魔法戦国群星伝





< 第五十五話 迷いと決断と >




カノン皇国 スノーゲート城



シン…ッ、と静まり返った空間。
外界の喧騒もまた遠く。
ただ、ひと一人の陰だけが身動ぎもせずそこに在る。

ぽかり、と空いた空白。

溜息ですらない吐息が小さく漏れ、かすかな白さを空気に描き、そして消えた。

抜け殻のように意味も無く。

羽虫のように力も無く。

無力――無力。

それが今の彼の纏う衣装の名前。

心が擦り切れてしまったみたいに…何も感じない。

自分がこんなに弱かったなんて知らなかった。

もう、何もかもが虚しかった。




柔らかい羽毛の布団。冬場にはその暖かさで使用者を包むそれも、片膝を抱いて蹲る少年の心を暖めることはできなかった。
澱んだ眼差しで虚空を眺める。

城を飛び出して、舞たちに連れ戻されてからはや三日。目を覚ました相沢祐一はそれからずっとこの状態だった。
目の前で月宮あゆをさらわれた。挙句に見境を無くして暴走。

馬鹿な話だ。

七年という決して短くはない歳月を、祐一はただ強くなる事に費やした。

何故強くなろうとしたのだろうか。

それは漠然とした、だが強烈な思いから。失われた記憶の残滓が彼を苛んだからだ。
それは守りたかった人を守れなかったという慙愧。
それが記憶を失ってなお、彼の心を縛め続けた。

あれから七年。自分は強くなろうとした。守りたい人を守れる強さを手に入れるために……

そして、自分は誰にも負けない、守る力を手に入れたと思っていた。


三日前、あゆがさらわれた瞬間まで……



けっきょく、この力は何も意味をなさなかった。
むざむざと彼女を連れ去られてしまった。
何が…七年前と違うのだろう。



挙句に自分も周りも見失って暴走だ。
いくらぶちキレていたからといって、仲間を殺す事すら厭わなかったのだ。

罪悪感を感じるどころの話ではない。



結局、狂乱が去り、残ったのは無残な事実とマヌケな抜け殻だけだ。


相沢祐一は澱んだ瞳で虚空を眺める。









§









「なんだあれは…鬱陶しい事この上ない」

その端正な顔は何故か飄々とした表情よりも、どこか不機嫌さを漂わせた表情の方が似合うと云われている。
久瀬俊平は、まさに評判に違わぬほどの渋い表情を振りまいて、毒の篭もった言葉を吐き捨てた。
同じ部屋にいた川澄舞は黙ってそれを聞き流す。

「あれって…相沢の事か?」

独り言の類の久瀬の言葉に応えたのは北川潤。
何やら確かめたい事があるとかで、この部屋で資料を漁っていたのだ。
片手に持った何かの書類をめくりながら彼は視線も上げずにそう聞き返した。
久瀬は一瞬言葉に詰まったように押し黙ると、そうだ、と返した。

