く、消失した。
何の前触れも無く、現象も無く、意図も無く、思考も理性も感情も無く……まるで初めから何も存在しなかったように、彼らは世界から存在を抹消されたのだ。
肉体が薄れ、魂が霞み、意識が消えていく中で彼らが何を思ったかは定かでは無い。

残されたのは、微かに燃え残った人の残骸と、完璧なまでに無人と化した山岳神殿だけであったという。

こうして、戦史上でも類を見ない十三万という言語を絶する犠牲を元に、FARGO教団は名実共にグエンディーナ大陸から消滅した。
残された総本山は≪失われた聖地≫の名で、人々の間に惨劇の記憶と共に忌み恐れられる結果となる。


正史では『FARGO争乱』と呼ばれる一連の混乱は、この時点で終結した事となっている。

だが、本当の意味での終わりは、今少し先となる。

当時の多くの文書から、後の顛末が断片的に見ることが出来る。
FARGO教主の召集に応じなかったFARGO採血部隊。残党の名で一括りにされる彼らの暴挙は、FARGO消滅後も潰える事はなかったのだ。
一度、血と殺戮の快楽を覚えた彼らは、FARGOが潰えてなお、その暴力性をもって各地の村々を荒らし回った。
これらを討伐すべき三華は、総本山攻略戦で実働戦力の殆どを消失し、さらにこの惨憺たる損害の責任追求から権力争いが激化している始末で、FARGOの残党は完全に野放しの状態であった。

だが、これら武装残党の凶行も数ヵ月後には完全に消滅する。

彼ら武装残党が姿を消す直前、各地で金髪金眼の少年の姿が目撃されていた。










――そして物語は再び開かれる

――異聞は再び開かれる


  死という終焉に向かって

  無という終幕に向かって

  さらなる絶望に向かって――





















魔法戦国群星伝・異聞





< Despair Dead ― stage4>






――FARGO消滅から数ヵ月後



――朧月夜

冷たい…冷たい…
夜気が冷たい。
闇が冷たい。
足元を流れる沢の水が冷たい。
吐く息が冷たい。
降り注ぐ月明りが冷たい。
血の流れが冷たい。

死が…冷たい。



夜闇に満たされた冬の訪れを待つ山中を、一人の男が駆けていた。
息を滾らせ、視線を泳がせ、鼓動を乱し、全身を凍えきったように震えながら。
足元を流れるせせらぎが、銀の飛沫をあげて跳ね返る中を必死に走り続ける。
逃げ続ける。

だが、逃げながらも彼には現実から逃避する事は敵わなかった。
死が迫っているという恐怖から目を逸らす事が出来なかった。

震える。震える。震える。
何もかもが冷たい。
自分を見捨てたように冷たい。
死の予感がひたひたと迫っている。

男は息を整えようと立ち止まり、瞳の焦点を足元に合わせて…ギョッと息を呑んだ。
白い月光に照らされたせせらぎは、何故か黒い流れが幾筋も混ざり、斑となっている。
血だ。血だ。
呆然と彼が見つめる前で、青いはずのせせらぎが黒く染まっていく。黒く、黒く、すべてを染め上げていく。
それを昼間、太陽の下で見たならば、赤い小川の流れる様子がはっきりと見定める事が出来ただろう。
意識が、竦む。
一面を黒く染めるほどの大量の血液。一体、どれほどの血を流せば血河と化すのか。
彼には、その黒く染まっていく流れが、自分の行く末を暗示しているとしか見えなかった。
そして、それはまったくの正解でしかなかった。

ピシャリ、と水を踏む音が背後で響く。
振り向くまでも無い。
月に照らされた黒い影が、長く長く伸びている。
死神の影か、殺意の影か。
それとも死の影というべきか。
死という名を持つ冷気が漂い、男の首筋を舐めるように撫でた。

「百四十三人」

影は呟いた。
その数を男は知っている。自分を除く仲間の総数。旧採血部隊『ブルー・クラン』の総員数。

「お前が百四十四人目…つまりは最後」

冷たく澱む声音の底に、たゆたう愉悦を感じ取り、男は思わず振り返る。
死を目の当たりにするという好奇に耐え切れず、はたまた恐怖に耐え切れず。
そして魂魄すらも痙攣させた。