「仕方ないさ、あれだけの事があったんだ、落ち込みもするんじゃないか? だいたい、立ち直るかどうか…そいつは本人次第だろ?」

「…ふん、意外と冷たいな。仮にも親友だったんじゃないのか?」

「親友ねぇ。面向かって言い合うとちと恥ずかしい言葉だよな……っと、あった。…チッ、やっぱりそうか」

北川は久瀬との会話を中断し、右手に持った資料に写った人物をじっと睨みつけるように見つめた。

いきなり記憶が戻るってのも厄介な話だよな。忘れてたんじゃなくて、知らなかったんだしなあ。整合性がどうだか知らないけど、どうにも気持ち悪いや。

なにやらブツブツと呟くと北川は久瀬から借りていた書類を返すと、さっさと部屋から出て行こうとする。

「おい、どこに行く?」

うん、と北川は振り返り、何故か苦笑いを浮かべて口を開いた。

「ちょっと昔馴染みに会いにな」

「なんだと? 今からか?」

「別にすぐ帰るよ。それから相沢は放っておいても大丈夫だと思うぜ。水瀬も居るし、そうそうヘコんでばかりいるヤツじゃないからな」

そういってヒラヒラと手を振ると、彼は振り返りもせず部屋を出て行った。

その背を見送った久瀬は。一瞬ギリリと歯を軋らせ思わず握りこんだ拳をゴツンと軽く机に打ち付ける。

「それは信頼のつもりか? それとも単にどうでもいいと思っているだけか……くっ、むしろ問題はヤツの方かもな」

「……?」

北川の背中を見送った久瀬はこれまた苦々しげに吐き捨てる。

「北川め、いったい何があった? ヤツはあれほど定まったやつじゃなかっただろう」

「…どういう意味?」

訝しげに眉を微かに寄せた舞にギリリと引き絞られた視線を向け、久瀬は言った。

「わかってるのだろう、お前も。あいつはもっとどこかフラフラした不安定なヤツだったはずだ。どうしようもなく軽い面とどこか裏に湛えた重い面を行き来するような……。 それでいて周りに安心感を与えるタイプ。ムードメーカーというやつか。だが今のヤツはどうだ? 妙に落ち着いてしまってる、それもどうも危ない方にだ。
上手く言えんが見ていて危なっかしくて仕方がない。今のあれは……」
 
そこまで言いながら久瀬は珍しく眼を泳がせて口篭もった。
冗談にでも口に出すような事ではないと思ったのだ。

死の影が見えるなどという事を……

久瀬は微かに頭を振ると、答えず、だが心持ち表情を険しくした舞に訊くでもなく言った。

「あの女…陛下は直々に『失われた聖地』に行く意思を変えてはいないのだな?」

舞はコクリと頷き言った。

「…帝国の皇帝が行くから…立場上自分も行くって…」

「ふん、単なるあの女の意地だろう? 偏屈め」

香里も貴方には言われたくないだろうな、と舞は溜息をつくように目を逸らす。
その舞に久瀬は鋭い視線を投げかけると意外な事を口にした。

「あの女が行くと言うからには北川も着いていくだろう。川澄、出来る範囲でいいがあの二人から眼を離すな」

どうして、と目で問う舞に唸るように答える。

「正直今の北川は危う過ぎる。今までならヤツが付いていればそれで陛下の身は気にしなかったが今回はどうもな」

「……前からそう思ってたの?」

意外そうに言う舞。

「うん? 北川が居れば安心と…か? まあな、ヤツの実力なぞ知った事じゃなかったが、任せてもいいと思うだけの何かがあることはなんとなくわかっていた。でなければあんな氏素性もわからん男を近衛になど置いておくと思うか?」

心底嫌そうに言う久瀬に、舞は複雑な人と内心溜息交じりに思わず感想した。

「無論それだけではない。ヤツを失うのは損失だ。あいつは陛下の安全弁だからな」

「それは…」

少し、驚いたように目を見開く彼女に向かって、彼は小さく肩を竦めた。

「側で見ていたお前ならわかるな。あの鋭利に尖っていながら兎角脆いガラスのような女が曲がりなりにも割れずに来れたのは北川の功が大きいという事だ。今アイツを失ってみろ。この戦が我らの勝利に終わっても、美坂香里が使い物にならなくては話にならん」

まあ、最悪その時は美坂栞を神輿に担げば済む話ではあるのだが…

という内心の言葉は漏らさない。それに久瀬自身、香里に使われる事は不快ではなかったのでやはり今の体制は崩したくなかった。

「…意外」

「何がだ」

「…潤を評価していた事」

「いくら嫌いなヤツが相手でも感情的な悪意を冷静な評価に挟むつもりはない」

「…嫌いは嫌いなんだ」

「…馬鹿は嫌いだ」

ムスっと口をへの字に曲げながら言う久瀬に、舞は微かに口元を緩めた。
前からこの男の事を嫌っていた舞だったが、最近ようやく久瀬の思考パターンがわかってきた。

要するに素直じゃないのだ。
そして、舞はそんな素直じゃない人間を嫌いではない。


ふと、口元に僅かに笑みを浮かべていた舞の視線が不意に揺らぐ。

「…そうだ」

「ん? なんだ?」

今、思い出したように呟いた舞に、久瀬が目を向ける。

「…云うのを忘れてた。佐祐理も私と行くって言っていた」

は? と口をあけ…思わず天を仰ぐ久瀬。

「倉田公爵はもう戦場には立たれないのだろう? 御曹司に軍勢を任すつもりか?」

舞はコクリと頷くと久瀬に向かって佐祐理の伝言を伝えた。

「…一弥を頼む、だって」

グッと息を飲んだ久瀬は次に深深と溜息をつく。
彼女の頼み事には弱い久瀬だった。







§







ゆったりとしたウェーブを描く髪をなびかせ、彼女は颯爽と歩いていた。
その表情、仕草、気配は周囲のものに彼女がいつもと何ら変わらずにあると思わせる。
彼女はその内心を決して外には漏らさない。そういった意味で彼女は完璧だった。
その完璧なる仮面の裏を覗く事ができる人間は、この城では数人程度だろう。
その内の一人である北川はどこか普段と様相を異にし、相沢祐一は自失状態。
そしてもう一人…彼女の親友である少女は……

廊下の角を曲がりかけたところで、美坂香里はその歩みを止め、背中を壁に押し付けた。
曲がり角の先に見えたものは水瀬名雪の思いつめた顔。
相沢祐一の部屋の前で佇む親友の姿だった。

やがて彼女は決意したように面持ちを上げると、祐一の部屋へと入っていった。

「…で、なんで私は隠れてるのよ」





「祐一」

この三日、幾度となく掛けられた声。
これまでなら顔をあげる気力もなく聞くとはなしに聞き流していた声。
だが、今日のその声にはどこか逆らう事の出来ない言霊が感じられ、祐一は思わず彼女の顔を振り返った。
伏せがちなその眼差しは普段から彼女が醸し出している穏やかな気配に秘めた強さを感じさせた。