月を背に、佇む少年が一人。
金色の姿、狂気の具現、死の到来。
悪夢の…導べ

少年は一人、囀るように口ずさむ。
憎しみ? 歓喜?
すべてが入り混じった、混沌の声音。

「死にたいと思った事はあるかい?」

「あ…うぁ」

死にたくなど無い。
死にたくないから、逃げたのだ。
三華を敵に回し、自滅し行くFARGOから。
この少年の殺戮に晒された仲間から。

踵を返し、一目散に駆け出そうとした男の右手に、冷たくヌルリとした感触が生まれた。それは次の瞬間、凄まじい激痛へと変化する。

「グアッ!! ガガガガッ!」

掴まれた右手首が軋みを上げ、絞られていく。

「無いなら、死にたいと思わせてやろうか?」

怯えきった視線が、少年を叩く。だが少年の瞳は揺らぎもしない。
少年が掴んだ男の右手首が、盛大な音を立てて粉々に砕け散った。

「まだ血が乾いてねえや。お陰で滑るかも」

水で濡れているのと変わらない調子で呟く少年の両腕は真っ赤に染まっていた。誰の血かは考えるまでもない。
男が恐怖のあまり引き攣りあがった悲鳴を上げた瞬間、少年は空いた右手を男の肩に置き、掴み潰した男の右手を渾身の力で引っ張った。
声帯が引き千切れんばかりの絶叫と、肉と筋肉繊維が断絶する不気味な音とが和音を奏で、夜に響いた。
人の身体をあっさりと引き千切るその力。明らかに人間ではありえなかった。
引き千切った男の右腕を無造作に投げ捨てる少年の足元で、盛大に血を右肩の裁断面から噴出して男はのた打ち回っていた。

「痛そうだな。腕を引き千切られた気分はどうだ? あん? 答えられないのか……そりゃそうだよなあ、痛いし」

そうさして感情も込めずに呟くと、少年は男の左足首に手をかけた。男の歪み切った表情が、さらなる恐怖に染まりドス黒く変色する。

「人間ってさ、四肢を切断されても結構生きてるんだってな? まあ、お前らFARGOの連中から聞いたんだけど。経験者は語るってヤツ?」

「や、やめろ…やめろぉぉぉぉ!!」

「お前らはそう云われてやめたのか? やめなかっただろ? だったら自分だけやめて貰えるなんて思うのは虫が良すぎるんじゃねえか? ああ?」

ミシリ、と左足の付け根が悲鳴を上げる。
ブチリ、ブチリと何かが耐え切れず引き裂かれていく。

「ギャアアアアアアアア…アッ―――」

少年は不意に悲鳴が途切れた事に気がつき、訝しげに倒れる男の顔に視線を向け、しばし眺める。
そして叩きつけるように掴んだ左足を地面に叩きつけた。グシャリと地面とぶつかった肉が裂け、骨が折れる音が鳴る。
だが、男は何も反応しない。
少年は怒りが収まらないといった風情に、倒れる男の脇腹を爪先で蹴り上げた。何の抵抗も無く、男の身体は持ち上がり、数メートル離れた河辺に叩きつけられる。
それでも少年は尚もそれを痛めつけようと足を踏み出しかけ、いきなり肩に手を置かれて動きを止めた。

「もうやめるんだ。既にあの男は死んでいる」

「分かってるよ、そんな事は!」

少年は肩に置かれた手を振り払い、苛立つように振り返り背後に立っていた氷上シュンを睨みつけた。

「あっさりとショック死なんざしやがって! ふざけるな! まだ幾らも痛めつけてねえんだぞ!?」

暗い怒りに染まった少年の金色の瞳を見据え、氷上は小さく吐息を落とす。
その幽かな大気の流れに、少年の内に宿っていた激情がすっと冷え失せた。

「まだ、ヤツラが殺した人たちの、何分の一も苦痛を与えてないのに……」

云いながら動揺したように金色の瞳が揺らぎ、苦痛に耐えるように瞼に塞がれる。
月は閉ざされ、狂気が収まる。
いきなり黙り込んで俯いてしまった少年に、氷上は深い憐憫を宿した瞳を閉じる。
彼は自覚しているのだと、氷上は理解していた。
最後の言葉、それが言い訳に過ぎない事を彼は自覚しているのだ。
その言葉に、真実が無くなってしまおうとしている事を…