真一文字に引き絞られた唇がかすかに開く。

「祐一はもう何もしたくないの?」

その声は、咎め立てる風でもなく…何故と訊ねる風でもなく…

子供をあやす母親の声の様にすら聞こえた。

祐一はじっと名雪の顔を見返した。
彼女の表情は…声の印象とは違い…不安に満ち溢れ、怯えすら漂わせ…でも、決して引くつもりの無い決意を浮かべていた。


これまで、彼女は自分の名前を呼ぶだけで……何も言おうとはいなかった。

多分、言えなかったのだろう。

何を言うべきか、わからなかったのだろう。


だが今、水瀬名雪は言葉を口にした。

一歩、踏み込んだのだ。

移ろう心へと踏み込んだのだ。

踏み込む決意を固めたのだ。

それが……例え双方の心を傷つけることになっても…


祐一はゆっくりと口を開いた。

「俺に…今の俺に何が出来るって云うんだ?」

その口元に浮かぶものは自嘲という名の笑み。

「強くなって…強くなろうとして…その結果がこれだ。俺には何も守れない。守る資格なんてない」

負という感情の具現たる言葉を、名雪は確かに受け止める。

そして、

静かに、淡々と彼女は問い掛けた。

「祐一は…あゆちゃんを守れなかった事を後悔してるの? それとも、強くなるために費やした時間を後悔してるの?」

静かに、淡々と彼女は続けた。

「祐一は……今までの時間が無駄だったと思ってるの?」

撃たれたように震えた。
そう、それは自分が抱く疑問。
そして…怖れだ。


祐一は無言のまま目を伏せた。
自分でも…よく分からない。だから…動けない。
恐ろしいのだ。
自分のすべてが無駄だったという事実が…

いや、自分がそれを無駄だと考えてしまうのではないか、という事が。

ただ、俯く祐一。
それを見て、名雪はそっと首を振った。

「もしそう思ってるなら、それは違うよ。祐一は、自分の無力さを後悔してるだけ、自分を責めてるだけ。 祐一は自分が許せないだけなんだよ」


分からない。
そうなのだろうか。
分からない。
でも、一つだけ俺も同じ事を思う。
そう…俺は自分が許せないんだ。

自分を消してしまいたいくらいに…役立たずの俺を……

総てを無駄と考えてしまう弱い俺を。



言葉を投げかけ、突き刺さる。
思いの指摘は、相手を突き刺し、言葉を紡いだ自身をも貫く。



名雪は泣きそうになった。
痛くて、唇を噛み締める祐一の姿が…切なくて。


そっと…しておいてあげたかった。


でも、それじゃあいけないのだ。
それでも止めてはいけない。
決意を揺るがしてはいけない。
言わなくてはいけないのだ。


大切だから。


本当に大切な人だから。


だからこそ。


名雪はふっと息を吸い込むと、音色を紡ぐ。

「祐馬叔父さんに聞いたよ。あゆちゃんとの事……祐一が、記憶を失ってもずっと自分を責めつづけてた事…。次こそは…次があるなら、今度こそは絶対守ろうって思ってたんだよね。 ずっとそう思いつめて強くなろうとしてたんだよね」

白い手がそっと、祐一の手に添えられた。ビクリと震える少年の手。それを暖かな手がそっと包み込む。

「だからこそ祐一は…自分が許せないんだよね。でもね…今回はまだ間に合うんだよ…わかってるんでしょ? 今度はあゆちゃんは手の届かない所に行ってしまったんじゃないんだよ」

顔を近づけ、ゆっくりと言葉を連ねる。

「祐一…祐一はあゆちゃんを守る事は出来なかったかもしれない。でもね、祐一が必死になって手に入れたその強さは…まだあゆちゃんを助ける事が出来るんだよ!」

祐一の眼差しが上がる。そして、柔らかい瞳と交錯した。

「…名雪」


不意に、眼差しが閉じられ、視線の交わりが途切れた。

大きく息を吸い込む名雪。

震えている。

怖いのか? 寒いのか? 怯えているのか?



そして、彼女は瞼を開いた。
そこにあったのはキリと引き絞られた思い。

「それなのに、祐一はここで何をしてるの!? まだやる事があるのに、こんなところで何してるのっ!?」

響き渡る…怒声。

それは…抜け殻である祐一ですら、打ち震えさす響き。

今まで聞いた事のない、従姉妹の少女の、怒りの声。

温和で、いつも笑ってて、怒る事なんてないと思ってた少女の声。

怒った時だって…ぷんすかという擬音が似合うような、そんな少女の本当の怒り。


いや、違う。
彼女は怒っているんじゃない。

ぽかん、と名雪の顔を見上げながら祐一は思った。

叱ってるんだ、名雪は……どうしようもない、やるべき事も見失ってしまったこの愚かな従兄弟を

「祐一はそれでいいの!? こんな所でじっとしてていいの!? 祐一はあゆちゃんを見捨てるつもりなの!? 自分を責めて! 自分の無力さに浸って! そんな馬鹿な祐一は大嫌いだぁっ!!」
 
「…なゆ…き」

息を荒らげて、涙さえ滲ませて、自分を睨みつけるように見つめる名雪を、祐一は呆然と見上げていた。

ぎゅっと、力一杯握り締められた両手が少し痛く、温かかった。

はぁー、と大きく息を吐く。
そうすると、彼女の表情が緩んだ。

やっぱり、そんな張り詰めた顔は彼女には似合わない。

白くなった思考のなかで、それだけは確かな思いとともに浮かび上がった。

そして…

そんな顔を彼女にさせてしまったであろう自分が嫌になる。

「そんな祐一は嫌い。でも…私は祐一がそうじゃないって、こんな所でグズグズしてる人じゃないって知ってるよ」

そういって、握り締めた両手を解き、改めてそっと添える。

その陶器の様に滑やかで、柔らかな手は、また、温かかった。


「だからね、まだ祐一は止まっちゃダメなんだよ、こんな所で立ち止まってたらダメなんだよ」

そして…彼女は目元を綻ばせた。

「それにね、きっと…あゆちゃんだって祐一のこと、待ってると思うよ」

そう言って、微笑んだ彼女の表情が、あまりに柔らかく、そしてまっすぐで……


不意打ちだった。


それは本当に唐突で…いきなりだった。


ボッ、と心の奥で何かが燈る。

祐一はなぜか頬を染めてしまった。

ドキドキと鼓動する心臓。それを聞きながら、祐一は呟いた。

「俺に…今の俺に…あいつが…あゆが助けられると思うのか?」

「勿論だよ!」

跳ね返るように返って来るその言葉は、祐一の心を叩く。
嬉しかった。
名雪が躊躇も無くそう言ってくれる事が嬉しかった。

名雪は言う。

「祐一、わたしも一緒に行きたかったんだけどね、一緒にあゆちゃんを助けに行きたかったんだけど…別にお仕事任されちゃった。へへ、わたし達が住むこの大陸を守るための大切な仕事。 わたし頑張るよー。ちゃんとみんなが帰ってくる場所を守るからね、だから祐一はちゃんとあゆちゃんを連れて帰ってきてね」

「…名雪」

いつしか、虚ろだった彼の瞳に意思の光が戻っていた。まだどこか呆然とはしていたが。
張り飛ばすような叱咤に、そして唐突な暖かい微笑みに、意識が虚無から引き戻される。