彼は自分が変質していくのを、恐怖しているのだと氷上は知っていた。
この金色の少年は殺戮に快楽を感じ始めている。殺戮の理由に、復讐だけでないモノを感じ始めているのだ。
殺すという、あまりに甘美な快感に…支配されようとしているのだ。
そして、それがどれほどおぞましい事なのか、彼は誰よりも知っている。
それがFARGOで暴れ狂っていた狂人たちと、何ら変わらぬ性質だと言う事を、身に染みて自覚している。
それが良いのか悪いのか、氷上には分からない。だが、もはや自分にも、彼自身にもその心の変質が止められない事だけは分かってしまっていた。
それでも尚、彼は問わずにはいられない。

「君は…どこまで墜ちて行こうと云うんだい?」

奈落の如き、深い自嘲の笑みを浮かべて、彼は答える。

「誰も、いなくなるまで…かね」

うめくように、彼は嘲笑した。

「そしてそれももう後僅か……」


氷上の髪を、少年の金色の髪を、夜風が梳いた。
清浄なる夜の大気に、血の不浄が交わり、夜闇を深く澱ませていた。










FARGO消滅後、FARGOから離反する事で盟約を逃れた残党たち。
今、この時をもってそのほぼ全てが少年の手により全滅した。

残る敵はただ一つ。

FARGO最悪にして最強と呼ばれた『ブラッディ・ムーン』。
千の殺人狂を擁する狡猾にして残忍なる悪魔の部隊。


そして、少年の真なる仇。






















「『ブルー・クラン』も殺られた!!」

天幕の中に飛び込んできた部下の一人が開口一番、告げた内容は高槻にとって不快極まりないものだった。

「……スレイヤーか?」

頷く部下の唇が青く染まっている。

「そうだよ! そうに違いねえ。これでもうFARGOに居たのは俺たちだけだ! ヤツは絶対俺たちを狙ってくるぞ! 隊長、ヤツは絶対人間じゃねえ、化け物だ。どうするんだ? このままじゃ…」

戦慄・恐怖

それらが入り混じり、声音が上ずりきっている。醜悪極まり無い。
こいつはたかが一人の小僧を相手に怖がっている。
高槻は、それを悟り、侮蔑に満ちた視線を部下に向けた。相手はそれにすら気がつかず、怯えきった表情で此方を見つめている。まるで縋りつくようにだ。
高槻は理不尽なまでに怒りを覚え、凄惨なまでの殺気を込めた視線で睨み返す。
引き攣る面差しを見て、高槻は満足した。
そうだ、そうだ。恐怖は俺が与えなければならない。
高槻は適当に言い繕い、部下を追い払った。そして独りごちる。

「ふん…スレイヤーだと? ふざけるなよ…このオレが……」

だが、高槻は自分の肺腑もまた引き攣る感触に、顔を歪めた。
認めない。認められる訳が無い。
自分が、怯え、震え、泣き叫びたいほどの恐怖を覚えているなどと。
追われ、追い詰められ、圧倒的な力を持って踏み潰されようとしている慄き。
認められる訳が無い。
高槻にとって、恐怖とは与えるものであり、与えられるものなどでは間違ってもありえない。
あってはならないのだ。

高槻は握り締めていた資料をもう一度開く。皺くちゃに歪んだその文面に眼を通す。
今、スレイヤーの名で知られている少年の詳細なプロフィール。教団がまだ健在な頃に、その優秀な情報収集力を使って調べ上げた少年のすべて。
だが…それは何の役にも立たない。少年の持つ全ての物を破壊しつくし、消滅させたのは当の高槻だからだ。
少年には何も無い。弱みもまた何処にも無い。ただ、ヤツは復讐のみに存在している。

高槻は小刻みに震えていた唇を、幽かに吊り上げた。
幾つモノ村を襲い、幾人モノ人間を殺し、奪ってきた彼にとって、一々襲った全ての村を覚えている訳など無い。
だが、この少年の村は何故か記憶に残っていた。そうだ、忘れてはいない。
あの村で見つけた一人の女。ガキのクセに妙に色気を持っていた女。奪い、犯し、屈服させ、連れ去ろうとして、最後まで抵抗し、思わず殺してしまった女。
その女の名と写真が、少年の資料に添えられていた。

「名倉…佳織か。ふん、洒落た名前じゃねえか。アレは惜しかったな。オレも短気はほどほどにしねえと……」

少しだけ、心に余裕が生まれる。自分を今、脅かしている少年。その女を自分が犯し、殺したという事実に愉悦を感じる。
それが少年を復讐に走らせ、自分を追い詰めている事実を理解しながら尚、高槻は自分を省みる事をしようとはしなかった。

「ククッ、そうだ…このオレが自分の女一人守れなかったようなガキにやられるかよ…やられてたまるかよ!」

愉悦が歪み、狂気走る。そんなバカなガキにやられる訳が無いと、根拠の無い確信に心が休まる。
明らかに、壊れていた。
だが、同時にこの男はひどく冷静であり、理知的でもあった。
このままでは自分が危険だと、理解していた。決して愚かではない…それがこの男の恐ろしさか。

「そうだ」

高槻は椅子を蹴飛ばすように立ち上がると、傍らのテーブルに置かれた酒瓶とグラスを払いのけ、FARGOから逃げ出す時に持ち出した幾つかの資料を広げた。

「クッ…クククッ…やはりな。まだあそこに残ってるはずだ。そうだ、アレさえ喚べれば俺は…俺はぁ! ハハ…キャハハハハ」

それは狂った人間が発する笑い。

この時、既にこの男は人間ではなかったのかもしれない。






















冬が来た。
冷たく凍てつき、そして澄み渡った大気が霞む。

暗色の外套が、幽かに白をまぶしたように霞んでいる。冬の空気故か。

少年はふと、瞼を戦慄かせた。
振り返り、思い起こす。あの絶望の日。何もかもを失ってしまったあの日から、一年が経とうとしている。
そう、一年だ。
長かったのか、短かったのか…そんな事は分からない。だが、もうすぐこの闇に沈むような迷走ももうすぐ終わりを告げる事を思うならば、やはり長かったと考えるべきなのかもしれない。

「行くのかい?」

「ああ」

いつの間にか、彼の背後に氷上シュンが立っていた。少年は思わず苦笑する。この青年はいつもいつも、こうやって闇の奥から此方を見つめ続けていた。
少年には彼が何を考えているのか正確には理解できない。何も語らないし、必要なければ姿すら見せない。ただ、時々現れ、此方に有用な情報を与えてくれる。この『五月雨龍征』をくれたのも彼だ。
始めは何かを企んでいるのかと考えた。次に自分に何かをさせて、それを観察しているのかと考えた。最近、漸く違うと思えるようになった。
ようは単なる親切心なのだろう。しかも必要以上に関わらずに。
他人事のように、少年は笑った。人が良いにも程がある。勝手に此方を気遣い、勝手に此方を見て懊悩している。馬鹿げた話だ。だが、彼は自分を助けてくれた。それは忘れる事はないだろう。

「感謝する」

だから、そう告げた。

氷上の表情が面白いように歪む。それを視界の端に捕らえ、少年はまた苦笑を浮かべた。



高槻が率いる『ブラッディ・ムーン』の所在は、『ブルー・クラン』を潰してから約半月後に見つける事が出来た。
場所は…旧FARGO総本山。後に『失われた聖地』と呼ばれる場所。
そこにあるべきものたちが根こそぎ消滅したその場所に、高槻たちは今、舞い戻っているという。
氷上は言った。
罠だと。
高槻たちは明らかに、自分たちがそこにいるという情報を故意に流布させていた。恐らくその通りなのだろう。自分を…「スレイヤー」と呼ばれている自分をおびき寄せるための罠。
だが、どうでもいい事だ。
ヤツらさえ、皆殺しに出来れば、他はどうでもいい事だ。



故に…往く。



「もう…止められないのかい?」

「前に…ある人が云ったよ。もう、オレはまともに生きられないってな」

「それが愚行とわかっていてもかい?」

「そう、分かっていても、だな」

これは未練だ。氷上は深く自分を嘲った。
止めるなら、出逢った時に止めればいい。それが出来ないから、せめて彼が破滅の道から離れる事を願って、見守り、手助けしてきたのだ。
いや、破滅の道を行く事を…助け続けてきた。彼をここまで連れてきてしまったのは、明らかに自分なのに、それなのにまだ自分は…惑い、目的を霞ませている。