不意に、名雪は惚けた顔をしてこう言った。

「ねえ、祐一はあゆちゃんのこと好きなの?」

「な、なに!?」

今度こそ靄の掛かっていた思考が目を覚ます。祐一は慌てふためき目を白黒させた。
それを見て、名雪がクスクスと笑う。

「良かった、まだ決まった訳じゃないみたいだね」

「き、決まったってなんだよ。それに良かったって何が……」

顔を真っ赤にして声を張り上げる祐一に、一瞬名雪は目を細めた。それは寝ぼけている時のような糸目ではなく、どこか包むような優しさと、決心を込めた細い眼差しで……


「それはね…わたしが祐一の事を好きだからだよ」


一瞬、ぽかんとした祐一の顔が、先程などよりもっと朱色に染まっていく。

「知らなかったでしょ、わたしはずっと…ずっと前から祐一のこと、好きだったんだよ」

ふわりと窓から吹き込んだ風が真っ白なカーテンと彼女の透き通るような青い髪の毛を揺らす。

心持ち、紅にそまった頬が隠れた。

毛先が祐一の鼻先をくすぐり、甘い匂いがする。

ぼう、と見惚れる祐一。



素直に、綺麗だと思った。



彼女は、えへへ、と照れたように笑い、目を伏せると小さく「言っちゃった」と呟いた。
そして真っ直ぐに祐一の視線を受け止め、

「でもね、あゆちゃんもきっと祐一のこと、好きなんだよ」

だからね、と彼女は囁く。

「ちゃんとあゆちゃんを助けて戻ってきてね。勝負は公平でないとね」

「それは……俺に自分で修羅場を作れってことかよ」

にこにこと笑って頷く青い髪の少女。

「…なんだかなあ」

まだ顔に熱を残しながらも、呆れた様に呟く祐一。

彼は気づいていただろうか……いつの間にか、自分が普段の調子を取り戻していた事を

「じゃあ、わたしはもう行くね。準備もあるし……祐一」

一瞬、立ち上がりかけた名雪がいきなりに屈んだ。



今度もやっぱり……

不意打ちだった。



暖かい感触の残る頬に、無意識に手を当てる。

「わたし頑張るよ。絶対、祐一達が帰る場所を守ってみせるから……だから祐一も頑張ってね」

そう言い残すと彼女は髪の毛を翻し、トコトコと駆けて部屋を飛び出していった。
取り残され、名雪の残映をぼんやりと眺める祐一。

「言うだけ言って…行っちまいやがって。名雪のやつ」

小さく呟くと祐一は傍らに立てかけてあった愛剣『メモリーズ』を手に取った。

「怒られちまったな……。怒るなんて…似合わないことさせちまったな。はぁ、頑張れ…だってさ。こんな女の子一人守れなかったダメな俺でも…出来るのかね」

…ィンッ、とかすかに剣が震えた。

「そっか、そうだよな。こんな所でいじけてるよりマシだよな。お前の半身、助けに行くか」

剣を床に突き、祐一は立ち上がる。

「ありがとな、名雪」







ドアにもたれかかっていた名雪はまだ震える手をギュッと握り締めた。

色々な思いをぶつけてしまった。

本当の想いをぶつけることは、なんて辛くて、苦しくて……心が痛いんだろう。
本当の想いを告げることは、なんて不安で、怖くて……心が躍るんだろう。

でも、良かった。

祐一が、立ち上がってくれて良かった。

怖かったんだよ。

いくら怒っても、なにを言っても通じないんじゃないかと…本当に怖かったんだよ。

でも、祐一はちゃんと受け止めてくれた。


想いを


あらためて分かった。

自分がどうしようもなく、彼の事が好きでたまらないことを……

だから…これからもずっと、彼を信じていられる。

「ふぁいと、だよ、祐一」

そして、よし、と頷くと、取り出した淡い緑のリボンで後ろ髪を束ね、まとめあげた。
そうすると、どこかぼんやりした印象の彼女の雰囲気がキリリと引き締まった。

「私も、頑張るね」

そう呟くと、水瀬名雪は颯爽と歩き始めた。

自らの戦場へと……







「…ホント、強いわね、あの娘は」

それに比べて私ときたら……

はあ、と深く重い溜息を吐くと、美坂香里はその場を後にした。
















御音共和国 中崎



いつでも、どこでも、いつの間にかそこにいる青年。
空気のようでもあり、大気のようでもあり、それでいて夕焼けに照らされる影のようでもある。

どこか浮世離れした雰囲気を持つ青年。

それが氷上シュンが周囲に与えていた印象だった。
それゆえに、いつも彼は孤高。
だれもが不意に現れ、いつの間にか消えている彼に近づく事はない。

だが、今、大統領府の廊下を歩く彼を、皆は困惑の眼差しで見送った。

普段のある意味人間離れした気配は消えうせ、 見るからに落ち込んでいる彼を見て、皆は何があったのかと困惑するしかなかった。

何も知らず、分からぬ者たちにさえそう感じさせる程に、今の彼は重く…疲れきっていた。

このままじゃ、潰れるかもね。

自嘲しながらそう思う。
だが、今更何をしたらいいのかわからない。

虚無から絶望へと沈み行く城島司。
もはや彼とともに在るしかない里村茜。
影と事実を知り、苦悩の闇へと踏み入って、再び絶望へと帰ろうとしている折原浩平。
それを見て苦しむ長森瑞佳。


浩平は彼に言った。

お前はあいつを見殺しにしようとしていると……

それは事実である。

そして、逆らえない事実である。

彼は自分から動こうとはしない。

自分をそう位置付けていたから。
結局自分には何も出来ない…そう、思っていたから。


かつて、正しいと思い自らを戒めた掟は、今、縛めとなって彼を縛っていた。


氷上シュンは、今や司だけでなく浩平たちまでも見殺しにしようとしていることを理解していた。

それが……彼の心を切り刻む。




ふと、その重い足取りが止まった。
視界の端に、見覚えのある品を見たような気がした。

氷上シュンは立ち止まり、振り返る。
その視線の先には廊下に配された椅子に座り、持った刀に寄りかかって顔を俯けている少年が一人。
シュンの視線はその少年の持つ刀に当てられた。

「…絶…龍征…こんなところに」

シュンはこみ上げる懐かしさと…怖れに、息を飲んだ。


誰よりもその刀をよく知っている。

あれは…かつて、自分がある少年に与えたもの。

復讐を願う少年に、牙として与えたもの。

自分が、破滅していくのをただ見守るだけで助ける事をしなかった少年に与えたもの。



そう……あの刀は、


僕の咎の証だ。



まるで…罪の清算を迫っているように…目の前に現れた。

それは何を意味しているのだろう。

氷上は自嘲の笑みを浮かべる。
責めは自らを苛む。

さて、僕の咎の証たるその刀を持つ者はいったい誰なんだろうね。

氷上はゆっくりと視線を上げた。同時に少年が面持ちをあげ、此方を見た。

少年は微かに笑みを浮かべて、こう言った。


「よう、氷上」


それは……衝撃などという生易しいものではなかった。

血液が凍りつき、思考が石化し、肉体が硬直する。


「…ば…かな」


まるで死人を見るような目で、彼は少年を凝視した。
いや、文字通り彼は死んだはずの人間だったはずだ。もし、生きていたとしても…何故あの時とまったく変わらぬ姿でここにいるのだ?

そこまで考え、氷上はかつての彼と目の前の少年との違いに気が付いた。
今の彼にはあの余りにも印象的な金色の髪と金色の瞳がどこにも無い。
その髪の毛は薄い茶色、その瞳は焦げた茶色。

それは紛れもなく人間の姿。

魔の匂いなどどこにも感じない。

だが…それでも…かつてと変わらない匂いがする。

この気配は…匂いは…なんだった?


「ホントに変わってないな。お前の話は半分に聞いてたんだが、実際見せ付けられるとな。しかも相も変わらず時化た顔して……成長の跡もなしってか」

苦笑しながら少年は立ち上がり、凝固している氷上の前に立つ。

「前に御音の書類にアンタの顔を見つけてな。ちっと会いに来た」

「君は…亡霊か?」

呆然と、訊ねる氷上に彼は目を伏せ、口元に自嘲の笑みを浮かべると小さく言った。

「亡霊…か、まあそんなもんだな。俺は地獄から舞い戻った亡霊ってヤツだよ」

「その亡霊が何故、今、僕の前に現れるんだろう。僕の罪を咎めにきたのかい」

声が震えた。
怯え? いや、もしかしたら期待なのかもしれない。
今の自分を弾劾してくれるのではという期待。
だが、亡霊は期待には応えてくれなかった。

再び少年は目を上げ視線が交わった。そこに映っていたのは呆れ。

「お前、やっぱりそう思ってたのか…馬鹿だな。もうあの時、お前と会った時点で俺は手遅れだったんだよ。だから別にお前が傷つく必要なんてないのに……」

「だが…僕は」

「…別に俺はお前を祟りにきた訳じゃないって。まあ、報告に来たのかな」

「報告?」

「亡霊が現世に残るのは、この世に未練があるから…っていうのが定番だろ」

「未練…それは」

少年は懐かしむように虚空を見上げると、訥々と口ずさんだ。

「氷上、お前は言ったよな。お前は誰も知る者のいなくなった俺の名前を、その永劫に続く自らの存在に刻むって。そして、俺の為すべき愚行を忘れないってな」

「…ああ」

それまで、呆然とした意識を変えることが出来なかった氷上が、真摯に強く頷く。
それを見て小さく笑った少年は、怨嗟を呟いた。

「俺の復讐はまだ終ってない…それが未練さ」

「なん…だって?」

絶句する氷上に少年は口元を歪めた。
氷上は思った。
その狂った笑みすらもあの時と変わらない、と。

彼の変わらぬ気配が…匂いの意味がわかった。

君は…君は…

少年は身を翻した。

「アンタは俺を見届けてくれるって言ったからな、俺の復讐を。だからこれは報告しておこうって思ったんだ……でも」

顔だけ振り返り、彼は小さく笑った。

「俺の名前、忘れてくれ。それがアンタを永劫に苛むなら、俺も寝覚めが悪い。俺の事はキッパリと忘れてくれよ、アンタには助けてもらってばかりだったからな。そんなアンタを苦しめたくない」

そして、彼は小さく手を挙げると歩き始めた。

馬鹿な…

氷上は唇を噛んだ。

そんな馬鹿な話があるか。かつての罪をまた眼前に突きつけられる。再現させられる。
これほどの悪夢があろうか!

彼のかつてと変わらぬ気配…それは、


「君は……また破滅への道を歩こうというのか!!」


甘美なる死の匂い。


絶叫が、少年の背を打った。
足が止まる。
少年はゆっくり振り返り、氷上の瞳を見据えると、静かな…深き森の泉の調べの如き静かな声で答えた。

「俺は…もう破滅した人間であり、既に死んだ人間。もう、生を終えてしまった人間であり過去の残り香だ。その行く道は一つだろ? 亡霊は恨みを晴らして消えるのみ…てなもんだ」

言葉が…見つからない。
今の自分では…返すべき言葉が見つからない。
あるはずなのに!
彼を止めるべき言葉があるはずなのに!