分かっていた。初めて会った時から分かっていた。もし、自分が世界の行方を見守る者としての存分を越え、彼を導くという禁忌を破ったとしても、彼はそれに見向きもしなかったであろう事を。
もう、既に彼には破滅の道しか残されていなかった事を。
すべてを失った悲しみは、何よりも大きく、無辺だった。
それでもなお、氷上シュンは何もしようとしなかった自分を貶め、同時にそれが間違っていなかったと思い込んでいる。

「………」

だから、氷上シュンは自らに為しえる事を……
罪を背負い続ける決心を固めた。

「人にして魔なる少年……僕に君の名を教えてくれ」

彼は驚いたように振り向くと、哀切に満ちた眼差しを向ける。
思い起こしているのだろう。過去を…。もはや永遠に失われてしまった過去を。
彼にとって、自分の名前とは過去そのものだ。

「オレは……もう名前なんか持ってない。それを知っていたヤツはみんな死んだ。親父も、お袋も、村のみんなも、妹も…アイツも…誰もいなくなった。傭兵団のみんなも殺された。オレを助けてくれたおっさんに、教えたのが最後だよ。そして、その人も死んだ。この世界の誰も、オレの名前を知る事はなくなった……それが死者とどう違う? 本当のオレはそうやって消えうせた。此処にいるのは単なる殺人快楽者だ。ククッ、オレの名前はオレの過去なんだ。それを残すつもりなんてない。今のオレが名乗るべき名前じゃない」

氷上は頭を振った。

「君は…自らがこの世界に在ったという全てを消し去ろうというのかい? それはあまりに残酷だ。君はそれでいいかもしれない。だが、それはあまりにも悲惨すぎる」

氷上は言った。

「一人ぐらい、君の本当の名を知る者がこの世界にいてもいいじゃないか。君という存在を…過去を含めた君という存在を覚えているものが居てもいいじゃないか!」

言葉も無く、自分を凝視する少年を、氷上は真っ向から見据え返した。

「死者だけが持ち去る事を許された君の名。死者だけが記憶する事を許された君の過去たる本当の名前。ならば、僕が君の名を知る最後の者となろう。僕は世界の行く末を見守る者。君の名を魂に刻み、君の復讐を見届け、その愚行を世界が終るまでそれを忘れず覚えておこう」

そして、その愚行を止めなかった自分の罪を、永遠に刻もう。


沈黙が流れた。
蒼と、月の瞳が交錯する。

硬く、凍っていた月瞳がフワリと…緩んだ。

「お前さ…バカだよ…ホント…大バカ野郎だわ…」

しばし言葉も無く、沈黙していた少年は、そう笑い泣くようにそう云うと…


ニカッ、と笑った。


ああ、と氷上は痺れるような意識の中で思う。
この笑顔こそが、この少年の本当の姿なのだと。
氷上は始めてみる少年の零れんばかりの笑顔を見て、そう思った。

彼は、その笑顔のまま自らの名前を告げる。
それこそが、本当の自分の姿だと主張するように。
氷上はそれを深く、深く心に刻み、瞼を閉じた。
いつの間にか流れ続けていた涙の流れが切り耐えられる。
それでも、溢れる涙は瞼をこじ開け、表へと流れ続けた。

どれほど時間を経たのだろう。
氷上は瞳を開き、確認した。
誰もいない夢の跡を……

少年の姿は……どこにもなかった。

闇に滲む鳥のように、消え去っていた。



黄昏時。
陽が沈もうとしている。
朱に染まった空を、ぼんやりと滲む視界で眺めながら氷上は独り、立ち尽くしていた。


いつまでも……


いつまでも……


悪夢が終る、夜明けまで。








少年の歩む無明の道

破滅の果てに漸く至る

彼が得るもの、無くすもの

死という安寧、復讐という妄執

その行く末はもうすぐそこに


彼は往く


最後の舞台に上がるために


少年は知らず


その果てに待ち受けるものを






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