「じゃあな、氷上。……一言だけ言っとくぞ、お前は俺と違ってまだ生きてるんだぜ、だから変に悩むなよな。じゃあな」

声が…響く。
次の瞬間、足元から盛り上がった影に飲まれ、少年の姿は消えた。
影が消え、誰もいなくなった廊下に一人、氷上は佇む。

「違う…君は亡霊なんかじゃない。君こそが生きているのに…なにの…」


過去の罪が目の前に現れ、気にするなと言って消えた。
やはり、何も出来ない自分。


「僕は…どうしたらいい? どうすべきなんだ? ……もう、わからない。何もかも」


答えは多分、単純なのだろう。

だが、それは……見つからない。

本当に、簡単なことなのに……








カノン皇国 スノーゲート城



「北川君は? ここに居るって聞いたんだけど」

そういって、久瀬と舞が居る部屋に入ってきたのは美坂香里。
パタンと後ろ手に扉を閉めて、部屋の中を見渡す。

「ヤツなら昔馴染みに会うとかいって、出て行った。いったいどこに行ったんだか、この忙しい時期に」

舌打ちするように、久瀬が答えた。

「……そう」

そう呟いて、微かに俯くと彼女は何も言わずまた部屋を出て行った。

それを見送った久瀬が顔を顰める。
舞も微かにその心配そうな眼差しを扉に向けていた。

普段なら、北川が勝手にどこかへ消えれば怒り狂って周囲を恐怖に貶める。それが彼女の日常風景だった。
それがどうだ。今の彼女の様子は……

「こっちも重症だな」

「……はちみつくまさん」













――1つの導


「お久しぶりだね、『T』なる者、王にして魔術師たる者――バルタザール」

唐突に虚空より降り注いだその声に、彼は驚き振り返った。
その視線の先には見たこともない小さな少女が宙に浮かんでいた。

「何者?」

「…わたしがわからないのかな、バルタザール」

「その気配…まさか」

警戒が解け、その顔は純粋な驚愕に彩られる。それを見て小さく笑った少女はその眼差しを細めて彼に言った。

「あなたに話があるんだよ。聞いてくれるよね」

「我らが女神の言葉となれば……」

驚愕から立ち直り、普段の偏屈な態度を露わに言う彼に彼女は微かに瞼を落とすと、ゆっくりと口を開いた。

「それはわたしの父であり、兄であり、弟であり、子供であり、友人である彼について……」

そう呟いた少女の眼差しは…深く、静かで、そして…哀しかった。





    続く





  あとがき


八岐「さて、何かと面倒になってきたねえ」

楓「どうにも鬱々とした場面が続きますね」

八岐「まあ、決戦前に決着をつけないといけない事が沢山あるからね」

楓「それで心理パートの連続ですか」

八岐「そうそう。しかもこのSSの特徴って登場人物がひたすら多いでしょ?
お陰で悩んじゃってる人が沢山居て、書くこっちも詰め込まざるを得ない訳よ」

楓「凝縮しすぎというのは問題だと思いますよ。自然と内容が雑になりますし…心理面での説得力もなくなります。ようするに駆け足になってしまうのでは?」

八岐「とはいえ、本気でやり始めるとラストバトルいつまで立っても始まらないんだよね(苦笑)
という訳で出切るだけやれることはやると…」

楓「…全然解決になってませんよ」

八岐「申し訳ない。まあ、今回はあっさり祐一君が復活しちゃったわけだけど、あれは単にいじけてただけだし、切っ掛けが欲しかっただけなんだよね」

楓「いじけてたって…身も蓋もないですね」

八岐「はは(汗) さて、そういう訳でしばらくはこうした鬱々とした話が続く訳ですが、次回もそんなお話です」

楓「次回は第56話ですね。
自らの在る位置の犠牲を知り、苦悩する浩平。その前に現れるのは一人の少女。
自らの罪に苛まれながらも動く事が出来ない氷上シュン。その前に現れるのは古なる友」

八岐「第56話『想いの先に在るモノ』…どぞ、よろしく〜」

楓「それではまた」



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